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第一章 赤き花の群生
第1話 唯一の居場所
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周りの広大な畑が燃え盛るようにどこまでも赤く染まっていく。
見渡す限りの彼岸花も、真ん中に立っている私の制服も、清々しい涼風に舞い踊っている。
まるで、世界が目の前で打って変わっているかのようだった。
ここに私だけがいる。おそらく、この場所は私にしか知られていないから。
それでも寂しくはない。ここは辺鄙なド田舎のつまらない毎日から現実逃避できる、私の唯一の居場所だ。
クラスメイトか母に見せたいとは何度も思ったが、そうすれば私の最後の居場所がきっと消えてしまう。
これから、どうすればいいのだろう――。
⯁ ⯁ ⯁
家に帰ると、私は適当に靴を脱いで下駄箱に放り込んだ。母に見られても困るが、幸い彼女はまだ台所で晩ごはんを作っているところだ。
「ただいま!」
そう言って、私は少し休もうと自室に向かおうとする。
しかし、その矢先に台所から母のくぐもった声が私を呼び止めた。
「彩夏ぁ、料理の手伝いをしなさいよ」
――もう、夕食前に一睡したかったのに。
私は上りかけた階段を渋々と下り、台所に入った。
静かな台所に、包丁の音が響く。
私ができるだけ早く料理を終わらせようと冷蔵庫を開けようとした矢先に、母がまた話しかけた。
「エプロンは大事よ。着けるの忘れないでね」
「はーい」
私は溜息交じりに答えた。
無造作にエプロンに頭を通してから、紐に挟まった髪の毛を引っ張り出すなりポニーテールに結んだ。
やはり料理はめんどくさい。毎日三食を作ってくれる母に感謝してもしきれない。
「青ネギはもう切ったけど、トマトを切ってほしい。気をつけてね」
「了解」
そう言って、私はカウンターに置かれた包丁を手に、トマトを切り始めた。
料理に慣れていないせいか、右手が小刻みに震えている。
四方八方に飛び散る紅いトマトの中身が視界をかすめてまな板に着地するたび、どうしても彼岸花を連想せざるを得なかった。
「あのね、彩夏。最近口数が少なくなったね。大丈夫なの?」
「だ、大丈夫……」
「本当? お母さんはいつでも相談に乗ってあげるからね」
その言葉を聞いて、私は一瞬ためらった。
母なら、私の居場所を教えてもいいかもしれない、と。
いや、教えていいわけがない。もし母が知っていたら、そこに行くことを禁じかねない。
「ところで、今日の帰りはいつもより遅かったのね。どこかに寄ったの?」
私はトマトを切る手を止め、おもむろに母に視線を向けた。
「電車が遅れただけ」
その言葉に、母は私の真っ赤な嘘を看破したといわんばかりに笑う。
「そうか。電車が遅れたかぁ」
幸いなことに、母はこれ以上追及しないでくれた。その代わり、私の調理を観察しにこちらに向かってきた。
私は下ごしらえを再開し、母が感心するようにトマトをできるだけ綺麗に切ろうとし始めた。
トマトを切り終えたら、あとは母に任せよう。
その後、母は青ネギと我ながら器用に切ったトマトをフライパンに入れ、火加減を調整した。
「ところで、」
その組み合わせを見ると、一体何を作っているのかがどうしても気になってしまう。
「トマトと青ネギをフライパンに入れて、何を作るつもりなの?」
「あはは。出来上がったらわかるでしょ。とにかく、よくできたね彩夏。もう部屋に戻っていいよ」
私は自室に戻ろうと踵を返したが、結局続きを見ずにはいられなかった。まだエプロンをつけているし、手伝うなら今だ。
「実は、今日はもっと手伝いたいと思うよ。次は何すればいい?」
他の人なら普通の言葉だろうが、私は料理が好きではない。
だから、思いがけない言葉を聞いた母の驚愕にすんなり納得できる。おそらく、聞き間違えたのかとでも思っているのだろう。
「やっぱりおかしいわよ、彩夏。もちろん文句は言わないけど、今更どうして手伝いたくなったの?」
