犬と子猫

良治堂 馬琴

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第66章『目覚め』

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第66章『目覚め』

 黒川の険しい双眸が見開かれたと思った直後、腹に感じた重い衝撃。広がる鈍い痛みと込み上げる嘔吐感、体勢を崩し黒川へと倒れ込めば、突き飛ばされて今度は左頬に拳を叩き込まれこれには堪らずに病室の床へと派手に転がった。
 それを見て血相を変えて参戦する敦賀、普段であれば対格差や普段からの鍛錬量の差も有り圧倒的に敦賀が有利なのだろうが、今回ばかりは黒川の怒りがそれを凌駕してるいのか、黒川は自分へと伸ばされた敦賀の腕を軽く薙ぎ払う。そしてそのまま間合いを崩して懐へと入り込み上着を掴んで流れる様な滑らかな動きで身体を反転させ、その直後、綺麗な背負い投げが決まり大柄な体躯が派手な音を立てて床へと叩き付けられた。
「一昨年の博多曝露の時、てめぇ等俺に何て言った!何なんだこのザマは!!部下の管理も出来ずに安全な筈の基地内であいつを殺されかけるたぁどういう事だよ!!しかもそれを俺に隠そうとしてたよな!?お前等……お前等、俺の女を預かっておきながら何舐め腐った事してやがんだ!!」
 怒りに染まり切った黒川の怒声、窓硝子どころか壁すら震わせる程のそれは当然室外にも響き渡る。扉の直ぐ前に在る看護師の詰所でそれを耳にした師長が飛んで来て黒川以上の勢いで一喝し事を収めたものの、彼女が去った後の室内の空気は以前重苦しいまま、転がった椅子を起こして高根がそこへと腰を下ろし、敦賀は簡易寝台へ、黒川はもう一つの椅子を引き寄せてそこへと腰を下ろす。
「……で?何で俺に黙ってた」
 長い沈黙の中最初に口を開いたのは黒川、高根は彼のそんな言葉に口角から流れ出た血を袖で拭いながら言葉を返した。
「……悪かった、基地内での不祥事だ、出来れば内々に処理したかった……軍事法廷には当然送るしその手続きも進めてるが、それ以外には出来るだけ知られたくなかった……それに、お前に知られたら絶対にタカコを寄越せって言い出すと思ってな」
「……分かってんじゃねぇか、真吾よ……それなら話は早い、海兵隊に協力させねぇとは言わねぇよ、しかしもう基地内には置いておけねぇ。俺の手元に置いてそこから通わせる……良いな?」
 淡々としつつも依然怒りを滲ませたままの黒川の声音、やはりこうなったか、だからせめてタカコが回復する迄は隠しておきたかった、高根はそんな事を考えながら小さく舌を打ち、敦賀はそんな二人の様子を見ながらちょっと待てと嘴を突っ込んで来る。
「おい、二人で勝手に話進めてんじゃ――」
「敦賀よ、じゃあ聞くがよ、お前、俺の立場だったらそんな事言わないって言い切れるか?惚れた女を友人を信じて預けてて殺されかけて、それでも言わないって言い切れるってのか?」
 敦賀を制止したのは黒川の鋭い言葉、立場が逆だったら、そう言われて敦賀は押し黙り、高根と黒川はそんな彼をじっと見据え、室内には重苦しい沈黙が流れた。

「……あのさぁ……私の意志無視して話進めるなって、何度言えば分かるの?大和人は人の話を聞かない民族なの?」

 聞き慣れた、そして、待ち侘びた声が聞こえて来たのは、そんな時。
 普段の力強さは無くとも待ち侘びた声、聞き間違える筈が無いと三人揃って立ち上がり、弾かれた様にして寝台へと走り寄る。
「……何か……三人揃ってひでぇ顔してるけど……私、どんだけ寝てたの」
 向けられる笑みにも普段の力強さは無く、それでも見慣れたそれに、彼女は生還を果たしたのだと実感した。
「何、何なの、こういう時は私は『私の為に喧嘩しないで!』とか、勘違い女みたいな事言えば良いわけ?……いたた……」
 傷に響くのか顔を歪めつつ笑うタカコ、その様子に一歩前に出たのは高根、
「無理すんな馬鹿、よく戻った、今はゆっくり休んでしっかり治せ……良いな?後、悪かったな、本当に……すまなかった」
 そう言って労わりの笑みを浮かべ、体脂でぺったりとなったタカコの髪を撫でれば、少し力強さを増した眼差しのタカコに言葉を返された。
「自分の罪悪感を軽減する為に私に赦しを求めるな、そんなに悪いと思ってるのなら一人で勝手に罪悪感に苛まれてろ。私はお前の罪滅ぼしの道具じゃねぇよ」
 第一次博多曝露の後にタカコと初めて顔を合わせた時に、謝罪した自分に彼女から投げつけられた少々手痛い返し。それを再び聞いた黒川が思わず高根を見れば、図星を突かれたなと苦笑した高根は再度タカコの髪を撫で、
「……そうだな、その通りだ。しっかり寝て早く治して退院して来い、皆お前を待ってるよ」
 と、そう言って踵を返しもう行くと言って歩き出す。
「お前も大事だけどそれよりももっと大事な奴待たせてるからな……今度一緒に見舞いに来るから」
 本当に良かった、胸中でそう呟きながらタカコへと告げて部屋を出て、詰所で再度師長に詫びを入れ、階段を降り始める。一つ、事態が良い方向へと進んだ。黒川が矛先を収めてくれるかどうかも、彼の弱点であるタカコが目を覚ましたのだからそう悪い方向にはいかないだろう。
「あ、真吾さん」
「おいおい、寝てなくて良かったのか?体調は?」
「もう平気ですよ。目が覚めた時に看護師さんが真吾さんはお見舞いに行ったって聞いて、眩暈も吐き気ももう収まってたのでここで待ってました」
 階を移動し見舞いの残りを済ませて一階へと降り、産婦人科の待合所へと向かえばそこには凛が長椅子に腰かけており、もう大丈夫だと笑う彼女に、
「帰ろうか。午後は仕事行くけど、勘弁な?」
 そんな言葉を掛けながら外へと向かって歩き出す。
「タカコさんは大丈夫なんですか?」
「ああ、お前が寝てる間に見舞い行ったら丁度目を覚ましてな。今日はまだ体力も戻ってないし、次の休みにでも見舞いに来ようか」
「そうですね。でも、私が行っても迷惑じゃないですか?」
「そんな事無いさ、あいつも喜ぶよ」
 外へと出れば温かさを感じさせる日差し、もう直ぐそこ迄やって来ている春を肌に感じつつ凛の肩を抱き、順番待ちの列を作っている車の乗り場へと向かってゆっくりと歩き出した。

「ところで真吾さん、その顔、どうしたんですか?」
「顔?」
「はい、左側が腫れて、大変な事になってますけど……大丈夫ですか?」
「ああ、うん、これはね、何でもないの。平気平気。ちょっと意見の相違が有っただけで、もう解決したから」
「……お友達と喧嘩、しちゃ駄目ですよ?」
「……はい、分かりました」
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