犬と子猫

良治堂 馬琴

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第16章『立場』

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第16章『立場』

 ぼんやりとした意識の中薄らと目を開ければ、そこに在ったのは最近漸く見慣れて来た天井の木目、ごろりと寝返りを打ち枕元の時計を見てみれば、針は七時半を指していた。
 高根が京都へと向かってから今日で六日目、明日の夜には帰って来る予定で、昨夜の電話でもそう言っていた。
 明後日からはまた高根を見送る生活が戻って来るから、明日はもう起きる時間を元に戻そう、今日も少し遅くなってしまった、そう思いつつ凛は起き上がり、布団を畳み寝間着から着替えて部屋を出る。顔を洗い髪を整えた後は台所へと入り、ガス台に置かれたままの味噌汁を温めようと火を点け、炊飯器を開けて中の白飯を茶碗へとよそう。白飯と味噌汁と漬物で朝食を済ませた後はいつもの様に掃除機をかけ序でに拭き掃除もして、その後はもうする事も無いとばかりに二階に上がり、高根の部屋の書架から本を数冊取り出して下へと戻り、茶を淹れて居間のソファへと腰を下ろした。
 高根の部屋には仕事絡みの書籍しか無いのだが、高根から渡されている金で自分の読みたい本を買うのは気が引けて出来ず、本屋で雑誌や文庫本等をパラパラと見はしたもののそれっきりだ。それに、元々祖父の書斎は幼い頃から遊び場であり、その書架に収められていた蔵書は兄と自分にとっては絵本と同じ様な物だったから、今こうしてその中身をじっくりと読むのは昔に戻れた様で何とも温かい気持ちになる。
 内容について理解はしているが、自分の生活には直接関わりの無い、何処か遠い話。それでも祖父や兄、そして高根にとっては何よりも大事な、そして血肉となり骨となる、彼等の根幹なのだろうと思いながら読み進め、彼等海兵、特に指揮官の目に見えているものへと思いを馳せる。
 女は戦場に出るべきではない、それは男の役目であり、女は子を産み育て、連綿と続いて来た人類の営みを途切れさせる事無く未来へと繋げる事が課せられた務めなのだと、祖父は何度か自分へとそう言っていた事を覚えている。子を宿し産む事は女にしか出来ない役目、それを女が万障滞り無く果たす為に男は戦い護るのだと、その為に男の身体は女よりも大きく強く作られているのだと。だから、女は男のそのつまらないちっぽけな矜持を立てて欲しい、男にはそれしか無いのだから、そう言って笑い頭を優しく撫でてくれた祖父、その祖父の話を真剣に聞き祖父と同じ様に頭を撫でてくれた兄、二人の事を思い出し少し涙ぐみ、本を閉じて机の上に置き、袖で涙を拭い湯呑へと口を付けた。
 祖父の話を幾度と無く聞かされ、嫁ぐなら海兵へ、と、そう思っていた事も有る。けれど、祖父と父の折り合いは悪く、家業には祖父は直接関わっていなかった事も有り、家内の発言力に於いては影響力は微妙なところだった。それでも何とか自分の為にと動いてくれていた事も知ってはいるが、それが形となる前に病に倒れ、呆気無く逝ってしまった。兄に関しては祖父以上に両親と折り合いが悪く、士官学校に入学して以降は家へと寄り付く事も殆ど無かったから、彼等二人の不在を良い事に両親が勝手に縁談を進めてしまった事は、どうしようもなかった事なのだろう。
 自分に何か秀でた事が有れば、何にも負けない強い意志が有れば、ここ迄の歩みは何か変わっていたのかも知れない。けれど、そうする、出来る程の力も意志も無く、流されるままに嫁ぎ離縁され、今はこうして高根の世話になっている。
 これから先、みの家を出て自活する、それは当初の目的であり、今も変わっていない。けれど、その内容が何とも想像出来ないなと、そう思う。今迄働きに出た事も無く、何をしたいのか出来るのか、それもよく分からない。給料や家賃の相場も分からず、部屋を借りるという時点で躓くだろうなという事だけが朧げにでも理解出来ている、唯一の事。仕事を選り好み出来る立場でもないから、出来る事は身売りや犯罪以外であれば何でもするつもりだが、先ずは自分に何が出来て何が向いているのか、それを考えるところから始めなければならないだろう。
「高根さんは、仕事の事とか、悩んだり考えたりした事有ったのかなぁ……」
 四十一歳と言っていたから、任官して十八年、士官学校の入学からは二十二年。今の自分よりもずっと若い時分に今の道に進む事を決め、遂には海兵隊という組織の頂点に上り詰めた男の意志が、軟弱だったとも揺らいだ事が有ったとも思えない。自分の前では常に笑顔を絶やさず穏やかな空気を纏う事に努めている事は伝わって来るが、それでも、時折ほんの僅かな間だけでも垣間見る、鋭く、そして強い眼差し。自分に見せている笑顔が嘘だとは思わないが、あの眼差しの方が本来の彼なのだろう、あの眼差しは、彼の生き方そのものなのだろう。
 高根のあの生き方を後ろで支える事が出来れば――、ふとそんな事を考えている自分に気が付いて、凛は緩々と頭を振る。自分は人の前に出たり人を率いる様な人間では無い事は分かっている。そして、出来ればそんな人間を支える様な生き方が出来れば、そう思っていた事も事実だ。その相手が高根であれば、彼が存分に責務に打ち込む為に全力で支えようと、そう思えるであろう事も、半月という短い間共に暮らしただけではあるが感じている。けれど、それは一方的に高根の世話になり甘え切っている今の自分が考えて良い事ではない、しっかりと自分の足で立ち、自活出来ている人間であって初めて思っても良い事だろう。今の自分がそう思い彼に何か言ったところで、今の不安定で先の見えない境遇から逃げ出したいと思っての保身、それ以外の何ものでもないのだろう。
「それに……そういうのは高根さんの事を好きだって思ってるとか、そういう気持ちが無いと。今はそれ以前の問題だし」
 知り合ってから半月程、多少なりとも彼の事を知り、そしてその人間性が悪いものではないという程度の事は分かってはいるものの、個人としての高根を深く知っているのかと問われれば、その答えは否。人間性への評価というよりも、海兵隊総司令という立場である事を知っているからこその加点は否めず、彼に対しての何とも言えない打算的な思いは、それに起因しているという事は理解しているから、今の自分は高根を純粋に男として見ているのではない事は明らかだった。
「……高根さんの事、個人的にももっと沢山知れば、何か違うのかな……でも、そうなったとしても、先ずは自分が変わらないとね」
 とりとめのない考え、出る事の無い答え。思いの外長く考え込んでいたのか、時計を見れば既に昼を回っていて、そろそろ昼食にしようと凛は立ち上がり、台所へと向かって歩き出した。
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