犬と子猫

良治堂 馬琴

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第74章『死刑台』

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第74章『死刑台』

「……真吾さん、物凄く顔色が悪いですけど」
「……うん……短い人生だったなって、思ってた……」
「兄と兄嫁さんに挨拶に来ただけですよ……」
「……だから死を感じるんだよ……」
 小此木による高根弄りから一夜明けた午前中、島津家の前の道。制服でもなく普段着でもなくスーツを着た高根と、それに並んで立つ、余所行きの可愛らしい服を纏った凛がそこにいた。
 昨日宣言した通り、島津とその妻敦子に挨拶をする為に休みをとりここへと赴いたが、何の変哲も無い平均的な大きさの一戸建てはまるで難攻不落の巨大要塞の様に高根の前へと聳え立ち、今から始まる戦いの困難さを無言で伝えてきている、そんな気すらする。凛の方はと言えば初めて訪れる兄の家、道中で買って来た菓子折りだけで兄嫁には失礼にならないだろうか、と、そんな事を頻りに気にしている様子だった。
「……よし、行くぞ」
「……真吾さん、兄も義姉も活骸じゃないですよ……」
「そっちの方がマシだよ……行くぞ」
 決死の面持ちで告げる高根、凛はそれに苦笑しながら返し、す、と伸びた高根の指が、島津家の呼び鈴の釦を押した。
「はい……いらっしゃいませ……中で待ってます……太刀は仕舞わせました」
 迎えに出たのは家長の島津、本来であれば家長が家の中で待ち構えその妻が迎えに出るところなのだろうが、今回ばかりはこちらの方が有り難い。兄である島津の方は先日話をして納得してもらったが、その妻敦子の方はこれから全ての事情を説明しなければならない上に高根の過去の悪行の数々を知っているのだ、一筋縄ではいかないだろう。
 島津へと続いて玄関の中へと入り、靴を脱いで上がれば、数歩歩いた先に居間の入り口が在り、高根が恐る恐る中を覗けば、応接セットのソファにどかりと座り半分座った眼差しでこちらを見詰める敦子の姿。
「……高根大隊長、いえ、総司令……お久し振りですね……」
「あ、はい……敦子さん、あの……お久し振りです」
 敦子はその海兵隊人生の最初の内は高根を前線部隊の大隊長として見て過ごし、その時の呼び方の癖は最後迄なかなか抜けなかった。今もそう呼んだのは態となのか癖が出たのか、何れにせよ声音は不機嫌そのもので、その彼女が
「まぁ入って下さいよ、床にでも正座して下さい」
 と、なかなかに失礼な事を口にする。それでも今の高根にはそれを不愉快に思う余裕すら無く、彼女の言う通りに机を挟んで敦子の向かい側の板張りの床へと正座をした。
「凛ちゃん!無事で良かった!!ずっと探してたんだよ!!」
「敦子さん……心配かけてすみませんでした」
「もう!あっこお姉ちゃんって呼んでって、いつも言ってるでしょ!!体調はどうなの?辛くない?」
「はい、昨日からはだいぶ。一昨日はちょっとお腹が張っちゃって」
「ほら、妊婦さんなんだからこっち座って、私の隣ね。冷やしたら駄目だよ?はい、毛布」
 正座した高根を完全に無視して凛との再会を喜び合う敦子、放置された高根は島津へと
『お前の嫁をどうにかしろ』
 と抗議の視線を向けるが、こちらはこちらで恐ろしさは身に染みて知っているのか逆らう気は更々無い様子で、ふい、と視線をあからさまに逸らされる。この場での絶対的権力者は敦子であり、その彼女の機嫌をこれ以上損ねれば、例え妊娠の事実が有ろうとも彼女が結婚に対し首を縦に振らない事は明らかであり、それを感じ取った高根は、もう何か言う事も諦め、ひたすら彼女の気がこちらへと向くのを待ち続ける事にした。
「……で、司令、義妹と同棲しててしかも妊娠迄って……どういう事なんです?」
 漸く言葉を掛けられたのは十分程も経ってから、その頃には島津も妻の隣へと腰を下ろし、一人床へと正座した高根へと厳しい視線が向けられる。
