【完結】雨上がり、後悔を抱く

私雨

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第四章 終わらぬ長雨を凌ぐ

第24話 『9月10日1時』

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 真夜中、俺は突然目が覚めた。
 今は何時なのだろうか。
 一睡もできなかったのか、頭が痛い。しかし、上半身を起こすと、頭痛が不思議と弱まった。
 たんすの上の目覚まし時計を一瞥すると、画面に明るい文字で『01:07』と表示されている。
 俺は頭を抱えながらベッドから立ち上がる。
 隣の夏海はぐっすり眠っているようで、俺の動きに微動だにしなかった。
 もちろん、天井灯をつけてみたらすぐにバレてしまうので、俺は自室を出るまで忍者のようにこっそりと動くしかない。
 目覚まし時計の脇に、夏海からもらった『雨日記』というノートが置いてあった。俺はそれを拾ってから、部屋のドアに向かう。
 幸い、歩いている間に横板がきしむことはなかった。
 そして、次の問題は道に立ちはだかる木製のドア。俺はゆっくりとドアを開けて、できた隙間をすり抜けた。
 廊下にたどり着くと、俺は安堵の溜息を吐いた。なんとかバレずに自室を出ることに成功したらしい。
 しかし、調子に乗るにはまだ早い。
 バレずにこの日記を読めるような場所というと、やっぱりトイレしかないかもしれない。なぜなら、他の部屋だと天井灯の光量が多すぎて、母か夏海がその光に蛾のように引き寄せられ、きっと俺を見つけてしまうから。
 俺は渋々と廊下を進み、トイレのドアを開ける。無事に入ると小さな天井灯をつけて、『雨日記』を読み始めた。

【8月31日】

 ――それが最初の手記の日付だった。俺が雨之島に戻ってきた前日で、雨が降ったらしい日でもある。
 
『今日は雨が降った!
 あたしは雨を見たことがないから、結構興奮していた。
 でも、結局親はあたしを外に出させてくれなかったから、窓から見ることしかできなかったんだ。
 とにかく、すごく面白かった。親によると雨は危険なんだけど、あたしにとってはかなり楽しいみたいだった。
 いつか、雨に濡れることを体験したいと思う。
 ……服がびしょ濡れになっちゃったらアレなんだけどね。』

 読み始めてから一分が経っていた。
 気になっているところはいくつかあるけど、それはプロローグ、または第一章みたいなものだろうと思って、俺は読み続けることにした。

【9月1日】

 ――俺が雨之島に戻ってきた日。俺は興味津々に文字に目を通す。
 
 『ごめん、あたしは何もできなくて……。
 あたしは元気でいるふりをするなんて、もうできない。君を抱きしめたときも、話したときも、あたしはただ君が知っていた夏海の真似をしていたんだ。
 でも本当は、もう感情をコントロールできない。誰かに操られているかのように、あたしの態度や表情が頻繁に切り替わってしまう。それを押さえつけるのに一苦労したよ。
 ああ、この弱々しい身体からだを捨てればいいのかな。そうすれば、あたしは息苦しくなく感じるようになるのかな。
 元をたどれば、あの日の私の馬鹿馬鹿しい行動だったし。やっぱり、最初から雄己を信じていたら……。
 でも、もう取り返しのつかないことをやってしまったから、後悔しても何も変らない。だから、あたしは謝ることしかできない。
 ごめん、雄己。あたしはこれから、君と会えないだろう。』

 その手記を読み終えると、俺は面食らった。前の手記に比べると、雰囲気が一変したと言っても過言ではない。読んでいるだけで、俺は嫌な予感がした。それでも、読み続けるしかない。

【9月7日】

『あたしは家出した。
 高校を卒業したら、皆大学に進学するかな。あたしは大学に行きたくない。
 東京に行きたいと思う。でも、それをお母さんに言ったら、すぐに「ダメよ」と言われちゃったさ。
 日記を書き始めてよかった。こうして八つ当たりもできるし。』

 ページをめくる前に、俺は少し休憩して考えをまとめた。
 これまで読んだからには、夏海はいけないことをしたに違いない。それが雨に関係あるのかは少し意味不明だけど、雨が降った日の翌日にいきなり謝罪するなんて、それは雨病患者である証拠なのではないか。
 しかも、夏海は彼女のお母さん――杏子あんずだっけ、と喧嘩したらしい。夏海は普段お母さんと喧嘩するタイプではないし、打ち明け話の時まで東京に行きたいなんて言ったことはなかった。
 つまり、夏海の行動がおかしくなり始めたのはその頃だったのだろう。
 俺は深呼吸をしてからページをめくった。

【9月8日】

『結局のところ、あたしは死に損なった。』

 それが最初の一行だった。読むと心が貫いたように痛み、俺は読む気力を失った。
 ――密林の件は事故ではなかった。
 それは知らなかったほうがよかったかもしれない。夏海は自殺したくなるほど悲しく、寂しかった。それなのに、俺は気づいてすらいなかった。何もしてあげなかった。ただ、彼女のおかしい行動をわがままだと片付けてしまった。
 俺はもっと早く気づけばよかったのだ。
 後悔していると、俺は涙目になり始めた。視界がぼやけていくにもかかわらず、俺は次の文字を読もうとした。

『雄己たちに見つけられるとは思わなかったんだ。それに、一週間も入院しなければならない。楽しいことも面白いこともない、この病室で。
 あたしの足は早く治ってくれるかな。
 とにかく、あたしはもう自殺する気力を失った。退院したら、雄己と、それに小泉さんと遊びたいと思う。もちろん、ちゃんと勉強するけど、友達と遊ばないとね。
 うふふ。あたしはやっぱりおかしくなっているんだね……。
 あの日の、あたしの過ちのせいで。あたしは一生それを後悔するだろう。
 そういえば、『好奇心は猫をも殺す』ということわざがあるね。なら、あたしはいつかその猫になるんだろう。
 前の手記で随分謝ったけど、もう一度謝らせてね。
 ごめん、雄己。すみません、小泉さん。
 嘘をついてごめん。
 飛び降り自殺してみてごめん。
 雨病うびょうの話を信じなくてごめん。
 あたしは、親を逆らって雨に濡れたんだ。』

 読み終えると、必死に抑えた涙が重力に従ってぽつんとページに落ち、染み渡る。
 俺は涙もろくない。泣いた回数は片手で数えられるくらいだろう。
 涙がまるで滝かのように流れ続けた。夏海が大切にした『雨日記』は次第に濡れていってしまう。
 しかし、俺は文字に吸い込まれているかのように、そのページから顔を背けられなかったのだ。
 俺は興味本位でページをめくってみたけど、その後は白紙しかなかった。
 9月8日、その日から夏海は二度と日記を書かなかった。
 
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 自室に戻ると、夏海はまだぐっすりと眠っている。
 俺は彼女を起こさないように慎重に歩き、ダブルベッドに忍び込んだ。
 目覚まし時計によると、時間は午前1時50分。
 俺にしては長い間の読書だな、と思いながら目をつぶる。
 頭痛が完全に治ったようだし、俺もぐっすり眠れるかな。
 とにかく、明日は絶対に学校に遅刻してしまうだろうね……。

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 翌朝、夏海は起きなかった。
 家を訪ねた鑑識の人によると、夏海の死亡推定時刻はおよそ午前1時だったらしい。
 
 ――死因は言うまでもなく、雨病だったのだ。
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