「三食を作ってくれるお母さんに恩返ししなきゃと思ったし、」
私は飛び散ったトマトの中身で点々紅く染まったまな板に視線を落とし、目を瞑った。
「それに……部屋にいてもバタバタするばっかだし。もっと役に立ちたいなぁと思ったんだ」
「ありがとう、彩夏。でも料理はしたくないなら、他に役に立つ方法がたくさんあるよ」
どうやら、痒いエプロンの紐をいじっているのがバレてしまったようだ。
「うん、わかった。じゃ、悪いけど料理は母に任せてもいい?」
「ええ」
何かを思い出したのか、母は突然顔をしかめた。
「そういえば、宿題しないよ!」
確かに、宿題はまだやっていなくて……。
「は、はい!」
逃げ場を失う前に、私は必死にエプロンを外し、髪を下ろさずに台所を辞去した。
――危なかった。
しかし、居場所のことを訊かれずにすんでよかった。
皿を拾ったり置いたりする音が台所内に響く。
フライパンから立ちのぼる湯気の香りが空気に漂っている。
それを見つめていると、私は思わず笑みを浮かべた。
「結局、オムレツを作ってたんだね。意外」
「何を作ればいいのかわからなかったし、作りやすいからオムレツがいいかなと」
そう言いながら、母はオムレツを皿に載せて私に手渡した。
「美味しそう!」
オムレツを目前に、私は一刻も早く食べたいという衝動を抑えようとする。せめて、母が席に着くまでは我慢しないと。
「そういえば、ちゃんと宿題をやったの?」
「うん! ちょっと難しかったけど、少なくとも全部答えてみた」
母が椅子に腰を掛けるなり、私はいただきますと言って食べ始めた。
「美味しいぃ!」
まだ熱々なので、悲鳴をこらえようとする。本当に美味いのだが、やはり少し待ったほうがいい。
食器を置くと、向こうに座っている母の小さな笑い声が聞こえた。
「まだ食べるには熱すぎるでしょ?」
「だよね……」
ちなみに、賢明なる母はまだ食べ始めていない。
オムレツを冷まそうとしていると、あることがふと脳裏をよぎった。
彼岸花畑にいたとき――。
実は一人きりではなかったかもしれない。
見渡す限りの彼岸花も、真ん中に立っている私の制服も、清々しい涼風に舞い踊っている。
まるで、世界が目の前で打って変わっているかのようだった。
ここに私だけがいる。おそらく、この場所は私にしか知られていないから。
それでも寂しくはない。ここは辺鄙なド田舎のつまらない毎日から現実逃避できる、私の唯一の居場所だ。
クラスメイトか母に見せたいとは何度も思ったが、そうすれば私の最後の居場所がきっと消えてしまう。
これから、どうすればいいのだろう――。
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家に帰ると、私は適当に靴を脱いで下駄箱に放り込んだ。母に見られても困るが、幸い彼女はまだ台所で晩ごはんを作っているところだ。
「ただいま!」
そう言って、私は少し休もうと自室に向かおうとする。
しかし、その矢先に台所から母のくぐもった声が私を呼び止めた。
「彩夏ぁ、料理の手伝いをしなさいよ」
――もう、夕食前に一睡したかったのに。
私は上りかけた階段を渋々と下り、台所に入った。
静かな台所に、包丁の音が響く。
私ができるだけ早く料理を終わらせようと冷蔵庫を開けようとした矢先に、母がまた話しかけた。
「エプロンは大事よ。着けるの忘れないでね」
「はーい」
私は溜息交じりに答えた。
無造作にエプロンに頭を通してから、紐に挟まった髪の毛を引っ張り出すなりポニーテールに結んだ。
やはり料理はめんどくさい。毎日三食を作ってくれる母に感謝してもしきれない。
「青ネギはもう切ったけど、トマトを切ってほしい。気をつけてね」
「了解」
そう言って、私はカウンターに置かれた包丁を手に、トマトを切り始めた。
料理に慣れていないせいか、右手が小刻みに震えている。
四方八方に飛び散る紅いトマトの中身が視界をかすめてまな板に着地するたび、どうしても彼岸花を連想せざるを得なかった。
