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パルクールとの出会い
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天井を見ていた。
無数の凹凸に支配されたその平面は、ベッドに大の字になった僕の真下にある。天地がひっくり返って、この体勢から唐突に墜落することになれば、とてもランディングでは着地出来ないだろうな。PKロールか。自然と身体が受け身の態勢をシミュレートする。ネオパルクール(通称ネオパル)の奥義スルーダイブを使えば楽勝なんだがな、と思うと勝手に笑みがこぼれた。
僕がパルクール教室に通い始めて1年ほどになる。日本ではあまり馴染のないスポーツだが、いずれはオリンピック競技になると言われるくらい世界的な注目度は高い。昨年末の某局の特番でパルクール教室の先生がもの凄いタイムで難攻不落のアスレチックコースをクリアして他の出演者を驚嘆させていたし、10年以上前に作られたパルクール映画『アルティメット』がリバイバル上映していたりもするので、そろそろ日本にも波が来つつあるのだろう。かくいう僕もその『アルティメット』に触発されてこのスポーツを始めた一人だった。
当時一人暮らしを始めた僕は、それから暫くして拒食症のようにモノが食べられなくなり、半年ほどの間に10kg痩せた。帰省するたびにやつれていく僕を見て、やや肥満体型の妹は羨ましがったが、母親は随分心配した。
「意地張らないで、家に帰ってくればいいのに」
ことある毎に言われたが、僕は意地を張っていたわけじゃない。やっと手に入れた一人暮らしの自由を簡単には諦めたくなかったのだ。
痩せ削げた顎のフォルムや、脂肪の薄くなった腹周りの感じは結構気に入っていたのが、しかしいかんせん筋肉がないので、ひ弱な感じが否めない。それに少々体調にも異変があり、時々来る胃腸痛、特に嘔吐感に手を焼いた。酒なら飲めると思い、老舗の滋養強壮酒を買って飲んでみたりもしたが、三日と続かず飾り物になった。やはり酒は日本酒に限るな。恐らくこの酒の飲み過ぎが体調に影響していることは明白だったが、それを理由にすることは脳が強弁に拒んでいた。
代替えにきっと運動不足のせいだと思い立ち、ランニングを始めてみたりもしたが、生来の怠け者気質が邪魔をしてなかなか定期的には続かない。ダメ人間というのはこうしてここで痩せこけて死んでいくのだろうかと、その頃今と同様に天井の虚空を眺めて書いた詩がこれだ。
(前略)
僕の夢はどこにある?
誰かの想像で創られたものじゃない
僕のなりたい僕はどこにある?
この天井を突き破り空に手を伸ばしたら
掴める夢はあるだろうか
あの扉を蹴り壊し町中を走り回ったなら
僕のリアルを取り戻せるだろうか
(後略)
夢も希望も、未来への期待もなかった。自分自身がなぜ生きているのかという自問の答えに窮して苦しんでいた。だからといって何の行動も起こさない。
いや何にもしてなかったわけじゃ無い。仕事はコンビニのバイトでレジ打ちを細々ながらもう二年もやっていた。それだけやっていれば、大抵はバイトリーダーくらいにはなるものだが、僕の場合は次々と増えるコンビニの取扱い品目についていけず、最近では今年入ったばかりのベトナム人のアレンに教えを乞うことが多くなっている。自分自身も金も無いくせに、稼ぎたいアレンにシフトを譲り、いやその方が店のためだから、なんて照れ笑いをする。
挙句どうにも金が底をついてしまうとやむなく日払いの派遣仕事に出たりした。しかし、人見知りが酷い僕にとって初対面ばかりの職場はいつも地獄だった。耐えきれずに途中でトイレにこもったり、逃げ出そうとして捕まったりする内に、働く場所が減っていった。
食べるものがなくなると帰省した。さっきは拒食症と言ったが、元はといえば金がないに端を発した栄養失調で、胃が小さくなったのが原因ではないかと思う。母親は当然見抜いていたに違いない。帰りには決まって万札を一枚握らせてくれた。いらないよ、と言いながら最後には必ずポケットにねじ込んだ。情けない気持ちは、ほんの一瞬で消え去り、この一万で何日食えるかを計算すると、アレンに電話を入れてシフトを譲った。
