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第178章『公私』
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第178章『公私』
敦賀貴之、海兵隊最先任上級曹長、年齢三十五歳。十六になる年に任官しそれ以来職務に身命を賭して生きて来た、海兵隊史上最強、生きる伝説とすら謳われる男。
「せ、先任……お茶、どうぞ」
「…………」
「……機嫌、悪いですね……」
「…………」
「し、失礼しました、何か有ったら呼んで下さい」
その彼が、ここ最近とても機嫌が悪い。今も茶を淹れて来た部屋付きの言葉に口元を僅かにひくつかせ視線だけで殺せそうな勢いで睨み付けた後、怯えて部屋を出て行く背中を睨み付けつつ舌打ちをして天井を仰ぎ見る。
不機嫌の原因は至極単純、タカコとの時間が全く持てていない事。仮設営舎に移った直後は隣同士ではあったものの、その後本格的に新兵の配属が始まり、女性上等兵が何の理由も無く男性に混じって部屋を持っているのは宜しくないとの高根の一言で、タカコの部屋は女性新兵達の入居している区画へと移動になった。
「お前、今迄と同じ調子で営舎っつーか基地内で盛るんじゃねぇぞ、事に及ぶなら営外に出ろ。出る時も別々に出ろよ、示しがつかねぇからな」
そう高根に思い切り釘を刺されてしまっては言い分が真っ当な事も有り、営外に出るどころかタカコに触れる事さえ憚られる様になってしまい、そうこうしている内にタカコはタカコですっかり新兵達と馴染んでいた。十代の少年少女と言っても良い年代も多い新兵達には彼女は親しみの持てる頼れる姉貴分となったのか、『清水の姐さん』と呼ばれていつも誰かしらに纏わりつかれている状況で、敦賀との関わりは薄れるばかり。
そんな中、銃の配備が前倒しで進められる事となり、以前から気になっていたタカコの階級について高根へと進言したのは敦賀自身。指導役ともなれば上等兵の階級は障害にしかならないだろう、統幕の説得の手間は有るが、特進を考えるべきだと進言した敦賀に高根が言ったのは
「……いや、俺もそう思ってたんだけどよ、お前、それで本当に良いんだな?」
という一言だけ。何を言っているのかと特進させろと言い切ったものの、今では高根が自分に確認した事は、彼なりの配慮だったのだと痛感している。
曹長に昇進ともなれば、そして、大きな役目が有るともなれば、今迄の様に多くの時間を共に過ごす事は出来なくなるのだと思い至らなかった。最先任上級曹長と曹長が特に理由も無く一緒にいる事は不自然だし非効率的、夫々が役目と仕事を抱え、部下となる下士官や兵卒を抱える事になる、共に過ごす事は極端に減ってしまうのだと、その事に思い至らずに高根へと進言してしまった。
それが理解出来ていたとしても状況を考えれば同じ事を言ったとは思うが、それでも気付けなかった自分の馬鹿さ加減が嫌になると茶を啜りながら内心で毒吐いた。
想い人であるタカコはと言えば、銃の開発の工程についての打ち合わせの為に工廠へと出向いており、帰投は一週間程先の事と聞いている。以前なら自分も同行していただろうが開発担当の曹長に最先任が同行する理由も無く、こうして基地へと残り自分の仕事を片付ける毎日だ。
段々と事が大きく着実に動き出している、今のところの問題は本土へと上陸し消えた二台のトラックとそれを運転しているであろう最低二名の兵員、その行方が掴めていない事。それはそれで大きな懸案ではあるのだが、それ以外の事、自分達の備えに関しては概ね順調だと言って良い。それは一軍人として海兵隊最先任として喜ぶべきところなのだろうが、一人の男としてはどうにも気が乗らない毎日と言うべきだろう。
タカコに同行しているのがカタギリと陸軍からの出向の形で同行しているキム、この二人だというのも気に入らない。一蓮托生状態になっている今、ワシントン勢だけで行動させる事にはもう警戒感は抱いていない、寧ろ気心の知れた部下と上官なら意思疎通は問題無いし話を上手く運ぶ事も容易だろう。けれど、その環境でタカコが長く過ごせば、ワシントンへと帰国する思いが強くなってしまうのではないか、自分達大和との心理的距離が空いてしまうのではないか、そんな事ばかりが頭へと浮かんでしまう。
公人としては今の状況を歓迎し、これから控える戦いへと意識を集中させるべきなのだと分かってはいても、私人としては出来れば避けたい状況ばかり、何とも因果な事だと頭を掻きながら溜息を吐いた。
こんな事を考えて不機嫌になっている場合ではないのだ、するべき事は幾らでも有る、タカコが開発担当なら敦賀は新兵の教育担当、子供の様な彼等を鍛え上げ、一日も早く実戦で通用する様に育て上げる為の計画を組まなければならない。最先任という立場は新兵の教育を直接実施する事は無いが、部下達や士官の意見を聞き少しでも効率の良い方法や配置を考案しそれを実施させなければならないのだ、女一人の事でぐだぐだと思い悩んでいる暇は無い。
タカコが工廠から戻れば第五防壁迄出て実射での訓練が行われる予定になっている。その時には当然自分も同行するから、その行き帰りの車内では多少の時間は持てるだろうか、戻ったらその時には営外に出よう、敦賀はそんな事を考えつつ、書類の片付けを続けるかと湯呑みを置き、机上へと放ったペンへと手を伸ばした。
