森川アルバム

森川めだか

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接吻

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接吻
  森川 めだか

「ベタ雪だね」
短龍タンルーは編集社のスタッフを引き連れて札幌の街道を歩いていた。まだ若いシナリオライターだが、去年のドラマが当たったのでその記念館が作られる。
秋の終わり頃から降り続く雪は、道の両端に使い古されたポリ袋のような半透明なシャリ雪になって山のように積まれていた。
建物はもう出来上がっているらしい。後は落成式を待つだけで、短龍はこの日初めて訪れることになっていた。札幌の郊外とは言っても、多少の呼び物になるはずだ。
今日は関係者だけが集う見学会も兼ねている。結婚式で言えば披露宴か。
うす汚れた壁にうす汚れた青いコートを付けた娘がいた。「この建物ですよ」
「あっ、ここ?」
娘は関係者じゃなさそうだ。短龍をじっと見ている。少し赤い目だった。
「あの娘は誰?」
「さあ、ファンの人じゃないですか。何か待ち構えていたみたいですね」
後ろを振り返りながら短龍は入口を開いた。

「やあ今日はどうもありがとうございました」
中の造りは簡単な物だった。スロープが廻っていて各場面のパネルや録音を聞ける。使ったセットもいくつか置いてある。それだけのものだった。
列席した人に混じってあの娘も入っていた事に短龍は気付いたが、黙っていた。受付は空いている。
短龍は今、セットの隣に据えられた席で挨拶をしていた。
「君はどこから来たの?」
「標津です」
「標津? 根室標津? サムライ士別?」
「根室標津。渕目ふちめです」娘は手を差し出してきた。
「渕目?」
知ってる? と目顔でそばの編集に聞いたが、首を振った。
「君、招待状持ってる? ファンの子だよね。そういうの禁止されてますから」編集社が止めに入った。
短龍は渕目と名乗ったその女の子を眺めているだけだった。
出される時、渕目が振り返った。
「助けてもらいたいんです!」叫ぶようなその声は雪の中に消えた。

夕方、帰りになって新作の話をしながらスタッフと短龍が出てきた。
「・・僕が書こうとしてるのは運命です」
「じゃあ、よろしく・・」と一人が手を上げかけた時、道の陰からさっきの、渕目とかいう女が駆け寄って来た。
「待っててくれたの?」短龍はビックリした。
「まだいたのか、君」スタッフは取り囲んで、短龍から引き離そうとした。
「いいから、いいよ」短龍はそれを止め、渕目の肩に手をちょっと触れた。
「僕に何か用があるの?」
渕目は肯いた。
「いいよ。何? どうせ帰るから。ここじゃ話せない話?」
渕目はまたも肯いた。短龍は手を上げ、先にスタッフを帰し、次の角を渕目と折れた。
「何?」道の真ん中で渕目を立ち止まらせて短龍は聞いた。
「落ち着いて話せませんか」渕目は道の往来を気にしているらしい。右に左に車が忙しなく走っている。
短龍は周りを見回して、以前泊まったことのあるシティーホテルが見えるのに気付いた。
「じゃあ、あそこで。下がレストランになってる」