そうやって今をやり過ごしていた。まあまだ本気になってないだけだからという、いつぞやの邦画調の虚しい言い訳は、自分の脳すら聞く耳を持たなかった。
そんな僕が、父親とぶつかった勢いで飛び出したとはいえ、自力で借りたこの小さなアパートの一室。それはこの数年で自ら起こし成し遂げた唯一の形ある成果と言えた。まともな家具も何もない部屋だが、これだけは手放したく無いと真面目に思っていた。小さな小さな僕の唯一のこだわりだった。
「あっ」
ふと電気代を払ってないことを思い出して声が出る。慌ててもう一度アレンに電話を掛けた。
「もう、あなたホントダメな人ね」
ため息混じりに呆れられた。いやそれはアレンが電気が止まる大変さを知らないからそんなことを言えるんだと、的外れな言い訳で場を煙に巻く。巻かれてくれるアレン。本当にいいやつだ。感謝しかない。
退廃的なさっきの詩を書いた後に見た映画が『アルティメット』だった。これだ。詩の答えがそこにあると、すぐにそう閃いた。夢も、そしてあの日のリアルみたいなモヤモヤした虚像もこれならきっと掴めると思った。確信にも似た感覚に満たされた僕は、後先もなくパルクール教室の検索をした。
こうして出会ったパルクールは、見た目の華やかさやスリリングさとは真逆の、実に地道な鍛錬と理論的な技術に裏打ちされたスポーツと呼べる競技だった。教室に通い始めた初日から、そんなパルクールの真髄を優しく落ち着いた声音と、華麗な演技で教えてくれたリカ先生のおかげもあって、僕はたちまちパルクールの虜になった。
無数の凹凸に支配されたその平面は、ベッドに大の字になった僕の真下にある。天地がひっくり返って、この体勢から唐突に墜落することになれば、とてもランディングでは着地出来ないだろうな。PKロールか。自然と身体が受け身の態勢をシミュレートする。ネオパルクール(通称ネオパル)の奥義スルーダイブを使えば楽勝なんだがな、と思うと勝手に笑みがこぼれた。
僕がパルクール教室に通い始めて1年ほどになる。日本ではあまり馴染のないスポーツだが、いずれはオリンピック競技になると言われるくらい世界的な注目度は高い。昨年末の某局の特番でパルクール教室の先生がもの凄いタイムで難攻不落のアスレチックコースをクリアして他の出演者を驚嘆させていたし、10年以上前に作られたパルクール映画『アルティメット』がリバイバル上映していたりもするので、そろそろ日本にも波が来つつあるのだろう。かくいう僕もその『アルティメット』に触発されてこのスポーツを始めた一人だった。
当時一人暮らしを始めた僕は、それから暫くして拒食症のようにモノが食べられなくなり、半年ほどの間に10kg痩せた。帰省するたびにやつれていく僕を見て、やや肥満体型の妹は羨ましがったが、母親は随分心配した。
「意地張らないで、家に帰ってくればいいのに」
ことある毎に言われたが、僕は意地を張っていたわけじゃない。やっと手に入れた一人暮らしの自由を簡単には諦めたくなかったのだ。
痩せ削げた顎のフォルムや、脂肪の薄くなった腹周りの感じは結構気に入っていたのが、しかしいかんせん筋肉がないので、ひ弱な感じが否めない。それに少々体調にも異変があり、時々来る胃腸痛、特に嘔吐感に手を焼いた。酒なら飲めると思い、老舗の滋養強壮酒を買って飲んでみたりもしたが、三日と続かず飾り物になった。やはり酒は日本酒に限るな。恐らくこの酒の飲み過ぎが体調に影響していることは明白だったが、それを理由にすることは脳が強弁に拒んでいた。
代替えにきっと運動不足のせいだと思い立ち、ランニングを始めてみたりもしたが、生来の怠け者気質が邪魔をしてなかなか定期的には続かない。ダメ人間というのはこうしてここで痩せこけて死んでいくのだろうかと、その頃今と同様に天井の虚空を眺めて書いた詩がこれだ。
(前略)
僕の夢はどこにある?
