4 / 11
第一章
江戸
しおりを挟む
甚五郎は、娘りんどうの為にも何としても生き延びねばならないと自らを鼓舞し、まずは落ち武者狩りの追っ手から逃げ切る為に何をすべきかを思案した。木を隠すのが森ならば、人を隠すのは町だろう。江戸には何の伝手もなかったが、いまや京をしのぐほどの勢いのある町には、何より人が多いと聞いていた。目指す先は江戸と決めた。
山小屋の一家から教え込まれた生きる術は、親子二人の江戸までの道中を大いに助けてくれた。食料も水もいかにして調達すれば良いか、5歳のりんどうでさえも食せる実やきのこを見分ける術を習得していた。りんどうは一人で火を起こしそれを適当な火力に調節することも出来た。しかも母親があんず狩りに出掛ける二人に、急な雨の時に使えと持たせてくれた雨合羽は、春とはいえ冷え込む朝晩の寒気から身体を守ってくれた。死してなお自分たちを守り、導いてくれるあの山小屋の一家に対して、甚五郎はその骸を葬ってやることさえ出来ずに逃げてきた自分の無力さを何度も悔いた。西の空があの日と同じ夕焼けに染まると、甚五郎の目には知らず知らずの内に涙が溢れ出し、無言のままボロボロと頬を濡らした。
街道を行けば7日もあれば江戸に着くところを、甚五郎とりんどうは追っ手を警戒しつつ、その倍を掛けて小仏の関所を迂回し、漸く武蔵野の森を抜けた。
雑木林と開墾された畑の広がる風景は、緊張の連続の逃亡生活に一雫の潤いを与えてくれた。よく実った玉蜀黍を一房、手を合わせてもいだ甚五郎は、皮を剥いでりんどうに食わせてやった。飢えるまではいかないまでも、まともな食事にはこの2週間ありつけていない。この玉蜀黍とて生で食うものではないが、それでも手入れの行き届いた畑のとりたての食べ物に、りんどうは目を輝かせて齧り付いた。
「おっとう、これ、すっごくおいしいねえ」
コリコリ音をさせながら頬張った顔が、嬉しそうに綻ぶ。そして、りんどうはその齧り掛けを甚五郎に差し出した。
「おっとうも、食べな」
口の端に玉蜀黍の粒がひとつ付けながら笑った顔は、夏場というのに湯浴みさえさせてやれないが故に、汗と埃に塗れ黒く汚れていた。
「おっとうはいいから、りんどうが全部食べたらいい」
甚五郎はそう言ったが、りんどうは差し出した手を引かずに首を振る。甚五郎は胸の奥をギュッと掴まれるような痛みを感じた。しかし、その痛みは決して辛いものではなかった。とても貴重で大切なものなのに、決して取りおくことが出来ない。そんな儚い宝物を見つけてしまった時の特別な感情がもたらす痛みだった。
山小屋を出て二十日目、甚五郎とりんどうは江戸の町に足を踏み入れた。江戸時代も都は京のままだったが、国の政治の中心が動いた為、世の中が平和が確かなものになるにつれて、江戸と地方の往来は盛んになり、江戸には各地から様々な人々が集まって来ていた。元禄文化は上方中心と言われるが、多様な人々が集うことによって江戸に芽生えた新しい文化は、活力のある力強いものが多く、また江戸以前の時代のように身分の高い者だけでなく大衆に広く浸透していた。
山で生まれ、山の風景しか見たことのないりんどうは、あまりの人の多さに目が回るような心持ちだった。京を知る甚五郎にしても、田舎と聞いていた江戸がこれほどに大きな町であることに驚嘆し、見慣れない町並みに圧倒される思いであった。ひとつありがたかったのは、皆、何か別なことに関心があるのか忙しそうに足早で、薄汚れた身なりの親子連れに好奇の目を向けられることが殆どなかったことだ。二人は落ち着けそうな場所を探して町を歩いた。
甚五郎はまずは旅の垢を落として身体も心も一旦整理しようと湯屋に入ることにした。甚五郎は山小屋の父親から何かの時には開けて使うようと渡されていた風呂敷を広げると、当分の所用には十分な金と一通の書状が添えてあった。書状には本町にある薬問屋の名前と、この書状を持つ持つ者へ配慮を乞う一文が綴られていた。山小屋の父親は、甚五郎が追われる身であることは始めから分かっていたに相違ない。そして京には帰れない甚五郎がいずれ江戸に来ることになることも予測していたのだろう。山小屋の父親が年に一度江戸に用を足しに出ていたことから、一家の出自が江戸であることは想像していた。
薬問屋。思えば一家が与えてくれた生きる術は、そこに身を置くために必要な知識や技術に繋がっていた。それは幼いりんどうにも、そこで生き延びていけるようにと。湯浴みをして身体を清めながら、甚五郎はその大きな背中を震わせ、西の空に手を合わせた。
(続く)
山小屋の一家から教え込まれた生きる術は、親子二人の江戸までの道中を大いに助けてくれた。食料も水もいかにして調達すれば良いか、5歳のりんどうでさえも食せる実やきのこを見分ける術を習得していた。りんどうは一人で火を起こしそれを適当な火力に調節することも出来た。しかも母親があんず狩りに出掛ける二人に、急な雨の時に使えと持たせてくれた雨合羽は、春とはいえ冷え込む朝晩の寒気から身体を守ってくれた。死してなお自分たちを守り、導いてくれるあの山小屋の一家に対して、甚五郎はその骸を葬ってやることさえ出来ずに逃げてきた自分の無力さを何度も悔いた。西の空があの日と同じ夕焼けに染まると、甚五郎の目には知らず知らずの内に涙が溢れ出し、無言のままボロボロと頬を濡らした。
街道を行けば7日もあれば江戸に着くところを、甚五郎とりんどうは追っ手を警戒しつつ、その倍を掛けて小仏の関所を迂回し、漸く武蔵野の森を抜けた。
雑木林と開墾された畑の広がる風景は、緊張の連続の逃亡生活に一雫の潤いを与えてくれた。よく実った玉蜀黍を一房、手を合わせてもいだ甚五郎は、皮を剥いでりんどうに食わせてやった。飢えるまではいかないまでも、まともな食事にはこの2週間ありつけていない。この玉蜀黍とて生で食うものではないが、それでも手入れの行き届いた畑のとりたての食べ物に、りんどうは目を輝かせて齧り付いた。
