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第四章 終わらぬ長雨を凌ぐ
第22話 『9月9日22時』
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俺は一時間も黙って時間を潰した。そろそろ寝る時間だし、夏海に立ち向かう気にはならなかった。
俺は大事な人に嘘をつかれた。それをどう受け取ればいいのかさっぱりわからなかった。ただ、夏海と顔を合わせたくなかった。
夏海も気がついたのか、彼女はうなだれたまま、居間の一角に身体を預かっている。
「ごめん、雄己」
夏海は一時間ぶりに喋り出した。しかも、俺に謝ってくれた。
彼女がなぜ謝っているのか、俺は心当たりがあった。
しかし、俺はまだ愚か者のように脳裏によぎる事を否定している。そんなわけないだろ、と自分に言い聞かせている。
俺は返答に窮した。これは適当に相槌を打つ場合ではない、と俺が誰よりもわかっていたから。
突然謝られたら、狼狽えて当然だろう。
「あのね――」「夏海は――」
俺たちの声が被ってしまった。
「あ、夏海は先にどうぞ」
「なんかね、打ち明け話をしようかと思ったんだけど……」
「打ち明け話……? なんだよ急に」
打ち明け話をしても、俺は打ち明けたいことがない。
しかし、夏海の言いたいことを聞きたかった。もしかして、彼女は嘘をついたことを打ち明けるかもしれない。
だから、俺は夏海の話に乗ることにした。
「まあ、面白そう……かな?」
俺が渋々とそう答えると、夏海の表情が一変した。
夏海は自分の罪を打ち明けるのを楽しみにしているのか、なぜか嬉しそうな表情を浮かべている。
彼女のことは本当に謎としか言いようがない。
「じゃ、素直になってね」
夏海はしみじみとそう言った。
そんな声は夏海らしくない、と俺は思いながら答えた。
「俺はいつも素直なんだよ」
しばらくの間、俺たちは何も言わずにいた。
静まり返った居間では、窓にぶつかる雨の音がかすかに聞こえてきた。
俺にとって、その雨はまだ非現実的なもののように思えた。まるで外に降り注いでいる雨は幻視で、耳にした雨音は幻聴かのようだった。
ややあって、夏海は打ち明け話の始まりを告げるように、俺に近寄ってきた。すると、彼女が後ろに何かを隠し持っていることに気づいた。しかし、それが打ち明け話の一環だと思ったので、俺は詮索しなかった。
「じゃ、あたしは先に行くね」
言っていることを母に聞かれたくないのか、夏海は声をひそめておいた。
そのささやき声がASMR動画みたいで、俺の耳に優しく響いた。俺は、この声をもう少し聞きたくなった。
「ああ、どうぞ」
言いながら、俺も声をひそめるようにした。なぜなら、こんなタイミングで母が居間に入ったら、大きな勘違いをしてしまうと思ったから。
窓の下で距離を縮める俺たち。
傍から見たら、いけないことをしようとしているとしか思えないだろう。そう思いながら、俺は自嘲するように苦笑いをした。
夏海は口を開いた。
しかし、いよいよ嘘をついたということを打ち明けると思いきや、彼女は違う言葉を発した。
「高校を卒業したあと、あたしは東京に行きたい」
そう呟いてから、夏海は身体を引いた。
その言葉に、俺は目を見開いた。それは夏海が東京に行きたいことに驚いたのではなく、ようやく夏海が家出した理由に気がついたから。
もしかして、彼女はそれをお母さんに言って、拒絶されて、大喧嘩して、家出したのだろうか。
そして、夏海は母と喧嘩したことを後悔したのか、自暴自棄になってしまい、飛び降り自殺するために密林の深そうな穴に飛び込んだのかな。
その後、病室で自分の行動を反省して、やっぱり自殺しないほうがいいと気づいたのかもしれない。
俺は自分の仮説に納得がいった。つまり、夏海は俺が思っていたより大きなことを隠しているのだ。
俺は今まで打ち明けたいことがないと思っていた。しかし、それは違う。なぜなら、俺は本音を夏海に打ち明けたいから。
「じゃ、雄己の番だね。何を打ち明けるかなぁー」
俺は夏海に近寄らなかった。もう母がこの話を聞いても構わないと思ったから。ただ、夏海が嘘つきであることを皆に伝えたかった。
「夏海は本当に素直になれないよな」
「え?」
夏海は小首を傾げて、少し口を開けた。
「俺が打ち明けたいことは、夏海の嘘を見破ったってことだよ」
今度は夏海が目を見開く番。
彼女は今、『打ち明け話をしよう』と提案したことを悔いているのだろうか。そうしてくれなかったら、俺は本音を言う機会がなかったかもしれない。
「夏海は結構苦しんでるんじゃないかと思うんだ。ただ、それをなんで俺に言えないかさっぱりわからない」
俺がそう言った途端、夏海はまるでとどめを刺されたようだった。
彼女は顔を背けながら、小刻みに震えている手を必死に抑えようとした。
――俺のほうが正しいのだろうか? それとも、夏海をほっておいたほうがいいのかな?
