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3 ある八月の熱帯夜
十四* 好きな人がいる
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「あれー、相田くん? 偶然ー。おはよう、今から出勤ー?」
葉子さんが俺に気づいて、嬉しそうに手をあげていた。
葉子さんと見知らぬスーツ姿の男性が並んで歩いてくる。方向的に、駅に行くのだろう。
俺は驚きつつ笑顔で会釈する。慌てて手のひらで顔を拭った。泣いてはない。よかった。でもひどい顔してるだろうな……。
「葉子さん。おはようございます。ええっと、ちょっと用事で。あっ、すみません、下しか知らなくて」
「いいよ、葉子で。あ、こっちは同期の浩人」
ってことはカズ先輩とも同期か。あ、昨日、飲みに行くって言ってたな。もしかして朝帰りなのか、この二人。葉子さんは昨日と同じ格好だ。
浩人と呼ばれた男性は、がたいがよくてエネルギッシュな体育会系風。ちょっとちゃらそう。
「ども。野村でっす」
「初めまして、相田です」
深々と頭をさげた。
酒臭い葉子さんが、俺の肩をぱしぱし叩く。うーん、まだ酔ってるね。
「この子ねー、和臣の後輩なんだって! 学部も同じ? 法学部?」
「あ、俺、高校の後輩なんです。俺は高卒です」
というと、葉子さんは目が覚めたように食いついてきた。
「えー! じゃあさっ、和臣の高校のときからの好きな人って知ってる!?」
それは俺かもしれないけれど。
っていうかカズ先輩、そんな恋バナ、会社で話してるの? 大丈夫? 女子なの?
「さあ……。学年も学科も違ったんで。委員会が一緒だっただけで」
「えー、なんだ、そっかあ」
「何なのそれ?」
野村さんは半笑いで葉子さんに訊ねた。どうやら知らないらしい。
「あのねー、和臣に、高校のときからずっと好きな人がいるって話。忘年会か何かのときにポロっと漏らした、きゃつのウィークポイント!」
「へえ。あの鉄仮面に?」
鉄仮面? 無表情という意味だ。
ああ、カズ先輩って、仕事だと人が変わるタイプか。
まあ、さもありなん。猫かぶり上手かったし。
葉子さんはうんうん頷きながら答える。
「地元の高校受験全滅して入った親戚の高校で、成績が伸びなくて死にそうだったときに助けてくれた、救いの天使らしいよ」
序盤も知らなかったけど、中盤も終盤も心当たりが一切ないな……。
一年間、二人で水やりしていただけなんだけどな。
いや、よく考えよう。天使って。カズ先輩の好きな人、人違いじゃない?
なにかのミスとか、勘違いとか。
何かの手違いがあった可能性が濃厚じゃない?
え、俺、人違いであんな目にあった?
「天使。言うじゃん。可愛い系かな」
「相田くん、そんな可愛い子いた?」
「え……どうでしょう……?」
訊かれても困るよ。もし本当に俺なんだったとしたら、平々凡々系だし。
あと、俺が一年生のときに、高校でいちばん美人だったのは、まず間違いなくカズ先輩。
「高校からかー。長く付き合ってるんだ? 合コン来ないんだよな。小野寺誘ってって女子に言われるから一々誘うけど一回も来ない。彼女いても全然参加OKなのにさァ」
「女の敵だねー。あ、付き合ってないらしいよ」
「付き合ってないわけないっしょ。じゃあなんで来ないの?」
「ずっと忘れられないんだって。新しい恋愛に興味ないで通してたよ。本気度高め」
「高校卒業して環境変わって別れたパターンかな。それにしても未練タラタラすぎない? 理解不能だわ。小野寺、絶対にむっつりスケベなのに」
ええ、俺もそう思います。未練タラタラなのも、むっつりスケベなのもね。
野村さんくらい、同時進行でガツガツ行った方が明らかに建設的。同期なのに極端すぎる。
