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番外編4

5 ある流されやすい少年(※レンの過去)

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 ――俺、なんでこんなことしてるんだっけ。

 キスを受け入れながら、レンはそう思う。
 夏休みがもう終わる。八月三十一日。一学期の期末テストが赤点で、数学の補習を受けることになり、夏休みの平日の午前中はずっと登校だった。
 午後0時。チャイムの音が鳴る。鳴り止む。
 補習は十一時四十五分に終わって、他の生徒は全員さっさと帰った。レンは数学準備室に居残って、こうしている。
 準備室は、ベージュのカーテンが引かれて薄暗い。
 窓を開けている。熱気を含んだ風が時折カーテンを膨らませる。準備室は冷房がない。じっとしていると肌に汗が伝ってくる。首筋に落ちる。
 その汗に彼は口づける。
 レンは言う。

「先生、俺、もう嫌です」
「もう少しだけ」

 キスと、少し触れるだけだ。ほんの少しだけ。
 彼は言う。

「どうせ、今日で最後だから」

 しばらくして、彼はため息を吐いて離れた。鎖骨に彼の吐息が触れて、レンはぞくぞくする。熱い。はだけかけたシャツを、レンは急いで直した。
 カーテン越しに、グラウンドの声が聞こえる。野球部が練習している。掛け声、歓声。淳弥の声が聞こえる。この窓からでも、練習風景が眺められる。
 だが、カーテンを開けて、淳弥の姿を見る気にはなれなかった。先日、体の関係を持った。なのに、自分は他人とこうしている。
 すべてが後ろめたい。

 ――なんで、こんなことになったんだっけ。

 あのとき、準備室に駆けこまなければ、何かが違っていたのだろうか。
 選択肢なんか、なかったのに。

   *

「たたたすけてください……!」

 レンは、手近の準備室に駆け込んだ。
 奥の机で採点をしていた彼は顔をあげた。数学教師だ。講師だったか。学年が違い、持ってもらっていないのでよくわからない。一人きりだ。だが一人でもいい。
 レンは後ろ手にドアを閉めて、慌てて壁沿いのキャビネットの影に隠れる。ドアから見えない位置に、身体を埋める。
 しゃがみこんで身を縮めて震えていると、ノックの音がする。

「はい」

 机の彼は答えた。レンは彼を見上げた。目が合う。
 レンは思わず、縋るような目をした。お願いします。助けてください。
 ほどなくドアが開いた。その人が入ってくる。

「清水くん? あれ、藤木さん。すみません、今、男子生徒が来ませんでしたか」
「いいえ、誰も」
「そうですか」

 と言って、その人は出て行った。足音が遠ざかっていく。
 レンは胸を撫でおろした。

「すみません……」
「問題になってるから、じきにいなくなるよ。もう少しの辛抱」
「え……」

 レンは顔をあげる。彼は無表情だ。
 眼鏡を掛けている。細身で気難しそうで、いかにも数学といった風貌の先生だ。二十代前半だろうと思われた。ここが初めての学校だと、始業式のときに聞いた覚えがある。
 半袖のシャツにスラックス、ネクタイはしていない。へたをすると学生にさえ見える。

「まだいるかもしれないから、時間潰していったら」
「あ、ありがとうございます……」

 レンは立ち上がる。
 手持無沙汰で、窓に寄って、カーテンの隙間から外を見る。

「あ、ここグラウンド見える……」

 野球部が練習している。親友の姿がある。彼は目立つ。野球部のピッチャー。背も高くて体格が良くて、顔が良くて性格が明るい。皆の人気者で、自慢の親友だ。
 七月初旬。午後の強い日差しを浴びながら、なんて楽しそうにしているんだろう。
 奥はサッカー部、テニス部、陸上部、プールのほうでは水泳部。
 帰宅部のレンの目に、正しい青春を謳歌する彼ら彼女らの姿はとても眩しく、きらきらして見える。
 しばらく、淳弥が投球するのを眺めていた。身体がよく伸びるし、勢いがあってすごいなあと思う。
 藤木は笑った。