そんなことで頭を悩ませながら、俺は夏海の返事を待った。
しかし、彼女は何も言ってくれなかった。
気がつくと、居間の空気が気まずくなってきた。それは小泉さんと一緒にいたときのことを思い浮かばせた。そういえば、小泉さんは今何をしているのかな?
俺は小泉さんにメッセージを送ろうと思い、ポケットから携帯を取り出そうとしたけど、すぐにやめた。なぜなら、まだ打ち明け話中だから。夏海に訊きたいことがたくさんあるし、今は携帯をいじる場合ではない。
「夏海、君は雨を見たことがあるんだね」
また質問を訊かれて、夏海は突然視線をこちらに戻した。
「何なんだよ、打ち明け話より事情聴取になってしまったわ」
と、夏海は声を荒げて言った。
夏海の態度がおかしくなっているのを、今更ながら俺はよくわかっている。季節のように徐々に変わっていく彼女に、俺も小泉さんも今まで気づかなかった。
わけもなく喜怒哀楽がおかしくなってしまう。それは雨病そのものだ。
――それなら、夏海は紛れもなく雨病患者なのだ。
不思議に思ったことが全部ジグソーパズルのように組み合わさった。
目を瞑ると、今までのことが走馬灯のように駆け巡った。
俺が雨之島に戻ってきた日のこと。
夏海が穴に落ちてしまった日のこと。
最後に、彼女が病室で過ごした一週間のこと。
再び目を開けると、夏海は静かに泣いていた。その涙は雨粒のようにポツリと落ちてきて、床に敷かれたカーペットに染み渡る。
俺は今まで、夏海が泣いている姿を見かけたことがなかったのだ。彼女はいつも好奇心旺盛で、元気で、普通に泣かないタイプだから。
俺は呆然と夏海の顔を見つめることしかできなかった。慰めの言葉どころか、何も言えなくなった。
確かにこのタイミングで母が入ったら困るな、と俺は身勝手な思いもした。しかし、それより俺は夏海に気を使うべきだ。彼女が本当に雨病患者だとしたら、死期が迫っているかもしれない。
だから、俺はもう夏海を怒らせたりしたくない。雨病患者が喜怒哀楽をコントロールできないということも、反抗期を思わせるような頻繁に変わる態度も夏海のせいではないということもよくわかっているから。
ただ、知りたいことは一つだけ。
夏海が雨の中を外出した理由。
「ごめん」
夏海はいきなり謝った。そして、彼女はずっと隠し持っていたものをようやく俺に見せてくれた。
それは何らかの日記のようだった。青い表紙に『雨日記』と白い文字で書いてあった。
「これを読んでほしいの。でも、もう少し待ってください。明日になったら、ゆっくりと、じっくりと読んでほしいから」
涙を手で拭いながら、夏海はそう言った。
しかし、彼女の涙は止まることなく豪雨のように降り注いだ。
「わかった。俺はちゃんと読むよ」
俺がそう言うと、夏海はほっとした表情を浮かべた。
それを見て、俺も胸をなでおろした。なぜなら、俺の知っている夏海を垣間見た気がしたから。
夏海は顔を上げて、こちらに笑顔を見せてくれた。
俺は彼女に釣られて、思わず笑みを浮かべた。
外では雨がまだ降っている。すでに飽きてしまった単調な雨音を聞きながら、俺は夏海を強く抱きしめた。
俺は大事な人に嘘をつかれた。それをどう受け取ればいいのかさっぱりわからなかった。ただ、夏海と顔を合わせたくなかった。
夏海も気がついたのか、彼女はうなだれたまま、居間の一角に身体を預かっている。
「ごめん、雄己」
夏海は一時間ぶりに喋り出した。しかも、俺に謝ってくれた。
彼女がなぜ謝っているのか、俺は心当たりがあった。
しかし、俺はまだ愚か者のように脳裏によぎる事を否定している。そんなわけないだろ、と自分に言い聞かせている。
俺は返答に窮した。これは適当に相槌を打つ場合ではない、と俺が誰よりもわかっていたから。
突然謝られたら、狼狽えて当然だろう。
「あのね――」「夏海は――」