入口を押して、入る二人。ロビーはがらんとしている。左にメニューを出したレストランがやっている。
「こんな所に来たことあるの」
「はい」
渕目は迷わず、メニューも見ずにレストランに入ってしまった。
夕飯近くになっていたので短龍はカレー、渕目はカフェラテを頼んだ。先に、サンドアートのように木の葉が描かれた渕目のカフェラテが来た。
「いただきます」
木の葉が渕目の唇で潰されていく。
「それで用って何?」
渕目は黒目だけを窓に流し、ゆっくりと味わっているようだった。
「君の方が世慣れてるね」短龍の前にカレーが来た。
「僕なんか一人で外食できないからさ」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
ハハッと渕目は乾いた笑い声を出した。まだいとけない感じのする子だ。
「君っていくつ? 標津から来たって言ったね」
「17」
「17歳? それじゃ高校生か。大学生かと思った」
「実は私・・」何か言いかけたので、短龍も耳をそば立てると、「どうぞお熱い内に」とカレーを差す。
「お腹空いてる時に話すと怒られるから」
「そんな話?」フッと短龍も笑って、二人は目を合わせないように食べ始めた。
食事が終わって、皿が下げられると、ゴホンと咳をして渕目が身を机に乗り出した。
「私、怖くて。逃げ出してきたんです」
「何かに追われてるの?」
「お父さんと兄にレイプされるんじゃないかと、・・気になって」
「何?」それっきり短龍は絶句してしまった。
「そんなんで・・」短龍は唇を舐めた。
「それで札幌くんだりまで来たのかい?」
若い子が考えそうな事だと短龍は思った。思春期には多くが心理学でも感じると言われている典型的な悩みだ。
「こんな季節には誰でも札幌に観光に来たくなるものだけどね」短龍はこれでも大人っぽく場を濁したつもりだった。
「私、札幌に逃げて来たんです」追いすがるような目で見る渕目は少し異常に見えた。
それはもう聞いたよ、という言葉を飲み込み、短龍は窓外に目を向けた。
雪が、雪が降り続けている。
「札幌はここ数年なくとにかく寒いんだ何とか現象とか言う・・」来るところじゃなかったね、という言葉をまた、短龍は飲み込んだ。
「僕を訪ねて来たの?」
渕目は肯いて、また同じような目をした。
「困るよ」短龍はそう言っただけだった。
「有名な先生だから。短龍さんの作品って私、とても好きだし」
「ありがとう。ただ帰った方がいいと僕は思うよ。悪いけど」
ただそうなる気がするってだけじゃ・・、と短龍は水を飲み、目で渕目に聞いて立ち上がった。
ところが、ロビーに出ても渕目はなかなか立ち去ろうとしない。
「ここに泊まらせて下さい」
「君、お金持ってないの?」
「はい」
フーンと喉の中で言い、短龍はフロントに歩いて行った。渕目も後からついて来る。
渕目がチェックインをしている間、短龍は遠くからそれを見ていた。どういう娘だろう。
鍵をチャリチャリ鳴らせながら、渕目は短龍の方に歩いて来た。
「四〇四号室です」
「君は僕に何をしてもらいたいの?」
「交換します?」渕目はスマホを取り出した。
「いや」短龍は身を引いた。
「それじゃ・・」渕目はそのまま頭を下げて、エレベーターの方に行こうとした。
「助けてって、何を助ければいいのかな」短龍は自分にとっては少し大きな声を出した。
あ、と渕目が口を開いた。と、また走って来て紙袋の中の箱を渡した。
「これ、標津の名物です。食べて下さい。毒なんか入ってませんから。私、先生に聞いてもらいたい話があったんです。でも、今日は話せなくて・・」
「どうして?」
「何か・・」
何となく短龍も肯いた。箱には「羊羹最中とサンド」と和文字で書いてある。
「話す気になったら・・。でも、帰った方がいいよ。今日のお金はいいから」
「先生」
「ん?」もう帰りかけていた短龍は立ち止まった。
「私、お金持ってます」ガサゴソ、鞄の中をやり出したと思ったら札を何枚も入れた財布の中を見せた。
「お返しします」今日かかった12400円。
「明日も、」
「ここにいるの?」
少女はひたすらな目で短龍を見ていた。この娘を見放したらどうなるか分からない。夢見が悪いことになりそうだ。
短龍はシナリオでは都合よくいく所が現状を打開することはできないことを知っている。
「明日は聞かせてくれるね?」
「はい」渕目は肯いた。肯いて、エレベーターに走って行った。
重たいな、と思い短龍は羊羹サンドの紙袋の柄を持ち直した。
外からドッと冷たい風が吹きつけてきた。

「出ている?」午前10時を過ぎて、短龍はシティーホテルを訪ねた。
「はい。出かけられました」
「どこへ?」
「失礼ですが、短龍さまでいらっしゃいますか・・」
言伝てられていたのはいしかわ産婦人科だった。
いしかわ産婦人科は豊平川の近くにあるひっそりとしたクリニックだった。
「来たよ」入口から出てくるのを待っていた短龍は渕目を見て手を上げた。
「来てくれたんだ」
二人はそのクリニックのそばにある整備された土手の、遊園地のティーカップにあるような木暮れの白いテーブルと椅子に着いた。テーブルの端と端に腰を落ち着けた。上には藤棚が絡まっている。
その日は珍しく晴れ渡っていた。
「こんな日は珍しいんだよ」
「6ヵ月だって」渕目は妊婦がよくそうするように自分の腹に手を当てて言った。
「誰の子供?」
「さあ・・」
「本当に?」失礼だとは思いながら短龍は渕目の体を目でなぞった。
「妊娠が分かりにくい女の人だっているよ」渕目は少し笑って、青いコートの前をはだけて見せた。下には山吹色の厚いとっくりセーターを着ているが腹をよくよく見ても妊娠しているとは信じられない。赤い手袋一つしていないのが短龍にはなぜか気になった。
「苦労はしない方がいい。・・堕ろした・・」
「もう遅いよ。気付いたら、とにかくもうここまでになっちゃったら堕ろせないの。短龍さん無知だね」
二人は豊平川の風を眺めて黙った。
「短龍さんって本名なんですかあ?」
「ああ、そうだよ」
退路を絶たれた。昔、病気になった時に自分が言われた言葉を短龍は思い出していた。
「何で僕?」
「何か・・」そう言った時、初めて渕目は後ろに姿勢を崩し、腹を伸ばした。
「逆境に強そうじゃないですか」
微笑んでいる渕目を見て短龍は黙った。この花弁でできたような顔が・・。
「それって僕とか兄とか父のこと?」
渕目は首だけで肯いた。
「うまく使わせてもらってるけどね」短龍は目を逸らして笑った。
「自分の病気がともかく、ホントのこと言うと父や兄のことは何とも思ってない。同情も何もしてない。ホントに」どこか壊れてるのかな、短龍は頭の中で呟いた。
「そりゃそういう作品を作ったことはあるけど・・。君がそれを見て来たのなら・・」
「生まれるまで面倒見て。あなたを頼って来たんだから」
退路を・・。短龍はグッと唾を飲み込んだ。夢見が悪いのは確かだ。
「これからどうするつもり?」
「自分でこの札幌に部屋でも探して・・」
「生まれるのを待つ?」短龍につられて渕目は肯いた。
「いや、しかし寒いね」今までの会話を誤魔化すように短龍は手をすり合わせて立ち上がった。渕目も立ち上がった。
「電話は教えない。何かあったら編集社に。その代わり、変な詮索もしない」
「約束ですね」
「うん。約束」
渕目と川の公園で別れてから、しばし豊平川の近くを短龍は久しぶりに散策した。そんな事を言っても自分も母とは離れて暮らしているのだ。
「想像するのは姦通するのと同じである、か」一人言を言って自分で苦笑いした。

