幕末女装パルクール

牧村燈

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思わぬ進歩

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「カヲル君は何かスポーツはやっていたの」

 二度目のレッスンの時にリカ先生に訊かれた。まつ毛が長くて茶色い瞳をしたリカ先生の少し低い声はとても落ち着いていて、ゆっくりはっきりした言葉にはとても安心感がある。見た目は多分僕と同じくらい、20代前半の年齢だと思うのだが、声だけを聞くともう少し年嵩の様に感じた。そのせいか出会って二度目で『カヲル君』呼ばわりされても全く違和感がないどころか、むしろその距離感の近い呼び方が嬉しかった。

 スポーツについては、僕の生来の極度な人見知りが祟って、子供の頃から団体スポーツというものに一切関わってこなかった。野球やサッカーは勿論、バスケもバレーもダメだった。卓球やバドミントンでさえも相手とラリーをするのがキツかったし、陸上も他の選手と競って走るのが辛かった。

「い、いえ、とりたてては……あ、ラ、ランニングは少し」

 続かなかったが、やったことはあるよな、そう思って回答を絞り出した。

「あ、そうなんだ」

 話が続かない。

 これといった友達も無論彼女もいない僕は、一人暮らしを始めて以降、めっきり人と話すことがなくなった。コンビニのバイト先でも、いらっしゃいませと、はいと、ありがとうございましたを、お客の耳障りにならない音量で、暗号レベルに短縮された単語に変えて発するだけである。『話す』のではなく『発する』のだ。

 そして客から何か質問をされたりしないように、こいつに何を聞いても無駄だろうという雰囲気を出すことも常に忘れない。僕とアレンが二人とも手が空いていると、用事がありげな客は、やはりまず最初は僕の方を見る。日本人の方が話が通じるだろうと思うのは当然だ。しかし、次の瞬間僕の様子を察知すると、見てはいけないものを見てしまった時の様に素早く視線を逸らし、救いを求めるようにアレンに声を掛ける。人を寄せ付けないオーラの発信力には自信があった。僕の唯一の武器と言っても良い。まあ、実際のところ客が求める情報は、アレンの方がよく知っているのだから、客とっても結果オーライなのだ。

 それが今、リカ先生と話したい、という気持ちになっている。まともに顔も見られないくせに。話しのネタもないくせに。

「よし、じゃあ次のレッスンを始めます」

 休憩時間が終わり、リカ先生が立ち上がった。

 生徒は二人。僕の他のもう一人は高校生の女の子だった。見た目には身体が小さいことしか特徴のないような地味な子だったが、これがメチャクチャに運動神経が良くて、しかも身体が柔らかくてしなやかだった。中学まで新体操をやっていて「将来の夢はオリンピアン」なんてことを真面目に考えたこともあるのだそうだ。正確に身体を動かすことが求められるパルクールに正にうってつけだなと思う。それに引き換え僕ときたら。スキップですらまともに出来ない。

あああ。この1週間、結構頑張ったんだけどな。僕は擦り傷の目立つ手の平を見詰めた。

☆★☆★☆★☆★☆★☆

 前回のレッスンの終わりにリカ先生から

「カヲル君はまずはパルクールをやる身体を作ろう」

と言われ、メニューと鍛錬方法の詳しく書かれたトレーニングシートをもらった。

 プッシュアップ(腕立て伏せ)、腹筋、背筋をそれぞれ20回×3セット、ランニング30分、壁にしがみつく動作(僕はこれをそのすがたからセミと命名している)を5分、そして25種目のストレッチ。

 これを見て、うわあ、1セットだって無理だと思った。というか腕立ては自信をもって10回も出来なかった。言葉には出さなかったが、すぐに様子を察知したリカ先生は、

「大丈夫、出来るよ。カヲル君なら」

 と言って励ましてくれた。出会って初日、一体どんな確信があってそんなことを言うのだろうと思った。しかし、リカ先生の目は自信と確信に満ちていてひとつの曇りもない。これはいけない。

「先生、僕、腕立て10回も出来ません」

 正直に言った。素直に言った。そうしないと先生の信頼に対して申し訳ないと思ったからだ。それでもリカ先生は微笑みを絶やすことなく、

「続けてやれなんて書いてないから。1セットの途中は休みながらで全然いいよ。壁も捕まっている時間が合計で5分になればいいから。それなら出来るでしょう?」

 まあ、確かに僕には時間だけは沢山ある。その意味においてはリカ先生の言う「カヲル君なら出来る」の意味は間違いない。僕と同年代の忙しく働く新人ビジネスマンなら、とてもこんなことをしている間はあるまい。

「は、はい」

 こうして前回のレッスンから今日までの1週間。僕は寝る間を惜しんで、とういうか寝すぎていた時間を少し正常に戻して、リカ先生の課した無理難題に愚直に挑んだ。初日はプッシュアップ、腹筋、背筋の1セットに平均で15分も掛かり、3セットで都合1時間近くを要してしまった。続けてやらなくて良いとは言われたものの、腕立てひとつをするにも付き手を肩幅から左右に10センチ離して行うターンと、両手をつけて行うターンがあるなど、それぞれに捻りのあるカリキュラムになっていて、あらゆる筋肉に強烈な刺激が科される。翌日の筋肉痛を想像するだけでひ弱な筋肉がプルッとした。それでもリカ先生に少しでもいいところを見せたい一心で、僕は頑張る。

寒風の吹く12月。ランニングの30分はノンストップでいけたものの、セミの5分が難儀だった。公園の壁には足を引っ掛かける突起がなく、足が有効に使えないせいもあって、壁の上部を捕む握力頼り。何度も休んでストレッチをしながら、何とか合計5分のノルマをこなすと、手の平に何か所かの擦過傷が出来ていた。ふと時計を見ると余裕をもって早起きしたはずなのにバイトの時間ギリギリになってしまっている。そこからまたダッシュをする羽目になった。これはランニングの時間に入らないのかな、などと思いながら電車に駆け込み、いい具合に温まった座席に腰を下ろすと、即座に気が遠くなる。結局バイトに遅刻した。この日は引継ぎがアレンだったので助かったが、次回のバイトは店長の奥さんとの引継ぎで絶対に遅刻は不可能だ。そんなことをしようものなら冗談抜きに殺されかねない。

脳裏に刻みこまれたリカ先生の華麗な演技に励まされ、バイトと寝ることを除けばそれ以外にやることのない日常に突然現れた「やらなければならないこと」の新鮮さに惹かれて、僕のトレーニングは5日目を迎えた。今日はバイトのシフトのある日だ。筋肉痛で重くなった身体も考慮し、初日よりも30分早起きして修行に臨んだ。それなりに途中で休む回数は減ってはいたが、体感的な所要時間は初日から大して変化はない。そう思って全てのノルマを終えて時計を見ると1時間の余裕があった。いわずもがな。つまり全体の所要時間が初日よりも30分も短縮していたのだ。
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