「あのね、彩夏。最近口数が少なくなったね。大丈夫なの?」
「だ、大丈夫……」
「本当? お母さんはいつでも相談に乗ってあげるからね」
その言葉を聞いて、私は一瞬ためらった。
母なら、私の居場所を教えてもいいかもしれない、と。
いや、教えていいわけがない。もし母が知っていたら、そこに行くことを禁じかねない。
「ところで、今日の帰りはいつもより遅かったのね。どこかに寄ったの?」
私はトマトを切る手を止め、おもむろに母に視線を向けた。
「電車が遅れただけ」
その言葉に、母は私の真っ赤な嘘を看破したといわんばかりに笑う。
「そうか。電車が遅れたかぁ」
幸いなことに、母はこれ以上追及しないでくれた。その代わり、私の調理を観察しにこちらに向かってきた。
私は下ごしらえを再開し、母が感心するようにトマトをできるだけ綺麗に切ろうとし始めた。
トマトを切り終えたら、あとは母に任せよう。
その後、母は青ネギと我ながら器用に切ったトマトをフライパンに入れ、火加減を調整した。
「ところで、」
その組み合わせを見ると、一体何を作っているのかがどうしても気になってしまう。
「トマトと青ネギをフライパンに入れて、何を作るつもりなの?」
「あはは。出来上がったらわかるでしょ。とにかく、よくできたね彩夏。もう部屋に戻っていいよ」
私は自室に戻ろうと踵を返したが、結局続きを見ずにはいられなかった。まだエプロンをつけているし、手伝うなら今だ。
「実は、今日はもっと手伝いたいと思うよ。次は何すればいい?」
他の人なら普通の言葉だろうが、私は料理が好きではない。
だから、思いがけない言葉を聞いた母の驚愕にすんなり納得できる。おそらく、聞き間違えたのかとでも思っているのだろう。
「やっぱりおかしいわよ、彩夏。もちろん文句は言わないけど、今更どうして手伝いたくなったの?」
「三食を作ってくれるお母さんに恩返ししなきゃと思ったし、」
私は飛び散ったトマトの中身で点々紅く染まったまな板に視線を落とし、目を瞑った。
「それに……部屋にいてもバタバタするばっかだし。もっと役に立ちたいなぁと思ったんだ」
「ありがとう、彩夏。でも料理はしたくないなら、他に役に立つ方法がたくさんあるよ」
どうやら、痒いエプロンの紐をいじっているのがバレてしまったようだ。
「うん、わかった。じゃ、悪いけど料理は母に任せてもいい?」
「ええ」
何かを思い出したのか、母は突然顔をしかめた。
「そういえば、宿題しないよ!」
確かに、宿題はまだやっていなくて……。
「は、はい!」
逃げ場を失う前に、私は必死にエプロンを外し、髪を下ろさずに台所を辞去した。
――危なかった。
しかし、居場所のことを訊かれずにすんでよかった。
皿を拾ったり置いたりする音が台所内に響く。
フライパンから立ちのぼる湯気の香りが空気に漂っている。
それを見つめていると、私は思わず笑みを浮かべた。
「結局、オムレツを作ってたんだね。意外」
「何を作ればいいのかわからなかったし、作りやすいからオムレツがいいかなと」
そう言いながら、母はオムレツを皿に載せて私に手渡した。
「美味しそう!」
オムレツを目前に、私は一刻も早く食べたいという衝動を抑えようとする。せめて、母が席に着くまでは我慢しないと。
「そういえば、ちゃんと宿題をやったの?」
「うん! ちょっと難しかったけど、少なくとも全部答えてみた」
母が椅子に腰を掛けるなり、私はいただきますと言って食べ始めた。
「美味しいぃ!」
まだ熱々なので、悲鳴をこらえようとする。本当に美味いのだが、やはり少し待ったほうがいい。
食器を置くと、向こうに座っている母の小さな笑い声が聞こえた。
「まだ食べるには熱すぎるでしょ?」
「だよね……」
ちなみに、賢明なる母はまだ食べ始めていない。
オムレツを冷まそうとしていると、あることがふと脳裏をよぎった。
彼岸花畑にいたとき――。
実は一人きりではなかったかもしれない。
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