大和―YAMATO― 第二部

良治堂 馬琴

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第146章『過去』

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第146章『過去』

 階段を降りて来る静かで軽い気配と音、それが玄関へと向かい出て行く様子に目を覚ました敦賀が頭を持ち上げてみれば、廊下側に位置に寝ていたカタギリがそれよりも早く起き上がり、部屋を出て行くのが常夜灯の明かりの中に朧気に見えた。
 出て行った気配はタカコのものだ、こんな夜中に何処に行くのかと自分も後を追おうと起き上がれば、同じ時機で身体を起こしたキムが
「敦賀上級曹長、ケインに任せておいてくれないか」
 と、寝起きの掠れを漂わせつつも穏やかな声音で話し掛けて来る。
「……この辺りには不慣れだろうが、夜中に道に迷われても厄介だ」
 キムの言葉をそう言って無視して立ち上がり玄関へと向かえば、キムもまたその後を追い客間を出て来る。揃って靴に足を突っ込んで外へと出てみればもう夜明けが近いのか肌寒さすら感じる程の空気が剥き出しになった腕や首筋を撫で上げた。
「……何処に行きやがった」
「大丈夫、ケインが後を追ったからボスも遠くには行かない、その内戻る。俺達はここで待っていれば良い」
「こんなに冷えてるのにあんな裸みてぇな格好で――」
「それも大丈夫だ、ケインが上着を持って行った様だから。ボスの傍にいれば我々はお世話係も兼ねる、その辺りの事に抜かりは無い。安心して良い」
 穏やかな声音が自分が後を追う理由を丁寧に潰していき、何とも不愉快な事だと小さく舌打ちをすれば、それがキムにも伝わったのか彼は申し訳無さそうに笑って再度口を開く。
「そう嫌わないでくれ、俺はケインとは違って別に君に対して負の感情は無い。君がボスに対して抱いている感情も凡そのところは理解しているつもりだが、それにどうこう言う気も無いし否定もしない。ただ……今は、ボスを追わないでやって欲しいんだ」
 思わせぶりなキムの言葉、何が言いたいと見遣れば、キムは少し困った様に微笑んで、ズボンのポケットから煙草を取り出して火を点け、敦賀にも煙草を一本とマッチを差し出し勧めて来た。高根と言い黒川と言い、普段接する人間は何かと押しの強い人間ばかり、そんな中でこう穏やかに来られると調子が狂う、そう思いつつも煙草とマッチを受け取り火を点け、まだ暗い空に向かって肺腑から煙を吐き出しつつキムに言葉を投げつけてみる。
「それで?追うなって理由は?」
「……ボスの極々個人的な事だ、ボスの御意向も仰がずに俺の口から言える事じゃない。本当ならケインも近付けずにお一人で色々と考えたいんだろうとは思うが、こればかりは俺達の立場も有るからな。申し訳無いが我慢して頂くしか無い」
 穏やかで静かなキムの言葉、その端々に違和感を感じた敦賀がまじまじと彼の方を見てみれば、言わんとする事は分かっているのだろう、にっこりと笑って煙を吐き出しながらキムは言葉を続ける。
「……俺は、いや、俺達は、軍しか知らない、戦う事しか知らない。軍でしか生きられないのに、その軍から不要と判断されたんだ。そうなればもう壊れて野垂れ死ぬしか無いが、それを拾い上げて下さったのがボスだ。だから俺達はあの方に絶対的な忠誠を誓ってる。国や軍に対しての忠誠も恩義ももう感じないが、生きる場所と意味を与えて下さったボスには全てを捧げると誓った、あの方の命令ならばどんな事でも実行する、今の俺達にとっては、あの方の存在そのものが生きる意味だから。まぁ、上官と部下と言うよりは最早神とそれを信仰する信者だな」
 先程から感じていた、尊敬する上官というよりは、何かとても神聖な存在を崇め奉る様なキムの話し振り、それが理由なのかと得心し、それと同時に沸き上がって来た不快感に小さく歯を軋らせた。自分の知らないタカコ、それを熟知し深く関わっているであろうキムとカタギリ、まるで自分は蚊帳の外に追い出されている様で、それが何とも面白くない。
「そう怒らないでくれ、出会いの時機ばかりは俺達にもどうしようもない。君はこの二年間、誰より近い場所でボスと深く関わって来た、それで納得してもらえないか?」
 キムの言う事も尤もだ、キムもカタギリも、そしてタカコも何等落ち度や非が有るわけではない、彼女がこの国にやって来てからの二年間しか繋がりが無い事は誰が悪いのでもない、単なる自分の僻みなのだろう。
 と、そんな事を考えていた敦賀の脳裏に不意に蘇ったのは先程のキムの言葉。タカコと自分の関係を勘付いていて、その事に口を挟む気は無いと彼は言ったが、彼女の夫の事を知らないわけが無い、その事についてどう思っているのかと問い掛けようとするが、言葉は喉元迄上がって来て、そこで動きを止めてしまう。
 タカコの初陣の朝に彼女自身の手によって首へと提げられ、それから肌身離さずに身に付けている亡夫の認識票、夫との関係は決して悪いものでは無かっただろう事はその事からだけでもはっきりと窺える。恐らくは部下であるキムから見てもそう映っていた筈だ、その彼に、自分とタカコの関係をどう思っているのかと問い掛ける事は、無謀で危険極まり無い、敦賀のその意識が言葉を唇から外へと放たれる事に制動を掛けた。
 彼やカタギリに不愉快だと思われたところで自らの想いを封じ込める気も変える気も更々無いが、比較だけはされたくないと、そう思う。既に想い出の中にしかいない亡夫、死者に勝つ事は並大抵の事ではない、黒川が妻である千鶴を亡くしてからの十年間を見て来たのだ、それは痛い程に理解しているつもりだ。
 亡夫の名前すら自分は知らない、今迄の二年間ずっと、タカコへとそれを尋ねる事すらしなかった。それは、最初は彼女に対しての尊重、そして、自らの想いを自覚してからは、自分を守る為の防衛本能。
「敦賀上級曹長?どうかしたのか?」
「……いや……何でもねぇ」
 胸中に湧き上がる重たい感情、それを誤魔化しつつ短く言葉を返し煙草を地面へと打ち捨てて靴底で踏み躙れば、少しずつ明るくなり始めた空の下、シャツを羽織ったタカコと、その半歩後を歩くカタギリの姿が遠くに見えて来て、敦賀はそれを目を細めて見詰めつつ、再度、小さく歯を軋らせた。
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