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第二部 1 ある三月の春の夜

九 東京駅の衝突

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 午後二時前。
 東京駅。東海道山陽新幹線乗り場。
 エレベーターもエスカレーターも混雑しているので、お互いにそれぞれ小さいキャリーを手に、肩を並べて階段をあがっていく。

「おなかすいたね。多紀くんは大丈夫?」
「俺は大丈夫ですけど、和臣さん、朝飯少なかったですもんね」

 二人とも昼飯を食べていない。時間がなかったせい。俺は朝飯は結構食べたからいいけど。

「多紀くんとふたりきりになる時間のほうが大事だったのに」
「ごめんなさいしたのに。まだ言ってるんですか」
「いつまでも言うつもり……」

 しつこいな……。
 でも、誤解がないかを切り出せないまま、またエッチしてしまった。誤解だったとしても俺のほうが離れられるか不安だよ。ちゃんと身を引けるのかな……。
 ホームにあがって、指定車両の停まる位置を探す。数人の列ができていて、その最後尾に並ぶ。まだ清掃中で車内に入れない。
 ほんの少し時間がある。

「売店で何か買ってきますね。何がいいですか?」
「あ、じゃあお願い。多紀くんと同じものがいい。荷物見ておくよ」

 俺は売店を探しに行く。時間がないから急がないと。飛行機に乗り遅れたらしゃれにならない。
 羽田から関空に直接飛んだほうが早いから一人で行くように言ったのに、新大阪駅まで俺を送っていくっていってきかない利かん坊。バンコク行きに間に合わなくなったらどうするんだよ。
 と、売店でテキトーに弁当を見繕って清算を終えたときだった。

「相田くん?」

 と俺を呼ぶ声。誰だっけ。そんな風に思いながら振り返る。
 清算の順番待ちをしていたのは、元職場の上司。名前なんだっけ。ぱっと出てこない。四十代半ばのナチュラルパワハラ上司。スーツ姿。
 どこかに出張だろう。

「あ……お久しぶりです」

 と会釈する。逃げようとした肩を掴まれて、俺は立ち止まった。

「まずいことしてくれたよ。とんでもないやつだったんだな、相田くん」
「別に何もしてませんけど……」

 この人の大袈裟さを一気に思い出す。悪いことは特大みたいになって、いいことは過小評価。これのせいでやめていく人が多数いて、怒鳴る系の社長と、モラハラ系のこの人を反復横跳びするうちに洗脳が完了してしまう、そういう職場。
 俺は辞めるまで誠実に仕事をしたし、引き継ぎもしたし、その人が辞めても大丈夫なようにマニュアルを作って残していった。そこまですればいいでしょ。
 あ、違う。西さんに言わせれば、そんなことだってしなくていいんだった。辞めて困るような人材なら、心から残りたいと思わせなかった会社が悪い。

「何もしてなくてあれほど爆発するはずないだろ。社長の怒りは凄まじかったぞ」
「はは。社長って毎日怒ってたじゃないですか」

 いまこの瞬間だって怒ってるよ、きっと。

「一度戻って謝ったらどうだ? あれから二年近く経ってるからさ。今なら怒られても大したことないだろ」
「そんなことを言われても……もう関係ないです」
「お前もケジメとしてな。謝罪のひとつもしないと。謝るのは得意だっただろ。気が向いたら戻してもらえるかもしれないぞ。俺がかけあってやろうか」
「いえ……結構です」
「どうせ大した会社に勤めてないだろ。すぐやめるような奴はどこも勤まらないからな。身をもって思い知っただろうけど、逃げの転職なんていうのは底辺に落ちてくばかりなんだよ」
「あの、電車の時間が」

 と肩に置かれた手を振り払おうとしたとき、その元上司の手を掴み上げてねじりあげた人がいた。振り仰ぐ。元上司が痛がったので、すぐに放す。和臣さん。

「あ、お待たせしてすみません」

 俺が遅いものだから迎えに来たらしい。足元にスーツケース二つとも持ってきている。重いのに申し訳ないな。

「多紀くん。誰?」

 和臣さんはすでにキレてる。短い言葉と口調に詰まってる。

「あ、元上司です。前の職場の、直属の……」
「直属の? 話しかけられたの?」
「はい」

 和臣さんは、俺と元上司の間に割って入る。

「相田くんに何かご用ですか?」
「邪魔だよ。話してるんだけど」
「話しかけたんですね。ですが、相田くんと話してはいけませんよね。示談が成立していると思いますが」
「は?」

 あ、そうだ。
 会社との示談をしてくれた弁護士の先生からのメールに、社長や元上司を見かけても会話しないようにって書いてあった。見かけてもすぐ離れるようにって。
 前の会社を辞めるときはすったもんだあって、退職届を提出したけれど突き返されてしまった。
 どうしたらいいのかわからなくて葉子さんと野村さんに相談したら、法律事務所を紹介してくれて、内容証明郵便を送ったり、俺の代わりに会社と交渉をしてもらった。
 わりとすぐに解決して、ちょっとまとまったお金をもらってやめることができたのだ。諸々の費用を差し引いて、引っ越し代も出た。未払残業代だってさ。
 でもこのこと、和臣さんに話してない。なんで知ってんだよ。
 和臣さんが言う。

「あなたは、相田くんに話しかけてはいけないんですよ。接触連絡禁止です。あなたも示談書を一通持っているでしょう。違反した場合、違約金として金五十万円。まさか、示談書の意味内容を理解しないまま、署名捺印したのでしょうか」
「し、失礼な。お前は何なんだ。お前が示談書の内容を知っているのは、相田が口外禁止条項に違反したからだろうが。こっちが違約金を請求してもいいんだぞ」
「私は小野寺といいますが」

 さっと顔色を変えて、怯えるように元上司が走り去っていく。東京に帰ってきたところらしく、階段を駆け下りていった。
 あっという間の出来事。

「和臣さん」

 当然、示談書の内容も、和臣さんに話したことはない。示談そのものだって言ってないんだから。
 葉子さんや野村さんに聞いたのだろうか。それか西さん。三人に相談はしていた。
 だけどさすがに示談書の内容までは言っていない。俺だって細かい条項は覚えていない。覚えられないほど難しかった。
 一年半前の出来事だし、思い出そうとしても、とてもじゃないけれど思い出せない。

「ごめん、多紀くん。ちゃんと説明する。でもあとで。時間ない。あと一分」

 和臣さんが足元の荷物二つを取りながら先を促す。

「うわ、やばい」

 指定車両まで戻れそうにないので、二人で近くの車両に飛び乗った。
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