編集社から電話がかかって来たのはその数日後のことだった。狂ったように雪が降っている。仕事の話かと思った。
「コレですか」電話の向こうで編集者が小指を立てたのが分かった。
「部屋が決まったって」その後、住所が読まれた。
「ありがとう。そんなんじゃないです」
短龍は早速、そこを訪ねてみる気になった。

ドアを開けた渕目はまたあの山吹色のセーターを着ていた。
座布団の上に座り、茶を飲んでいると、「何もありませんけど」と鮭チップを卓上に渕目は置いた。短龍は笑った。
「ごめんね。苦労なんかしない方がいいなんて言って。君はもうしてるのに」
「いや、短龍さんの言ってる事は分かります。何か真っ黒な穴に突き落とされていくよう・・」
「うん・・」
会話を変えようとしたのか、渕目は薄明かりが流れる空を見上げた。
「短龍さんが掴んだ物って何ですか」
「え?」
「何か、先達の意見を聞いてみたいなって」
「・・僕が掴んだ物? んー、運命かな。運命は誰にも変えられない。結局、運命なんだよ、全部。僕の出した作品でね、一人の登場人物がこう言うんだ。人は不思議な運命を生きる。まるで与えられたかのように・・」
「永久機関は誰のため、ですよね?」
「ああ、世にも奇妙な不思議な体験談で出たっけ?」
「はい、見ました。その後、死ぬんですよね」
「煙草、吸ってもいい?」
「どうぞー、ここは禁煙じゃないんで」とは言っても灰皿もライターもない。
「札幌って自由な街ですね。女の子一人でも年ごまかせば入れました」
「いい意味でも悪い意味でも都会だからね」
意味もなく、ピカピカの小さなテーブルを渕目は手で拭き始めた。
「運命って何ですか。どうなるんですか、私」
「運命からは逃げられない。逃げちゃいけない」それが、短龍の唯一のアドバイスのつもりだった。
「怖いな、何か」意味もなく、渕目は笑った。
「怖いよ、すごく」
運命は怖いものだ。誰にとっても平等に。
「君が運命に気づいたのならもうただの人じゃない、運命の人だ。昨日の焼き直しから出られるよ。ただ流れに任せて・・」
その間も、間断なく雪が降り続いていた。
渕目はテレビを点けた。テレビではニュースがやっていて、悲惨な子供の死がやっていた。
「何で子供だけかわいそがるのかね。老人も死んでるのに、みんな同じ一人なのに」
「先生、サイコパスなんだ」
「先生?」
「あ、ごめんなさい。短龍さん、有名な人にはサイコパスが多いそうですよ」渕目は自分のお茶に手をかけた。
「冷たい星の下に生まれてきたから」短龍は鼻を掻いた。
「僕は人殺しはしないよ。できないよ」
湯気を吹いて渕目は笑った。

渕目のアパートを辞去した後、短龍はスクラッチくじを百円玉でこすってみた。
家を出る前、渕目がやっていて、一枚短龍にもくれたのだ。
当たったのはポケットティッシュだった。近くのドラッグストアに持って行けばもらえるらしい。
「だめだ」とこすっては渕目は呟いて、笑っていた。
「きっと、これから二、三日に一度は訪ねるよ。いい?」
「どうして?」
「気になるんだ。心配事があると落ち着かなくなる性質でね。いいシナリオも浮かばない」
「先生の死活問題なんですね」
言葉もなく短龍は肯いた。
「出だしは月並みなんですけどね」その足で短龍は社に新作の打ち合わせに来ていた。
「畜少女と黄幼児・・。タイトルからは何とも」
「僕の悪いクセです。初め題から決めて後から内容を作っていくという・・。だからタイトルに意味なんかありません」
「で、出だしは?」促されて、短龍は唇を舐めた。
「まず少女が朝起きるとベッドの上で糸を吐いてるんです。まるで・・、繭になるんです。それを父親が発見する。そこがミソなんです。後は決まってません。娘は起きません。僕が書こうとしてるのは・・」短龍はまた唇を舐めて、頭の中で自分の行動を確認した。
「運命です」
そう言えば、僕は長いこと運命を忘れていたかも知れないなあ・・。と言い終わってから短龍はなぜか寂しくなった。
ホーと編集者の人たちはため息をついてくれる。
「毒虫と一緒ですが、短龍先生のことだから全然違った話になるんでしょうなあ。連ドラになりますか」
「12話にするつもりです」
棄てた夜もある。その夜が忘れた所から追いかけてくるような気がして短龍は耳を澄ました。
夜も走るということを忘れていた。黄金の列車のように。
あの夜は虹にできないままだ、と一瞬、目だけで短龍は天を仰いだ。
渕目のせいであの運命を思い出してしまった。
家にはまだ渕目からもらった羊羹サンドが食べ切れずに残っている。固かった。

