犬と子猫

良治堂 馬琴

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第51章『羞恥』

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第51章『羞恥』

 タカコの言葉に動きを失い、その後、タカコと高根の顔を交互に見て『うわぁ……』という内心を隠す事無く顔に表していた敦賀、黒川、小此木、横山。彼等のそれ以上の反応を見る事無く自らに貸与された大和を引っ掴んで抜刀し執務室を飛び出し、仕事は完全に放置して一日中タカコを追跡し遣り合い続けた。

「真吾!お前、夢精しまくって下着全滅で総入れ替えってマジかよ!!どんだけ盛ってんだよこの思春期中年!!」

 基地への泊まり込みが連日続き、心も身体もなかなか休まらず、最愛の存在である凛にも会えず温もりを感じる事も出来ず、少々どころかかなり気が立っていた中でぶつけられた言葉。それは一瞬の間を置いて高根を激昂させるには十二分に過ぎ、情報の出所が何処なのかを確かめるよりも先に、『今度こそ本気で殺す』と、心の底からの怒りに突き動かされタカコを追い掛けた。
 慣れない任務に忙殺され憩いや娯楽に飢えていた海兵達がそんな面白い事態を見逃す筈も無く、その追跡劇と時折展開される白刃戦や肉弾戦を遠巻きに見守り、二人の移動に合わせて大量の人間があっちへ行ったりこっちへ行ったり。後から聞いた話では高根とタカコのどちらが勝つかという賭けが自然発生的に始まったらしく、道理で途中から激しい声援が飛んでいた、と思い至った。
 最終的に太刀を使っての真っ向勝負になり、依然収まらない怒りをバネにして一気に踏み込みタカコの手から村正を弾き飛ばし、彼女の喉元に大和の鋒を叩き込む勢いで突き付けた。それには流石にタカコも反撃のし様が無かったのか観念した様に両手を掲げ、その彼女の脳天に拳を叩き付け、日暮れ迄繰り広げられ続けた追跡劇はそれで漸く幕切れとなった。
「なーにやってんのよ、おめぇは。下に対しての示しが――」
「うるせぇ!!今日はもう帰る!!」
 苦笑いを浮かべて歩み寄って来た黒川に荒い言葉をぶつけ、執務室へと戻り私服に着替え直ぐに部屋を出て階段を降り、自宅への道を歩き始める。
 自分でもすっかりと忘れていた出来事――、一ヶ月程前迄頻繁に起きていた緊急事態。凛はその事に気付いてはいないと思っていたのに、どうやらそうではなかったらしい。洗濯は彼女に任せ切りになっていたのだから気付かない方がおかしいのだが、彼女の様子が何も変わらないから、気付いていないのだと思っていた。昨夜もタカコは夕飯を食べに自宅へと言っていた筈だから、あの爆弾発言は恐らく、昨夜凛がタカコへと話したのだろう。
 凛が性的な事に明るいわけではないから、夢精という結論に凛自身が達したのではないだろう。恐らく、もっと別の可能性に思い至り、それをタカコに話し、タカコはタカコで正解へと至ってしまったのかも知れない。
 何にせよ、四十の峠も超えそれなりの社会的地位も得た今、よくよく見知った人間達の前でとんでもない恥部を暴露されてしまうとは、羞恥や怒りが再び身体の中に沸き上がり、高根はそれを感じながら舌打ちをして足元に転がっていた石を思い切り蹴り飛ばす。
 しかし、と、そこで立ち止まる。既に暗い時間帯だった事も有り、怒りに任せて身支度を整えて出て来てしまったが、自宅に帰った時、どんな顔をして凛を見れば良いのか。タカコが思い至った『正解』を凛は聞いているのか、いないとして、彼女はあの一連の出来事をどんな風に受け止めているのか。タカコへと出来事について話したのだとしたら、恐らくは何らかの可能性に思い至りそれをタカコに確かめたのだろうが、そうだったとして、彼女は一体どんな答えを導き出したのだろうか。
 もしかしたら、帰宅したらしたで昼間とは別の修羅場が展開されるのでは、その事に思い至った途端、高根の帰宅の歩みは極端に遅くなる。凛が怒るにしろ泣くにしろそのどちらも出来れば見たくはないもので、このまま中州へと出て時間を潰そうかと思いはするものの、自分が帰宅したという事はタカコも知っているしあんな事が有った直後では流石に来ないだろう。そうなれば凛はずっと一人きりで、もう随分と帰っておらず寂しい思いをさせているだろうにこれ以上は、高根はそう思い直し、遅いながらも歩みを再開し自宅の前へと辿り着いた。
「……ただいま」
 明かりの漏れる玄関、扉を開けて中へと入れば鼻先にふわりと漂う出汁の香り。居間には人の気配が有り、高根は凛のいつもの出迎えを期待しつつ靴を脱ぐ。しかし愛しい存在が出迎えてくれる事は一向に無く、眠っているのか、そう思いながら高根はゆっくりと廊下を歩き居間へと向かった。
「……ただいま。どうした?」
「…………」
 そこには、ソファに座った凛の姿。眠っているわけではなく起きてはいるものの表情は硬く、それを見た高根は何とも嫌な感覚が這い上がって来るのを感じつつ、凛の前に膝を突き、俯いてしまっている彼女の顔を覗き込む。
「凛?どうした?」
「……あの、真吾さんに、教えて欲しい事が有って」
「うん、何だ?」

