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第三章『情熱』

第20話 初めてのオムライス

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 カランコロンカラン。
 かなえが声をかける前に、私はお客様を出迎えにいった。
 今日は二人の女性が訪れた。二人の『お嬢様』をどう挨拶すればいいのか少し迷ったけど、結局普通の台詞にした。

「お帰りなさいませ、お嬢様! のぞみと申します。願い事、聞かせてください」

 言って、私は一礼した。
 気のせいかもしれないけど、私の声は仕事の疲れを帯びている気がする。

「では、ご案内いたします!」

 二人の女性が私に従いながら興奮しているように見えた。
 彼女たちに振り向くと、何らかのチケットを握りしめていることに気づいた。

「今日チケットを配っていましたか?」

 と、私は首を傾げて言った。
 チケットが気になりすぎて訊かずにはいられなかったんだ。
 私の問いに、彼女たちは目を輝かせた。二人は何かをたくらんでいるように目配せをして、右の女性が先に口を開いた。

「そう、私たちはアイドルなんです」

 その言葉に、私は呆気に取られた。
 アイドル、か。生で見るのは初めて。

 ーー何かサインしてくれるかな?

 アイドルのことに気を取られて、私は思わず立ち止まった。
 この中途半端な接客が続いたら、お客様はきっと文句を言うだろう。

「お嬢様たち、こちらにおかけください!」

 そう言うと、彼女たちは席についた。
 二人は笑みを浮かべていたけど、表情が疲れを帯びていた。アイドルはいつも踊ったり歌ったりしているから当然だろう。

「では、ご注文が決まったらお呼びくださいね!」

 言って、私はメニューに目を通している二人の女性から離れた。

♡  ♥  ♡  ♥  ♡

「すみません!」

 その声を聞くと、考え込んでいた私は突然我に返った。
 きびすを返して、お客様のテーブルに向かった。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 答えはもう知っているのに、それでも私はそう訊ねた。
 
 ーー希茶きちゃに違いないと思ったものの、実は答えに拍子抜けした。

「オムライスをください!」

 そういえばそうだね。メイド喫茶の特徴の一つは、メイドがオムライスにケチャップで何かを描いてくれること。
 長い間この不思議なメイド喫茶で働いているせいか、私は普通のメイド喫茶のことをすっかり忘れていた。
 テーブルの向こう側に座っている左の女性は私に視線を向けた。

「あの、注文する前に、私は訊きたいことがあります。願い事が叶うためにここに来たんですけど……」

 やはり皆が希茶きちゃを飲むためにここに来る。それはおそらく、かなえの書いたチラシのせいだろうけど。

『うちのキチャを飲めば、あなたの願い事を一つだけ叶えてあげる』

 そういうキャッチコピーを読むと、実際にここに来て希茶きちゃを飲みたくなるだろう。
 その一方で客足が増えるかもしれないから悪いことじゃないけど……。

「わかりました。チラシを読みましたか?」
「はい! 実は、今朝メイドからもらったんです」

 その言葉に、私はあることに気がついた。

「もしかして、遠くに聞こえた音楽はあなたたちのライブなのでしょうか?」
「そう、私たちは路上ライブをしてたんです!」
「そうですか。来られなくて申し訳ありません。チラシの配りに集中してたんです」

 今は仕事モードだから、そう言ってから思わず頭を下げた。

「いやいや、全然大丈夫です!」

 と、彼女は頭を左右に振りながら言った。

「でも、もしよかったら次のライブにぜひ来てくださいね」

 ライブに誘われて嬉しいけど、仕事が忙しくなるかもしれないし、間に合うかどうかわからない。

「心に留めておきます。では、希茶きちゃを用意しますね」

 言って、私はきびすを返して厨房に向かった。
 希茶きちゃの注ぎ方を教わった日から、厨房でかなえの姿を見かけたことは一度もなかった。
 初めての接客から二週間が経って、私は少しだけ上達した気がする。
 しかも、今は注ぎ方だけではなく、淹れ方も知っている。結局、淹れ方はかなえの言った通りに普通のお茶とまったく変わらない。最初は拍子抜けだと思ったけど、実は簡単でよかった。
 お湯を注いでから、私はカウンターから茶袋を手に取って、急須の中に落とした。
 茶袋が急須の底に落ちると、お湯にさざなみが立つ。
 そして、お湯が完全に紫色に染まったのを確認してから、私は注ぎの準備を始めた。
 急須を手に取ると、かなえの教えをふと思い出した。 

『相談者の願い事を考えながら注ぐんだよ』

 ーー願い事。

 その瞬間、私は本末転倒してしまったことに気がついた。願い事の相談をするのをすっかり忘れてしまったんだ。
 急須と厨房の出口を交互に何回か見てから、私は念のためお客様の相談をすることにした。なぜなら、彼女の願い事を確認したかったから。
 まあ、可愛いアイドルだから下心を持っているとは思わないけど。
 希茶きちゃが冷める前に相談を終えることを願って、私は厨房を出ていった。
 そこのテーブルに目をやると、二人のお客様が笑い合ったりするのが目に入った。
 彼女たちはこちらを向いて、「なぜ何も持てずに戻ってきたんですか?」と言わんばかりに困惑した表情を浮かべている。

「申し訳ございません。私は大事なことを忘れてしまいました。つまり、願い事を訊き忘れてしまったんです」
「あ、そうですね。私の願い事を知らないなら叶えるのは無理でしょう。では、聞いてください」

 その言葉に、私は安堵の溜息を吐いた。
 てっきり怒らせてしまうと思ったけど、彼女は淡々と願い事について語り始めた。

「さっき言ったんだけど、私たちはアイドルです。所属しているグループは『青いドリーマー』と言います。数日前まで私以外のメンバーはいなかったけど、水樹みずきが最近グループに入ってくれたので、私たちは二人で活動し始めました。でも、予算が早くなくなっています。次のライブは満席でないと、もう存続できないとマネージャーさんに言われたんです。でも、私ーーじゃなくて、私たちは歌いたい。踊りたい。皆を幸せにしたいです。だから、お願いします。どうか、次のライブに満席を保証してもらいませんか?」

 彼女たちは頭を下げた。

「わかりました。本当に頑張っていますね。それに、私は次のライブだけではなくて、これからのライブでも青いドリーマーを応援したいと思います」

 私がそう言うと、彼女たちの表情が困りから喜びに変わった。
 正直、私も嬉しくなった。

「少々お待ちくださいませ!」
  
 と、私は厨房に行く前に付け加えた。
 
 ーー希茶きちゃはまだ冷めていないといいなぁ……。

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