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第13章 休戦会談と蠢く策謀編

第4話 失意と絶望のフィリーネが出会ってしまうのは、かつての大切な人と面影重なる男

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 ・・4・・
 12の月8の日
 午後2時15分
 協商連合首都・ロンドリウム
 フィリーネ私邸

 協商連合首都のロンドリウムは、この日もどんよりくとした天候の日で、冷たい小雨が降っていた。
 ロンドリウムの天気は年間を通じて一日中晴れる日はそう多くない。降水量こそ多くないものの、十二の月という時期はこの地において最も降水量が多い月である。
 故に、帰国してからというもののずっと謹慎状態であるフィリーネの心は尚更暗いものになっていたのである。

「今日も、一人……。昨日は屋敷のメイドがまた一人辞職した。部下は誰一人としてやってこない。私は、一人ぼっちね……」

 目の下にクマを作りどす黒く濁った瞳のフィリーネは、私邸の一階にあるだだっ広いリビングで紫煙をくゆらせ続けていた。格好は黒色のロングスカートに、白色の襟付き長袖シャツに黒のセーター。富裕層においては比較的オーソドックスな室内着のスタイルだった。
 私邸に引きこもるようになってからもう二ヶ月近くが経つ。外出する機会があるとすれば、諮問会やまるで検察官の取り調べのような面談ばかり。帰りにどこかへ寄ることも許されず、人との接触もかなり限られている。
 何せ帰国以来、国民が向ける目はリチリアへ向かう前と真逆になっていたからだ。
 新聞での彼女に対する論は日が経つにつれて厳しいものになっている。帰国当初こそ彼女に対する仕打ちは酷いものではないかという論評があったが、これまでの改革の裏で抑えていた不平不満が噴出。実績を出していたから目立って現れなかったあらゆる物事がここにきて反動の如く出てきたのである。
 それらは改革に反対していた諸氏が邪魔だからと反抗出来ぬよう権力から追いやったり、賄賂の裏を取って陥れたりという政略策謀の類ではよくある話から、ありもしない噂に至るまで様々。ただし噂には、乱れた性的概念という半分本当で半分嘘のものもあった。
 どこからともなく出てくる情報の数々。それはどれもこれも、反対派閥により策略のせいであった。
 だからこそ、フィリーネは街を気軽に歩けない。歩けば冷たい目線を浴びることになるからだ。
 民衆はなんと気まぐれなのだろうか。こうも容易く手のひらを返すものなのだろうか。
 しかし、それが民衆なのである。限られた情報しか得られないからこそ、限られた情報で判断してしまうのであった。
 今やフィリーネは英雄ではなく、策略の為ならどんな所業すら平気で行い、戦場では味方すら殺しかねない恐ろしい化物か何かのように語られていた。

「前の世界も大概クソッタレだけれど、こっちもクソッタレだよ……。どうしていつも、世界は私にこんなに、酷いことをするの……」

 午後にして既に二桁台の煙草を吸っているが、フィリーネはやめられなかった。酒を飲むのもやめられなかった。そうでもしなければ、どうにかなってしまいそうだからだ。

「この世界にはあいつもいない。おじさんもいない。おじいちゃんは、目の前で死んで、私も死んだ」

「信じていた部下は離れていった。だあれも、来ない」

「クリスすらも、あの日から一度も来てくれない……」

「もう誰も、信じられないよ……」

 フィリーネは涙をこぼした。煙草を灰皿に投げ、膝を抱えて泣いた。
 彼女の精神は著しく不安定だ。新聞なんて読まない方が身の為であるから世間とは隔絶されていたし、屋敷の使用人は裏でどんな風に囁いているか分からないから極力顔を合わせていない。部下達はあれから誰とも会っておらず、フィリーネはそれを離れていったと感じていた。
 ただしこれは、反対派閥のせいであった。確かにリチリア以降フィリーネに恐怖を抱き近付かなくなった人物は多い。反対派に唆されて見限った者もいる。だが、昔からの部下はフィリーネと会いたがっていた者はそれなりにいたのだ。
 しかしそれは許されなかった。実質的な謹慎であるフィリーネと接触する事を禁止されており、会える手段が無かったのである。私邸の前には監視にとそこそこの数の兵士がうろついていて、とてもじゃないが近付けなかったのだ。当然クリスを始めとした部下達は歯痒い思いでいたのだが、当然、フィリーネはそれを知る由もない。

「フィリーネ様、今よろしいでしょうか?」

「……なによ」

 幾筋も涙を流していたフィリーネ。そこにドアの向こうから老齢の男の声が聞こえる。
 声の主は、フィリーネの家に古くから仕える執事である。彼はフィリーネが引きこもりのようになってしまってから最もその身を案じる一人であるが、フィリーネは彼すらも信じていない。完全な疑心暗鬼だ。だから決して中には入れようとせず、扉越しでの会話になった。

