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三年目の冬の話
九 慟哭
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十台分停められる駐車場には、車は二台ほどしか停まっていない。駐車場は雪で真っ白に埋もれて入れないし出られない。
街灯が青白く照らしている。
すぐそばの国道を走っている車も多くない。轍の部分だけ、アスファルトが露出している。
午後八時過ぎ。
夜の空は重く暗く深い。地上は白銀色の、夜の底だ。
雪が降りしきっている。人通りはない。
出入口を飛び出したルイスは、ふらふらと駐車場を横切って歩く青年の腕を掴んだ。雪ですべって、彼が地べたに座り込む。
荷物も持たずに出て行こうとした彼に対して、ルイスは怒っている。腕を掴んで、無理矢理に立たせようとするが、彼は中途半端に座り込んだままだ。力が抜けているように。
ルイスは低く言った。
「待て」
「……うるさい」
青年は小さく言った。まだ幼い。
やることはやっておいて、精神はこれほど幼いのかとルイスは呆れる。
「わかっているのか。君は父親になったんだぞ! あの子は君の子だ! ミシェルだけでなく、マリーまで捨てる気か!」
ルイスは怒鳴った。
どれほど未成熟であったとしても、彼こそがマリアンヌの実の父親だ。
学生の身分でありながら避妊もせずに男女交際をしていたミシェルはさておき、何も知らずに生まれた小さなマリアンヌが過酷な状況におかれることだけは断じて許してはならない。
もしマリアンヌが父親といて不幸になるならば、この父親を更生させる必要があり、その役目を負う者こそが自分だとルイスは思う。
自分はマリアンヌの父親にはなれない。ならば、父親の指導者をやるしかない。
青年は、雪の中で叫んだ。
「いらない、いらねえよ! 子どもなんか!」
ルイスは青年を無理矢理に振り向かせ、まだ細さの残る両肩を掴む。
彼を揺さぶって悲痛に叫んだ。
「じゃあ、くれよ! なあ、僕にくれ!」
欲しい。自分のもとで無邪気に笑ったり泣いたり、寝たり食べたり歌ったりと忙しい、小さなあの子が、本当は心から欲しい。一緒に暮らしたい。幸せにしてあげたい。
幸せにする自信はある。この裕福さは、彼女のためにあるのかもしれない。レンと一緒に、一所懸命、大切に育てていきたい。
だが、それではいけないと経験が物語る。
ルイスは実母の愛情を渇望して生きてきた。
マリアンヌも母親がいない。なのに、この自分が、母を失ったマリアンヌから、本当の父親と生きる機会さえ奪うのか。
そんなことをしては、自分自身を許せない。なんとしてでも、彼を正さなくてはならない。マリアンヌのために。ひいては、過去の自分のために。
ルイスは、その願いを叶えてはいけないと知りながら、焦がれるようにもう一度叫ぶ。
「いらないんだったら僕にくれ!」
「やるよ! いらねえ!」
青年はルイスを振り払おうとする。だが力が強いので振り払えない。
「マリーには君しかいないのに!」
このままでは殴ってしまうかもしれない。
思いとどまらなければと思うルイスの目の前で、青年は慟哭した。涙がほとばしる。
「ミシェル!」
彼の口から出た、はとこの名前に、ルイスは息を呑む。
言いかけた言葉を失くした。怒りも消えてしまう。頭を打ちつけられたように愕然とする。肩に食い込むほど思い切り掴んでいた手が緩む。
息ができない。
青年は、胃の中身を吐きながら怒鳴った。
「なんでだよ! なんで消えたんだよ! なに死んでんだよ、ミシェル! 俺にはミシェルしかいなかったんだ!」
彼は、いま恋人を亡くしたのだ。と、ルイスは初めて気づく。
誰にも届かない、死んだはとこに宛てたその咆哮を聞きながら、ルイスは夜空を仰いで、ふと、海の向こうの父を思った。
