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第55章『急変』
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第55章『急変』
「冷えは良くないんだから、ちゃんとあったかくしておきなね。真吾も今日だけは絶対に帰らせるから、二人でちゃんと話し合いな。まぁ、あいつの事だから泣いて喜ぶだろうからさ、心配は要らないよ」
「送って頂いて有り難う御座いました」
「なんのなんの、これ位。じゃあね」
「はい」
喫茶店で泣き出した凛が落ち着くのを多佳子は微笑みながら待ち続け、その後は取り留めも無い話を三十分程続け、多佳子の運転で高根宅へと戻って来た。あれこれと助言をして車へと乗り込む多佳子に頭を下げた凛は、車が路地の角を曲がって見えなくなる迄見送り、それからゆっくりと室内へとはいった。
三年もの間そんな兆候が訪れた事すら無く、自分には子供を宿し産み出す能力は無いのだと、そんな事すら考えていた。そんな自分に突然に突き付けられた『妊娠』という現実――、理解は出来たものの実感は全く無く、
「……本当に?」
と、小さく呟きながら自らの下腹部を摩ってみる。
高根は喜んでくれると、多佳子はそう言っていた。高根と親しくしている彼女の言葉なのであれば信じても良いのだろうが、その事が既に解決しているのだとしても、任務に忙殺されている人間を今以上に煩わせる事になってしまうのは確実で、それが申し訳無い。自分一人で妊娠出来るものではなく、自分と高根、二人揃っての行為の結果なのだから、高根に何の責任も無いという事ではないのは分かってはいる。それでも、公人としての自身が置かれている状況を判断し、結婚も出産も数年後、そう決めた高根に対し、やはり申し訳無いという気持ちだけはどうにも払拭出来なかった。
それでも結果はこうして出てしまった以上無かった事にも出来ず、後半年もすれば胎の子供はこの世界へと生まれ出て来る。それ迄に高根を取り巻く環境が少しでも良くなれば良いが、そんな事を考えつつ、朝に出来なかった家事を片付けようと動き出す。洗濯物を洗濯機へと放り込み回しながら、掃除機で床の埃を吸い上げる。いつもの作業を進めつつも時折襲い来る眩暈と吐き気、身体を休めつつそれ等を遣り過ごし、洗濯物を干し終えた後は少し横になろうかと二階へと上がる。
「あ、閉め忘れてた」
二階へと上がった時視界に入って来たのは寝室の先の部屋の扉。高根の私物の薙刀や槍や木刀が収納されている彼の室内鍛錬用の部屋の扉が半開きになっているのに気付き、先程掃除機をかけた時に閉め忘れた様だと思いながら、寝室を通り過ぎそちらへと歩みを進めた。
何の気無しに中へと入れば、壁には数々の長物が整然と並べられ、その上には所持に必要な許可証や、師範代の免状が額縁に入れられて飾られている。免状の宗家の名は高根と同じ姓、恐らくは実家か近しい親族が道場を営んでおり、高根はそこの門下生だったという事なのだろう。
自身の事は殆ど話さない高根、その彼から無理矢理に聞きたいとは思わないが、籍を入れて夫婦になる、そんな日が来る迄には彼の方から話してくれるだろう、そう思いたい。その時には自分も己の出自を包み隠さず――、そう思いながら薙刀を手に取り、す、と、構えてみる。
祖父は女が戦いの最前線へと出る事を良しとはしていなかった、男が前へと出て戦い、女は後方で男達が帰って来る場所を守る――、だから、前線へと出ない女であっても戦う術は身に着けておくべき、と、そんな考えから自分も幼い頃から槍と薙刀の扱いだけは叩き込まれた。そんな日が来ないに越した事は無いが、そう言いながら穏やかに笑いつつ自分の頭を大きく分厚い掌で撫でてくれていた祖父を思い出しつつ薙刀を元の場所に戻し部屋を出る。寝室へと入り寝台へと横になれば、気疲れしていたのか、程無くして意識は眠りへと落ちて行った。
「……あ、もうこんな時間……洗濯物……」
眠りから浮上する意識、ぼんやりとした頭をふるふると振りながら起き上がれば、時計は十五時近くを指していて、眠り過ぎた、そう思いつつ凛はゆっくりと寝台を出て立ち上がる。早春の頃合いのこんな時間から干したとしても日没迄に乾く筈も無く、今日はもう諦めて明日の分と合わせていっぺんに片付けてしまおう、そんな段取りをしつつ階段を降り台所へと入る。