「先日お伝えした先生が到着されました」

「……先生? 誰よ」

「初めまして、フィリーネ・リヴェット様。私、ラットン中将の命でフィリーネ様の心理療法を担当することになりました、アッシュ・トライソンです」

「心理カウンセラー……? あのクソジ、ラットン中将が?」

「はい。フィリーネ様の心のケアをしに参りました。心中はお察しするに余りあるものです」

「そう……」

 アッシュという男の声がした時、フィリーネは何故か懐かしみを感じた。
 心理療法、つまり心理カウンセラーと名乗る彼は当然この世界の人間であるし初めて耳にする名だ。だから懐かしみ、ましてや温かさを感じるなぞ有り得ない。
 だけれども、フィリーネは扉の先の人物の顔を見たくなってしまった。

「まあいいわ。入りなさい」

「ありがとうございます。では、失礼しますね」

 ガチャリ、と扉が開く音が聞こえる。
 そこにいた男の姿を見て、フィリーネは絶句した。

「う、そ……」

 アッシュという男。彼の外見は身長が一八〇シーラ程度であり、顔立ちは整っているが少し野暮ったい感じであった。心理カウンセラーらしく背広姿に白衣を纏っているし、その顔は協商連合など人類諸国にありがちな、前世で言うのならば西洋系。しかし、彼女は衝撃を受ける。
 面影が、ある人と重なったからだ。

「あき、ふ……」

「いかがなされたのですか、フィリーネ様……?」

「そ、んな……。だって……、だって、あいつ、は……」

「フィリーネ様……?」

 フィリーネはふらふらと立ちがあると、よろよろと歩き出す。
 一歩、一歩と彼へと近付く。
 目の前にいる人物はあの人と違うはずなのに、ここは前世とは違う世界であるのに、どうしてこんな気持ちになっているのだろう。
 早く、確かめたい。私の知るあいつと違うと確信を得たい。
 フィリーネはアッシュの目の前まで近づくと、彼の胸に、そっと頭を置いた。
 そして、匂いをかいだ。

「なんで、なんでよ……。なんで、同じなのよ……」

 違うと信じたかった。そうであれば、諦められたから。
 けれども、よりにもよって、アッシュという男は匂いまであの人に似ていた。
 フィリーネが前世において愛していた人。結婚まで誓ったにも関わらず、とあるテロによって死んでしまった、喪った彼。
 藤和秋文と、そっくりだった。

「フィリーネ様……!?」

「う、ひ、っく……。どうして、なの……。なんで、こんなにも、こんなにも……。そっくり、なのよ……」

「フィリーネ様、どうされたのですか……」

「諦めてた、のに、会えるはずも、ないのに……。う、うう、ううううう……!」

 フィリーネは初対面であるはずアッシュを、無自覚にぎゅう、と抱き締めていた。
 さしものアッシュもこれには困惑する。患者がよたよたと歩いてきたと思いきや訳の分からない事を言って抱きしめてきたのだ。
 アッシュは後ろにいる執事へ首だけ向けるが、執事はこの二ヶ月のフィリーネの有様に加え今の姿を見て泣き崩れてしまっていた。主が、壊れてしまったのだと思ってしまったのだ。

(まいったな……。こんなの予測していないぞ……。)

 アッシュの名を騙るはゾリャーギなのだが、女性の扱いに慣れているとはいってもこのような事態に陥った経験などあるはずもなく、彼は困惑から混乱へと変わる。
 だが、彼も仕事人であるから思考の転換は早かった。

(だが、もしかしたら好都合かもしれない。部屋に入るまでも長いと思っていたが、こいつはありがてえ展開だぜ。)

 彼は内心ほくそ笑む。
 なので彼は、すぐに表へ現す態度を変えた。優しくフィリーネに、囁いた。

「フィリーネ様。貴女の過去に何があったか、深い闇を私は知りません。しかし、私の胸を貸しましょう。それで貴女のぽっかりと空いてしまわれた心がほんの少しでも癒されるのならば、いくらでも、泣いてくださっていいのです」

「ば、か……。ばかばか……。優しい所も、感触も、声まで……。ばか、ばかばかばか……」

 それから、フィリーネは号泣してしまった。泣き続けた。
 この日のカウンセリングはとてもではないがまともに出来ず、ゾリャーギは彼女を慰めるのに終始した。
 全く前進していないように思えるこの光景はしかし、ゾリャーギにとっては大きな前進だった。
 そして、フィリーネにとってはあまりにも不幸な出会いだった。
 嗚呼、運命はどうしてこんなにも彼女に対して残酷なのだろうか。世界はどうして、こんなにも彼女に対して惨い仕打ちをするのだろうか。
 かくして、フィリーネは蟻地獄へと飲まれ始める。
 逃れられない幻想の理想郷への第一歩を、気付かぬ間に踏み入れてしまっていた。
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