自分が日本に初めて来たのは父の勧めだ。当時、小学生だったルイスはニューヨーク市マンハッタンに住んでいた。事件が起きた。父は、安全な国として日本を選び、エマとルイスを一時避難させた。
ルイスは一時避難という理由を建前だと思っていた。
寡黙で用件しか言わない父に、とうとう捨てられたのだと。
――だが父は、一度も、一度たりとも、息子のせいで妻を亡くしたとは言わなかったな
ルイスは知っている。父が母を愛していたことを。
姉や乳母に、よく言い聞かされていた。
そして子どもたちも愛されているのだと、よく言い聞かされていた。エマに手を引かれ、くさくさしながら空港を歩き、飛行機に乗った日のことを昨日のことのように思い出す。
あのときもエマは、父は自分たちを愛しているのだと、ルイスに言い聞かせていた。エマが信じたいだけなんじゃないの、と言ったら叩かれた。
娘と息子を遠ざけたことが建前ではなかったのであれば、それは愛情というほかない。
「知らねえよ! 何も言わずに……! 俺は産めって言ったんだよ! 大学なんかやめて、働くから!」
青年は機能不全家庭に育ったので、新しい家族に期待を持った。遠い国から来た美しい少女が、自分の元から消えたのは、二年以上前だ。
それからずっと喪失感が続いている。今夜、突然呼び出されて、彼女の命と引き換えに、子どもだけが残されている事実を、受け止めきれない。
知人伝いに連絡があった当初は、ミシェルの親族がミシェルの交際相手を探しているという話だったので、二年前に彼女を失う前にあった期待が、再燃していたのに。
希望を持って会いにきたというのに。すべてが遅いことを知っただけだなんて。
泣きながら吐きながら、雪の上にうつ伏せる。頭を掻きむしる。
「なんで俺、ミシェルを本気で探さなかったんだよ!」
ルイスは呆然と立ち尽くす。
ルイスは、この青年に、いま何を言えばいいのかわからなくなった。それでも残されたマリアンヌの父親は、彼しかいないという現実だろうか。言えない。
雪が覆い隠していく。
足跡も吐しゃ物も涙も。
後悔も慟哭も寂しさも。
すべてが白い闇に吸い込まれていく。
街灯が青白く照らしている。
すぐそばの国道を走っている車も多くない。轍の部分だけ、アスファルトが露出している。
午後八時過ぎ。
夜の空は重く暗く深い。地上は白銀色の、夜の底だ。
雪が降りしきっている。人通りはない。
出入口を飛び出したルイスは、ふらふらと駐車場を横切って歩く青年の腕を掴んだ。雪ですべって、彼が地べたに座り込む。
荷物も持たずに出て行こうとした彼に対して、ルイスは怒っている。腕を掴んで、無理矢理に立たせようとするが、彼は中途半端に座り込んだままだ。力が抜けているように。
ルイスは低く言った。
「待て」
「……うるさい」
青年は小さく言った。まだ幼い。
やることはやっておいて、精神はこれほど幼いのかとルイスは呆れる。
「わかっているのか。君は父親になったんだぞ! あの子は君の子だ! ミシェルだけでなく、マリーまで捨てる気か!」
ルイスは怒鳴った。
どれほど未成熟であったとしても、彼こそがマリアンヌの実の父親だ。
学生の身分でありながら避妊もせずに男女交際をしていたミシェルはさておき、何も知らずに生まれた小さなマリアンヌが過酷な状況におかれることだけは断じて許してはならない。
もしマリアンヌが父親といて不幸になるならば、この父親を更生させる必要があり、その役目を負う者こそが自分だとルイスは思う。
自分はマリアンヌの父親にはなれない。ならば、父親の指導者をやるしかない。
青年は、雪の中で叫んだ。
「いらない、いらねえよ! 子どもなんか!」
ルイスは青年を無理矢理に振り向かせ、まだ細さの残る両肩を掴む。
彼を揺さぶって悲痛に叫んだ。
「じゃあ、くれよ! なあ、僕にくれ!」
欲しい。自分のもとで無邪気に笑ったり泣いたり、寝たり食べたり歌ったりと忙しい、小さなあの子が、本当は心から欲しい。一緒に暮らしたい。幸せにしてあげたい。