「……私以外にお付き合いしてる女の人……いるんですか?」

 長い長い沈黙の後に凛が紡いだ言葉、その意図するところが分からずに固まる高根を見て、凛の双眸にぶわりと涙が浮かぶ。
「っ……ごめん、なさい……鬱陶しいって……思うかも……知れませんけど、私、真吾さんを他の人と分け合うの、嫌、です……!」
 ぼろぼろと涙を零しながら辛そうに言葉を吐き出す凛、何故そんな事を言い出したのかは分からずともこれは一大事だと慌てる高根の前で、凛は途切れ途切れに言葉を吐き出し始めた。
「真吾さん、少し前迄、朝と夜じゃ下着が違ってたり、見た事無い穿き古しだったり、その内下ろしたてが洗濯機の中に入ってたり……会社に泊まるっていうのは……お仕事なんだって、忙しいからなんだって思う様にしてたんです。けど、何でそれっきり今迄の……下着……見ないのかな、って……女の人の家に泊まって、そこで着替えてるから……新しいの、かな、って……タカコさんに昨日聞いたんです、そしたら、真吾さんに直接聞けば良いよって。タカコさん笑ってたんですけど、一人で考えてたら……どんどん……嫌な……!」
 最悪だ――、それが先ず高根の脳内に浮かんだ思い。凛が思っている様な事はあの時点では既に欠片も無くなってはいたし、そもそも他人に自分の領域へと入って来られるのを嫌う気質だから、士官学校時代の初体験から凛と出会う迄、抱いた女と朝を迎えた事は一度も無い。しかしそんな事を凛が知る筈も無い上に凛との出会いが出会いだったのだ、女性関係に関して清廉潔白であると思ってもらえる筈が無いのは明らかで、これは即刻解かねばならない重大な誤解をしているのだと思い至った高根は、脳内で凄まじい勢いで考えを巡らせ始める。
 何を、どう言い繕えば誤解が解けるのか、凛の涙が止まるのか――、暫しの間頭の中で絵図面を書いては消し書いては消しを繰り返した彼が弾き出した答え、それは――

「夢精です!お前を抱きたくて無茶苦茶にしたくてでも出来なくて我慢してたら夢精しました!他の女なんかどうでもいいです!お前を抱きたかったんです!!すみませんでした!!」

 正座をしながら震える凛の身体を摩っていた両手を下ろし床に突き、その間に頭を叩き付ける。少し前にも客間で披露した土下座と共に死ぬ思いで言葉を吐き出せば、頭上で、一瞬で凛が泣き止んだ気配が伝わって来る。
「……え?むせい、って」
「……性行為をしなくてもエロい夢とか見てそれで」
「え、や、あの……それは流石に分かります……え?え?」
「……だから……お前に惚れてるって気付いて、それであれこれしたいとは思ったけど、俺、こんなおっさんだし……お前の気持ちも分からなかったから我慢してて……でも、したいってのは本気で思ってて、その……夢の中で……あれこれ……はい」
「……下着が汚れたんですか」
「はい……そうです……お前に洗濯させるわけにもいかねえし、着替えて職場の焼却炉に捨ててました……穿き古しは職場に置いてた替えのやつで……職場に泊まった時にもやっちゃってて、替えが底を突いたので新しいのを買いました……それがおろしたてのです……はい」
「……それで……だから今は無いんですね……」
「……はい、そうです……」
 きっと自分は今耳どころか全身真っ赤になっているだろう、出来れば誰にも気付かれる事無く一生隠しておきたかった事を、愛情と性欲の対象に告白しているのだから。羞恥心で人が死ねるのであればきっと自分はもう二十回は死んでいるに違い無い、これも全てタカコが悪いのだと見当違いな毒を胸中で吐いた時、頭上から聞こえて来た涙交じりの笑い声に、弾かれる様にして顔を上げた。
「……良かった、です……私、ずっと不安で……真吾さんは私だけの真吾さんって……そう思って良いんですよね……?そんな夢見る位に私の事、想ってくれてるって、思って、良いんですよね?」
「当り前だろうが……ごめんな、勘違いさせる様な事して……俺が、悪かった」
「ううん……もう、良いんです」
 まだ半泣きの凛を抱き締めようと腕を伸ばせば同じ様に向こうから伸びて来る細い腕。お互いの身体を抱き寄せ抱き締め、強く、強く、力を込めた。

 次の日も高根とタカコの間に一騒動有ったのは、高根の逆切れと八つ当たり。
 そして、タカコの関与に懲りた高根が凛に対し
「あの馬鹿女とはもう付き合うな」
 と言った事に凛が抗議して客間に籠もり、タカコはまた高根に
「全部おめぇの所為だよ!!」
 と、逆切れされる事になる。
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