葉子さんは言った。
「ほら、少し前の、出世コース乗るの確実なのに常務の親戚のお見合い断ったのも、その好きな人のためなんじゃないかって」
うーん、実はね、俺のせいみたいなんですよね、それ。そんな大事な局面で何やってんの、マジで。
「えー、どう? 常務派に入ることになるわけだから、社内政治的に、何か聞いてて断ったんじゃないの。常務が実権握るか、まだわからないし」
大きな会社は派閥とかあって大変そうだな、なんて思う。
うちの会社は、いたってシンプル。社長派と、アンチ社長派の二派。
ちなみに前者は社長ひとりだけ。あとは全員が後者。
「和臣、あの件、何も言わないからなー。相田くん、またよかったら、和臣に聞いておいて、こっそり教えてよ」
俺は困った。困りながらも、葉子さんが進めるままに、葉子さんと野村さんと連絡先を交換する。さっき、カズ先輩の連絡先を消したばかりなのに……。
連絡先を交換しつつ、俺は焦りながら言う。
「あのー、でもカズ先輩のことは、俺は言えないです。やっぱり、個人的なことだし、何も知りませんし」
「いいよいいよ。お酒は飲めるほう? 今度一緒に楽しく飲もうよ!」
「あ、それなら是非。お酒大好きです」
「こっち異動するんだっけ? わたし、東京と名古屋と大阪を行ったり来たり」
「あ、そうですね。できれば営業所に異動したいですね。本社はブラックなんで、戻りたくないんですよ。こっちは平和で……」
「異動できなかったら転職したらー?」
「はい。そのつもりなんですが……。でも、高卒なんで、自信ないんですよね……。だけど、もう東京は出ようと思ってて。仕事さえあれば、どこでもいいんですけど」
と言うと、葉子さんは朗らかに笑った。
「おお! 今ちょうど、人が欲しいって言ってる知り合いがいてさ。関連会社で人材派遣系なんだけど。動ける人探してるんだよね。最初は契約社員で、正社員登用あり。わりと条件いいよ」
「へー、そうなんですか」
「考えてみる?」
「え……あ、そうですね……」
「不安? こういうの、むしろ和臣に相談したらいいじゃん。彼、今リクルーターだし、詳しいのに」
あの人、そういうことしてるんだ。自分の会社とか仕事の話って全然しなかった。
いや、連絡するの無理。全部消したし。
絶対に無理。
「いえ、先輩に迷惑かけると思うんで、俺、先輩たちみたいに優秀じゃないですし」
「えー、優秀とか関係ないよ」
「それは優秀な方だけが言えるセリフですよ。学歴もないし」
そう言うと、葉子さんは少し真面目な笑顔で言った。
「もちろん、わかりやすいよ。学歴って。学力が高いと常識が身についてる可能性が高いし、理解早いし。でも、最終的には人。人間だよ。君も挑戦してみたら、思いがけない化学反応が起こるかもしれないよ」
「そういう考え方もあるんですね……」
俺は不思議な気分。学歴が高い人って、他人の学歴をあまり気にしないよな。
「遠慮しちゃうんだったら、わたしが後押ししてあげる」
「え?」
葉子さんは携帯電話を取り出して、タップして耳に当てた。
まさか。
「葉子さん待ってください!」
「おーい、和臣? 今さー、相田くんと一緒なんだけど。あれ? なんなの、ひどい鼻声。風邪? お大事に。ほら、西くんとこの案件さあ、人欲しいって話、あったじゃん。相田くん、転職したいみたいだから。応募してもらってもいいよね」
「葉子さん待って、本当に待って」
「フットワーク軽そうだからいいんじゃないの? じゃ、西くんに話通しておいてあげてね。わたしも言っておくから。大事な後輩の人生かかってるんだからサポートしてあげなよ。しっかりしなよ、先輩!」
葉子さんは通話を切った。
俺は訊ねた。
「……フットワーク?」
「あ、会社、大阪だからさ。あれ? いいよね。大阪でも。どこでも」
…………え? 大阪?
