【完結】のぞみと申します。願い事、聞かせてください

私雨

文字の大きさ
上 下
2 / 44
第一章『転職』

第2話 ゆめゐ喫茶に来てみませんか?

しおりを挟む
 家に帰ってから、私はすぐに扇風機をつけた。靴を適当に脱いで、どこかに放り投げた。片方の靴が壁にぶつかって、ガチャンと音を立てた。
 結構遅くなったものの、空気はまだ蒸し暑い。今日は間違いなく、本物の真夏日……。
 私は扇風機の前に正座して、顔に吹きつける風を楽しんだ。
 しばらく扇風機を楽しんだあと、私はパソコンの前に移動した。
 もう使い道のない仕事のIDカードを机の上に置いて、パソコンの電源ボタンを押した。
 起動を待ちながら、私は髪をいじったり溜息を吐いたりした。
 数分後、見慣れたログイン画面が表示された。私はユーザーネームとパスワードを適当に打って、メイド喫茶の情報収集を始めた。
 メイドの台詞によどみなく答えられるように初心者向けの動画を観たり記事を読んだりしたあと、私は睡魔に襲われた。
 パソコンを消してから、私は自室に向かい、昼寝した。

♡   ♥   ♡   ♥   ♡

 そして、今夜。
 時刻表などを調べたあと、私は最寄りの駅で夜行列車に乗り込んだ。さっきその列車を降りて、秋葉原にたどり着いたところ。
 目の前、メイド服に身を包んだ数えきれないくらいの女性たちが視界を埋めつくしている。
 おそらく、メイド喫茶の看板娘たちだろう。何らかのチラシを配っているようだ。
 皆がそれぞれの店名を大声で言って、家に帰る途中の社会人の気を引こうとしている。
 ありきたりな店名の中で、一つが浮かび上がったーー

「ゆめゐ喫茶に来てみませんか? うちのキチャを飲めば、あなたの願いを一つ叶えていただけます! どなたでも大歓迎です!」

 ーー

 言葉を聞いても漢字が思い浮かばない。
 気を引いて、私は蛍光灯を見た蛾かのように、そのメイドに近づけずにはいられなかった。

「すみません!」

 そのメイドに声をかけると、彼女はこちらを向いて、笑みを浮かべた。
 小柄な身体からだに黒白のメイド服を着ていて、襟元に桃色のリボンをつけている。
 長い黒髪をツインテールにきつく結んでいる。
 脚に白いタイツを履いていて、つやめいた靴は黒い。

「こんばんはお嬢様! チラシはいかがでしょうか?」

 言って、彼女は手を差し伸べた。
 私も手を伸ばして、反射的にチラシを受け取った。

「実は、ゆめゐ喫茶に行きたいんだけど、その前に訊きたいことがあります」

 チラシの内容を一文字も読まず、私はキチャのことを彼女に直接訊くことにした。
 息を呑んで、再び口を開いた。

「キチャはなんですか?」
「あ、そうですね。キチャは造語なんです。希望の『き』とお茶の『ちゃ』を合わせたら、『希茶きちゃ』となります」

 ーー希茶きちゃ、か。

 このメイド喫茶に行ったら、どうやら零士れいじに会いたいという願いが叶うらしい。
 しかし、行く前にちゃんと考えなければいけない。十年も経っているし、彼はもう私のことが好きじゃないかもしれない。もう他の女性と付き合っているだろう。
 ようするに、『希茶きちゃ』の力で彼を惚れさせるのは
 でも、様子をうかがうくらいなら……。
 
 ーーそう、一か八かだ。

 結局、私はゆめゐ喫茶に行くほうを選んだ。

「あの、結構遅くなったけど、ゆめゐ喫茶はもう閉店したんですか?」

 てっきり頷くかと思いきや、彼女は首を左右に振った。

「いいえ、午後七時まで開いているんです!」

 腕時計に視線を落とすと、ちょうど六時半だった。歩いている時間を含めたら、残り時間は十五分くらいだろう。

「それなら……。今から行ってもいいですか?」
「お嬢様が望むなら、ご案内いたします!」

 彼女は一礼してからきびすを返した。
 太陽の逆光に照らされて、彼女の影が長くなった。
 橙色に染まった空を背後に、私たちは早足でゆめゐ喫茶に向かっていく。

「ゆめゐ喫茶のことを教えてください」

 と、私は何分かの沈黙を破るように切り出した。
 私を案内してくれているメイドは振り返って、歩く速度を落とした。

「そうですね。まずは自己紹介から始めたほうがいいかもしれません……。私はのぞみと申します」
のぞみ、ですか。かっこいい名前! それに、妙にふさわしい……」

 のぞみはあははと吹き出した。

「ありがとうございます。でもね、メイド喫茶の業界では、皆が源氏名を使っているんですよ。つまり、のぞみは私の本名ではありません」

 何時間もメイド喫茶のことを調べたものの、まだわからないところは多い。

「それでは、次はお店のコンセプトを説明しましょうか……。基本的に、来てくれるお客様の願い事を叶える系のメイド喫茶」

 願い事を叶えるのはありふれたことだと思っているのか、のぞみはさりげなく『系』を付けた。

「じゃあ……。具体的にどうやって叶えますか?」
希茶きちゃを飲めばわかるでしょう?」

 言って、のぞみはこちらにウインクした。
 詳しいことまでは言えないのかな……。それとも、彼女もわかっていないのか?
 とにかく、私はこれ以上追及しなかった。そろそろゆめゐ喫茶に着くだろうし、その時は希茶きちゃを身をもって体験できる。
 薄暗い街を歩きながら、私は背筋を伸ばし、涼風すずかぜを楽しんだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

優等生の裏の顔クラスの優等生がヤンデレオタク女子だった件

石原唯人
ライト文芸
「秘密にしてくれるならいい思い、させてあげるよ?」 隣の席の優等生・出宮紗英が“オタク女子”だと偶然知ってしまった岡田康平は、彼女に口封じをされる形で推し活に付き合うことになる。 紗英と過ごす秘密の放課後。初めは推し活に付き合うだけだったのに、気づけば二人は一緒に帰るようになり、休日も一緒に出掛けるようになっていた。 「ねえ、もっと凄いことしようよ」 そうして積み重ねた時間が徐々に紗英の裏側を知るきっかけとなり、不純な秘密を守るための関係が、いつしか淡く甘い恋へと発展する。 表と裏。二つのカオを持つ彼女との刺激的な秘密のラブコメディ。

もしもしお時間いいですか?

ベアりんぐ
ライト文芸
 日常の中に漠然とした不安を抱えていた中学1年の智樹は、誰か知らない人との繋がりを求めて、深夜に知らない番号へと電話をしていた……そんな中、繋がった同い年の少女ハルと毎日通話をしていると、ハルがある提案をした……。  2人の繋がりの中にある感情を、1人の視点から紡いでいく物語の果てに、一体彼らは何をみるのか。彼らの想いはどこへ向かっていくのか。彼の数年間を、見えないレールに乗せて——。 ※こちらカクヨム、小説家になろう、Nola、PageMekuでも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

CODE:HEXA

青出 風太
キャラ文芸
舞台は近未来の日本。 AI技術の発展によってAIを搭載したロボットの社会進出が進む中、発展の陰に隠された事故は多くの孤児を生んでいた。 孤児である主人公の吹雪六花はAIの暴走を阻止する組織の一員として暗躍する。 ※「小説家になろう」「カクヨム」の方にも投稿しています。 ※毎週金曜日の投稿を予定しています。変更の可能性があります。

処理中です...