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医食武同源 第二話/朝粥と蜘蛛立ち・医術編

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   一

 ───早朝。
 群れ飛ぶ雀の姿も、まばら。
 ここは暮石六庵くれいしろくあんの屋敷、「他流試合勝手次第、飛道具其外矢玉にても苦しからず」の看板が、無造作に掲げられている。
 拍子木で叩かれて、ピクンと伸びる太道の膝を見て、六庵はうなずいた。
「ずいぶんと良くなったの、軽くでも叩いても応じるのう」
「玄米を食するようにしましたら、家の者も体調が良くなりまして」
 ハキハキと答える、太道典おおみちのりろうであった。

 ここは診察室。
 太道の脚気を診察する六庵に、笑みが浮かぶ。
「拙者もゆ~っくりと飯を噛むようにして、胃弱が少し治まりました」ととり呉江ごえゆうしん
うんうんうなずく暮石六庵。
「早飯早糞も芸の内と申すが、飯はゆっくり食べた方が少量で満腹になるしのう。早飯は大食いになりがちじゃ」
「たは~、犬みたいに急いで食うなと、母上にもよく叱られます」
 診察道具をかたずかながら、六庵が待ちかねた言葉を発する。
「ではあさを馳走しようかの」
 間髪を入れず太道と鳥呉江は即答した。
「「ありがとうございます!」」


   二

 六庵から出された膳に並べられたのは……かゆと梅干し、鰹節の削り、おぼろ昆布、浅漬、菜のおひたしなどの、各種小鉢料理。
 予想外の朝餉に、驚いた表情かおの鳥呉江である。
「粥……ですか」
「江戸では朝に飯を炊き、昼と夜はひつに入れた冷や飯を食うが。上方では夜に飯を炊き、翌朝それを茶漬けや粥にして喰うのじゃよ」
「そういえば暮石先生は、方洪庵がたこうあん先生の、てきじゅくでも学ばれたそうですね」

 緒方洪庵は、大坂の医師であり蘭学者である。
 岡山の足守藩士・佐伯瀬左衛門惟因の三男として生まれ、父が足守藩大坂蔵屋敷の留守居役となったため、大坂へ移る。
 蘭学者の中天游なかてんゆうの思々斎塾に入門、蘭学を四年間学ぶ。江戸へ出てつぼ信道のぶみち宇田うだ川玄真がわげんしんに学び、さらに長崎へ遊学しオランダ人医師ニーマンに医学を学ぶ。
 蘭学塾「適塾──正確には適々斎てきてきさいじゅくを、緒方洪庵が大坂の津村東之町に開いたのが、天保九年のことであった。

 六庵、粥を食べ始める。
「わしは上方流の朝粥が、身体には良いと思う」
「なぜでございます? 粥というと、どうも病人の食という感じがしますが」
「炊きたての飯は確かに美味いが、朝から何杯もは食えまい?」
 六庵は鰹節を粥の上にパラリと振り撒き、軽く混ぜながら問うた。
 鰹節には、必須アミノ酸八種類がすべて含まれ、低脂肪高蛋白質の食材である。
 出汁だしを取るのにも使われるが、削って花鰹にして食しても旨い。豆腐も高蛋白な食材であるが、必須アミノ酸のメチオニンを欠いているので、豆腐に鰹節は理に適った食事なのである。

「確かに粥ならば、臓腑にも優しい」と典次郎。
「拙者は朝が弱くて、朝餉を残しては母者に叱られます」と祐之進。
 体格同様、二人は対照的である。
「三合飯四合粥五合団子……と昔から申してな」
「さんごうめし……なんですかな、それは?」
「人が一度に食べられる米は、飯なら三合で粥なら四合、団子なら五合が限度という意味じゃな」
 もちろん、大食いの人間なら一升飯でもペロリであろうが、そういう人間でも粥や団子ならもっと食える、というのが本質である。
「つまり、飯よりも粥の方が、たくさん食べられるんですね」
「太道殿はともかく、鳥呉江殿のように食が細い人間には、粥の方が朝餉に向いていると思う。わしは粥に梅干しか季節の浅漬、味噌汁があれば言うこと無しじゃのう」

   三

 梅干しの身をほぐし、粥に軽く混ぜると六庵は、日の丸のようになったそれを、サラサラと味わうのであった。
 梅干しに含まれるクエン酸は、エネルギーを燃焼する時に生まれる乳酸を分解し、疲労しにくくなる、または疲労回復が早くなる効能がある。
 またカルシウムの吸収を高める効果もあり、骨粗鬆症の予防にもなる。さらに近年の研究では、高血圧を抑える効果も報告されている。