俺たちの声が被ってしまった。
「あ、夏海は先にどうぞ」
「なんかね、打ち明け話をしようかと思ったんだけど……」
「打ち明け話……? なんだよ急に」
打ち明け話をしても、俺は打ち明けたいことがない。
しかし、夏海の言いたいことを聞きたかった。もしかして、彼女は嘘をついたことを打ち明けるかもしれない。
だから、俺は夏海の話に乗ることにした。
「まあ、面白そう……かな?」
俺が渋々とそう答えると、夏海の表情が一変した。
夏海は自分の罪を打ち明けるのを楽しみにしているのか、なぜか嬉しそうな表情を浮かべている。
彼女のことは本当に謎としか言いようがない。
「じゃ、素直になってね」
夏海はしみじみとそう言った。
そんな声は夏海らしくない、と俺は思いながら答えた。
「俺はいつも素直なんだよ」
しばらくの間、俺たちは何も言わずにいた。
静まり返った居間では、窓にぶつかる雨の音がかすかに聞こえてきた。
俺にとって、その雨はまだ非現実的なもののように思えた。まるで外に降り注いでいる雨は幻視で、耳にした雨音は幻聴かのようだった。
ややあって、夏海は打ち明け話の始まりを告げるように、俺に近寄ってきた。すると、彼女が後ろに何かを隠し持っていることに気づいた。しかし、それが打ち明け話の一環だと思ったので、俺は詮索しなかった。
「じゃ、あたしは先に行くね」
言っていることを母に聞かれたくないのか、夏海は声をひそめておいた。
そのささやき声がASMR動画みたいで、俺の耳に優しく響いた。俺は、この声をもう少し聞きたくなった。
「ああ、どうぞ」
言いながら、俺も声をひそめるようにした。なぜなら、こんなタイミングで母が居間に入ったら、大きな勘違いをしてしまうと思ったから。
窓の下で距離を縮める俺たち。
傍から見たら、いけないことをしようとしているとしか思えないだろう。そう思いながら、俺は自嘲するように苦笑いをした。
夏海は口を開いた。
しかし、いよいよ嘘をついたということを打ち明けると思いきや、彼女は違う言葉を発した。
「高校を卒業したあと、あたしは東京に行きたい」
そう呟いてから、夏海は身体を引いた。
その言葉に、俺は目を見開いた。それは夏海が東京に行きたいことに驚いたのではなく、ようやく夏海が家出した理由に気がついたから。
もしかして、彼女はそれをお母さんに言って、拒絶されて、大喧嘩して、家出したのだろうか。
そして、夏海は母と喧嘩したことを後悔したのか、自暴自棄になってしまい、飛び降り自殺するために密林の深そうな穴に飛び込んだのかな。
その後、病室で自分の行動を反省して、やっぱり自殺しないほうがいいと気づいたのかもしれない。
俺は自分の仮説に納得がいった。つまり、夏海は俺が思っていたより大きなことを隠しているのだ。
俺は今まで打ち明けたいことがないと思っていた。しかし、それは違う。なぜなら、俺は本音を夏海に打ち明けたいから。
「じゃ、雄己の番だね。何を打ち明けるかなぁー」
俺は夏海に近寄らなかった。もう母がこの話を聞いても構わないと思ったから。ただ、夏海が嘘つきであることを皆に伝えたかった。
「夏海は本当に素直になれないよな」
「え?」
夏海は小首を傾げて、少し口を開けた。
「俺が打ち明けたいことは、夏海の嘘を見破ったってことだよ」
今度は夏海が目を見開く番。
彼女は今、『打ち明け話をしよう』と提案したことを悔いているのだろうか。そうしてくれなかったら、俺は本音を言う機会がなかったかもしれない。
「夏海は結構苦しんでるんじゃないかと思うんだ。ただ、それをなんで俺に言えないかさっぱりわからない」
俺がそう言った途端、夏海はまるでとどめを刺されたようだった。
彼女は顔を背けながら、小刻みに震えている手を必死に抑えようとした。
――俺のほうが正しいのだろうか? それとも、夏海をほっておいたほうがいいのかな?
