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第131章『彼女』

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第131章『彼女』

「お疲れさん、乾杯」
「いやマジで疲れたわ、もう暫くはまた博多に引き篭もるね俺は。はい乾杯」
 二条城での会議を終えた夜、高根と黒川は夕食を終えた後、宿の酒場でニッカのグラスを鳴らしていた。
「取り敢えずはこっちの要望は全て通った形だろ、良かったじゃねぇか、俺は別に来なくても良かったかもな」
「いやいや、何が有るか分からんかったし須藤大将の印象も陸のお前がいるのといないのとでは大分違っただろうよ、助かった」
「何もしてねぇけどな」
 もう後は寝るだけにしておこうと入浴も済ませて来た、お互いに楽な格好で、仕事の話はこの程度にしておこうかと飲み始める。決済を貰ったり詳細を説明したりとまだ数日は京都に留まる事になるが、最初にして最大の難関は見事に突破した、これで大手を振って博多に戻れるなと笑い合えば、話題はやはり博多に残して来た部下達の事ばかり。
 誰のところには来月には待望の子供が生まれる、誰は今月結婚予定だったが事件の影響で延期する羽目になった、逆に誰は嫁さんが出て行った、お互いの部下から聞いた更にその下の人間の話、直接知らない間柄である事が殆どだが、それでも適当に時間を潰すにはもってこいの話題。
 そんな軽めの話題から始まって段々と近しい間柄の人物の話題へと移り、それでも二人は敦賀とタカコの事だけは口にしはなかった。理由は、ここが『京都』だから。タカコに対しての統幕の疑念は完全には晴れたわけではないだろう、何処に誰の耳が有るかも分からない状況で彼女とその監視役である敦賀との関係を口にする事は余りにも危険過ぎる、至極真っ当なその判断の下、お互いに示し合わせたわけでもなく、双方彼等の事を口には出さなかった。
「……今頃敦賀、好き放題ヤってんだろうなぁ……相当溜まってただろうし」
 それを破ったのは高根、タカコの名前は出さずに敦賀の事を言えば、ニッカのグラスを呷っていた黒川が突然咽せ、口元を掌で覆い激しく咳き込み始める。
「真吾……!てめぇ、それ言うんじゃねぇよ!考えない様にしてたのに思い出させんな、抉るんじゃねぇ!」
「あららぁ?何、いつも冷静で器用に物事こなしてる龍興君がまさかそんな事言うとはねぇ?」
「うるせぇ……この歳になって女の事で思い通りにならねぇでグダグダ悩む羽目になるとか、自分でも思わなかったわ」
 咳き込んで若干涙目になった黒川の気弱な発言、いつも自信満々のこの男のこんな姿が見られるとはと、高根はおかしくて堪らないといった風情で大笑いして黒川の肩を叩いた。
 彼が女の事で悩むところを見るとは千鶴の事を見初めて以来、しかも今度は実にややこしい三角関係、何がどう転ぶか全く分からないものだなと肩を揺らせて笑いつつ、
「ニッカ、おかわりな」
 そう店員に告げてつまみの豆を口の中に放り込む。
「それで?お前としてはどういうつもりなんだよ?中洲の種馬の異名の通りに遊びで終わらせるつもりならよ、いい加減敦賀に返してやれよ?」
 黒川がその程度の軽い気持ちでない事は高根にも分かっている、昔はともかくとして千鶴と出会ってからの黒川はそれ迄が嘘の様に落ち着いて身綺麗になり、結婚し、その後彼女が亡くなり、それからもずっと長い間千鶴一筋だったのだ。その彼が今更昔に立ち戻るとは思っていない、タカコの事を軽い気持ちで扱っているのではない事も、見ていれば直ぐに分かる。
 敦賀には可哀想だが、この勝負圧倒的に黒川が有利だろう、人心を掴む術に於いてはこの男は天才と言って良い。その彼がこうも一人の女に対しての自分の感情に振り回されている様、それが珍しくておかしくて、少し揶揄ってやれとばかりに思ってもいない事を口にすれば、あからさまにムッとした面持ちで黒川はグラスの中身を飲み干しておかわりをと店員に告げた。
「真吾よ……てめぇが生まれた二日後からの長い付き合いで俺の事未だ理解してねぇのかこのハゲ。今の俺見てて遊びで彼女に接してるとか、そう見えるのかてめぇには」
「いや、全然。ずっと器用に生きて来たおめぇが珍しくおたつく事が多いなとは思うけどよ、本気で惚れてものにしようとしてんだなぁとは思ってるぜ?」
「だったら……遊びとかふざけた事抜かすんじゃねぇよ」
「んでー?進捗はどうなのよ、敦賀から奪えそうなんか?」
 高根のその言葉に黒川は直ぐには答えない、新しく注がれたニッカのグラスを手に取り、その中身を暫く揺らした後に一気に呷り、空になったグラスをまた直ぐに店員に差し出しながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「……ぶっちゃけあの童貞はどうでも良いんだよ、そりゃ多少は彼女があれに心惹かれてるのも分かっちゃいるがよ、それは大して問題じゃねぇ……問題は、彼女自身が心の中に抱えてる事だ」
「心の中?」
「……俺にも詳しくは分からん、ただ……思ってたよりももっとずっと重いものを抱えて背負って……そういう子だよ、彼女は。ま、だからってそれで降りる気も諦める気も無ぇけどな」
「仕事の事とか、そういう事か?」
「どうなんだろうなぁ……どうもどえらい事に関わってる、そんな気がするんだけどな……ま、この話はここ迄にしておこうぜ、酒が不味くなる」
 黒川はそう言ったきりタカコの事を話題にする事は無く、今度は博多や太宰府での細々とした事を話し出す。高根もまたそれに合わせて話題を変え、結局それっきりタカコの事を話題にする事は無かった。
 確かに非常に危うくややこしい立場にいるタカコ、それでも黒川の感じた『もっと重いもの』とは何なのか、男として触れる事もその気も無い高根にとっては感じ取れずにいたそれを黒川から聞かされ、どうも妙な、落ち着かない心持ちにさせられる。
 一度もっと深くタカコと関わり合い話し合ってみた方が良さそうだ、高根はそんな事を考えつつ、グラスの中身を飲み干した。
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