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番外編2
4* 母親に弱い和臣の小話(和臣視点)
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午後七時。
夕食の後、お手伝いの瑞穂さんがテーブルの上に温かい緑茶の湯呑みをふたつ置く。
母は緑茶をすすりながら、写真付きの釣書きを一読。
幼い頃から、母と話すときはいつもダイニングで、八人掛けのダイニングテーブルで向かい合って、瑞穂さんと三人。
広い自宅だが、父は単身赴任、兄たちは自立、妹も父と同じく官舎に入っているため、いまや家には母と瑞穂さんと、犬の太郎と次郎だけ。
太郎と次郎は、リビングの絨毯の上に寝そべって休憩中。
俺は月に一度、東京から仙台の実家にバイクで帰ってくる。
できのいい兄妹に比べると明らかに劣る俺は、昔から母にべったりで、母もまたできの悪い子が可愛いらしく、成長が遅くてとろくさく、泣いてばかりだった実質末っ子の俺をいまも猫可愛がりしている。
六十手前なのに、四十代に間違われる、我が母ながら美しい女性。
瑞穂さんは七十代のおばあさん。四十代のときからうちに住み込みで働いている。母の遠縁の未亡人。
「良い縁談じゃないの。三郎がそんなに買われてるなんて知らなかったわねぇ」
俺はぼやいた。
「買われてるとか、そういうのじゃないよ……」
むかしから、長兄次兄俺は、それぞれ太郎次郎三郎と呼ばれている。幼い頃、俺は自分の名前を、三郎だと思っていた。
幼稚園に入る前に、自分の名前は和臣だと教わり、驚いた記憶がある。
自立した太郎と次郎の代わりが、犬の太郎と次郎だ。犬の三郎はいない。
三郎の代わりはいないの、と母は言っていたが、大型犬三匹は大変だから。
「お兄ちゃんたちは当面結婚しなさそうだし、のんちゃんもまだみたいだから、いちばんに孫の顔を見せてくれるのは三郎になりそうね。ねぇ、瑞穂さん、ごらんなさい。可愛らしい子。お人形さんみたいよ」
「めんこいですねぇ」
母が釣書きを広げ、瑞穂さんが母の手元を覗き込み、顔を綻ばせる。
紗英さんの釣書きは、どこに出しても恥ずかしくない完璧なもの。経歴、家柄、外見。非の打ち所がない。写真うつりさえ良く、この子がだめなら誰ならいいというのか。気後れするならともかく。
俺が黙って俯いている理由を察して、何が不満なのかと視線で問いかけてくる。
わかっている。紗英さんの問題ではない。俺は紗英さんが苦手だが、そもそも女性が苦手だから、紗英さんに限った話ではない。
俺はつぶやいた。
「好きな子がいる……」
すると母はため息。
「三郎。お母さんはね、三郎のことを男前だと思っているし、客観的に三郎は男前だと思うのよ」
「もちろん坊ちゃまは男前です」
「性格もね、悪くはないわよね。変わり者で自分の精神世界に閉じこもりのマザコンだけど、穏やかだし、優しいし。お兄ちゃんやのんちゃんと比べても、まだ人間みがあって」
「お兄ちゃまものんちゃまも、ばあには、かわいらしいものですよ、奥様」
「お料理もできるし、生活力もあるし、高収入だし」
「安定もしてらっしゃる」
「うちは法曹と医者の家だから三郎だけ資格のない子になっちゃうけど、世間様にすれば十分よね」
「皆様ご立派ですけども、三郎坊ちゃまも、ばあにすれば大変ご立派でございます」
「だけどね。三郎。そんな三郎だけど、好きな子には、振り向いてもらえないんでしょう。長いわよねぇ、高校生のときからだもの」
「あれは卒業式の日でございました……」
「やめて、お母さん、瑞穂さん」
俺は止めるけれどふたりは止まらない。
「仰天よね。大伯父さまの高校に入るしかなくて、やだやだ言いながら寮暮らしして、毎回連絡するたびにドン底みたいに暗かったのに、三年生になった途端、けろっとしちゃって。しかもすっかり標準語をしゃべっているし。訛りをからかわれるのが嫌でだんまりだったくせに」
「んだんだ」
「三郎も大人になったのかしら~と思ってたら、卒業式の帰り道よ。ブレザーもワイシャツもボタン全部千切ってあるし、ネクタイもなくして号泣してるから、三郎の身になにかあったのかと勘違いしちゃったわ。聞いたら卒業したくないってごねるし。卒業式なら終わってるわよ」
「あのときのことは今でも鮮明に思い出せますとも」
失態。
おそらく一生言われる。
「好きな子と離れたくないなんて、まさか三郎の口から聞かされるとはね」
「おったまげました」
「……」
母と瑞穂さんは、ひとしきり爆笑。ひどいよ、ふたりとも。
母は息を整えて言った。
「お母さんはね、三郎が可愛いし、三郎は客観的にみて、そこそこいい条件だと思うのね」
「どうも」
「だけど、その子は三郎に恋してくれないのよね~」
「……はい」
「一生片想いしたいの?」
「……そういうわけでは」