 美味そうに粥をすすりながら、食談義を続ける六庵らである。
「しかし暮石先生は、質素倹約を旨とされる割に、おかずも豊富なんですなぁ」
「鰹節やメザシなど、少量でもできれば五品は欲しいのう。米・肉・菜・果など数を揃え、一汁一菜が良いとは思わぬな」
「この、鰹節の煮詰めた餡など、美味しゅうございますね」

 質素倹約が美徳とされた日本では、美食を悪徳とする風潮がある。
 中国の史書『十八史略』に、殷の紂王が象牙の箸を作り、それを見た叔父の其子が「象牙の箸を使えば陶器の器では満足できず、玉の器を作る事になるであろう。玉の器に盛る料理が粗末では満足できず、山海の珍味を乗せる事になるだろう」と嘆いたという逸話がある。
 果たして紂王は、贅沢が止められなくなってしまい、酒池肉林という四字熟語を残すし殷王朝を滅ぼすこととなる。
 この逸話からか、食に拘るのは賤しいとされ、質素な粗食を美徳とする風習が生まれたのか。いずれにしろ、華美な食事と健康的な食事は、似て非なるものである。

「さぁ二人とも遠慮なく、お代わりしなさい」
「しかし……朝は腹がもたれて、食が進みませんが……」
「太道殿は、晩飯をたっぷり食うじゃろう? 夜中にたらふく食うと、朝まで腹に食い物が残り、飯が入らぬからのう」
 六庵の指摘に、ポンと手を打つ太道であった。
「確かに晩飯を腹一杯食すと、翌朝は胃がもたれますな。」
「じゃが、夕餉を腹六分目なら、朝は適度に腹が減り、食も進む。最初は慣れぬかもしれんが、次第に体調も良くなるぞ」
「さっそく試してみます!」

    四

 二人の話を聞いていた祐之進が、疑問を挟んだ。
「拙者は食が細いのですが、朝はどうにも調子が上がらず、ぼんやりしております」
「鳥呉江殿は朝が弱いなら、起き抜けに水を飲むのを、試してみてはどうじゃ?」
「顔を洗うときに多少は、飲んでおりますが……」
 祐之進の言葉に、六庵は即座に否定した。
「口をゆすぐ程度ではなく、二合徳利二本は飲むのじゃ」
「四合ですか? しかし暮石先生、それでは水で腹がいっぱいになり、朝餉が入りませぬかな?」
 戸惑う祐之進に、六庵はその問いを予想していたかのように、スルスルと答えた。

「その程度は心配ない。人は寝汗などで思いの外、水が抜けておるものじゃ。起き抜けの小便は、色が濃いであろう? あれは身体が水を欲している、証拠じゃ。朝の飲水に慣れると、尿意と便意が促され、身体がしゃっきりするぞ。水は前日沸かした、白湯の方が腹にも優しい」
 六庵の具体的な指示に、典次郎も祐之進も、ふむふむと聞き入っていた。
「快食と快便とは、切り離せませんからのう」
「快眠と快歩も併せて、日々の営みこそ大事。少し早起きし、水を飲んだら、近所をぐるっとそぞろ歩くのも良いぞ」

 六庵は席を立つと、何やら用意して戻ってきた。
 手にした盆の上には、二合徳利が四本。
「水に一匁か二匁ほど、酢を入れるのも良いのう」
 二合徳利に酢を注ぐと六庵、二人に差し出し飲むよう促す。
「酢は何でも良いが、赤酢(梅酢)や果実を漬け込んだ酢なら、味も良いのう」
「おおこれは何やら、さわやかな香りが」
「青梅の実を、五年も漬け込んだ酢じゃ。香りも良くなり、飲み易いであろう?」
「酸っぱくない、口当たりもまろやかでございますなァ!」

 洗ってへたを取った梅の実を、たっぷりの素で漬け、蜂蜜か氷砂糖を少々加え、風通しの良い暗所で三月も寝かせれば、梅の酢漬けが出来上がる。香り付けに、枸杞くこの実をいっしょに漬け込んでも良い。実は料理に使い、漬け込んだ酢は水で割って呑むに適した物になる。
「蘭学では、体内の不要物を外に出すには、水を多めに取ることを推奨しておるしのう。多少厠が近くなっても、こまめに水を飲むのが長寿の秘訣じゃ」
「拙者は汗っかきゆえ、明日からでも実践します」
「うむ十日で身体の塩梅が変わってくるはずじゃ。汗をかいたぶん、塩けを採るのも忘れずに、な」
 湯のみで酢を割った白湯を、キュッと飲む三人であった。
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