酔いどれ右蝶捕物噺

篁千夏

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第弐話/へっつい幽霊・序章

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   一

「ふぁ~あ……いいお天気だねぇ」
 早朝、生あくびをしながら、戸を開ける老婆が一人。
 名はおきく、貧乏長屋の大家である。
 江戸の朝は早い。
 それでも朱引きの外の練馬などに比べれば、だいぶ宵っ張りではあるが。
 お天道様が昇れば起き、沈めば寝るのが人の本来の生き方である。
 眠りが短くなった老人にとって、早起きはやろうと思わなくてもできてしまうものである。
「あて、まずは洗濯物を片付けて。なんなら水天宮様にでもお参りに……ん?」
 お菊の足下に、泥だらけで白目を向いた、男の死体が転がっていた。
「……ひぃいい! い、行き倒れ…」
 死体の右腕がゆっくりと動き、後退りしようとしたお菊の足首をヌルリと掴んだ。
「いいィやああああ〰〰〰〰!」
 お菊が死体の頭をガシガシ蹴りまくると、死体が叫んだ。
「───イデデデデッ!」

   ◇◇◇

「新八つぁん! おまいさんの酒癖の悪さぁ、目に余るよ」
「あいすいません」
 ボロい長屋の中。
 お菊に説教を食らう新八しんぱちである。
 もう四半刻も、同じことをグチグチと聞かされている。
「店賃を三月もためといて、酒ェ飲む金はあるわけだ?」
「あいすいません」
「あたしゃこれでも町役人、御上の仕事も請け負う立場だ」
「あいすいません」
「だいたい、おまいさんは店子として───」
「あいすい…ま……うんむぐぅっ!」
 吐きそうになるのを両手でグッと押さえ、必至にこらえる新八!
 ……が、押さえた指の間からプピュゥ~っと吹き出す酸っぱい液体。
 直撃されたお菊の絶叫が、長屋に響き渡った。
「このぉ~スットコドッコイが!」

   二

「まいったなぁ……」
 着流し姿で通りを歩く新八。浮かない顔である。
 お菊の言葉を回想しながら、トボトボ歩いている。
 回想の中のお菊は、深川の法乗院の閻魔様のような形相で、
「出てってもらっておうか!」
 取り付く島もない。
 口元を歪め、あわわ顔の新八である。
 江戸は大家の権限が、格段に強い。
 何時いかなる時も御入用の際は明け渡しますと、大家は店子から一筆取ってある。
 出ていけと大家に言われたら、店子は即日退去が当たり前である。
 そもそも、多くの長屋は狭く、家具も少なく、引っ越しも楽なのだ。
 ところがお菊は急に、鬼の形相から、にんまりとした菩薩顔に変わった。
 腹に一物あるときの、表情である。こういうときのほうが、かえって危険だ。
「でも、あたしの頼まれ事を聞いてくれたら、堪え難きを耐え、忍びがたきを忍んで、無礼な店子でも勘弁してやろうじゃないか、ええ?」
 新八は怪訝そうな顔で、お菊を見るしかなかった。
「そりゃもう、あっしにできることなら、なんでも。なんです?」
「あたしのふるい知り合いの、長屋に出るんだよ……コレが」と掌を下に向けてだらりと下げ、幽霊の仕草。
「ふっ消し婆が?」
「なんだい、そりゃあ?」
「浮世絵師の北尾重政の『怪物画本』に出てくる妖怪ですよ。行灯の火を吹き消す迷惑な妖怪で。もとは鳥山石燕『今昔画図続百鬼』に出てくる妖怪でございまして……」
「ちょ…ちょいと待ちな! 誰がそんな訳のわからない妖怪の話をしてるんだよ、ええ? 怪談噺の稽古なら、他所よそでやってくれ」
「ありゃ、違いましたか?」
「こうやって手を下に下げたら、陰の構えで幽霊に決まってるじゃないか! 話の腰を折るんじゃないよ、まったくぅ」
「あいすいません、似てたもんで、つい」
 これはお菊に聞きとがめられないよう、小さな声で。
「そのせいで、古株の店子が死んじまったんだよぉ。そういう悪い噂はすぐ広まる。そこでだ、新八はっつぁん。三日ほどそこに泊まれば、ただの見間違いってことで、向こうの大家は大助かりだわ。それでおまいさんの店賃は帳消し! いぃ話だろ?」
「もし本物の幽霊がいて、あっしが取り殺されたら?」
「そりゃあおまいさん、運が悪かったと諦めるしかないねぇ~」
 ニタニタ笑うお菊の顔を思い出し、苦虫を噛み潰した顔で毒づく新八であった。
「あんのドクダミ婆が……仏壇にでも飾ってやりたいね、まったく」

   三

「ここが噂の、お化け長屋か?」
 気がつくと、戸が打ち付けられた長屋の正面に浮かない顔で立っていた。
 目的の場所に到着。
 本所の達磨横丁に到着である。
 大家にお菊からの手紙を渡すと、大喜びである。
 幽霊が出ると噂の部屋にどっかりと腰を下ろし、煙管きせるをくゆらす新八である。
 腰の大ぶりの煙管は、使わない。喧嘩煙管だから。
 煙草を呑むときは薄く小さな鉈豆なたまめ煙管を、もっぱら愛用している。
 その名の通り、えんどう豆の未熟な鞘のように、薄くて掌に収まる。
 厠が近いのか、新八の周りを飛び回るハエが二~三匹。
「キツネかタヌキかしらねぇが…」
 煙草盆に灰をタン!落とし、喧嘩煙管をヒュンヒュンと二振りすると、地面に落ちるハエ三匹。
「いざとなれば、こいつがあらぁな。脳天をかち割って、狸汁にしてお菊大家に食わせてやらァな」
 ほくそ笑む新八の耳に、入り口でカタリとかすかな音が。
 振り向きざま、寄席で鍛えた大声で怒鳴った。
「誰でぇ!?」
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