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第170章『死者と生者』

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第170章『死者と生者』

 翌朝、疲れ果てて眠りこけるタカコをどうにか起こし海兵隊基地迄送り届けた黒川は、直ぐには太宰府には向かわず、国立海兵隊墓地へと足を向けていた。タカコはと言えば普段であれば朝のこの時間帯に墓参りをするのが常の筈だが、ほぼ夜通し抱かれた直後というのは流石に気が引けるのか
『眠いのもそうなんだけど……風呂入って身体洗ってからにするわ』
 と、そう言って基地の正門を潜り営舎へと戻って行った。
 黒川の方はそういった事を別段気にするでもなく、いつもの様に千鶴の墓に参り線香を手向け、墓石の前に片膝を突いて今は亡き妻へと語り掛ける。仕事の事、高根や敦賀の事、そしてタカコの事。答えが返って来る事は無いと知っていても墓石を撫でながら語り掛け、やがて
「……また来るよ」
 そう言って立ち上がり最後に墓石をもう一撫でして歩き出す。口付けは、昨夜別の女の身体へと触れていたものを妻へと触れさせるのは流石に躊躇われて、撫でるだけに留まった。
「……よう、ここに来るのは二回目だけど、殆ど『初めまして』なのかね?」
 次に向かったのは駐車場に停めた自分の車ではなく、敷地の外れに有る三十四基の墳墓、タカコの部下達が埋葬されている区画。立ち止まったのは最前列の一番右側、タカコの夫の墓の前。ここでタカコを見掛けた時、去り際に墓を一撫でしていた事を今でもよく覚えている、あの時はまだ彼女に対して艶の有る感情は何等抱いていなかったが、何ともややこしい巡り合わせになったなと黒川は小さく笑い、墳墓を見下ろしながら口を開いた。
「……あんたの嫁さんさ、俺にくれよ、大切にするから、守るから。……愛してるんだ、添い遂げたいと思ってる……そろそろさ、解放してやってくんねぇかな、嫁さんの、あいつの事。俺も十年前に嫁さん亡くしてよ、それからあんたの嫁さんに会う迄の九年間ずっと独りで生きて来たけど、辛いんだよ、独りって。あいつは独りになってまだ二年しか経ってないけどよ、俺、十年も待ちたくねぇんだわ。何が有ってもあいつを傷つけたりなんかしない、本当に大切にするから……だからよ、解放してやってくれよ、あいつの、タカコの事」
 千鶴の位牌や墓石へと話し掛けるのと同じ、言葉が返って来る事等有る筈が無い。今迄ずっとタカコに対して彼女の夫について話す時は、過去形ではなく現在形で話をして来た、それが遺族に対しての気遣いの一つになると身を以って知っていたから。けれど、そうやってどんなに取り繕って見せたところで、死者はもう戻る事は無いのだという事実は動かし様も無いのだ。
 戻る事の無い人間、それに話し掛けて許しを請う自分の滑稽さに黒川は自嘲の色を滲ませ小さく笑う。千鶴の位牌へと語り掛けた時、タカコを手に入れるのだと決めた時には既に下した決断として話す事が出来たが、今回ばかりは多少の遠慮が生まれてしまう、何せ欲する存在の夫、遺体すらこの目で見た事も無い相手なのだから。
「……まぁ、あんたが生きていれば首を縦に振るわけなんざ無いって分かってるし、死んでてもそうなんだろうなとは思うけどよ、どうしてもあいつが欲しいんだよ、俺。あんたから奪う事になるけど、悪く思わないでくれな?あんたが死なないで今も生きてれば、こんな事にはならなかったんだぜ?」
 若干の冷たさを声音に滲ませそう言って、軽く敬礼をして戻ろうかと歩き出せば、突然背後から声を掛けられた。
「あの、すみません、出口は何処でしょうか?」
 男性の声、気配に全く気付かなかったと慌てて振り返れば、そこには年の頃は自分と同じ位、そして敦賀と同じ位の身長と体格の男が一人立っていて、穏やかな、そして少し困った様な笑みを黒川へと投げ掛けて来る。
「すみません……親族の墓参りに来たんですが、初めて来たもので出口が分からなくなってしまって」
「え、ああ、こちらですよ。自分ももう帰りますから、途中迄御一緒しましょう」
 国立海兵隊墓地は何度も拡張を重ね、埋葬されている遺体や遺骨は現在は五万柱を超える。歴史を重ねれば重ねるだけその数は増え続け、通い慣れた者でもなければ親族の墓が何処に在るのかすら直ぐには分からない程だ。その為に海兵隊基地の正門の警衛所には台帳が置いてあり大まかな場所を教えられる様に準備がされてはいるのだが、一度中に入ってしまえば出口は自分で探さなければならない、この彼も入ったは良いが迷ってしまったのだろう。
 特に言葉を交わす事も無く並んで歩き、やがて辿り着いた墓地の駐車場で出口の方向を指し示してやれば、男は
「ああ、自分も車で来ていますので。どうも有り難う御座いました」
 そう言って頭を下げて少し離れたところに停めてあった車へと乗り込んで行く。
 ひどく、嫌な気配のする男だとそう思った。柔和な笑顔と物腰、何も警戒すべきところ等感じられない筈なのに、何か異質で異様で、底知れない不気味さを感じさせる男だった。ここへと共に歩いて来る間にも感じていたその違和感の正体が分からずに何と無しに男の様子を見ていると、男が乗り込んだ車がやがて動き出し、出口へと向かってこちらへ近付いて来る。それは走り去る事は無く一旦黒川の前で停止し窓が開き、中から顔を出した男が再度黒川へと声を掛けて来た。
「止めておけ、彼女を望むのなら、君が手に入れるのは絶望だけだよ、黒川陸軍准将」
 その言葉と共に冷たく歪んだ笑みを黒川へと向け、窓を閉めた男は車を再び走らせ始め、それはやがて門を潜って敷地の外へと出て行った。
「……なん、だ、今の……」
 男から感じていた不気味さの正体、あれは『眼』だ。冷たく鋭く、そして歪んだ狂気を湛えた双眸、あんなものは今迄の人生で見た事が無い。狂っている、小さくうわ言の様に呟けば、門の方から疾走して来た敦賀の声に弾かれる様にして身体は動きを取り戻す。
「龍興!今の、今の男は!」
「え、ああ、敦賀、どうしたよ、そんなに――」
「何かあいつと話してたか!?」
「は?あいつって、今の車の男か?中で出口を聞かれたからここ迄一緒に来ただけだが、どうかしたのか?」

「あの顔を見間違えるわけが無ぇんだ!二年前、俺が、俺がこの手で首を刎ねたんだぞ!あれは、今のあいつは、タカコの旦那だ!」
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