犬と子猫

良治堂 馬琴

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第10章『古い付き合い』

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第10章『古い付き合い』

「あー……敦賀が鈍い上に頭の弱い馬鹿で良かった……」
 自らの用事を済ませ、そして
「馬鹿女もお前に確認してぇ事が有るそうだ、研究棟にいるから行ってやれよ」
 そう言って階下へと戻って行った敦賀。高根はその背中を見送りつつ、彼には聞こえない様に小さく呟き安堵の溜息を漏らす。
 普段から仕事以外の事には壊滅的に鈍い敦賀、タカコとの関わりの中で多少なりとも目端が利く様になったかとは思っていたものの、それはどうやら彼女に対して限定らしい。尤も、弁当の持ち込みに関しては、実際のところ別に男女の仲という様な事ではないのだが、話題の無い海兵共が雑談の種を求め、火の無いところに無理矢理火を熾し燃油でも掛けて大炎上させて黒煙を濛々と立ち昇らせる事は、士官任官とは言えど二十年近い海兵隊生活で高根自身もよく分かっている。敦賀自身はタカコ以外の事には全く興味が無いと言えど、だからこそ他意無く他の者に漏らすかも知れない。しかも今は『あの』タカコもいるのだ、仕事はともかくとして私人としては良心と常識と思い遣りを母親の胎内に忘れて生まれて来たとしか思えない彼女に知られれば、瞬時に全海兵に話は伝わるだろう。そして、ついでとばかりに太宰府の黒川に迄及ぶに決まっている。
 実際どうなのかという事は問題ではない、寧ろ、違うからこそ他には知られてはならないのだ、特にタカコには。
 恐らくはとうの昔に人生の折り返し地点を過ぎ、今更女とどうこうなるとは思っていないししたいとも思わない。今回のこの弁当に絡められればそれは相手は凛という事になり、娘でもおかしくない様な年齢の、しかもいつか立て直しの時期がやって来れば家から出て行くであろう彼女に、こんなくだらない事に関わらせたくはない。
 海兵達に知られれば、基地から徒歩十五分で自宅という至近距離が災いして様子を見に来る物もいるかも知れない、高根自身私人としての生活を覗かれたくはないし、凛にも不快な思いをさせる事にもなりかねない。全てが平穏無事に運ぶ為には、どんな関わりにせよ自宅に独り身の女を住まわせているという事は、どうしても隠しておかなければならない事だった。
 敦賀に口止めをしておいた方が良かったのかも知れないが、聞かなければ余計な事を話す様な男ではないから、そう用心しなくても良いだろう。
 人目を避けてこうして屋上に出てて来たが、逆に良くなかったかも知れない。これからは昼時に人払いをしていつも通り執務室で食べる事にするか、そう思いながら長椅子へと座り直し、紙袋の中から容器と箸を取り出し、食事を再開する。白飯はもう片付いてしまい煮物が残るだけ、その中から里芋を摘まみ出し口へと放り込み、口腔内から鼻へと抜ける穏やかな出汁の風味を感じつつ咀嚼し嚥下した。中洲の料理屋のものも悪くはないが、あちらは身体を使う軍人相手の商売の所為かやはり味が少し濃い目。一般の兵士達に比べれば汗を掻く量は圧倒的に少ない自分にとっては、凛の料理の塩加減位が丁度良い、そう思えた。
 弁当箱を買って帰ると伝えているから、今日も店が開いている時間帯には仕事を片付け上がる事にしよう。その分明日以降に多少の皺寄せをする事にはなるが、彼女もきっと弁当を作る段取りで買い物も準備もしてくれているのだろうから、それを無碍にはしたくない。
 そんな事を考えつつ全て平らげ、再び容器と箸を紙袋の中に入れて立ち上がり、階段を降り執務氏へと戻る。時計を見れば午後の課業開始迄はまだ多少の時間も有り、今の内に身体を動かしておくか、そう思いながら机に立て掛けた木刀を手に取り、隣の執務室の扉を軽く叩き、部屋の主の返事も待たずに中へと入る。
「はい……って、総司令、どうしました」
