犬と子猫

良治堂 馬琴

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第29章『安心と慕情』

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第29章『安心と慕情』

「それじゃあ凛、俺、仕事行くけど、昼には様子見に帰って来るから。その時に何か食えそうな物も買って来るから、それ迄は大人しくしといてな?飯だけは炊いておいたから、お茶漬けでも何でもいいから食べて、な?」
「高根さん、そんなにしてもらわなくても大丈夫ですよ、ご飯位自分でどうにでも出来ますし、態々帰って来てもらうなんて」
「お前はまだ熱も下がってないだろ、何もしないで大人しく寝ておかなきゃ駄目だ、良いな?」
「あの、本当に大丈夫ですから」
「だーめ、分かったな?」
「……はい」
「よし、じゃ、行って来ます」
 布団の中の凛と、その脇に正座した高根の遣り取り。結局凛の熱は朝になっても平熱近くに戻る事は無く、夜よりは下がったとは言っても体温計の数値は依然七度台の半ばをうろうろとしている。そんな状態の凛を置いて仕事に行くのは高根としては心配で堪らないのか、何度も何度も念押しをして立ち上がる。見送ろうと身体を起こした凛に
「こーら、寝てろって、な?」
 そう言って宥め、昼には一度戻って来る、そう繰り返して家を出て行った。そうして人の気配が無くなった室内、凛は天井を眺めながら、ふう、と一つ息を吐く。
 身体はまだまだ怠いし熱も有る、それでも高根が昨夜作ってくれた摩り下ろし林檎のお陰か、喉の調子は大分良くなった。痰が絡んで時折咳き込みはするものの呼吸が苦しいという程ではない。枕元には朝になってまた作ってくれた摩り下ろし林檎、これを食べたら薬を飲んでゆっくり横になっていよう。
 この家にやって来る迄の数年間、嫁いでいた間の疲れが出たのかも知れない、そう思う。三年間、気を張り詰めて生きて来た、思い返せば、息抜きをする事も、笑う事すら無かった日々、それから解放された気の緩みが体調不良に繋がったのかも知れない。高根との日々が余りにも穏やかで、ここが自分の居場所だと、いつ迄もここにいて良いのだと勘違いしそうになっていた。
「駄目だなぁ……私」
 昨夜も、婚家での寒々しい生活を思い出していた、体調が悪い時も誰も気遣ってはくれず、逆に役立たず呼ばわりされ普段以上に働かされた。そうして床に就く頃には夫は既に鼾を掻いていて、それなのに自分が少し苦しそうに寝返りを打とうものなら目を覚まし、睡眠の邪魔をするなと怒鳴り付けた。昨日は朝から体調が悪かったが、病院行っていた間はともかく、高根がいない室内で横になっていると時間が経てば経つ程に過去が思い出され、身体が辛い以上に心が辛かった。
 誰もいない室内、自分だけがそこに取り残されていて、気遣ってくれる人もいない。高熱で現実と過去が曖昧になる中心細さばかりが募り、高根が帰って来た時には心底安堵した。青くなって身を案じ、あれこれと世話を焼いてくれた高根、彼の存在がどれ程嬉しく頼もしかったか、彼はきっと知らないだろう。それだけで満足すれば良かったのに、とんでもない我儘を言ってしまった、手を繋いでいて欲しい等、きっと迷惑だったに違い無い。
 今でさえ迷惑をかけっ放しなのに、これ以上高根のやさしさに甘える様な事はしてはならない、自らをそう戒めつつ、そっと目を閉じる。
 とにかく眠ろう、そして、早く体調を戻さなければ。今日は無理でも明日には家の事が出来る様に、先ずは掃除、ああ、洗濯物も溜まっているに違い無い――、そんな事をぼんやりと取り留めも無く考えている内、凛の意識は眠りへと落ちて行った。

 玄関の鍵が回され、そして扉が開く音。靴を脱ぎ室内へと上がって来る気配に目を覚ませば、ほぼ同時に襖が引かれ、その向こうから鍋を抱え買い物袋を提げた高根が姿を現した。
「起きてたのか」
「……いえ、今目が覚めました。もうお昼ですか?」
「もう十四時だ、遅くなって悪かったな」
 高根の出で立ちは朝出勤して行った時と同じ私服、戻って来るのに態々着替えて来たのだという事は明白で、そこ迄させてしまっている事に申し訳無さを感じつつ、凛は高根に背中を支えられながらゆっくりと身体を起こす。
「職場の食堂でおじや作ってもらって来たから、鍋ごと台所に置いておくから、余った分は後で食いな。あと、ヨーグルトと、蜜柑の缶詰と桃の缶詰。風邪ひいた時はこれが鉄板だ、な?」
「……はい、有り難う御座います」
「待ってな、おじやよそって来るから」
 額に手を当てて熱を確かめる高根、平熱とはいかずとも然程高くない事に安心した様に笑い、鍋と袋を手に台所へと消えて行く。広くその大きな背中を見詰めながら、凛は何故か眦に浮かんで来た涙を無言のまま拭った。
 温かく穏やかで優しい笑顔、折に触れて感謝の言葉を態度と共に口にし、常に気遣ってくれる誠実な人柄。
 彼に惹かれていると、はっきりと自覚してしまった。一つ一つは小さな事だったとしても、少しずつ少しずつ積もったそれは今でははっきりとした形を成し、自らの中に現れたそれを否定する術を、凛は知らず、持ってもいない。
 けれど高根は自分が望んでいる様な関係は望んでいない筈で、想いを告げたとしてもきっと彼を不愉快にさせるだろう。それでも自分に対しての優しい態度を考えれば無碍にも出来ず、困らせるだけに違い無い。自らの仕事すら明かそうとしない男が、多くを聞かず自宅に長期間に渡って置いてくれているのだ、これ以上を望んではいけない、困らせてはいけない。最初の約束通り、出来るだけ早めに自立し、この家を出て行く、それが自分の義務なのだろう。
「どうした!?何処かきついのか!?」
 おじやをよそった茶碗とヨーグルトを盆へと乗せて戻って来た高根、凛が涙ぐんでいる事に血相を変え、慌てて彼女の隣へと膝を突く。凛はそれに小さく笑って
「大丈夫ですよ、ちょっと咳き込んだだけです。喉は大分良くなってるみたいで、今は痰が絡み易くて」
 そう返した。
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