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番外編8 おまけ3
1 ひとりぼっちの和臣
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「少し、ひとりで考えたいんです」
多紀くんは、電話越しにそう言った。
俺は崩れ落ちそう。
四月上旬。午後九時。
それぞれ自宅に帰ってきて、次に帰る日のことで電話していたら、切り出された。
覚悟はしていた。多紀くんが甲府に来てくれたときにこぼした心の裡に、嫌な予感がしていた。いや、もっと以前から……。
昨年の初冬、俺の合格後、多紀くんは本当に喜んでくれて、よかったねと何度も言ってくれた。和臣さん、がんばったね、と。
まぁ、我ながらがんばったよね。仕事しながら。よくやったもんだと思うよ。試験時間も長いし。試験後にいっぱい甘やかしてもらってさ。
俺は多紀くんに褒められるだけで飛び上がるほど嬉しくて、その後、めまぐるしく変わっていく状況に、俺自身が多紀くんと離ればなれになるのが辛いということばかりで、多紀くんの心情を慮ることができなかった。
多紀くんのおかげで合格できたよ、多紀くんがそばにいて支えてくれたことがすべてだよ、そう言った覚えはある。本音だもの。真実だもの。
俺は多紀くんがいなかったら、今頃なにしていたのかわからない。生死もあやしい。
ここ一年半ほど、俺は仕事と勉強しかしていなかった。
多紀くんは仕事のかたわら、家事や勉強のサポートをしてくれて、多紀くんのためにも挑戦したいと思ったものの、本当に正しいことだったのか、こんな負担をかけることはもうやめて、ふたりで楽しく過ごす方がいいのではないか、と何度も考えた。
ごめんっていうのやめよう、と多紀くんは言ったんだ。
仕事が忙しくて帰ってきて疲れて寝ていた多紀くんが、俺が帰宅したら飛び起きて、ごはん作ってない、ごめんなさい、と慌てて用意しはじめたとき、俺は、ごめんね、と言った。
多紀くんにだって生活がある。このままだと共倒れになるかも、もうやめようかな、と考えているのを見透かすように、あのとき、多紀くんは笑って言ったんだ。
お互いに、ごめんっていうのやめよう、と。
多紀くんから出てくる優しい言葉は、いつも俺の心の澱を掬い上げる。
多紀くんのいない人生なんて考えられないし、多紀くんがいれば俺には無限の力が湧いてくる。唯一無二の不可欠の存在。多紀くんは俺の力の増幅器。
だから合格したのは、多紀くんのおかげ。
だけど多紀くんがその言葉をきちんと受け入れてない、理解していなかったことに、多紀くんの気持ちに、気づかなかったんだ。
和光に通っている期間、多紀くんの元気がなくなっていることに、なんとなく気づいていたと今なら思う。
その違和感をもっと重く捉えていれば。確かめるように、言い聞かせるように好きだと口にしていたこと、喜ぶばかりだけではなくて、疑うべきだった。
甲府に引っ越して、ほんの数ヶ月の間に、遠くなった。寂しそうな表情になった。俺と離れて寂しいのなら嬉しいのに、そうじゃない。
甲府で、自分の役割は終わったと言いたげな表情に、愕然とした。
どうしてそんな顔をするの。帰らせたくないよ。多紀くんと離ればなれになんかなりたくない。いや、俺が、このまま多紀くんと暮らす東京のマンションに帰りたい。司法修習なんてもう行かない。
どこで間違えたんだろう。俺は。いや、間違いばかりだ。間違えていない部分を探すほうが逆に難しい。
多紀くんのための何を怠ったんだろう。だめなところばかりの俺だけど、直してほしいといわれたら全力で直すから。がんばるから。
ひとりにしてなんて言わないで。
だけど、俺はふと気づいた。
多紀くんは、自分がしたいことなんて普段は言わない。ひとりになりたい、それも多紀くんの、珍しく示した要望だ。多紀くんがそういうなら、ひとりにさせてあげないと。
それが、それだけが、いまの俺にできることなんだ。泣いて縋ってそばにいてと言いたくても。
俺がだんまりなので、多紀くんから訊ねてくる。
「……和臣さん?」
「うん、わかっ……」
喉が詰まって、最後まで言えなかった。
多紀くんが決めたこと、多紀くんを信じて待ちたいと思う。だけど不安でたまらない。
だんだん遠ざかっていく。
不格好でも、泣いていると知られても、伝えたい。
涙がはらはら落ちる。
「待つから、待ってるから」
多紀くんは、少し笑った。
「ありがとうございます。すみません。仕事も忙しくて……。余裕ないのかも。お互い、自分のことをしておきましょう」
「うん、そうだね」
多紀くんとは、お別れしてばかりだ。
卒業式、名古屋駅、成田空港、いや、彼と再会して以来、食事のあとに駅まで送るときはいつも、次にいつ会えるかわからないお別れだと思っていた。
なんの後ろめたさもなく約束ができる立場になりたいと、ずっと思っていた。
俺は声をしぼり出す。
「元気で過ごしてね。連絡はとろうね。少しだけでいいから。心配だから。時々でいいから」
「うん」
「多紀くん」
次に会ったとき、俺たちはちゃんと笑っているのだろうか。
ねえ、多紀くん。
「多紀くん」
「ごめんね」
「ごめんね、なんて、言わないで……」
多紀くんが言ったんじゃないか。ごめんっていうのやめようって。