「手合わせ、付き合って」
 中にいたのは副司令の小此木、士官学校の入学式で隣同士となって以来二十二年の付き合いになる彼は、僅かに開いたままの扉の隙間から廊下にも人の気配が無い事を確認し、
「やだよ、お前手加減しねぇんだもん」
 と、うんざりだといった面持ちでそう言い、食べ終えた食器を重ねながら湯呑の茶を啜った。
「だってさぁ、この立場になっちゃうとそうおいそれと他の奴に声なんかかけられねぇのはお前も分かってんだろ?遠慮されたら訓練にならねぇじゃん」
「敦賀にでも頼めよ、あいつは手加減しないだろ」
「それは俺が怪我するから無理」
「仕方ねぇなぁ……ちょっと待ってろ」
 普段は上司部下という関係を慮り如何にもといった態度を崩さない二人。特に小此木の方はそれを高根以上に弁えているのか忠実な腹心という態度を崩す事はないが、他者の目が無いところでは腐れ縁、親友という振る舞いを取り戻す。尻拭いと手綱取りという長年の役目を受け入れているのか諦めているのか、相も変わらず飄々と鷹揚に我が道を行く親友の様子にやれやれといった様子で笑いながら数枚の書類を片付けて立ち上がり、高根と同じ様に机に立て掛けてあった木刀を手にし、二人連れ立って道場へと向かって歩き出した。
「嫁さん元気?」
「あー、元気元気。相変わらずあれこれ口うるさいよ」
「子供は?上が確か来年か再来年辺り大学受験じゃなかったか?」
「来年だ。士官学校受験するってさ。陸軍行くのかと思ったら海兵隊志望だってよ」
「親子だねぇ」
「反抗期凄くて『俺は絶対に親父みたいになんかならねぇ!』とか言ってたんだけどなぁ。だからそもそも士官学校受験して軍人の道選ぶ事自体にお父さんびっくりだよ」
「心配だろ、この仕事分かってるだけに」
「まぁ、そりゃなぁ。でも、あいつが決めた事なら反対はしねぇさ、自分も選んだ道だしな」
「因果だねぇ」
「全くだ」
 独身を通している高根とは違い、小此木は任官してそう時間を空けず高校時代からの付き合いの今の妻と結婚した。程無くして子供も生まれ、今では思春期真っ盛りの二人の子を持つ父親だ。
「お前はどうなんだよ」
「どうって、何が」
「結婚だよ結婚、所帯持つ気無いのか」
「今更言うかねそれを。俺が結婚に向いてねぇのなんか、長い付き合いのお前が一番分かってんだろ」
「見た目は悪くないのになぁ、お前。仕事でも出世してるし、優良物件なんだからそれを活用しろよ」
「良い男なのは自覚してるけどね、そういうもんには興味無いのよ、俺は。何度も言ってんだろ。兄貴のところには子供が四人もいるし、そういう方面はあっちに任せてるから良いんだよ。道場継がないといけない兄貴のところと違って俺には継ぐもんも無ぇしな、好きにやるさ」
 高根の実家は剣術道場で、高根自身もそこの門下生で同時期同門には陸軍総監の黒川もいる。父から道場を引き継いだ兄には既に四人の子がおり、兄をして『剣術馬鹿』と言わしめた兄の長男が引き継ぐ事が決まっている。その上引退した父と母は兄の家が引き取って同居してくれているから、気楽な次男坊である高根自身には引き継がないといけないものは何も無い。している事と言えばせめてものお礼と兄の嫁宛てに折々に礼状付きで色々と送る位のもので、他にしなければならないのは自らの退官後の老後の算段程度で、高根自身はその生活を気に入っていた。
「相変わらずだな、俺なんかは嫁に色々と言いたい事も思う事も有るけど、結婚して良かったと思うけどねぇ。良いもんだぞ、家庭とか子供ってのは」
「しつこいねぇお前も。興味無ぇよ」
「寂しい奴だな」
「うっせ、ほっとけっつの」
 世話焼き気質の小此木は二人なればしょっちゅうこの類の話題を持ち出して来て、高根がそれに面倒臭そうに言葉を返すのもいつもの事。それが二人の間の様式美なのか、海兵隊高官の二人は小さく笑いながら歩いて行った。
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