「もう7ヵ月?」
渕目が来てから一ヵ月経った。雪は一向にしきりに降り止まない。
「連絡したの?」
「お母さんに一回だけ。心配しないでって」渕目は指を一本立てて、お茶を運んで来た。
午後からグッと気温が冷え込んだ。
「赤ん坊をどうするつもり?」
「信頼できる所に預けるつもりです」
「なら、始めから君もそういう所に行けばよかったんじゃないか」部屋を重苦しい空気が包んだ。
「・・これから探すつもりです。動転してたんですよ、今も。何だか分からなくなっちゃって」
「それも仕方ないよ」短龍は詫びたつもりだった。この娘が何とかしてくれるだろう。
責任を取る必要なんかこの自分にはないのだ。
「帰る家がないだろう」
渕目は涙ぐんでいるように見えた。
「記念館の受付でもするかい?」
「先生の秘書はだめですか?」それでも渕目は信じられないような嬉しそうな顔をしていた。
「僕は一人でやってるから。記念館のことだけど、できれば帰って来ればいい」
あの去年のドラマの記念館の開館はこの雪で遅れていた。
「高校は卒業すること」
「はい」恭しく渕目は手を膝の上に載せた。
短龍はいいことをした、と久しぶりの充実感を感じていた。

短龍はシナリオの取材で朱塗りの神社に来ていた。お望み通りの神社をスタッフが見つけてくれていた。
水子の神社だ。ここに、子を堕ろした女の末路が描かれた絵があるらしい。
水子の霊なんて今の若い子は知らないかな。
神主はいない。境内には古い井戸、手水、その他に何もなかった。誰もいない賽銭箱を素通りして、短龍は社内に入った。
天井にも壁にも絵が描かれた板がかけられている。曼荼羅のように神々が、悪鬼がこちらを覗いたり走り回ったりしている。
神と悪鬼か。神は最後には助けてくれ、鬼は最後まで助けない。それ位の違いしか短龍には思い浮かばなかった。
それを上手にスケッチして、帰りに短龍は56度のウイスキーのボトルを買った。北海道はこういう珍しい舶来品が手に入る。
その夜、見た夢は恐ろしかった。自分は川の両岸から溢れ来る白い泡をかき出している。進もうとしているのか、手だけしか見えない。
泡は雪のようで、次から次へと止まることを知らない。手が大きくなってきて、その泡をさらうのだが、川が見えたと思ってもまた泡が崩れる砂山のようにまた覆いかぶさる。
ひどく慌てて、そんな事を繰り返していた。
なぜ泡をかき出さなくてはならないのか、夢の中の自分には分かってるはずなのに。
寝起きにまた一杯、ウイスキーを氷で割って飲んだ。