俺が言葉をなくして突っ立っていると、後ろポケットに入れた携帯電話が振動する。着信だ。
取り出して画面を見る。
未登録だけど、見覚えのある電話番号が表示されている。さっき削除したばかり。
ほんと、カズ先輩って嘘つき。かけないって言ったじゃん。不可抗力的なものかもしれないけど、けっきょく口実でしょ。
……しかもこれ出たらさ、絶対にぐっずぐずに泣いてると思うんだよね……。
で、なんか、俺も泣きそう……。
<次の章に続く>
葉子さんが俺に気づいて、嬉しそうに手をあげていた。
葉子さんと見知らぬスーツ姿の男性が並んで歩いてくる。方向的に、駅に行くのだろう。
俺は驚きつつ笑顔で会釈する。慌てて手のひらで顔を拭った。泣いてはない。よかった。でもひどい顔してるだろうな……。
「葉子さん。おはようございます。ええっと、ちょっと用事で。あっ、すみません、下しか知らなくて」
「いいよ、葉子で。あ、こっちは同期の浩人」
ってことはカズ先輩とも同期か。あ、昨日、飲みに行くって言ってたな。もしかして朝帰りなのか、この二人。葉子さんは昨日と同じ格好だ。
浩人と呼ばれた男性は、がたいがよくてエネルギッシュな体育会系風。ちょっとちゃらそう。
「ども。野村でっす」
「初めまして、相田です」
深々と頭をさげた。
酒臭い葉子さんが、俺の肩をぱしぱし叩く。うーん、まだ酔ってるね。
「この子ねー、和臣の後輩なんだって! 学部も同じ? 法学部?」
「あ、俺、高校の後輩なんです。俺は高卒です」
というと、葉子さんは目が覚めたように食いついてきた。
「えー! じゃあさっ、和臣の高校のときからの好きな人って知ってる!?」
それは俺かもしれないけれど。
っていうかカズ先輩、そんな恋バナ、会社で話してるの? 大丈夫? 女子なの?
「さあ……。学年も学科も違ったんで。委員会が一緒だっただけで」
「えー、なんだ、そっかあ」
「何なのそれ?」
野村さんは半笑いで葉子さんに訊ねた。どうやら知らないらしい。
「あのねー、和臣に、高校のときからずっと好きな人がいるって話。忘年会か何かのときにポロっと漏らした、きゃつのウィークポイント!」
「へえ。あの鉄仮面に?」
鉄仮面? 無表情という意味だ。
ああ、カズ先輩って、仕事だと人が変わるタイプか。
まあ、さもありなん。猫かぶり上手かったし。
葉子さんはうんうん頷きながら答える。
「地元の高校受験全滅して入った親戚の高校で、成績が伸びなくて死にそうだったときに助けてくれた、救いの天使らしいよ」
序盤も知らなかったけど、中盤も終盤も心当たりが一切ないな……。
一年間、二人で水やりしていただけなんだけどな。
いや、よく考えよう。天使って。カズ先輩の好きな人、人違いじゃない?
なにかのミスとか、勘違いとか。
何かの手違いがあった可能性が濃厚じゃない?
え、俺、人違いであんな目にあった?
「天使。言うじゃん。可愛い系かな」
「相田くん、そんな可愛い子いた?」
「え……どうでしょう……?」
訊かれても困るよ。もし本当に俺なんだったとしたら、平々凡々系だし。
あと、俺が一年生のときに、高校でいちばん美人だったのは、まず間違いなくカズ先輩。
「高校からかー。長く付き合ってるんだ? 合コン来ないんだよな。小野寺誘ってって女子に言われるから一々誘うけど一回も来ない。彼女いても全然参加OKなのにさァ」
「女の敵だねー。あ、付き合ってないらしいよ」
「付き合ってないわけないっしょ。じゃあなんで来ないの?」
「ずっと忘れられないんだって。新しい恋愛に興味ないで通してたよ。本気度高め」
「高校卒業して環境変わって別れたパターンかな。それにしても未練タラタラすぎない? 理解不能だわ。小野寺、絶対にむっつりスケベなのに」
ええ、俺もそう思います。未練タラタラなのも、むっつりスケベなのもね。
野村さんくらい、同時進行でガツガツ行った方が明らかに建設的。同期なのに極端すぎる。
葉子さんは言った。
「ほら、少し前の、出世コース乗るの確実なのに常務の親戚のお見合い断ったのも、その好きな人のためなんじゃないかって」