「あなたも二十七歳にもなるわけだから、がみがみ言いたくないし、お母さん、いくら子どもといえど、立派な成人男性の恋愛ごとに首を突っ込みたいとも思ってないのね」
「はい」
「だから三郎が、気が済むまで好きな人を思い続けたいっていうなら、お母さんは何も言いませんし、好きな子と結婚したいっていうならちゃんと付き合って連れてきなさい」
「……」
「それができないなら、別の人と結婚するのもいいんじゃないの。せっかくのお話なんだし。一番好きな人と結婚できるのは幸せだけれど、世の中、そうじゃないわよ」
沈黙してしまう。一番はもちろんタキくんで、二番目とか三番目なんてなく、あとは同率だ。
だけど、タキくんと付き合うことも、結婚することも、連れてくることも、非現実的。
「わかりましたか」
「はい」
「じゃあ、寝るわね。おやすみなさい」
部屋でこれからテレビを観るのだろう。追っているサスペンスドラマ。
母が去ったあとのダイニングで、瑞穂さんは俺のためにお茶を淹れ直してくれる。
「心配なさってるんですわ、奥様は。三郎坊ちゃまに幸せになってほしいんですわ」
「わかってる……」
瑞穂さんはしみじみ言った。
「三郎坊ちゃまの好きな人が、三郎坊ちゃまを好きになってくれたら、いいんですけどねぇ」
「瑞穂さん……」
祈りが届いたらいいのに。タキくんが、俺を好きになってくれたらいいのに。
そんなことは起こらない。わかっている。
「その、『タキくん』という子が」
「え、ちょっと待って、瑞穂さん。なんで名前!」
知られてる!?
見ると瑞穂さんは、にまにましている。
俺は血の気が引いていく。
つい叫んだ。
「部屋に入らないでって言ったのに!」
「奥様がですね、お掃除しておいてと。ばあは入らないでという三郎坊ちゃまの言いつけを守ろうとしました。奥様をお止めしましたが、じゃあ私が先に入るわね、と」
「お母さんも知っ……」
「大丈夫です。なんにも処分しておりません。膨大な『タキくん』資料」
「あああ……」
早急に引き上げよう。倉庫でも借りて。
一人暮らしの部屋に大半は置いてあるのだけど、データ化した資料の原本は実家に保管していた、俺の落ち度。ここは実家だけれど、母の家だ。
…………いい機会だから、処分しようか。
タキくんを諦めるならば、じきに資料だの写真だのは処分しないといけない。
処分。
胸が痛くてたまらなくなる。情けない。
せめてもう一周味わってから、考えよう……。
〈小話 終わり〉
夕食の後、お手伝いの瑞穂さんがテーブルの上に温かい緑茶の湯呑みをふたつ置く。
母は緑茶をすすりながら、写真付きの釣書きを一読。
幼い頃から、母と話すときはいつもダイニングで、八人掛けのダイニングテーブルで向かい合って、瑞穂さんと三人。
広い自宅だが、父は単身赴任、兄たちは自立、妹も父と同じく官舎に入っているため、いまや家には母と瑞穂さんと、犬の太郎と次郎だけ。
太郎と次郎は、リビングの絨毯の上に寝そべって休憩中。
俺は月に一度、東京から仙台の実家にバイクで帰ってくる。
できのいい兄妹に比べると明らかに劣る俺は、昔から母にべったりで、母もまたできの悪い子が可愛いらしく、成長が遅くてとろくさく、泣いてばかりだった実質末っ子の俺をいまも猫可愛がりしている。
六十手前なのに、四十代に間違われる、我が母ながら美しい女性。
瑞穂さんは七十代のおばあさん。四十代のときからうちに住み込みで働いている。母の遠縁の未亡人。
「良い縁談じゃないの。三郎がそんなに買われてるなんて知らなかったわねぇ」
俺はぼやいた。
「買われてるとか、そういうのじゃないよ……」
むかしから、長兄次兄俺は、それぞれ太郎次郎三郎と呼ばれている。幼い頃、俺は自分の名前を、三郎だと思っていた。
幼稚園に入る前に、自分の名前は和臣だと教わり、驚いた記憶がある。
自立した太郎と次郎の代わりが、犬の太郎と次郎だ。犬の三郎はいない。
三郎の代わりはいないの、と母は言っていたが、大型犬三匹は大変だから。
「お兄ちゃんたちは当面結婚しなさそうだし、のんちゃんもまだみたいだから、いちばんに孫の顔を見せてくれるのは三郎になりそうね。ねぇ、瑞穂さん、ごらんなさい。可愛らしい子。お人形さんみたいよ」
「めんこいですねぇ」
母が釣書きを広げ、瑞穂さんが母の手元を覗き込み、顔を綻ばせる。
紗英さんの釣書きは、どこに出しても恥ずかしくない完璧なもの。経歴、家柄、外見。非の打ち所がない。写真うつりさえ良く、この子がだめなら誰ならいいというのか。気後れするならともかく。
俺が黙って俯いている理由を察して、何が不満なのかと視線で問いかけてくる。
わかっている。紗英さんの問題ではない。俺は紗英さんが苦手だが、そもそも女性が苦手だから、紗英さんに限った話ではない。
俺はつぶやいた。
「好きな子がいる……」
すると母はため息。