洗濯物は明日で良いとしても夕飯は作っておかなければ、多佳子は今日は絶対に高根を帰すと言っていたし、料理も出来ない程体調が悪いわけでもない。昨日は帰宅出来たものの泊まり込みが続いて疲れているであろう高根、その彼に喜んでもらうには何を作れば良いか、冷蔵庫の中身を確かめて献立を組み立て必要なものを買いに行こうかと居間へと入った時、不意に玄関の扉が荒々しく開かれた気配が耳朶を打った。
「多佳子さん!?どうしたんですか!?」
そこにいたのは基地へと戻って行った筈のタカの姿、あの時は戦闘服の上に上着を羽織っていたが今は戦闘服のみの格好、肩で息をし双眸は緊迫しきった様に見開いたその様子に只事ではないと彼女へと駆け寄れば、多佳子の方は凛の姿を見て人心地がついた様に大きく息を吐き、立ったままの姿勢で膝に両手を置いて身体を支えながら
「……無事……?」
と、絞り出す様にそれだけを口にした。
「はい、帰って来てからは特に眩暈も吐き気も……え、無事、って……何が有ったんですか?」
無事、多佳子の言葉に違和感を覚えた凛はその言葉を繰り返す。普段の彼女はいつも笑顔を絶やさず余裕綽々といった風情で、こんな風に切羽詰まった様子の彼女等、見た事が無い。肩へと添えた掌から彼女の鼓動や呼吸の激しさが伝わって来て、とにかく休ませなければ、そう思いながら数度宥める様にして摩った。
「……いや……、無事なら良いんだ……」
「とにかく、上がって下さい、お茶でも淹れますから」
「ゆっくり……してる、時間は、無いんだ……でも、少し……休ませてもらおうかな」
只事ではない、それだけは何とか理解したが状況は飲み込めず、とにかく一旦上がって息を落ち着けろと多佳子を促せば、彼女の方もそれに抗う気も無かったのか素直に靴を脱いで上がり込み、凛はそれを横目に見ながらつっかけを履いて三和土へと降り、施錠をしようと扉へと手を伸ばす。
今迄聞いた事も無い様な奇声が鼓膜を激しく叩いたのはそんな時、一体何が、そう思った凛が外の様子を確かめ様と扉を開けた瞬間、
「凛ちゃん!駄目だ――」
という多佳子の言葉と共に、背中を彼女の指先が掠った、そんな気がした。
『活骸の発生源は博多全域の小中学校です!総数約三千名の子供と教職員が活骸化しました!!』
「冷えは良くないんだから、ちゃんとあったかくしておきなね。真吾も今日だけは絶対に帰らせるから、二人でちゃんと話し合いな。まぁ、あいつの事だから泣いて喜ぶだろうからさ、心配は要らないよ」
「送って頂いて有り難う御座いました」
「なんのなんの、これ位。じゃあね」
「はい」
喫茶店で泣き出した凛が落ち着くのを多佳子は微笑みながら待ち続け、その後は取り留めも無い話を三十分程続け、多佳子の運転で高根宅へと戻って来た。あれこれと助言をして車へと乗り込む多佳子に頭を下げた凛は、車が路地の角を曲がって見えなくなる迄見送り、それからゆっくりと室内へとはいった。
三年もの間そんな兆候が訪れた事すら無く、自分には子供を宿し産み出す能力は無いのだと、そんな事すら考えていた。そんな自分に突然に突き付けられた『妊娠』という現実――、理解は出来たものの実感は全く無く、
「……本当に?」
と、小さく呟きながら自らの下腹部を摩ってみる。
高根は喜んでくれると、多佳子はそう言っていた。高根と親しくしている彼女の言葉なのであれば信じても良いのだろうが、その事が既に解決しているのだとしても、任務に忙殺されている人間を今以上に煩わせる事になってしまうのは確実で、それが申し訳無い。自分一人で妊娠出来るものではなく、自分と高根、二人揃っての行為の結果なのだから、高根に何の責任も無いという事ではないのは分かってはいる。それでも、公人としての自身が置かれている状況を判断し、結婚も出産も数年後、そう決めた高根に対し、やはり申し訳無いという気持ちだけはどうにも払拭出来なかった。
それでも結果はこうして出てしまった以上無かった事にも出来ず、後半年もすれば胎の子供はこの世界へと生まれ出て来る。それ迄に高根を取り巻く環境が少しでも良くなれば良いが、そんな事を考えつつ、朝に出来なかった家事を片付けようと動き出す。洗濯物を洗濯機へと放り込み回しながら、掃除機で床の埃を吸い上げる。いつもの作業を進めつつも時折襲い来る眩暈と吐き気、身体を休めつつそれ等を遣り過ごし、洗濯物を干し終えた後は少し横になろうかと二階へと上がる。