誰かの想像で創られたものじゃない
僕のなりたい僕はどこにある?
この天井を突き破り空に手を伸ばしたら
掴める夢はあるだろうか
あの扉を蹴り壊し町中を走り回ったなら
僕のリアルを取り戻せるだろうか
(後略)
夢も希望も、未来への期待もなかった。自分自身がなぜ生きているのかという自問の答えに窮して苦しんでいた。だからといって何の行動も起こさない。
いや何にもしてなかったわけじゃ無い。仕事はコンビニのバイトでレジ打ちを細々ながらもう二年もやっていた。それだけやっていれば、大抵はバイトリーダーくらいにはなるものだが、僕の場合は次々と増えるコンビニの取扱い品目についていけず、最近では今年入ったばかりのベトナム人のアレンに教えを乞うことが多くなっている。自分自身も金も無いくせに、稼ぎたいアレンにシフトを譲り、いやその方が店のためだから、なんて照れ笑いをする。
挙句どうにも金が底をついてしまうとやむなく日払いの派遣仕事に出たりした。しかし、人見知りが酷い僕にとって初対面ばかりの職場はいつも地獄だった。耐えきれずに途中でトイレにこもったり、逃げ出そうとして捕まったりする内に、働く場所が減っていった。
食べるものがなくなると帰省した。さっきは拒食症と言ったが、元はといえば金がないに端を発した栄養失調で、胃が小さくなったのが原因ではないかと思う。母親は当然見抜いていたに違いない。帰りには決まって万札を一枚握らせてくれた。いらないよ、と言いながら最後には必ずポケットにねじ込んだ。情けない気持ちは、ほんの一瞬で消え去り、この一万で何日食えるかを計算すると、アレンに電話を入れてシフトを譲った。
そうやって今をやり過ごしていた。まあまだ本気になってないだけだからという、いつぞやの邦画調の虚しい言い訳は、自分の脳すら聞く耳を持たなかった。
そんな僕が、父親とぶつかった勢いで飛び出したとはいえ、自力で借りたこの小さなアパートの一室。それはこの数年で自ら起こし成し遂げた唯一の形ある成果と言えた。まともな家具も何もない部屋だが、これだけは手放したく無いと真面目に思っていた。小さな小さな僕の唯一のこだわりだった。
「あっ」
ふと電気代を払ってないことを思い出して声が出る。慌ててもう一度アレンに電話を掛けた。
「もう、あなたホントダメな人ね」
ため息混じりに呆れられた。いやそれはアレンが電気が止まる大変さを知らないからそんなことを言えるんだと、的外れな言い訳で場を煙に巻く。巻かれてくれるアレン。本当にいいやつだ。感謝しかない。
退廃的なさっきの詩を書いた後に見た映画が『アルティメット』だった。これだ。詩の答えがそこにあると、すぐにそう閃いた。夢も、そしてあの日のリアルみたいなモヤモヤした虚像もこれならきっと掴めると思った。確信にも似た感覚に満たされた僕は、後先もなくパルクール教室の検索をした。
こうして出会ったパルクールは、見た目の華やかさやスリリングさとは真逆の、実に地道な鍛錬と理論的な技術に裏打ちされたスポーツと呼べる競技だった。教室に通い始めた初日から、そんなパルクールの真髄を優しく落ち着いた声音と、華麗な演技で教えてくれたリカ先生のおかげもあって、僕はたちまちパルクールの虜になった。
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