そんなことで頭を悩ませながら、俺は夏海の返事を待った。
しかし、彼女は何も言ってくれなかった。
気がつくと、居間の空気が気まずくなってきた。それは小泉さんと一緒にいたときのことを思い浮かばせた。そういえば、小泉さんは今何をしているのかな?
俺は小泉さんにメッセージを送ろうと思い、ポケットから携帯を取り出そうとしたけど、すぐにやめた。なぜなら、まだ打ち明け話中だから。夏海に訊きたいことがたくさんあるし、今は携帯をいじる場合ではない。
「夏海、君は雨を見たことがあるんだね」
また質問を訊かれて、夏海は突然視線をこちらに戻した。
「何なんだよ、打ち明け話より事情聴取になってしまったわ」
と、夏海は声を荒げて言った。
夏海の態度がおかしくなっているのを、今更ながら俺はよくわかっている。季節のように徐々に変わっていく彼女に、俺も小泉さんも今まで気づかなかった。
わけもなく喜怒哀楽がおかしくなってしまう。それは雨病そのものだ。
――それなら、夏海は紛れもなく雨病患者なのだ。
不思議に思ったことが全部ジグソーパズルのように組み合わさった。
目を瞑ると、今までのことが走馬灯のように駆け巡った。
俺が雨之島に戻ってきた日のこと。
夏海が穴に落ちてしまった日のこと。
最後に、彼女が病室で過ごした一週間のこと。
再び目を開けると、夏海は静かに泣いていた。その涙は雨粒のようにポツリと落ちてきて、床に敷かれたカーペットに染み渡る。
俺は今まで、夏海が泣いている姿を見かけたことがなかったのだ。彼女はいつも好奇心旺盛で、元気で、普通に泣かないタイプだから。
俺は呆然と夏海の顔を見つめることしかできなかった。慰めの言葉どころか、何も言えなくなった。
確かにこのタイミングで母が入ったら困るな、と俺は身勝手な思いもした。しかし、それより俺は夏海に気を使うべきだ。彼女が本当に雨病患者だとしたら、死期が迫っているかもしれない。
だから、俺はもう夏海を怒らせたりしたくない。雨病患者が喜怒哀楽をコントロールできないということも、反抗期を思わせるような頻繁に変わる態度も夏海のせいではないということもよくわかっているから。
ただ、知りたいことは一つだけ。
夏海が雨の中を外出した理由。
「ごめん」
夏海はいきなり謝った。そして、彼女はずっと隠し持っていたものをようやく俺に見せてくれた。
それは何らかの日記のようだった。青い表紙に『雨日記』と白い文字で書いてあった。
「これを読んでほしいの。でも、もう少し待ってください。明日になったら、ゆっくりと、じっくりと読んでほしいから」
涙を手で拭いながら、夏海はそう言った。
しかし、彼女の涙は止まることなく豪雨のように降り注いだ。
「わかった。俺はちゃんと読むよ」
俺がそう言うと、夏海はほっとした表情を浮かべた。
それを見て、俺も胸をなでおろした。なぜなら、俺の知っている夏海を垣間見た気がしたから。
夏海は顔を上げて、こちらに笑顔を見せてくれた。
俺は彼女に釣られて、思わず笑みを浮かべた。
外では雨がまだ降っている。すでに飽きてしまった単調な雨音を聞きながら、俺は夏海を強く抱きしめた。
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