「あ、閉め忘れてた」
二階へと上がった時視界に入って来たのは寝室の先の部屋の扉。高根の私物の薙刀や槍や木刀が収納されている彼の室内鍛錬用の部屋の扉が半開きになっているのに気付き、先程掃除機をかけた時に閉め忘れた様だと思いながら、寝室を通り過ぎそちらへと歩みを進めた。
何の気無しに中へと入れば、壁には数々の長物が整然と並べられ、その上には所持に必要な許可証や、師範代の免状が額縁に入れられて飾られている。免状の宗家の名は高根と同じ姓、恐らくは実家か近しい親族が道場を営んでおり、高根はそこの門下生だったという事なのだろう。
自身の事は殆ど話さない高根、その彼から無理矢理に聞きたいとは思わないが、籍を入れて夫婦になる、そんな日が来る迄には彼の方から話してくれるだろう、そう思いたい。その時には自分も己の出自を包み隠さず――、そう思いながら薙刀を手に取り、す、と、構えてみる。
祖父は女が戦いの最前線へと出る事を良しとはしていなかった、男が前へと出て戦い、女は後方で男達が帰って来る場所を守る――、だから、前線へと出ない女であっても戦う術は身に着けておくべき、と、そんな考えから自分も幼い頃から槍と薙刀の扱いだけは叩き込まれた。そんな日が来ないに越した事は無いが、そう言いながら穏やかに笑いつつ自分の頭を大きく分厚い掌で撫でてくれていた祖父を思い出しつつ薙刀を元の場所に戻し部屋を出る。寝室へと入り寝台へと横になれば、気疲れしていたのか、程無くして意識は眠りへと落ちて行った。
「……あ、もうこんな時間……洗濯物……」
眠りから浮上する意識、ぼんやりとした頭をふるふると振りながら起き上がれば、時計は十五時近くを指していて、眠り過ぎた、そう思いつつ凛はゆっくりと寝台を出て立ち上がる。早春の頃合いのこんな時間から干したとしても日没迄に乾く筈も無く、今日はもう諦めて明日の分と合わせていっぺんに片付けてしまおう、そんな段取りをしつつ階段を降り台所へと入る。
洗濯物は明日で良いとしても夕飯は作っておかなければ、多佳子は今日は絶対に高根を帰すと言っていたし、料理も出来ない程体調が悪いわけでもない。昨日は帰宅出来たものの泊まり込みが続いて疲れているであろう高根、その彼に喜んでもらうには何を作れば良いか、冷蔵庫の中身を確かめて献立を組み立て必要なものを買いに行こうかと居間へと入った時、不意に玄関の扉が荒々しく開かれた気配が耳朶を打った。
「多佳子さん!?どうしたんですか!?」
そこにいたのは基地へと戻って行った筈のタカの姿、あの時は戦闘服の上に上着を羽織っていたが今は戦闘服のみの格好、肩で息をし双眸は緊迫しきった様に見開いたその様子に只事ではないと彼女へと駆け寄れば、多佳子の方は凛の姿を見て人心地がついた様に大きく息を吐き、立ったままの姿勢で膝に両手を置いて身体を支えながら
「……無事……?」
と、絞り出す様にそれだけを口にした。
「はい、帰って来てからは特に眩暈も吐き気も……え、無事、って……何が有ったんですか?」
無事、多佳子の言葉に違和感を覚えた凛はその言葉を繰り返す。普段の彼女はいつも笑顔を絶やさず余裕綽々といった風情で、こんな風に切羽詰まった様子の彼女等、見た事が無い。肩へと添えた掌から彼女の鼓動や呼吸の激しさが伝わって来て、とにかく休ませなければ、そう思いながら数度宥める様にして摩った。
「……いや……、無事なら良いんだ……」
「とにかく、上がって下さい、お茶でも淹れますから」
「ゆっくり……してる、時間は、無いんだ……でも、少し……休ませてもらおうかな」
只事ではない、それだけは何とか理解したが状況は飲み込めず、とにかく一旦上がって息を落ち着けろと多佳子を促せば、彼女の方もそれに抗う気も無かったのか素直に靴を脱いで上がり込み、凛はそれを横目に見ながらつっかけを履いて三和土へと降り、施錠をしようと扉へと手を伸ばす。
今迄聞いた事も無い様な奇声が鼓膜を激しく叩いたのはそんな時、一体何が、そう思った凛が外の様子を確かめ様と扉を開けた瞬間、
「凛ちゃん!駄目だ――」
という多佳子の言葉と共に、背中を彼女の指先が掠った、そんな気がした。
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