敦賀貴之、海兵隊最先任上級曹長、年齢三十五歳。十六になる年に任官しそれ以来職務に身命を賭して生きて来た、海兵隊史上最強、生きる伝説とすら謳われる男。
「せ、先任……お茶、どうぞ」
「…………」
「……機嫌、悪いですね……」
「…………」
「し、失礼しました、何か有ったら呼んで下さい」
その彼が、ここ最近とても機嫌が悪い。今も茶を淹れて来た部屋付きの言葉に口元を僅かにひくつかせ視線だけで殺せそうな勢いで睨み付けた後、怯えて部屋を出て行く背中を睨み付けつつ舌打ちをして天井を仰ぎ見る。
不機嫌の原因は至極単純、タカコとの時間が全く持てていない事。仮設営舎に移った直後は隣同士ではあったものの、その後本格的に新兵の配属が始まり、女性上等兵が何の理由も無く男性に混じって部屋を持っているのは宜しくないとの高根の一言で、タカコの部屋は女性新兵達の入居している区画へと移動になった。
「お前、今迄と同じ調子で営舎っつーか基地内で盛るんじゃねぇぞ、事に及ぶなら営外に出ろ。出る時も別々に出ろよ、示しがつかねぇからな」
そう高根に思い切り釘を刺されてしまっては言い分が真っ当な事も有り、営外に出るどころかタカコに触れる事さえ憚られる様になってしまい、そうこうしている内にタカコはタカコですっかり新兵達と馴染んでいた。十代の少年少女と言っても良い年代も多い新兵達には彼女は親しみの持てる頼れる姉貴分となったのか、『清水の姐さん』と呼ばれていつも誰かしらに纏わりつかれている状況で、敦賀との関わりは薄れるばかり。
そんな中、銃の配備が前倒しで進められる事となり、以前から気になっていたタカコの階級について高根へと進言したのは敦賀自身。指導役ともなれば上等兵の階級は障害にしかならないだろう、統幕の説得の手間は有るが、特進を考えるべきだと進言した敦賀に高根が言ったのは
「……いや、俺もそう思ってたんだけどよ、お前、それで本当に良いんだな?」
という一言だけ。何を言っているのかと特進させろと言い切ったものの、今では高根が自分に確認した事は、彼なりの配慮だったのだと痛感している。
曹長に昇進ともなれば、そして、大きな役目が有るともなれば、今迄の様に多くの時間を共に過ごす事は出来なくなるのだと思い至らなかった。最先任上級曹長と曹長が特に理由も無く一緒にいる事は不自然だし非効率的、夫々が役目と仕事を抱え、部下となる下士官や兵卒を抱える事になる、共に過ごす事は極端に減ってしまうのだと、その事に思い至らずに高根へと進言してしまった。
それが理解出来ていたとしても状況を考えれば同じ事を言ったとは思うが、それでも気付けなかった自分の馬鹿さ加減が嫌になると茶を啜りながら内心で毒吐いた。
想い人であるタカコはと言えば、銃の開発の工程についての打ち合わせの為に工廠へと出向いており、帰投は一週間程先の事と聞いている。以前なら自分も同行していただろうが開発担当の曹長に最先任が同行する理由も無く、こうして基地へと残り自分の仕事を片付ける毎日だ。
段々と事が大きく着実に動き出している、今のところの問題は本土へと上陸し消えた二台のトラックとそれを運転しているであろう最低二名の兵員、その行方が掴めていない事。それはそれで大きな懸案ではあるのだが、それ以外の事、自分達の備えに関しては概ね順調だと言って良い。それは一軍人として海兵隊最先任として喜ぶべきところなのだろうが、一人の男としてはどうにも気が乗らない毎日と言うべきだろう。
タカコに同行しているのがカタギリと陸軍からの出向の形で同行しているキム、この二人だというのも気に入らない。一蓮托生状態になっている今、ワシントン勢だけで行動させる事にはもう警戒感は抱いていない、寧ろ気心の知れた部下と上官なら意思疎通は問題無いし話を上手く運ぶ事も容易だろう。けれど、その環境でタカコが長く過ごせば、ワシントンへと帰国する思いが強くなってしまうのではないか、自分達大和との心理的距離が空いてしまうのではないか、そんな事ばかりが頭へと浮かんでしまう。
公人としては今の状況を歓迎し、これから控える戦いへと意識を集中させるべきなのだと分かってはいても、私人としては出来れば避けたい状況ばかり、何とも因果な事だと頭を掻きながら溜息を吐いた。
こんな事を考えて不機嫌になっている場合ではないのだ、するべき事は幾らでも有る、タカコが開発担当なら敦賀は新兵の教育担当、子供の様な彼等を鍛え上げ、一日も早く実戦で通用する様に育て上げる為の計画を組まなければならない。最先任という立場は新兵の教育を直接実施する事は無いが、部下達や士官の意見を聞き少しでも効率の良い方法や配置を考案しそれを実施させなければならないのだ、女一人の事でぐだぐだと思い悩んでいる暇は無い。
タカコが工廠から戻れば第五防壁迄出て実射での訓練が行われる予定になっている。その時には当然自分も同行するから、その行き帰りの車内では多少の時間は持てるだろうか、戻ったらその時には営外に出よう、敦賀はそんな事を考えつつ、書類の片付けを続けるかと湯呑みを置き、机上へと放ったペンへと手を伸ばした。
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