大和―YAMATO― 第一部

良治堂 馬琴

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第56章『肚の内』

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第56章『肚の内』

 タカコが何やら思惑を抱える中、黒川はそれに気付く事は無く話を進めて行く。
「首都の防衛という矜持を持つ東方師団は、俺に対してと言うよりは西方旅団への警戒心だ、距離が有る分心理的にも離れているから俺自身への敵愾心はそう強くはないと言って良いと思う。問題は佐竹とその同調者だろう、付き合いが長い分俺個人への対しての憎しみは人一倍だ、距離が近い分仕掛けて来る時機も多い。今後何かを仕掛けて来る様であれば、それが陸軍内部に留まらない様になってくれば、水面下で協力を頼む事になるかも知れん。それで話を先に通しておこうと思ってな」
 まるで他人事の様に淡々と話す黒川、取り乱す事も熱くなる事も無く、自らも駒として大局を見据えるその様に、成る程陸軍史上最年少で准将への昇進と総監就任を決めただけの事は有る、タカコはそう内心感心した。あんな事に遭遇すればそれなりに心理的衝撃を感じるだろうに、それをおくびにも出さず振る舞えるとはなかなかに頼もしい、九州地方の治安維持の頂点に立つに相応しいと思える人物だ。
 不穏な空気が立ち込めそうなところにはきっちりと草を、間諜を残しておくとは、やはりこんなところは何処も考える事は同じかと、小さく笑った。
「まぁ、話しおきたいのはそんなところだ、これ以上長居すると待たせてる警護が騒ぐんでな、そろそろ太宰府に戻るよ。事が落ち着く迄はここには顔も出せんが、何か有れば、頼む」
「おう、任せな、陸軍の話とは言え海兵隊の膝元でそんな騒ぎが有っちゃこっちも気ぃ悪ぃからな」
 高根とそんな遣り取りを交わし立ち上がる黒川、その彼が不意にタカコの方を向き、
「タカコちゃん、表迄見送ってよ。お見舞いに来てくれなかったんだからそれ位良いだろ?」
 そう言って彼女の手を取り少々強引に立ち上がらせる。それに敦賀が何か言おうと腰を浮かせ立ち上がりかけたがそれを制止したのは高根の腕だった。
「まぁ良いじゃねぇかこれ位、見舞いに来てくれって言われてたのに行かなかったんだしよ。龍興よ、連れて行って良いのは玄関迄だぞ、妙な考え起こすんじゃねぇぞ」
「はいはい、連れて帰りたいのはやまやまだけどな、聞いておく事にしようかね。じゃ、タカコちゃん、行こうか」
「……てめぇ等……私の意志は無視かよ」
「嫌かい?」
「嫌じゃないけどさ……はいはい、行きましょ」
 しょうがない奴等だな、そう思いはするものの別段嫌な事をされるわけでもないと分かっている、そんな風に立ち上がり黒川と共に出て行くタカコ、彼女の背中が閉まった扉の向こうに消えた後、敦賀は如何にも不機嫌極まりないといった感じで机を軽く蹴り上げる。
「そんなに嫌ならもっときっちり引き止めりゃ良いじゃねぇか、中途半端に俺の言う事聞いてそんな不機嫌になってりゃ世話無ぇな」
「……うるせぇ、黙れ」
 どうもこの男は押すところと引くところの判断基準がおかしい、これではタカコとの仲が進展するのにはまだ随分と時間が掛かりそうだ、高根がそんな事を考え肩を揺らせて笑っている頃、黒川はタカコと共に階段を降りていた。
「お、出る前に出しておこうかな……タカコちゃん、便所何処だい?」
「タツさん、もうちょっと恥じらいを……って、おっさんにそんなもん有るわけ無いし必要も無いか。はい、こっちこっち」
 黒川の問い掛けに対して特段疑問も感じず案内するタカコ、しかし男性便所の前に辿り着いた時、そこで漸く感じるべき疑問に気付きそれを黒川へと投げ掛けようとしたその直後。
「って、タツさん、しょっちゅうここに来てるのに何で場所――」
 言い終える前に強い力で腕を掴まれ、便所の中、更には個室へと引き摺り込まれて鍵を掛けられた。
「……何を知ってる?何を隠してるんだい?」
 大きな掌が口を塞ぎ、片腕で胴体と腕、下半身を脚一本で封じられた上に体重を掛けられて完全に押さえ込まれた。しまった、気付かれていたかと思った時にはもう遅く、息が掛かる程の至近距離でこちらへと向けられる眼差しはひどく鋭く、いつもの笑みも見当たらない。
「国は違っても何処も同じ様なもんだ、さっきそう言った後君は何か考え込んでいたよな?それに一昨日の夜、俺の無事をひどく安堵してた、手を握ってそれに頬を摺り寄せて迄……何を知ってる?何を隠してる?」
 もう一度同じ事を問い掛けられる。
 拙い、どう動くべきか、今は未だ時機ではないのだ、不確定要素や不明要素が多過ぎる、身の安全を確保する為には今は手札を切る時ではない。そんな事がタカコの脳内を激しく巡りどう動くべきかを逡巡する中、黒川はタカコを拘束する力を更に強めて来た。
 いつもの優しさも穏やかさも欠片も見当たらない冷たい空気、これは個人としての黒川ではない、西方旅団の頂点であり有能な軍人である准将としての黒川だ。
 反撃は出来ない、すれば全てが御破算になる、自らの安全どころではなく海兵隊と陸軍の今以上の不仲に発展しかねない、それだけは避けなければ。それでもこの状況を打破する方策が他に何か有るのか、考え倦ねた末にタカコが辿り着いたのは、何とも陳腐で、同時に最大の効果を発揮する方法だった。
「……タカコちゃん?」
 強い力で押さえ付け鋭い眼差しでタカコを射抜いていた黒川、その彼の声音に突然僅かながらも動揺の色が浮かび力が少しずつ緩み始める。
 口を押さえていた掌を濡らすのはタカコの双眸から突然に零れ出した涙、辛そうに寄せられた眉根、掌に歯を食いしばる感触も伝わって来て、黒川は思わず掌を離しそれをタカコの頬へと滑らせた。
「……何も、隠してないし知らないよ……タツさんの事が本当に心配だったから、だから安心したのに、何でそんな事言うの……?」
 初めて見るタカコの泣き顔、黒川が知っている彼女とは全く違う雰囲気、辛そうに歯を食いしばり時折しゃくり上げるその様子に、腕も脚も拘束を解き、気が付けば目の前の身体を抱き締めていた。
「……悪い、やっぱり少し気が立ってたみてぇだ。君の気持ちを疑って、悪かった。本当にごめんな?許してくれるかい?」
 少し間を置いて腕の中のタカコが小さく頷き、黒川はそれに
「有り難う……本当にごめんな」
 そう言葉を返し、腕に力を込め彼女の髪へと頬を摺り寄せる。
 誤魔化せた安心と、そして謝罪と安堵、夫々が全く違うものを抱えながら二人は暫くの間そのまま身じろぎもしなかった。
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