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第47章『日常』

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第47章『日常』

 書類に署名をし終えて既済の箱に放り込み、今日の分を片付けた事を確認し肩と首をゴキゴキと鳴らす。その敦賀の耳に大きく吐き出された寝息と寝返りを打つ音が聞こえて来て、視線を上げた先には応接セットのソファで深く寝入ったままのタカコの姿、彼はその様子を見て僅かに目を細め、茶でも淹れようかと立ち上がった。
 活骸の本土侵攻から十日、漸くと後処理も済み落ち着きを取り戻し始めた本土、福岡は博多。結局あの日に起こった事は何一つ明らかになっていない、活骸が何処から入り込んだのか、沿岸警備隊も海岸線を防衛する陸軍も、そして対馬区と本土を隔てる防壁を守りその先へと主力が出ていた自分達海兵隊も、誰一人として活骸が本土へと入り込む現場を目撃していない。
 あの日、本土へと侵攻した活骸の総数は五百程、それによる死者は千五百名を超えた。海兵隊主力部隊の不在、残っていたのは実力の劣る隊員か負傷した残留組、そして活骸との戦闘経験の無い陸軍と大勢の民間人。個々人は夫々が奮戦したのだろう、だから損害比率がこれだけ小さく済んだ、けれど、失ったものはあまりにも多過ぎたと言う他は無い。
 夕食の支度に掛かっている時間帯の侵攻という事も有り方々で火災が発生し、それによる死者行方不明者の数はまだ出ていない、それも含めれば犠牲者の総数はどれ程になるのか想像もしたくない。
 そして、タカコを拉致し暴行を加えた三人の陸軍二等兵、彼等ははっきりとタカコを捕虜だと認識していたとタカコも証言したが、その情報の出処は結局分からないまま。黒川の命令で拘束された彼等は翌夜明けに何者かによって惨殺され、その犯人は未だ手掛かりすら見つかっていない、恐らくはこのまま迷宮入りになるのだろう。
 遺体と現場は敦賀自身も検分に行きその目で確かめた、鋭利な刃物で頚椎を斬り付けられ気管と頸動脈を一気に切り裂かれ、助けを呼ぶ事も出来ずに短時間で失血死した筈だ、検死をしていた医官がそう言っていたのを思い出す。
 相当の手練なのだろう、あれ程の対人技量の持ち主は海兵隊には心当たりが無い、駐屯地内部に拘束されていた三人を殺せた事から見ても陸軍の内部犯なのだろうが、面倒な事をしてくれたと思いつつも、犯人に少なからず感謝しているのが敦賀の正直なところだった。
 あのまま彼等が生きていれば、軍事法廷へと送られタカコの存在が中央に明らかにされていた事は間違い無い。しかしそれは彼等の死亡によって無くなり、そもそもの原因も単に『混乱の中女性に暴行していた為』という事で黒川が片付けてくれた。
 取り敢えずは局面を乗り切った、そう思いはするもののやはり手放しでは喜べない。情報を流した人物と殺人の実行犯は同一人物で、三人の口から自分の名前が漏れる事を恐れそうなる前に口封じの為に殺したのではないか、敦賀は、そして高根も黒川もそう考えている。
 タカコには敢えて詳細は話していない、彼女の事だから詳細を知れば自分も動こうとするだろう、今はそんな事よりも心身の回復を最優先させろと高根から厳命を受け、後処理を手早く済ませた後はこうして一日の殆どを執務室で二人きりで過ごすようになっていた。
 タカコは今の様にソファで眠っている事が多い、敦賀は茶を淹れた湯呑を二つ持ち彼女の前に立ちその寝顔を黙って見下ろしてみた。目に巻かれた包帯は三日程で外す許可が出た、瞼の腫れはまだ残るものの随分とマシになり、今は顔のあちこちに残る痣が痛々しい。それでもその痣の縁は事件後数日で黄色く変色を始めたから、大した回復力だと感心してしまう。
 眠っている事が多いのは、弱いとは言えまだ使用している鎮痛剤の効果も有るのだろうが、何よりも彼女自身、その身体が本能的に休息こそ回復への最短距離だと知っているからなのだろう、一日でも早く戦線に復帰する為に今は只管眠っているのだと。
「……そんなに急ぐんじゃねぇよ馬鹿女、こんな時間も悪くねぇ、ゆっくりで良いんだゆっくりで」
 こうして寝顔を見ているのも起きているタカコの下らない話に付き合うのも悪くない、出会ってから一年を超え、漸く得る事の出来たゆったりとお互いを感じるこの時間を、敦賀はそれなりに気に入っている。
 湯呑を応接セットの机の上に置き彼女の頭の側へと腰を下ろせば、頭部を押されたのが不快だったのかもぞもぞと動いたタカコが敦賀の太腿に頭を乗せ、数度頬を摺り寄せる様にして落ち着く場所を見つけ再び寝息を立て始める。敦賀はそんな様子に目を細め、彼女の頭を一撫でし天井を仰ぎ見た。
 あの日から十日、タカコに対して性的な接触は一切絶っている。自分の方にそんな欲求が無いわけではないが、彼女が受けた傷を思えば頬に触れる事さえ憚られる様になってしまった。もし男としての欲を持って触れれば止まらなくなるだろう、それで傷口に塩を塗り込む様な事になってしまうのが何よりも怖い。
 焦る必要は無い、時間は有るのだから、彼女の傷が癒えるのを待って先に進めば良いのだと自分に言い聞かせ、一眠りするかと敦賀もまた瞼を閉じた。
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