「好きな子でもいるの?」
「え!? いえ、あの、その」

 藤木が机を立って、レンの隣に来る。カーテンをもう少し開けて、グラウンドを見る。この窓はすべての体育系の部活を眺められるので、レンの視線の先はわからない。
 藤木はレンの手首を掴んだ。
 レンは警戒しながら言った。

「あの、何ですか」
「そういう顔をするから、変な奴に追いかけ回されるんじゃないか」

 お前が誘ったんだろうと詰られたことを思い出して、レンは反駁した。

「こういう状況に陥るのって、俺のせいなんですか?」

 誰かに笑顔を向けたり、楽しく話したり、自分を知ってもらおうとしたり、誰かを知ろうとしたり、ただ無邪気に心の赴くままにそうしていることは、いけないのだろうか。勘違いを呼ぶのは、そもそもコミュニケーションの方法が間違っているからか。それとも、自分が他者と違う性質を持つせいなのだろうか。
 噛みつかれたことを意外だと感じて、藤木は笑った。

「そうとは言わないけど、誤解されたくないなら自衛したら?」
「なんで? 俺、悪くないのに」
「良い悪いじゃない。動物だって昆虫だって何も悪くなくても捕食されるだろう。人間も同じだ。危なそうな相手には近づかない。危ないと思ったらすぐに逃げなくては、こうされる」

 細く開けたカーテンの隙間を、藤木は埋めた。
 グラウンドが見えなくなる。室内は薄暗くなる。
 音だけが、近く、遠く、響いている。笛の音、監督の怒鳴り声、揃った返事、砂を蹴る、金属音や、ボールがミットにおさまる音がする。
 なのにこの部屋には、静寂が満ちている。

 ――なんで俺、こんなことになってるんだ

 藤木に手首を掴まれて、唇を奪われながら、レンは考える。
 どれほど考えたって答えなど出ない。どうしても逃げなくてはならず、手近のこの部屋に誰かがいる気配がして駆け込んだ。助かったと一瞬思った。だが、結局、どこまで行っても何かから逃げられない。自分の中にある問題だからだ。

 ――お前が先に誘ったんだろう。金か? いくら欲しい? いくら渡したらやらせるんだ

 誘ってなんかいない。偶然仲良く話し込んだことがあっただけだ。たったあれだけのことで、なんで。お金なんかいらない。やらせるって何だよ。
 今後は、心からは笑わないようにするしかない。誰のことも知ろうとせず、自分のことも知らせようとせず、線を引いて、上辺だけで生きるしかない。
 そうじゃないと、不意に、不本意に、好きでもない人に触られてしまう。
 ぬめるように藤木の生温い舌が滑り込んでくる。
 唇を重ね合わせるだけのキスだって初めてなのに、こんなことをするのか。

「っ、ん、や」
「少しだけ。触らせて」

 大きな手のひらが顔を包む。熱い。
 首筋に頭を埋め、藤木はレンの首筋に唇を当てる。レンはぞくりとした。肌が粟立つ。この先は知らない。
 自分が悪いとレンは思う。
 逃げられない自分が悪い。逃げろと言われているのに、身体が動かない。
 だが恐怖感ではない。
 誰かと触れ合うことは、恐ろしいほどの魅力を持っている。本能を呼び覚ます。自分の中に眠っていたそれに気づいてしまったせいだ。
 キスをしたり、肌が触れたり、自分の知らないその先を求めるリビドーに、翻弄される。
 性欲のはけ口にされて、消費される存在であったとしても、目の前の男が自分を好きでこうしているのではなかったとしても、心は気持ちよくないのに、肉体はまるでまったく別の感情を持っているかのように熱を放つ。

「逃げたいなら、逃げたらいい。止めはしないし、俺は追いかけもしない」
「っ……」
「キスだけ。どう?」

 薄暗い準備室に、外の音が響いている。
 好きな人の声が聞こえる。明るくて無邪気な声だ。まだ何も知らない。
 近い。そしてとても遠い。



 <番外編4 ある流されやすい少年 終わり。他の話に続く>
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