「三郎。お母さんはね、三郎のことを男前だと思っているし、客観的に三郎は男前だと思うのよ」
「もちろん坊ちゃまは男前です」
「性格もね、悪くはないわよね。変わり者で自分の精神世界に閉じこもりのマザコンだけど、穏やかだし、優しいし。お兄ちゃんやのんちゃんと比べても、まだ人間みがあって」
「お兄ちゃまものんちゃまも、ばあには、かわいらしいものですよ、奥様」
「お料理もできるし、生活力もあるし、高収入だし」
「安定もしてらっしゃる」
「うちは法曹と医者の家だから三郎だけ資格のない子になっちゃうけど、世間様にすれば十分よね」
「皆様ご立派ですけども、三郎坊ちゃまも、ばあにすれば大変ご立派でございます」
「だけどね。三郎。そんな三郎だけど、好きな子には、振り向いてもらえないんでしょう。長いわよねぇ、高校生のときからだもの」
「あれは卒業式の日でございました……」
「やめて、お母さん、瑞穂さん」
俺は止めるけれどふたりは止まらない。
「仰天よね。大伯父さまの高校に入るしかなくて、やだやだ言いながら寮暮らしして、毎回連絡するたびにドン底みたいに暗かったのに、三年生になった途端、けろっとしちゃって。しかもすっかり標準語をしゃべっているし。訛りをからかわれるのが嫌でだんまりだったくせに」
「んだんだ」
「三郎も大人になったのかしら~と思ってたら、卒業式の帰り道よ。ブレザーもワイシャツもボタン全部千切ってあるし、ネクタイもなくして号泣してるから、三郎の身になにかあったのかと勘違いしちゃったわ。聞いたら卒業したくないってごねるし。卒業式なら終わってるわよ」
「あのときのことは今でも鮮明に思い出せますとも」
失態。
おそらく一生言われる。
「好きな子と離れたくないなんて、まさか三郎の口から聞かされるとはね」
「おったまげました」
「……」
母と瑞穂さんは、ひとしきり爆笑。ひどいよ、ふたりとも。
母は息を整えて言った。
「お母さんはね、三郎が可愛いし、三郎は客観的にみて、そこそこいい条件だと思うのね」
「どうも」
「だけど、その子は三郎に恋してくれないのよね~」
「……はい」
「一生片想いしたいの?」
「……そういうわけでは」
「あなたも二十七歳にもなるわけだから、がみがみ言いたくないし、お母さん、いくら子どもといえど、立派な成人男性の恋愛ごとに首を突っ込みたいとも思ってないのね」
「はい」
「だから三郎が、気が済むまで好きな人を思い続けたいっていうなら、お母さんは何も言いませんし、好きな子と結婚したいっていうならちゃんと付き合って連れてきなさい」
「……」
「それができないなら、別の人と結婚するのもいいんじゃないの。せっかくのお話なんだし。一番好きな人と結婚できるのは幸せだけれど、世の中、そうじゃないわよ」
沈黙してしまう。一番はもちろんタキくんで、二番目とか三番目なんてなく、あとは同率だ。
だけど、タキくんと付き合うことも、結婚することも、連れてくることも、非現実的。
「わかりましたか」
「はい」
「じゃあ、寝るわね。おやすみなさい」
部屋でこれからテレビを観るのだろう。追っているサスペンスドラマ。
母が去ったあとのダイニングで、瑞穂さんは俺のためにお茶を淹れ直してくれる。
「心配なさってるんですわ、奥様は。三郎坊ちゃまに幸せになってほしいんですわ」
「わかってる……」
瑞穂さんはしみじみ言った。
「三郎坊ちゃまの好きな人が、三郎坊ちゃまを好きになってくれたら、いいんですけどねぇ」
「瑞穂さん……」
祈りが届いたらいいのに。タキくんが、俺を好きになってくれたらいいのに。
そんなことは起こらない。わかっている。
「その、『タキくん』という子が」
「え、ちょっと待って、瑞穂さん。なんで名前!」
知られてる!?
見ると瑞穂さんは、にまにましている。
俺は血の気が引いていく。
つい叫んだ。
「部屋に入らないでって言ったのに!」
「奥様がですね、お掃除しておいてと。ばあは入らないでという三郎坊ちゃまの言いつけを守ろうとしました。奥様をお止めしましたが、じゃあ私が先に入るわね、と」
「お母さんも知っ……」
「大丈夫です。なんにも処分しておりません。膨大な『タキくん』資料」
「あああ……」
早急に引き上げよう。倉庫でも借りて。
一人暮らしの部屋に大半は置いてあるのだけど、データ化した資料の原本は実家に保管していた、俺の落ち度。ここは実家だけれど、母の家だ。
…………いい機会だから、処分しようか。
タキくんを諦めるならば、じきに資料だの写真だのは処分しないといけない。
処分。
胸が痛くてたまらなくなる。情けない。
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〈小話 終わり〉
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