幸せにする自信はある。この裕福さは、彼女のためにあるのかもしれない。レンと一緒に、一所懸命、大切に育てていきたい。
だが、それではいけないと経験が物語る。
ルイスは実母の愛情を渇望して生きてきた。
マリアンヌも母親がいない。なのに、この自分が、母を失ったマリアンヌから、本当の父親と生きる機会さえ奪うのか。
そんなことをしては、自分自身を許せない。なんとしてでも、彼を正さなくてはならない。マリアンヌのために。ひいては、過去の自分のために。
ルイスは、その願いを叶えてはいけないと知りながら、焦がれるようにもう一度叫ぶ。
「いらないんだったら僕にくれ!」
「やるよ! いらねえ!」
青年はルイスを振り払おうとする。だが力が強いので振り払えない。
「マリーには君しかいないのに!」
このままでは殴ってしまうかもしれない。
思いとどまらなければと思うルイスの目の前で、青年は慟哭した。涙がほとばしる。
「ミシェル!」
彼の口から出た、はとこの名前に、ルイスは息を呑む。
言いかけた言葉を失くした。怒りも消えてしまう。頭を打ちつけられたように愕然とする。肩に食い込むほど思い切り掴んでいた手が緩む。
息ができない。
青年は、胃の中身を吐きながら怒鳴った。
「なんでだよ! なんで消えたんだよ! なに死んでんだよ、ミシェル! 俺にはミシェルしかいなかったんだ!」
彼は、いま恋人を亡くしたのだ。と、ルイスは初めて気づく。
誰にも届かない、死んだはとこに宛てたその咆哮を聞きながら、ルイスは夜空を仰いで、ふと、海の向こうの父を思った。
自分が日本に初めて来たのは父の勧めだ。当時、小学生だったルイスはニューヨーク市マンハッタンに住んでいた。事件が起きた。父は、安全な国として日本を選び、エマとルイスを一時避難させた。
ルイスは一時避難という理由を建前だと思っていた。
寡黙で用件しか言わない父に、とうとう捨てられたのだと。
――だが父は、一度も、一度たりとも、息子のせいで妻を亡くしたとは言わなかったな
ルイスは知っている。父が母を愛していたことを。
姉や乳母に、よく言い聞かされていた。
そして子どもたちも愛されているのだと、よく言い聞かされていた。エマに手を引かれ、くさくさしながら空港を歩き、飛行機に乗った日のことを昨日のことのように思い出す。
あのときもエマは、父は自分たちを愛しているのだと、ルイスに言い聞かせていた。エマが信じたいだけなんじゃないの、と言ったら叩かれた。
娘と息子を遠ざけたことが建前ではなかったのであれば、それは愛情というほかない。
「知らねえよ! 何も言わずに……! 俺は産めって言ったんだよ! 大学なんかやめて、働くから!」
青年は機能不全家庭に育ったので、新しい家族に期待を持った。遠い国から来た美しい少女が、自分の元から消えたのは、二年以上前だ。
それからずっと喪失感が続いている。今夜、突然呼び出されて、彼女の命と引き換えに、子どもだけが残されている事実を、受け止めきれない。
知人伝いに連絡があった当初は、ミシェルの親族がミシェルの交際相手を探しているという話だったので、二年前に彼女を失う前にあった期待が、再燃していたのに。
希望を持って会いにきたというのに。すべてが遅いことを知っただけだなんて。
泣きながら吐きながら、雪の上にうつ伏せる。頭を掻きむしる。
「なんで俺、ミシェルを本気で探さなかったんだよ!」
ルイスは呆然と立ち尽くす。
ルイスは、この青年に、いま何を言えばいいのかわからなくなった。それでも残されたマリアンヌの父親は、彼しかいないという現実だろうか。言えない。
雪が覆い隠していく。
足跡も吐しゃ物も涙も。
後悔も慟哭も寂しさも。
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