「……去年の秋に……博多の行きつけの置屋の店先に立ってるの見つけて……いや、店先っつっても、店の外で中の様子を見てて、それで声掛けて、飯に連れてって話を聞いたんだ。そしたら、不妊を理由に嫁ぎ先を叩き出されて、実家に帰ったら家族は皆死んだって聞かされて、それで嫁ぎ先に戻ったら、身体で稼いで来いって言われたって。それで、店迄来たけど中には入れなくて、外で立ってたって。そこに俺が来たって……そう、言ってた。飯食いながらそんな話聞いてたんだけど、こんな良さそうな子がそんな扱いされてたって聞いて、可哀相で……それで、それなら家政婦としてうちに住み込んでくれないかって……それで、その日に家に連れて帰っ……帰りました」
 もう今更嘘を吐いて取り繕ってもしょうがない、とにかく、事実のみを、高根はそう覚悟を決め、順を追って話し出す。島津にもざっとは話していたもののここ迄詳しく話すのは初めての事で、凛の兄夫妻が段々と嘗ての嫁ぎ先への怒りに染まり始めるのを感じつつ、言葉を続けた。
「それで……暫くの間はまぁ、あの、清く正しく普通に家主と住み込み家政婦として過ごしてたんですが……当然寝室も別だったし……でも、色々と有りまして……その……はい、すみません」
 流石に性的な事を直接的に言うわけにもいかず匂わせるに止まったが、敦子から投げつけられる言葉は非常に辛辣なもの。
「……避妊具は……どうしたんですか……」
「……あの、最初の時だけ付けるの忘れてて……その後はしっかり付けてたんですが……」
「最初の一発が命中した、と、そういうわけですか」
「はい……その通りです……」
 その後訪れる長い沈黙、高根は居た堪れずに下を向き、凛は兄と義姉の内心が分からずに心配そうにそちらを見詰めている。いつ迄続くのか、そう思われたそれを破ったのは、敦子だった。
「……凛ちゃんを……義妹を、どう思ってるんですか?適当な遊び相手とか、そんな――」
「そんな事は無ぇ!!そりゃこいつに会う迄女なんざ割とどうでも良くて結婚なんか真っ平だと思ってたさ!でもな、今は凛がいないと駄目なんだよ、こいつと添い遂げたいと思ってるんだ!そりゃ中谷から見れば俺は全然信用に値しないってのはよーく分かってるが、こいつへの気持ちに関してはあれこれ言わないでくれ!」
「……大隊長のあれこれ、今ここで言いましょうか……?」
「や、あの……それは勘弁して下さい、本当に」
 偉そうな事を言うな、言外にぴしゃりとそう言われ、高根の勢いは瞬く間に削がれてしまう。再び訪れる重苦しい沈黙、それを破ったのは、今度は凛だった。
「あっこお姉ちゃん……真吾さん、最初から今迄ずっと、本当に良くしてくれてるの……だから、あんまり意地悪しないであげて?それに……私も、真吾さんといっしょにいたい」
 それは高根にとってはまさに救いの手、敦子も凛には弱いのか、厳しい視線を向けていた高根から凛へと向き直り、少し困った様に口を開く。
「でも……本当に良いの?凛ちゃんはこの人のあれこれ知らないから……心配してるんだよ?」
「うん、良いの……真吾さんじゃなきゃ嫌なの。だから……ね?」
 僅かに小首を傾げてそう言えば、これには敦子も島津も弱いのか、顔を見合わせて溜息を吐き、頷き合って再び高根へと向き直る。
「……大隊長」
「……はい」
「可愛い可愛い義妹がこう言ってますし、子供もいるのなら認めますけど……しょうがなくですからね?大切にしないと……殺しますよ?」
 待ち望んだ言葉、それが最難関と目していた敦子の口から出た事に高根は小さく安堵の息を吐き、その後、
「勿論です……生涯、大切にします……有り難う、御座います……!!」
 と、両手と額を床へと擦り付け、詫びと礼と誓い、その全てを込めてゆっくりと言葉を吐き出した。
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