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第167章『懊悩』

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第167章『懊悩』

 京都から戻った数日後、タカコは自室の直ぐ外で夜空を見上げつつ紫煙を燻らせ、一人考え込んでいた。脳裏に何度も何度も浮かぶのは敦賀の父親である中将が
『息子を、貴之を……どうか宜しくお願いします』
 と、そう言って深々と頭を下げた姿。
 親という概念に縁遠かった所為か敦賀と身体の関係を持つに至っても、あの時迄彼にも親が在り、その親は我が子の幸せを願っているだろうという事に全く思い至らなかった。自分の心と身体の寂しさを誤魔化す為に敦賀を受け入れ、そして彼の気持ちには気付いてはいるものの見ない振りをしたまま。あの真摯な願いを見た後では自分のやっている事が殊更に卑怯に思えて、博多へと戻ってからずっと、敦賀と距離をとったまま生活している。
 母である幸恵にお茶を飲みなさいと言われて連れて行かれた時には、彼女にも頭を下げられた。初めての子供で何も分からず試行錯誤と失敗の連続の子育て、父子共々気難しい性格で間に入っても上手く折り合いを付けてやれず、心を砕いて育てて来た我が子は或る日突然出奔し、それから殆ど帰って来る事も無くなった。危険な職務に身命を賭し、その事を誇りには思うけれども心配は尽きず、それならばせめて寄り添ってくれる伴侶という存在を親として何よりも望んでいるのだと、涙を浮かべてそう言われ、止めに
『あの子を、貴之を宜しくお願いしますね』
 と、両手を取られてきつく握られながら懇願されたのだ。
 親の情というものがあんなにも重いものだとは思わなかった、あんなにも大切に想われ扱われている敦賀という存在、それを慰みにし続ける事はあの二人に対して申し訳が無さ過ぎて、これからも同じ様に彼に接する事はもう出来そうもない。
「……駄目だねぇ、親無し子は……」
 煙を吐き出しつつ力無い自嘲の笑みを浮かべてぼそりと吐き捨てれば、仕事と風呂を終えたのか敦賀が入浴道具を手に姿を現し、今のタカコの言葉が聞こえていたのか僅かに険を深くして歩み寄って来る。
「……どうかしたのか、いきなりそんな事言って」
「いや?特には。親の愛情って深くて重いんだなーって思っただけ」
 そう言ってへらりと笑って見せても敦賀の表情は険しいまま、タカコが煙草を携帯灰皿で揉み消すのを見届けると、無言のまま腕を掴み彼女の部屋の扉を開けて中へと押し込み、自らもそれに続いて入って来る。
「……何が有った。京都から戻ってから様子が変だ、親父に何か言われたのか」
 直ぐ横で敦賀が扉の鍵を閉める音がして、彼の手にしていた入浴道具が床に落ちる音がしたかと思った直後、右手首と左肩を掴まれて壁へと押し付けられた。
「……何も無いってなら、何で俺を見ねぇんだ?戻って来てからずっとだぞ、近寄れば逃げる、触らせもしねぇ、何か言われたとしか思えねぇだろうが」
「いや、お前が想像してる様な事は言われてないよ。ただ……」
「ただ、何だ」
「……ただ、お父さんもお母さんもお前を大切に想ってるんだなって思ってさ」
「……それで?」
 怒っているわけではないのだろう、腕と肩を掴んでいた手から力が抜け、背中へと逞しい両腕が回され抱き寄せられる優しい感触を感じながら、タカコは双眸を閉じて一つ、大きく息を吸う。
「……こういうの……もう、止めよう?身体だけの付き合いとか、終わりにしよう?」
 タカコの口からその言葉が零れ出た瞬間、敦賀は彼女の身体を抱き上げて室内へと突き進み、寝台の上へと腕の中の身体を沈め込んでいた。
「敦賀……!」
「うるせぇ!お前が、お前が言ったんだろうが、身体だけの付き合いでって!今更それすら無かった事にしようとか、はいそうですかって言えるとでも思ってんのかてめぇは!どれだけ俺を虚仮にしてやがんだ!」
 怒っている、本気で怒っている、いつも突っ慳貪ではありつつも不器用な優しさを以って触れて来た敦賀が、今は本気で怒っている。噛み付く勢いで首筋に口付け、シャツの裾から入って来た無骨な掌が握り潰す程の強さで乳房を揉み拉き、その勢いと力強さに翻弄されながら、タカコはここで漸く本心の一つを口にした。
「私は!お前を見てたんじゃない、お前に抱かれてたんじゃない!」
 張り上げた声、それに動きを止めた敦賀が見下ろす中、タカコはその眼差しを受け止め切れずに両手で顔を覆い、今度は弱々しい調子で言葉を紡ぎ出す。
「……お前……旦那と、タカユキと身長も体格もそっくりなんだよ……お前に抱かれてると、タカユキに抱かれてるみたいで……私が殺したのに、どうしようもなく会いたくて、抱き締めて欲しくて、抱かれたくて……ごめん、ごめん、ごめん……」
 最後の謝罪はもう涙に濡れていて、顔を覆った掌の下から流れ落ちる涙、それが窓から入る月の光を受けて淡く光る様子を見下ろし、敦賀は動きを失っていた。
 あの両親の事だ、きっと自分のいないところでタカコに対して『息子を頼む』という類の事を言ったのだろう、そして、タカコはそれを額面通りに受け取ってしまい及び腰になってしまったのだろう。身体だけの付き合い、その約束で始まったこの関係、それには両親が言ったであろう言葉は重過ぎたに違い無い、だから、関係を解消しようとしたのだろう。
「……そんな事……最初に言えば良かったじゃねぇか」
「……だっ、て……っ……!」
 急激に感情が昂ぶった所為かしゃくり上げるタカコ、まるで子供の様だと敦賀は目を細め、顔を覆う彼女の手を取って頭の両脇に優しく押し付ける。
「……俺も、お前に黙ってた事が有る」
「……え?」
 濡れた双眸で見上げるタカコ、敦賀は未だ涙を湛えたままの眦へとそっと口付けを一つ落とし、今迄胸に秘めたままにしておいた事を口にする。
「今迄に二度、お前の口から『タカユキ』って言葉を聞いた事が有る、中洲でお前が酔い潰れて、俺が背負って連れて帰って来た時だ。俺の事を呼んだんだと思った、求めたんだと思った。一回目は思い止まったが、二回目はお前が完全に寝入らなきゃ最後迄やってただろうな。まぁ、その意味に気が付いたのは認識票の文字を解読した後だがよ……それから後はもう分かってたよ、お前が俺に旦那を重ねてるんだろうって事は」
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