「はい」
多紀くんは苦しそうに答えた。
<ひとりぼっちの和臣 終わり>
多紀くんは、電話越しにそう言った。
俺は崩れ落ちそう。
四月上旬。午後九時。
それぞれ自宅に帰ってきて、次に帰る日のことで電話していたら、切り出された。
覚悟はしていた。多紀くんが甲府に来てくれたときにこぼした心の裡に、嫌な予感がしていた。いや、もっと以前から……。
昨年の初冬、俺の合格後、多紀くんは本当に喜んでくれて、よかったねと何度も言ってくれた。和臣さん、がんばったね、と。
まぁ、我ながらがんばったよね。仕事しながら。よくやったもんだと思うよ。試験時間も長いし。試験後にいっぱい甘やかしてもらってさ。
俺は多紀くんに褒められるだけで飛び上がるほど嬉しくて、その後、めまぐるしく変わっていく状況に、俺自身が多紀くんと離ればなれになるのが辛いということばかりで、多紀くんの心情を慮ることができなかった。
多紀くんのおかげで合格できたよ、多紀くんがそばにいて支えてくれたことがすべてだよ、そう言った覚えはある。本音だもの。真実だもの。
俺は多紀くんがいなかったら、今頃なにしていたのかわからない。生死もあやしい。
ここ一年半ほど、俺は仕事と勉強しかしていなかった。
多紀くんは仕事のかたわら、家事や勉強のサポートをしてくれて、多紀くんのためにも挑戦したいと思ったものの、本当に正しいことだったのか、こんな負担をかけることはもうやめて、ふたりで楽しく過ごす方がいいのではないか、と何度も考えた。
ごめんっていうのやめよう、と多紀くんは言ったんだ。
仕事が忙しくて帰ってきて疲れて寝ていた多紀くんが、俺が帰宅したら飛び起きて、ごはん作ってない、ごめんなさい、と慌てて用意しはじめたとき、俺は、ごめんね、と言った。
多紀くんにだって生活がある。このままだと共倒れになるかも、もうやめようかな、と考えているのを見透かすように、あのとき、多紀くんは笑って言ったんだ。
お互いに、ごめんっていうのやめよう、と。
多紀くんから出てくる優しい言葉は、いつも俺の心の澱を掬い上げる。
多紀くんのいない人生なんて考えられないし、多紀くんがいれば俺には無限の力が湧いてくる。唯一無二の不可欠の存在。多紀くんは俺の力の増幅器。
だから合格したのは、多紀くんのおかげ。
だけど多紀くんがその言葉をきちんと受け入れてない、理解していなかったことに、多紀くんの気持ちに、気づかなかったんだ。
和光に通っている期間、多紀くんの元気がなくなっていることに、なんとなく気づいていたと今なら思う。
その違和感をもっと重く捉えていれば。確かめるように、言い聞かせるように好きだと口にしていたこと、喜ぶばかりだけではなくて、疑うべきだった。
甲府に引っ越して、ほんの数ヶ月の間に、遠くなった。寂しそうな表情になった。俺と離れて寂しいのなら嬉しいのに、そうじゃない。
甲府で、自分の役割は終わったと言いたげな表情に、愕然とした。
どうしてそんな顔をするの。帰らせたくないよ。多紀くんと離ればなれになんかなりたくない。いや、俺が、このまま多紀くんと暮らす東京のマンションに帰りたい。司法修習なんてもう行かない。
どこで間違えたんだろう。俺は。いや、間違いばかりだ。間違えていない部分を探すほうが逆に難しい。
多紀くんのための何を怠ったんだろう。だめなところばかりの俺だけど、直してほしいといわれたら全力で直すから。がんばるから。
ひとりにしてなんて言わないで。
だけど、俺はふと気づいた。
多紀くんは、自分がしたいことなんて普段は言わない。ひとりになりたい、それも多紀くんの、珍しく示した要望だ。多紀くんがそういうなら、ひとりにさせてあげないと。
それが、それだけが、いまの俺にできることなんだ。泣いて縋ってそばにいてと言いたくても。
俺がだんまりなので、多紀くんから訊ねてくる。
「……和臣さん?」
「うん、わかっ……」
喉が詰まって、最後まで言えなかった。
多紀くんが決めたこと、多紀くんを信じて待ちたいと思う。だけど不安でたまらない。
だんだん遠ざかっていく。
不格好でも、泣いていると知られても、伝えたい。
涙がはらはら落ちる。
「待つから、待ってるから」
多紀くんは、少し笑った。
「ありがとうございます。すみません。仕事も忙しくて……。余裕ないのかも。お互い、自分のことをしておきましょう」
「うん、そうだね」
多紀くんとは、お別れしてばかりだ。
卒業式、名古屋駅、成田空港、いや、彼と再会して以来、食事のあとに駅まで送るときはいつも、次にいつ会えるかわからないお別れだと思っていた。
なんの後ろめたさもなく約束ができる立場になりたいと、ずっと思っていた。
俺は声をしぼり出す。
「元気で過ごしてね。連絡はとろうね。少しだけでいいから。心配だから。時々でいいから」
「うん」
「多紀くん」
次に会ったとき、俺たちはちゃんと笑っているのだろうか。
ねえ、多紀くん。
「多紀くん」
「ごめんね」
「ごめんね、なんて、言わないで……」
多紀くんが言ったんじゃないか。ごめんっていうのやめようって。
「はい」
多紀くんは苦しそうに答えた。
<ひとりぼっちの和臣 終わり>
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