「もう8ヵ月くらい?」
「そんくらいです」渕目は自分の腹に手を当てた。
でも、短龍には不思議だ。渕目はスレンダーなままだ。
渕目は短龍の前では腹を見せるが、人が来ると腹を隠そうとする。同じ女には分かるものなのかね。
「先生は罪とか罰にも詳しいんですよね」
「ああ、キリストにかぶれてた頃か・・」短龍は照れ臭そうに頬をかいた。昔のことを言われるのは何でも照れ臭い。
「今はどう思ってます?」
「んー・・」短龍は渕目をチラッと見て考えた。
「きっと神様は君のお父さんやお兄さんを許すと思うよ。そういう物だから。でも今は・・」
渕目はじっと聞いている。
「神様が、神が許してくれても、人間が許せなくちゃダメなんじゃないかと思うんだよね。神は全てを許すけど、果たしてそれでいいのか。気が楽になるけど、果たして人間が・・、上手く言葉にならないな」短龍は顔を赤くしていた。
「嫌だ、短龍さん汗かいてる」渕目は陽気に笑った。
「ホットショット。一息に喋ったから。多汗症の名残だよ。わき汗もびっしょりだ」まだ照れながら手でもみあげの汗を拭った。
「今でも汗をかく。だからシャツを着られないんだ。暑くもないのに」
「でもそんなに一生懸命話してくれてよかったですよ。気がスーッとした」渕目は自分の胸に手を当てて言った。
「そうかい」
汗をかいた頭が冷えた空気で冷やされていく。
「不思議だねえ」短龍はあのティーカップの椅子から空の境界を見た。
昨日も降り続いているのに、昨日と全く同じ雪が降り続いている。
「何が不思議なんですか?」
「いや・・」言っても分からないな、と短龍は諦めた。
「キリストはユダに生まれてこない方が、その者のためによかった、と言ったそうだけど、それも苦しみを負わせるくらいなら・・という意味だったんじゃないかな」
「難しいですねー」渕目は目を逸らし豊平川の辺りを見た。
「難しいね。僕も途中で諦めたし。分からない事ばっかりだね」
短龍は言いにくい話はしない。第一、この娘とはそんな仲じゃない。
出産費用はどうするのか、とか、赤ん坊を預ける施設のこととかももう短龍は言わない。
ただ、この娘が運命のままになればいいと思っていた。渕目は赤ん坊が生まれて、預けて、そのまま運命の外に出られるだろうか。ただの人に戻れるだろうか。僕とは違って・・。
運命を伝えることがどんなに難しいか短龍は渕目と会って気付いた。シナリオで伝えてきたつもりだったが。
「じゃ」短龍は渕目を見て立ち上がった。
「新作、続いてます?」
「いや、まだ」
「私のせいだ」
「君のせいじゃないよ。僕の実力不足だよ」
短龍は駅の方に向かって歩きながら、コートの襟を引っ張って冷たい空気を胸に通した。
猥雑な落書も雪がすっかり消してくれる。
久しぶりに人の前であんなに汗をかいた。
何も変わってない、短龍は思ってため息を吐いた。
札幌の海が凍ることは滅多にない。そんな海を今は薄い氷が張っていて、どこからかそのために臨時で砕氷船が札幌にやって来たというニュースを見たばかりだ。
いつか渕目と一緒に乗るか。この一冬の思い出に。観光地は近くにいたらかえって行かないものだ。
カリオゴ船というらしい。観光で海を訪れたことなど札幌に引っ越してきたばっかりの頃以来だ。
砕氷船といえば、まだ網走が浮かぶ。まだこの目で短龍は流氷を見たことがなかった。
「アパシリ・・アパシリ・・」終わりで始まりの意。疲れたのか、短龍は口の中で呟いた。
コートのポケットに手をすっぽり奥まで入れ、短龍はホームで電車を待った。ポケットの中の手は軽く汗ばんでいた。
あの頃とは違う、電車が・・。

夜半、スマホが鳴ってるのに気付いて、起きた。電話だ。
「はい」
「は、夜分遅く恐れ入ります。編集社の・・」
「どうしたの?」
「は、いしかわ産婦人科からこちらに電話がありまして、渕目さんという女の方が運ばれたので電話して下さいということで・・」
「渕目さんに何かあったの?」
「・・早産らしいのですが・・」
電話機を持ったまま短龍はボンヤリしていた。
部屋が暗い。暗いといっても見えないほどではない。
「先生のお子さんですか?」
その言葉を聞いて、短龍は我に返った。
「違います、違います」思わず笑っているのに自分で気付いて、悪い事したなと渕目の顔が浮かんだ。
「母体も危なかったという話ですから・・」
「ああ、・・そう。で、渕目さんは今、そこに?」
「いえ、病院に運ばれました」
編集者が言った病院を照明をつけて、メモした。
「そこの四階ですね、ハイハイ・・」こんな時にも事務的に電話を終わらせようとしているのが、また渕目に悪い気がした。
「お力になれることがあれば、」
「いえ、何でもありません。こちらこそ、夜遅くまでご苦労さまです」電話を切って、スマホを持ったままで無意識にメモ帳に落書していた。渕目と何回か書いて、母体と書いて止めた。
ああ、赤ん坊は死んだんだなと思った。
あんな寒い所にじっとしていたからなのか。

短龍は渕目のいる病院の近くの生け垣の下のコンクリート段に腰かけてただ時間を潰していた。
面会時間はまだ始まっていない。かと言って、どこかで時間を潰すというのは短龍は苦手だった。
通勤客たちの靴が規則的に動く。音もなくすれ違う風のように。
カッカ、カッカと女が怒っているように歩く。
今日は青い霧のような雨が降っていた。煙草の煙のように空気は霞んでいる。
今日、母が壊れた時計を自分に見せる夢を見た。それは壊れているから僕がカーテンの陰に隠しておいた物なのだ。どうしてそんな夢を見たのだろう。赤い置き時計だった。
母のことなんて忘れていたのに。
生け垣の陰から病院の棟を眺めてみる。四階のどの部屋か、ここから見えるのかも分からないがとにかく覗いてみる。
人影はない。時々、廊下を白い服の男女が何かを見ながら通り過ぎたり、話しているだけだ。外を見る人はいない。そこだけが独立した世界のように。
スマホの時計を見る。今、起きているなら朝食でも摂っている時間か。
渕目の顔が浮かんで来た。どう声をかけていいのか分からなかったが、気が楽になったのは確かだ。
何の用なのかこんなに朝早くから病院の通用口に入っていく人たちがいる。皆、気のせいか心配そうな顔をしているように見える。
9時になって、面会用の窓口に行くと、内と外の気圧で吸い込まれるようにドアが閉まった。

渕目の病室にはグレープのグミが置いてあった。毒々しい紫がやけに優しい。渕目はベッドの上で顔面蒼白だった。
どういう表情をしていいのか分からなかったがとにかく笑ってみた。渕目もそれを返した。
「大変だったね」そばに立つ。
「椅子、そこにありますよ」
「ああ、」短龍は部屋の隅からパイプ椅子を持って来て渕目のベッドの横に置いて座った。
「先生、私、堕ろしちゃいました」
始め冗談かと思ったが、そうではないようだった。渕目の顔は真剣だった。
「殺しちゃいました」
「自然なものだから・・」
室内は雪の饐えたような匂いがしている。
「苦労はしない方がいい。人間ダメになるだけだよ。神様がこれ以上苦労しなくてもいいって助けてくれたんだと考えて、」短龍は言葉を選びながら喋った。
「運命って何ですか」渕目はまた横になって、枕に頭をつけてため息のように言った。
「運命は、運命は自分で決められない」短龍はまた同じ話の繰り返しかと思った。
「君の運命なんだから」短龍は慰めるように言った。「運命を辿った人には神様は悪いようにはしないさ」
渕目は聞いているのか、じっと天井を見つめていた。
「運命って白い蝉が落ちるように、とても自然なものだと思うよ」
熱い血のような夏は終わったのだ。
「まだあの受付、、生きてますか」渕目が言った。
生きている、という言葉に短龍はドキッとした。
「ああ、ああ、君がやりたいならいつでも」
渕目は顔を動かして窓を見た。
「ここから飛び降りたらどうなるかな・・」
「四階からじゃ微妙だね。骨折くらいで済むかも知れないよ。君は若いし」
「札幌のイルミネーション、二人で見たら別れるんだって」何か思い出したのか、渕目は呟いた。
「札幌ツリーの点灯は今年もやるんでしょうね」
渕目の手がグレープのグミの隣のスマホを取った。
「番号教えて下さいよ。帰ったら知らせますから」
いいよ、と仕方なしに短龍もスマホを出し、お互いにスマホの頭をくっつけて首を振り合った。
「運命のこと、もう少し聞かせて下さいよ」
「運命ね、」と言って、短龍も窓の外を見た。病院の陰で若い研修医がスマホを見ながら煙草を吸っている。自分もあそこで吸っておけば良かったと思った。
「母と鳥屋に行ったことがあるよ」短龍は座り直して、「アジアの暑い国でね」
「鳥屋? 鳥を飼うんですか」
「いや、違う。そこでは鳥を飼うのが趣味な人がたくさんいて、それらを籠に入れて持ち寄るんだ。狭い公園みたいな所で鳥が一斉に鳴くだろ? その中で誰の鳥が一番美しく鳴くか聞き比べるんだ」
「へー、何かつまんなそう」
「つまんなかったよ。皆、同じ鳥の声で、うるさいだけだった。神様はそれと同じように苦労した人間の声を聞き分けられないんじゃないかなってこと」
「それってどういうこと?」
「苦労はしない方がいい」
渕目はそっと笑った。
「辛いって顔に書いてありますよ」渕目はまた笑った。
「もう帰っていいですよ」
言葉もなく、短龍はパイプ椅子を元に戻し、渕目と握手した。
「生きるんだよ」
渕目はフッと笑った。今までで一番、心が込もった言い方をしたなと思って、短龍は病室を出た。

短龍は病院の廊下に留まっていた。何か言い忘れた気持ちがあったのとこのまま帰ったら後ろめたい気持ちがしたからだ。
空はもう晴れていたが、風雨の跡がついた下のガラス戸に一匹の猫がいた。雨を避けていたみたいだった。
その猫は目の所に黒い点がつき、あざのように見えた。あざのある猫か・・。誰かに餌でももらってるのだろうか。
あざに猫がくっついているのか。そんな事を思う自分はやっぱり変わってるかなと思った。その実、他人になり代われもしないで、他人がどう世界を見ているのかも分からない。自分一人だけでこの世界に生きているのと同じだ。
あざのある猫だけで200話できるな。
短龍は渕目の病室に引き返すため階段を上った。

「また来てくれたんですか」渕目はジュースをストローで飲んでいた。
また元のようにパイプ椅子を引き、ベッドの隣に座った。
「愛は幸せと言い換えることができるかも知れない」これは、シナリオで使うはずだった言葉だった。滅多にシナリオで使う言葉は他人に言わないのだが短龍はこれこそ今、渕目に伝えるべきだと思った。
「愛なら難しいけど、幸せなら分かるだろ? 君がつまずいた時、思ってほしいんだ。愛は幸せのことだって。愛という言葉を幸せに置き換えて考えてもいいと思うんだよ」
「ありがとう」
「札幌に今、砕氷船が来てるらしいね。落ち着いたらまた電話して。一緒に乗ろう」
「ありがとうございます」
「今日、誕生日なんだ」
「11月28日?」渕目は驚いていた。
「いくつになったの?」母のように優しく渕目は笑った。
「37」
「何が欲しいですか」
「ハンガーツリーかな」
「用意しときまあす」
君の赤ん坊は死んだけど、僕は生きたんだよ、と意味のない事を短龍は思った。
「私、先生のお兄さんみたいに・・」
「誰も傷つけないで、死にたい?」
「そう思ってました」渕目は涙ぐんで笑っていた。笑い声が曇っていた。
「そんなこと思っちゃいけない」
生きるんだよ、と心の中で呟いて、また、病室から出た。

「明日、帰るの?」何日かして、スマホに渕目から電話が来た。
話を聞き終わって、「じゃ、元気で。受付の話、空けておくからね」と電話を切った。
その日は気になってしょうがなかった。スマホを何度も握ったが電話はせずにおいた。
明日、訪ねてみよう。見送りに行った方が自然だろう、と自分に言い聞かせて胸騒ぎがしたがその日は眠った。

翌日になって、渕目のアパートを訪ねてみた。
ベルを何回か鳴らしてみたが応答はない。ドアを叩くとドアが揺れた。鍵が開いてるらしい。
「渕目さん」半開きにして中に声をかけた。
渕目の頭が見えた。うつ向けに不自然な形で床についていた。
ドアを開けると分かった。梁に紐がかかってそれが切れて渕目が落ちたのだ。
机の上にはスマホと母子手帳が不気味に揃えて置いてあった。
「渕目さん!」駆け寄って揺さぶった。身じろぎもしなかったが、体は冷たくない。生きている。
すぐに119番をして、上を見上げた。
麻縄が切れて垂れていた。
こんなんで死ねると思ったのか! 怒りに似た感情が浮かんですぐ消えた。
ぐったりとしている渕目をなるべく楽そうな姿勢で寝かせて、机の上の遺書らしい物を取った。母子手帳の横にあった。
「首を吊る場所が見つからなかったんです」と几帳面な字で書いてあった。
短龍はそれ以外に何もない事を確かめた。赤ん坊を預けるといったパンフレットやしおりらしい物も見当たらない。
なぜ電話しなかったんだ。ぴたりと揃えてあるスマホを見て短龍は思った。
「こっちです」救急隊の人がドヤドヤとドアから入ってきて渕目の状態を確かめて何か通信している。
育てるつもりだったのか? 頭の中でグルグルととりとめない事が浮かぶ。
「どういうご関係ですか」救急はもう目を覚まさない渕目をストレッチャーに載せている。
「関係者です」急いで短龍は答えて、同じ救急車に乗っていた。手には渕目のスマホを握っていた。
救急車に着くまでの間に、雪がいくつか、渕目の目にかぶっていて溶けていた。

短龍は一人で豊平川の流れを見つめていた。
目を覚ました渕目はもう治らない精神障害を負っていた。呼吸が一時妨げられて、脳に酸素がいかなくなったせいだ。
ベッドの上に置かれた渕目は、何を言っても聞いても、口を開け放し、目からは涙がとめどなく垂れていた。
その目は無垢のように見えた。青い日だまりの中にいるのか。
「生きろと言ったじゃないか」
悲しいのか悲しくないのか分からなかった。
窓から見える外も家も真っ白だ。窓が冷たい。
渕目はもう短龍のことを見てくれない。
短龍は渕目のその黒い髪を幼な子のように撫でたいと思ったが手が伸びなかった。
ただ渕目がどこを見ているのか知りたかった。どこに行ったのかも。
渕目は折った体に手を伸ばした。その手は自分の腹をさすっていた。
それを見て、短龍はもうどこにもこの渕目の中に自分の居場所はないのだと思った。
さよなら、と言う言葉が出かかって、渕目の目を見て止めた。
自分の背がとても小さくなったと思う。あの頃よりもどんな時よりも。
その小さくなった背が、出ていくのを、見ても渕目は何も言ってくれなかった。
川の流れは近くにいないと聞こえないものなのだな、と思った。
豊平川を眺めていても、何の音も聞こえない、何の意味もない。
「冬が私の中に入ってくるんです」と渕目はあの電話で言っていた。渕目が自殺をする直前の電話を短龍は思い返していた。
「色々とありがとうございました・・。もう電話しませんから」
「待ってるからね」
「私、何もできませんよ」
「去年のドラマなんてすぐに飽きられるんだから」そう言って短龍は笑った。
「それから札幌でもどこでも君の好きな所に行けば?」
電話の声は遠い風のように消えた。去年の雪のことも思い出せなかった。
渕目さん、僕には使い古された雨がただ降ってるよ。風の代わりに嘘を、短龍は謝っているつもりだった。

短龍はスクラッチくじをひいていた。
「だめだ」と呟いた。
また景品はポケットティッシュだった。
渕目をこのままにしておくわけにもいかない。短龍は標津に送り返そうと思っていた。
標津に行こうとは思わなかった。
「病院に渕目って娘がいるんだけどね」結局、短龍はスタッフに喋った。
「その娘、どうかしたんですか?」
「いや、ただの病気でね。標津に家があるはずなんだけど分からなくて」
「いいですよ。僕がやりましょうか? 病院に住所があるはずですから。何て病院ですか?」
「いしかわ・・」
「いしかわ産婦人科?」編集者はメモを取りながら怪訝な顔をした。
「ああ、豊平川の・・。うちの女房もあそこで・・」それだけ編集者は言ってメモを閉じた。
「一人じゃ税金も払えないんですからね、先生は」
それから渕目がどうなったか知らない。
短龍先生の一人の女を処理したという伝説が残るだろう。
それも、誰も知ってなくなるだろう。
短龍はこれで安心したと思った。渕目のためにいいことをしたと思った。
それでいいのだと思おうとした。

「今年はドカ雪でしたね」短龍は言った。
ようやく、ドラマの記念館が開館した。僕らは渕目に構わずに息をして。白い息を吐いて。
「先生、いつまで独り身なんですか」からかうようにスタッフの一人がパネルを回りながら聞いた。
「さあねえ・・。お相手がいることだから」短龍は一人で花輪が置いてある受付の所まで行った。
「ここ、いつまで空いてるの」
「もう、アルバイトの選考途中です」
「早く入れた方がいいね」
「すぐに見つかりますよ」
短龍はかけてある時計を見た。これもセットで使ったやつだ。
「砕氷船はまだやってるかな」
「あんなのに乗りたいんですか」
シーズン終わりだけどまだやってると思いますよ、とスタッフは言った。
「これから行ってみるよ」
雪がいつまで続くのか分からないが、渕目との約束を思い出したのだ。
「これからですか?」
「これから」
時刻はもう夕暮れになろうとしていた。

砕氷船には列ができていた。チケットを買って近くの公園で順番まで待つことにした。
空は暗天で、思い出したように雪がチラついていた。
カリオゴ船と楽しげな字が船体に書かれている。
雲が流れる。人がたくさんいる街で昔馴染みのあの沈黙が自分の喉に戻ってきているようだ。
黒い雲が逃げるように後ろへ後ろへ回り込んでいく。
「私は寛容であり、私は情深い。またねたむことをしない。私は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを耐える」
短龍は指を折って数え呟いた。
やがて陰鬱な気分が消え、光が差した。
やはり私はここにあってはならぬものだと。
「だから何だって言うんだ」短龍は立って、砕氷船の列に並んだ。

甲板の上では燃え尽きかねた蛍のように雪が舞っていた。
風にさらわれて混じった細かな灰色の雪が頬を打った。
昨日よりも春が近くなっている。
世界を埋め尽くすピリオド、だけど僕にとってはまだコンマなのだな、と思った。
風が戻る。
この海を灰色の流れが無限に渡っていく。
夕日はどこにも見えないのに山端の空だけが赤黒く濁っている。
振り向いたら、薄い氷を割った船の航跡が赤い蛇のように身をくねらせて川のように続いている。紅殻色の川の流れ。
眼は、乗っている人間の目だ。
出会った時の渕目の、寒さに充血した、少し赤い目だ。
カモメがゴミのように飛ぶ。
渕目にも見せてやりたかった。そうすれば、自分が一人だけではないことが分かっただろう。
スマホを開いた。
「消去しますか?」
「はい」を押した。

巡航が終わって港に着くと、人気のない砂浜に行った。
ここはあの冬の駅に似てるだろうか。
枯草が佇んでいるだけで、岩肌以外何もない。
テレビでは「畜少女と黄幼児」の12話目がやっているはずだ。
次のアイデアを練らなくてはならない。
生きねばならないから。
見ると、次の予約客を乗せて砕氷船が赤い川を渡っていくところだった。
波打ち際では、いいのだよ、いいのだよ、と波が引いていく。
短龍はそれを聞かぬように踵を返した。
道が白い。
空は晴れていても曇っていても雨の日でもいつも白く短龍には見える。
砂浜に誰かが蹴り飛ばしたボールがあった。
ボールの隣で上を見上げた。
「夏か空」
小さく覗く青空は稚かった。
僕はこの一冬をどういう思いで思い出すのだろう。
岩肌に突き刺すように生えている一本の短木に目が止まった。固そうな葉だ。
濡れたように見える葉が周りの景色から浮かび上がって見えた。
なぜ緑がこんなに青い。
メモして、編集社に電話した。
「今、たった今、新しいシナリオのタイトルが浮かびました。ビリジアンと言うんですけど似たようなタイトルがないか急いで探してくれますか」
短龍は頭の中でそのタイトルがないことだけを願っていた。
「ビリジャンでもいい」
そう言った雲の間から薄く日が射した。
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