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第386章『翡翠の瞳』

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第386章『翡翠の瞳』

 早朝に発令された博多地区からの民間時の総避難命令、恒久的なものではないが長期に及ぶ可能性は高いという事も有り、二十四時間の猶予期間が設けられ、軍や軍が徴発した車両での移動を希望する者はそれ迄に身支度を整える様に通達された。
 自力での移動が可能な者、軍が指定した避難場所である春日と太宰府両陸軍駐屯地以外への避難を希望する者は、刻限を待たず出発すべしという事も付け加えられ、それを受けた博多の街は一気に大混乱に陥った。
 自力で街を出ようとする車両や徒歩の人の群れ、そこに博多入りしようとする陸軍の各部隊の隊列や車両の列がぶつかり合い、博多と外部を繋ぐ道は人や車で埋まりそれ等は遅々として動かない。夕方になっても夜になってもその状況は変わらず、それどころか悪化するばかり。そして深夜を越えて夜が明けた時、軍部と警察は自分達が致命的な間違いを犯していた事に漸く気が付く事になる。
 朝日に照らされる幹線道路を埋め尽くすのは、燃油切れにより放棄された夥しい数の車両、以前と比べて人口は減ったとは言えど北九州地方最大の人口を抱える街にどれだけ人と車両が残っていたのか、それを完全に見誤っていた。
 こうなってしまってはこれから民間人を南部へと移送する為の軍用車両も身動きが取れず、集合場所として指定されている博多駐屯地には保護と避難を求める民間人が殺到し、敷地内や正門周辺の道路は人で溢れている。自発的に避難所へ徒歩での移動を試みる向きも有ったが、その彼等が車で埋め尽くされた事により更に状況は悪化した。
 放棄された車両の間を縫って街の外を目指す者、その彼等とぶつかり合うのは、博多を目指し進んで来る陸軍部隊。車両を退かす為の重機は持って来ていなかった彼等も一時的に車両を放棄し徒歩で博多を目指して行軍中であり、正反対の向きの人の流れがあちこちでぶつかり合い、双方から相手へと怒号が飛び始めるのに時間は掛からなかった。
 これだけの大規模な非難と部隊の一極集中が起きた事は大和の歴史上類を見ず、上層部の誰も予見し得なかった。彼等が事態に気付いたのは朝になってからの事、こうなってしまっては今更誰にもどうする事も出来ず、海兵隊基地に設置された指揮所から事態の推移を見守るのみ。博多地区の中だけは駐屯地や基地や警察保有の重機を出し放棄車両の排除はしたものの、未だ人で埋まっている道路には手も足も出ない状態が続いていた。
 その事態は当然その日一日で収束するものではなく、夜になっても翌朝になっても民間人が博多の街から消える事は無い。それでも時間が経てば僅かばかりでも流れというのは出来るものなのか、博多から出る民間人との流れと逆に博多へと入る陸軍部隊の流れ、それが細い筋となって車両の間を縫い遅々としてではあるが前へ前へと進み始めている。
 そんな流れの中に、高根の妻、凛の姿が在った。
 駐屯地で車両に乗るのを待っていてはいつになるか分からない、春日なら休み休みであれば歩けない距離ではない。兄仁一の妻、義姉である敦子とそう話し合って幼い子供を二人連れて家を出たのは昨日の昼間の事。まだ年端もいかない子供を二人連れ、更には凛自身も臨月も近い妊婦とあっては歩みは遅く、流れに乗って漸くと街を出る事が出来たのは翌日の明け方近くの事だった。
 妊婦に無理はさせられない、この子達の従兄弟達を無事に産んでもらわなければ、敦子はそう言って下の子供を背負い、上の子の手を引いて凛にぴったりと寄り添って歩き続ける。持って出た荷物は財布と母子手帳、そして僅かばかりの食料と下の子のおむつと携行用の離乳食だけ。自分達の着替えすら持たず、とにかく身軽になって出来るだけ早くと只管に春日を目指して歩き続けた。
「お、お義姉さん、少し休みましょう、お義姉さんが倒れちゃいます」
「もー、何度言えば分かるの?昔みたいに『あっこお姉ちゃん』って呼んでってば。もう返事しないよ?敬語も止めてってば、ね?」
「……あっこお姉ちゃん、少し休もう?」
「うん、素直でよろしい。流石に少し疲れたね、休もうか」
 そんな遣り取りを交わし、子供に食事をさせなければと二人は子供を連れて路地へ入る。
「妊婦が地面に腰下ろすのは冷えるから良くないけど、仕方無いね」
 そう言いながら腰を下ろす敦子に続き凛も座り込み、敦子は下の子に、凛は上の子に夫々食事をさせ、自分達は敦子が持って来ていた水筒の水を喉を湿らせる程度に流し込む。
「……凛ちゃん、私、馬鹿だわ」
「……え?」
「……皆が大通りを避難してるからって、それに倣う必要は無かったんだよね。ほら、見て」
 敦子がそう言って指し示したのは裏通り、そこに人通りが無いわけではないが表通りとは比較にならない程に少なく、放棄された車両もそう多くはないのか人の流れも滑らかに見える。その様子に顔を見合わせて頷き合い、子供達の食事を終えて立ち上がり、表通りには戻らずに裏通りへと向かって歩き出した。
 そちらへと出てみればそこはやはり人の流れが殆ど無く、放棄された車両も忘れた頃に見掛ける程度。最短距離の幹線道路ではない分遠回りにはなるが、この分ならこちらの方が余程早く春日へと辿り着ける、二人はそんな事を言いながら新たな道へと進み始めた。
「凛ちゃん!?」
 その歩みが突然止まったのは、前方から聞こえて来た凛の名を呼ぶ声によって。誰だと思い二人が立ち止まれば、前方から、凛にとってはよくよく見知った人間が血相を変えて走り寄って来た。
「多佳子さん!!」
「……あれ?もしかして、前に酔い潰れた島津を連れて来て頂いた方じゃないですか?披露宴にも来てましたよね?」
 敦子にとっても深夜の島津の自宅、そして凛と高根の披露宴で顔を見た事の有る人物、こんな時にこんな場所でと二人が話し掛ければ、タカコは
「あ、その節はどうも。春日迄送ります、来て下さい」
 と、そう言って返事も待たずに上の子の手を取って元来た道を歩き出す。二人は突然の事に顔を見合わせ、それでもとても危険とも不審とも思えない人物が助けてくれるのであれば、と、彼女の後について歩き出した。
 辿り着いたのは大きな軍用トラックの前、その荷台から顔を出した男が
「ボ……、曹長、乗せて行って欲しいという民間人が結構いまして、良いですか?」
 タカコへとそう告げ、タカコはそれに
「構わん、この辺りの見当はもうつけ終わった、春日に彼等を移送した後に行動に移ろう」
 そう返して凛達を幌を張った荷台へと案内する。そしてその奥で収容した民間人を整理していた別の男に
「おい、妊婦さんだ、荷台に直に座らせるなよ」
 そう言って、自分自身は助手席へと上がって行った。
「はいはい、ちょっとごめんね?」
 声を掛けられた男は一旦立ち上がり、凛に向かって軽く謝ると彼女の身体を抱き上げて再び荷台へと腰を下ろす。突然の事に驚いて身体を固くする凛に向かい
「予定日、もう近いでしょ?振動は良くないから。産気づかれても困るから、春日に着く迄我慢してね?」
 と、幌が張られた荷台の薄闇の中、そう言って笑いかけた気配が伝わって来る。
 暫くしてトラックは動き出し、回り道と混雑の為か普段なら一時間も掛からない道程を三時間程掛けて春日へと到着した。駐屯地の直近は混雑の為に車両が入れない、そう説明され荷台に乗っていた人間を下ろし、トラックは再び博多の方向へと向かって消えて行く。
「凛ちゃん、行こう?どうかした?」
「あっこお姉ちゃん……多佳子さん達、どうして海兵隊の戦闘服着てなかったのかな」
 その言葉に敦子は表情を曇らせる。嘗ては自らも所属していた海兵隊、恐らくはそこの所属だと思われる人間が身に着けていたものに気が付かなかったとはと内心舌打ちをすれば、それには気付いていないのか、凛は車両が消えて行った方角を見詰めたまま、小さく呟いた。
「それにね……私を抱いててくれた人、暗くて顔はよく分からなかったんだけど……ちらっと明かりが入った時に見えたの……翡翠みたいな色の目をしてた」
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