犬と子猫

良治堂 馬琴

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第11章『弁当箱』

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第11章『弁当箱』

 上機嫌で帰宅した高根、彼に
「これ、買って来たから。明日から宜しくな」
 と手渡された紙袋の中身を見て、凛は思わず口を開いた。
「高根さん……随分大きいの買って来ましたね……大丈夫ですか?」
 高根が購入して来た弁当箱は凛が思っていた物よりも一回り大きく、多忙とは言えど身体を酷使する仕事の割合はそう多くはないであろう高根、彼が使うには不釣り合いである事は明白だった。
「そんなに肉体労働多いんですか?」
 高根の素性を知っているという事は伝えていない、不自然に思われない範囲で言葉を選べば、逆に高根の視線が僅かに揺れて動揺を示し、
「え、や、いや、そう、うん、俺、一日中肉体労働だからさ、食わないと身体持たないのよ。これで頼むな」
 と、誤魔化す様にそう言い繕った。
「そうですか……分かりました。あ、お帰りなさい、ご飯出来てますよ、お風呂先にしますか?」
「や、基本飯先で。風呂入った後はのんびりしたいからさ」
「分かりました」
 海兵隊総司令、自らのその立場を高根が口にした事は無い。誰彼構わず言う事でもないのは確かだが、理由は何にせよ高根自身その事について触れて欲しくはないのだろう。それは自分も同じ事で、高根に聞いてしまえば自らの出自を言わないわけにはいかなくなる、その事を考えれば、高根の真意は何処に有るとしても触れない方が良いのだろうと思えた。
 それにしても、と、夕飯の支度をしながら袋の中から出した弁当箱をみれば、それはやはりどう考えても高根には大き過ぎ、肉体労働が基本の一般兵や民間の肉体労働者を購買層として製造された事が窺える代物だった。これに普通に料理を詰めれば必要な熱量を超えてしまう事は明らかで、量を控えて中身をスカスカにするわけにもいかないから、脂分を控え目にして野菜や茸類を多めに、そんな配慮が必要だな、そんな見当をつける。
 高根が何故立場を隠そうとしているのかは分からない。それでも、高根の態度がどうであったとしても彼に迷惑をかけない為には凛も自らの出自を彼に伝える事も出来ないから、考える事自体が意味が無いのかも知れない。自分が高根の事を何とも思わず、そして高根が何を言われても気遣う様な人間でないのであれば、高根の立場を知っていると口にし、兄の事を尋ね墓参りだけはと、そういうのだろう。
 しかし、現実の高根は恐らく部下とその家族に対してとても細やかな配慮をする人間で、ましてやそれが先々代総司令の孫ともなれば、兄の消息を教えてくれるだけではなく、今後の生活に関して迄心を砕き関わってくれるに違い無い。海兵隊高官の親族としてその日常がどれだけ多忙で双肩に掛かる重圧が重く大きいのかはよく知っている。そんな高根にこれ以上の負担を掛ける事は出来ない、もう何度目になるのかそう思い至り、彼が隠しておきたいのであれば自分はそれに倣い、何も知らないふりをしよう、そう思い、煮立つ寸前の味噌汁の火を止め、器へと手を伸ばした。
 やがて始まった夕餉、鶏肉の照り焼きを喜んで食べつつ揚げ物も食べたいと言う高根、その彼に
「揚げ物出来るお鍋が無いので、買っても良いですか?」
 と、そう言いながら凛は目を細めて高根を見る。そう不味いものを作っているとは思わないが、料理の腕に自信が有るわけでもない。それなのに、極々平凡な料理を大喜びで平らげてくれる高根、彼のその振る舞いは久しく感じた事の無かった『幸せ』という感情を凛へと齎してくれている。祖父や兄に対して感じていた安心感、それよりもほんの少しだけふわふわとした心持ちになるこの感覚が何なのか、それはよく分からない。けれど、色々と有った人生の中で不意に訪れたこの穏やかな時間と気持ちが、少しでも長く続けば良い、その想いだけは確かなものだった。
「御馳走様でした」
「はい、お粗末様でした」
「いやいや、本当に美味いよ?ついつい食い過ぎちゃうから、きっと直ぐ太るな」
「有り難う御座います。節制はして下さいね?」
「頑張ります」
「お風呂ももう入れますから、どうぞ」
「有り難う」
 持ち上げ過ぎではないかと思わないでもないが、高根はどんな事にもきちんと向き合い、自分の気持ちを伝えてくれる。一方的に命令する事は決して無く、あくまでも凛の気持ちを尊重した上で『お願い』をしてくれる。そしてその『お願い』に凛が応えれば、本当に嬉しそうに笑って感謝の気持ちを伝えてくれる。
 嫁ぐ前も色々と問題の有る家庭だったが、嫁いでからは状況は更に悪くなり、嫁扱いどころか人間扱いされていたのかすら疑わしい生活だった。そんな状況だから、普通の幸せな家庭や夫婦関係というものがどんなものかは想像も出来ず、概念に憧れて想いを馳せるだけ。そんな自分に穏やかな優しさを向けてくれる高根の存在は、今の凛にとっては何よりも安心出来る、そして心を温かく、ほんの少しくすぐったくしてくれるものだった。
 幸せな結婚生活というものは、こんなものなのかも知れない、高根の入浴中、食器を洗いながらふとそう思い、彼と自分が、と、そこ迄考えてふるふると頭を振る。
 彼は自分の境遇に同情してこの家へと置いてくれているだけ、出会った場所から考えても、女性と親密な付き合いをしたいとは思っていないのだろうし、家庭を持ちたいとも思っていないだろう、もしそんな気が有れば、四十一歳という年齢や立場を考えても、もうとっくにしているに決まっている。そんな人間を想像とはいえ男として見ても意味が無いし、高根にも迷惑だろう。
 三年間の結婚生活がうまくいかなかったのは、元凶はあの嫁ぎ先だというのは分かっているものの、きっと自分にも何か問題が有ったのだろうと思う、きっと、高根と方向性は違っても自分もまた結婚には向いていない性分なのだろう。いつ迄もこの家にいるわけにはいかないのだから、早く独り立ち出来る様にならなければ、そして、その先は自力で生きて行ける様にならなければ。
 高根が風呂から出れば次は自分の番、それ迄に下着の替えを用意し明日の朝食と弁当の仕込みをしておこう、凛はそう思いながら蛇口を絞り手を拭き、宛がわれている客間へと向けて歩き出した。
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