うーん、実はね、俺のせいみたいなんですよね、それ。そんな大事な局面で何やってんの、マジで。
「えー、どう? 常務派に入ることになるわけだから、社内政治的に、何か聞いてて断ったんじゃないの。常務が実権握るか、まだわからないし」
大きな会社は派閥とかあって大変そうだな、なんて思う。
うちの会社は、いたってシンプル。社長派と、アンチ社長派の二派。
ちなみに前者は社長ひとりだけ。あとは全員が後者。
「和臣、あの件、何も言わないからなー。相田くん、またよかったら、和臣に聞いておいて、こっそり教えてよ」
俺は困った。困りながらも、葉子さんが進めるままに、葉子さんと野村さんと連絡先を交換する。さっき、カズ先輩の連絡先を消したばかりなのに……。
連絡先を交換しつつ、俺は焦りながら言う。
「あのー、でもカズ先輩のことは、俺は言えないです。やっぱり、個人的なことだし、何も知りませんし」
「いいよいいよ。お酒は飲めるほう? 今度一緒に楽しく飲もうよ!」
「あ、それなら是非。お酒大好きです」
「こっち異動するんだっけ? わたし、東京と名古屋と大阪を行ったり来たり」
「あ、そうですね。できれば営業所に異動したいですね。本社はブラックなんで、戻りたくないんですよ。こっちは平和で……」
「異動できなかったら転職したらー?」
「はい。そのつもりなんですが……。でも、高卒なんで、自信ないんですよね……。だけど、もう東京は出ようと思ってて。仕事さえあれば、どこでもいいんですけど」
と言うと、葉子さんは朗らかに笑った。
「おお! 今ちょうど、人が欲しいって言ってる知り合いがいてさ。関連会社で人材派遣系なんだけど。動ける人探してるんだよね。最初は契約社員で、正社員登用あり。わりと条件いいよ」
「へー、そうなんですか」
「考えてみる?」
「え……あ、そうですね……」
「不安? こういうの、むしろ和臣に相談したらいいじゃん。彼、今リクルーターだし、詳しいのに」
あの人、そういうことしてるんだ。自分の会社とか仕事の話って全然しなかった。
いや、連絡するの無理。全部消したし。
絶対に無理。
「いえ、先輩に迷惑かけると思うんで、俺、先輩たちみたいに優秀じゃないですし」
「えー、優秀とか関係ないよ」
「それは優秀な方だけが言えるセリフですよ。学歴もないし」
そう言うと、葉子さんは少し真面目な笑顔で言った。
「もちろん、わかりやすいよ。学歴って。学力が高いと常識が身についてる可能性が高いし、理解早いし。でも、最終的には人。人間だよ。君も挑戦してみたら、思いがけない化学反応が起こるかもしれないよ」
「そういう考え方もあるんですね……」
俺は不思議な気分。学歴が高い人って、他人の学歴をあまり気にしないよな。
「遠慮しちゃうんだったら、わたしが後押ししてあげる」
「え?」
葉子さんは携帯電話を取り出して、タップして耳に当てた。
まさか。
「葉子さん待ってください!」
「おーい、和臣? 今さー、相田くんと一緒なんだけど。あれ? なんなの、ひどい鼻声。風邪? お大事に。ほら、西くんとこの案件さあ、人欲しいって話、あったじゃん。相田くん、転職したいみたいだから。応募してもらってもいいよね」
「葉子さん待って、本当に待って」
「フットワーク軽そうだからいいんじゃないの? じゃ、西くんに話通しておいてあげてね。わたしも言っておくから。大事な後輩の人生かかってるんだからサポートしてあげなよ。しっかりしなよ、先輩!」
葉子さんは通話を切った。
俺は訊ねた。
「……フットワーク?」
「あ、会社、大阪だからさ。あれ? いいよね。大阪でも。どこでも」
…………え? 大阪?
俺が言葉をなくして突っ立っていると、後ろポケットに入れた携帯電話が振動する。着信だ。
取り出して画面を見る。
未登録だけど、見覚えのある電話番号が表示されている。さっき削除したばかり。
ほんと、カズ先輩って嘘つき。かけないって言ったじゃん。不可抗力的なものかもしれないけど、けっきょく口実でしょ。
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