「おっとう、これ、すっごくおいしいねえ」
コリコリ音をさせながら頬張った顔が、嬉しそうに綻ぶ。そして、りんどうはその齧り掛けを甚五郎に差し出した。
「おっとうも、食べな」
口の端に玉蜀黍の粒がひとつ付けながら笑った顔は、夏場というのに湯浴みさえさせてやれないが故に、汗と埃に塗れ黒く汚れていた。
「おっとうはいいから、りんどうが全部食べたらいい」
甚五郎はそう言ったが、りんどうは差し出した手を引かずに首を振る。甚五郎は胸の奥をギュッと掴まれるような痛みを感じた。しかし、その痛みは決して辛いものではなかった。とても貴重で大切なものなのに、決して取りおくことが出来ない。そんな儚い宝物を見つけてしまった時の特別な感情がもたらす痛みだった。
山小屋を出て二十日目、甚五郎とりんどうは江戸の町に足を踏み入れた。江戸時代も都は京のままだったが、国の政治の中心が動いた為、世の中が平和が確かなものになるにつれて、江戸と地方の往来は盛んになり、江戸には各地から様々な人々が集まって来ていた。元禄文化は上方中心と言われるが、多様な人々が集うことによって江戸に芽生えた新しい文化は、活力のある力強いものが多く、また江戸以前の時代のように身分の高い者だけでなく大衆に広く浸透していた。
山で生まれ、山の風景しか見たことのないりんどうは、あまりの人の多さに目が回るような心持ちだった。京を知る甚五郎にしても、田舎と聞いていた江戸がこれほどに大きな町であることに驚嘆し、見慣れない町並みに圧倒される思いであった。ひとつありがたかったのは、皆、何か別なことに関心があるのか忙しそうに足早で、薄汚れた身なりの親子連れに好奇の目を向けられることが殆どなかったことだ。二人は落ち着けそうな場所を探して町を歩いた。
甚五郎はまずは旅の垢を落として身体も心も一旦整理しようと湯屋に入ることにした。甚五郎は山小屋の父親から何かの時には開けて使うようと渡されていた風呂敷を広げると、当分の所用には十分な金と一通の書状が添えてあった。書状には本町にある薬問屋の名前と、この書状を持つ持つ者へ配慮を乞う一文が綴られていた。山小屋の父親は、甚五郎が追われる身であることは始めから分かっていたに相違ない。そして京には帰れない甚五郎がいずれ江戸に来ることになることも予測していたのだろう。山小屋の父親が年に一度江戸に用を足しに出ていたことから、一家の出自が江戸であることは想像していた。
薬問屋。思えば一家が与えてくれた生きる術は、そこに身を置くために必要な知識や技術に繋がっていた。それは幼いりんどうにも、そこで生き延びていけるようにと。湯浴みをして身体を清めながら、甚五郎はその大きな背中を震わせ、西の空に手を合わせた。
(続く)
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
上意討ち人十兵衛
工藤かずや
歴史・時代
本間道場の筆頭師範代有村十兵衛は、
道場四天王の一人に数えられ、
ゆくゆくは道場主本間頼母の跡取りになると見られて居た。
だが、十兵衛には誰にも言えない秘密があった。
白刃が怖くて怖くて、真剣勝負ができないことである。
その恐怖心は病的に近く、想像するだに震えがくる。
城中では御納戸役をつとめ、城代家老の信任も厚つかった。
そんな十兵衛に上意討ちの命が降った。
相手は一刀流の遣い手・田所源太夫。
だが、中間角蔵の力を借りて田所を斬ったが、
上意討ちには見届け人がついていた。
十兵衛は目付に呼び出され、
二度目の上意討ちか切腹か、どちらかを選べと迫られた。
織田信長に育てられた、斎藤道三の子~斎藤新五利治~
黒坂 わかな
歴史・時代
信長に臣従した佐藤家の姫・紅茂と、斎藤道三の血を引く新五。
新五は美濃斎藤家を継ぐことになるが、信長の勘気に触れ、二人は窮地に立たされる。やがて明らかになる本能寺の意外な黒幕、二人の行く末はいかに。
信長の美濃攻略から本能寺の変の後までを、紅茂と新五双方の語り口で描いた、戦国の物語。
浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル
初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。
義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……!
『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527
の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。
※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。
※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。
天下布武~必勝!桶狭間
斑鳩陽菜
歴史・時代
永禄三年五月――、駿河国および遠江国を領する今川義元との緊張が続く尾張国。ついに尾張まで攻め上ってきたという報せに、若き織田信長は出陣する。世にいう桶狭間の戦いである。その軍勢の中に、信長と乳兄弟である重臣・池田恒興もいた。必勝祈願のために、熱田神宮参詣する織田軍。これは、若き織田信長が池田恒興と歩む、桶狭間の戦いに至るストーリーである
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる