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第374章『脱輪』

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第374章『脱輪』

「副長、駐屯地の方に戻られますか?」
「ああ、総監、そうするつもりだが……何か?」
「いえ、でしたら自分も横山司令ももう戻りますので、一緒にどうかと思いまして」
 高根の執務室を出て階段へと向かって歩き始めた副長を呼び止めたのは黒川、こつこつと杖を突き歩み寄る彼の横には横山が付き従い、副長は踵を返して立ち止まり二人が自分の前へと立つのをじっと待っていた。夫々別々の車で来ているから彼等に送ってもらわずとも困る事は無いのだが、先程の事も含め色々と話す事も有るし断る事では無かろう、そう判断し申し出を受け、
「総監、君の足ではまだ階段は辛いだろう、昇降機を使おう」
 と、そう言って黒川の歩調に合わせゆっくりとした足取りで昇降機の方へと向かって歩き出す。
 海兵隊基地本部棟に設置されているのは油圧式のもの、統幕や三軍省を始めとする中央官庁に設置されているつるべ式の昇降機よりも速度が遅い為、ここに来る事が殆ど利用する事無く、本部棟内の移動は専らが階段だ。しかし火発事件の際の傷がまだ癒え切っていない黒川は階段では辛かろうと気遣えば、
「恐れ入ります、だいぶ回復はしているんですが、なかなか」
 と、いつもの穏やかな笑みを向けられ軽く頭を下げられた。
 特に言葉を交わす事も無く昇降機に乗り込み、一階に着いてから屋外へと出れば、
「副長!総監!申し訳有りません、お車が――」
 駐車場の方角からそんな声が聞こえて来て、三人揃ってそちらを見てみれば、副長の乗る公用車の運転手を務めている陸軍の士官が焦った様な面持ちでこちらへと駆け寄って来る。何が有ったのかと副長が問い掛ければ、
「実は、黒川総監と横山司令が乗っていらしたお車なんですが、内燃機が故障した様子で全く動かなくなってしまったそうで。そちらの方の修理はもう手配したんですが、代わりの公用車の空きが無いという事で、申し訳無いのですが、三名様共に総監用に御用意している公用車で駐屯地の方に戻って欲しいと……宜しいですか?」
「そうか、丁度一緒に戻ろうと話していたところだ、それで構わない。車が無くても歩いて戻れない距離ではなかったしな」
「申し訳有りません、今お車回しますので、今暫くお待ち下さい」
「ああ、頼む」
 自分の不手際では無いのに恐縮して頭を下げ、駐車場へと走って戻って行く士官、三人は玄関でその背中を見送り、暫くしてやって来た彼の運転する車へと乗り込んだ。
「もうこんな時間か……総監も司令も、ちゃんと自宅には帰っているのか?」
「いやぁ、なかなか……家に帰ると着替えやらでまだ難渋するので、それで時間を食ってしまう事を考えると結局博多か太宰府に泊まってばかりですよ」
「自分もなかなか……公用車での送迎が有るとは言え、襲撃を警戒してあちこち迂回してでしょう、そうするとそれでかなり時間が無駄になってしまうので、総監と同じく駐屯地に泊まってばかりですね。妻と子供には苦労を掛けていますし傍にいてやりたいとも思うんですが」
「そうか、直ぐ隣の官舎に帰れる自分が一番恵まれている様だな」
「しかし、博多に来てもう随分になるでしょう、奥様も心配されているのでは?」
「電話と手紙は欠かしていない、これも職務だ、あれも分かってくれている」
 車内での会話は個人的な事ばかり、本題の方は駐屯地迄の道すがらで話し終えられる程軽くも短くもないからか誰も触れようとしない。運転席の後ろに副長、その隣に黒川、助手席に横山という配置で苦労話をしつつ、ひっそりとしてしまっている博多の街並みへと夫々がぼんやりと視線を向ける。
 陸軍博多駐屯地は大通りを挟む形で海兵隊基地から然程離れていない場所に位置しており、普段であれば夫々の敷地の前に在る大通りを真っ直ぐ行けば、車なら五分もしないでお互いを行き来する事が出来る。しかし現在は大通りで軍用車両を狙ったと思われる爆破が起きた事も有り、全ての軍用車両が一旦博多の市街地の方へと迂回をする経路を採るようになっていた。今回もそれに従い車は市街地の方向へと逸れ、明かりも少なくなった街並みへと静かに入って行く。
「……静かだな」
「はい」
「早くどうにかしないといけませんね……不甲斐無い限りです」
 海兵隊の手も借りているとは言え、本来であれば本土の治安維持は警察と、そして自分達陸軍の仕事。それなのに何等有効的な策も案も何も無く、対応も動きも後手後手に回り続ける日々。現状は忸怩たる思い等という言葉も軽く甘く思える程で、タカコ達がいなくなった途端にこれか、と、黒川と横山は胸中で吐き捨て、副長は、彼女がいれば何かが違ったのか、と、そんな事をふと考えた。
 夫々が物思いに耽る中、それを打ち消したのは車内に響いた横山の声、
「おい、幾ら何でも遠回りし過ぎじゃないのか?もう駐屯地の方に向かって良い」
 その声に弾かれて二人が窓の外へと視線を向ければ、確かに横山の言う通りに駐屯地からはかなり離れてしまっている事が窺えて、運転をする士官の
「はい、了解です」
という言葉に顔を見合わせて小さく溜息を吐く。戻ったら三人で色々と話し合う事も有るし夫々が抱える本来の業務も有る、布団に入れるのは何時になるのか、そんな事を考えていた三人の身体を突如軽い振動が遅い、車体が斜めになって停止した。
「どうかしたのか」
「申し訳有りません、側溝に車輪を取られました。近くで電話を借りて来ます、この車には無線を積んでいないもので。直ぐ戻ります」
 街灯の電球が切れたままで放置されていたのか通りの一角が随分と暗くなっており、それで側溝を見落としたのか脱輪してしまったらしい、士官はそう言うと慌てて運転席を降り、
「直ぐ戻ります、動かないで下さい」
 と、そう言って博多の夜の街へと走り去って行く。
「こういうところにも影響が出ているな」
「そうですね、以前の博多なら考えられなかった事ですが」
 車が止まったのは中洲の飲み屋街の多い区画、今は訪れる人間はめっきりと減り、数軒が希望に縋り付く様にして店先と店内に明かりを灯し、この街はまだ完全に死んではいないと主張している。それを見ながら副長と横山が言葉を交わす中、黒川は何とも言えない焦燥感、嫌な予感が自分の中で急激に膨れ上がるのを感じていた。
「……出ましょう、今直ぐにここを。離れましょう」
「総監?」
「早く!!」
 限界を迎えて外へと溢れ出す感情、いつもの冷静さは消え失せた面持ちと口調で二人へと怒鳴り付ければ、只事ではない、そう感じ取った二人も彼の言葉に従い、三人夫々が扉へと手を伸ばし、車外へと出る。単に外へと出ただけでは黒川は全く安心出来ないのか、
「走れ!物陰に身を隠して地面に伏せろ!!」
 そう声を張り上げ、横山は黒川に手を貸しながら、副長は二人とは車を挟んで反対側へと駆け出した。
「走れ走れ!!」
「どうしたんですか!?」
「お前あの士官の顔見た事有るのか!?」
「え――」
 そう言いながら横山が細い路地へと黒川の身体を押し込んだのと、たった今走って来た方角から激しい爆音が聞こえ、そして猛烈な勢いの爆風が横山の身体を吹き飛ばしたのは、ほぼ同時の事。
「よこ……哲也ー!!」
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