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三年目の春の話

九 臨時株主総会

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 明け方のことである。
 レンが目覚めると、ルイスはベッドにいなかった。いつもである。ぬくもりをたしかめるが、ずいぶん冷えている。離れて長いようだ。
 時計を見る。午前五時。
 遠くで話し声が聞こえる。リビングでルイスが誰かと電話で話しているらしい。しばらくして、ルイスがため息を吐きながら寝室に戻ってきた。

「おはよう、ございます」

 ルイスはベッドの際に腰掛けて身を屈め、眠たげに目をこするレンの額に、そっとキスをした。

「おはよう、レン。ごめん、起こしたね。まだ寝ていてください。今日はお仕事?」
「夕方、明日の仕込みだけ行きます」
「わかりました」
「でも、もう起きます。カーテンを開けてもらっても、いいですか」

 日の光があれば起きられる気がする。ルイスは遮光カーテンを半分開けた。まだ日の出まで時間がある。寝室の大きな掃き出し窓は、レースカーテン越しに、明け方の青を窓いっぱいに優しく映している。
 横たわるレンのぼさぼさの髪の毛を、ベッドに腰掛けて、ルイスは愛おしく撫でる。

「君は美しいですね……」

 何を言っているのだろうとレンは思う。誰がどう見ても、百人中百人の人間が、ルイスのほうが圧倒的に美しいというはずだ。自分はただひたすらどこにでもいそうな二十代後半の男である。
 ひとつ言えるとしたら、彼の目に映っている自分は、ルイスのことが心底好きだ。それだけだ。
 窓に向かって、ベッドに腰掛けている姿ひとつ見ても、手足が長くて様になる。
 ルイスはすでに着替えている。濃いグレーの三つ揃いのスーツだ。水色のワイシャツに、紺色のネクタイ。いつもの腕時計もつけている。シトラスの香り。すぐに仕事に行くのだろう。

「ルイスさん」

 レンが呼ぶと、ルイスはレンに手を差し伸べる。

「おいで、レン」

 レンは身を起こして、寝ぼけながら彼の隣に座る。ルイスの腕にもたれて、早朝の青に照らされながら、時間とともに白い光に変わっていくのを待つ。

「さっき、電話ですか」
「ええ。父でした」
「え。こんな朝早くに。何かあったんですか?」
「向こうは夜です」
「あ、そっか」
「父は本当に具合が悪くなったと言っていました。申し訳ないことをしましたね。結構やり合ったので」
「大丈夫なんですか?」
「声の感じでは、それほどではないと思いますけれど、念のため、あとで継母に訊いておきます」
「はい」
「そこで、明日の臨時株主総会を、開催中止にするそうです」
「え?」
「しばらくのあいだ、僕は今の会社の代取を続けることになりました」
「ええええ!?」

 急転直下である。
 レンは一気に目が覚めた。唖然とし、文字通り、開いた口が塞がらない。
 ルイスは物凄く深いため息を吐きながら前屈みとなり、両手で顔を押さえた。

「た、助かった……」

 思わず本音が漏れる。やはり今の会社をやめたくなかったのである。
 と、そのとき、ルイスの携帯電話に着信があった。身を起こして画面を見る。

「あ、エマ姉さん。すみません、ここで出てもいいですか?」
「どうぞ」

 通話ボタンを押す。

「はい。おはようございます。ええ、今、僕のほうにも父から連絡がありました」

 ルイスはしばらく黙ってエマの話を聞いていた。
 音声は、レンのほうには聞こえない。

「わかりました。エマ、難しい立場なのに、本当にありがとう。皆さんにもお礼を言っておいてください。はい、失礼します」

 そう言ってルイスは電話を切る。
 ルイスはレンを見た。その瞳が潤んでいることに、レンは気づく。この人って案外泣き虫なのかも、とレンは思う。
 すっかり太陽はのぼっており、窓は白い光に満ちている。
 ルイスは静かに言った。

「僕は……本日付けで辞任届を書くつもりだったんです。ですが、エマは、多数派工作を掛けようと、奔走してくれまして……」

 解任とは、株主と経営陣の揉めごとの表れだ。
 取締役は、就任する際に、名前・住所を登記する。そして、解任の際はその事実を記載することになる。
 ルイスは、対外的な影響を考え、そして法人登記簿に代表取締役解任の事実が記載されることを避けるべく、自ら辞める道を選ぼうとしていた。
 解任の事実が内外に半永久的に示されれば、会社の今後の取引に悪影響を及ぼすことは必定だからだ。
 無職になるならそれでもいいかと一瞬思ったが、考え直した。会社を愛している。従業員を守りたい。解任ではなく辞任ならば、影響は少ない。身を引くしかない。
 エマは、過半数の株式を持つ父に対抗するため、他の株主に掛け合って白紙委任状を得ようとしていた。反対派に一定数の委任状が集まれば、父によるルイスの解任を阻止できる。このような議決権の奪い合いを、プロキシーファイトという。
 幸いにして、株主の多くは役員である。取締役会は、代表解職を決議しない程度にはルイスが代表であることに異存がない。ただし、この委任状争奪戦に負ければ、エマの立場もなくなる。
 レンは何を聞いてもひとつたりともわからない。
 頭を抱える。

「すみません、俺、不勉強で……」
「いいんです。けっきょく、クリスティナが、父に電話でお願いしたそうです。僕を辞めさせないように。日本に残しておくようにって。それで、父は開催中止を決めたそうです」
「そんなことがあるんですか……」
「裏技が過ぎますね。なぜクリスティナが協力してくれたのか、わかりませんが」
「あ、それは……。実は、クリスさんに、ルイスさんとのこと、話しました」

 昨日のクリスティナとの花見のことを、レンはルイスに簡単に説明する。クリスティナは、ルイスと遠距離になることでレンが落ち込んでいたことに気づいていたはずだ。
 おそらくクリスティナは花見を解散した後、祖父に連絡したのだ。そうだとしか思えない。
 ルイスは目頭を押さえる。

「でも、ルイスさんがアメリカまで行っても駄目だったのに、クリスさんが電話でお願いして、聞き入れられちゃうものなんですか」
「父は孫娘のクリスに激甘です。おそらく、プライベートジェットをねだっても買ってもらえます」
「嘘でしょ……」
「いえ、一機くらいは、もう持ってるかもしれません」

 二人して、背中からベッドに倒れ込む。天井を仰いで、二人とも気が抜けて、なんだか笑えてきた。
 笑いながら、ルイスは叫んだ。

「あー。いったい何だったんだよ。ひどい話だな」

 珍しく口調が荒れる。涙声になりそうだから、誤魔化したのである。
 レンは笑った。

「まさかこんなことになるなんて」
「……僕は、仕事に精を出すのやめます。毎日九時五時で、土日祝日も休みにします。もう知りません。ほどほどでいいです」
「あ、でも、それだと今まで通りすれ違い生活になりそうです」
「では、夕方に出社して真夜中に退社します。放蕩息子になります」
「それだけ働いたら、十分真面目じゃないですか?」
「それもそうですね」

 ルイスはレンの右手を握る。五本の指を絡ませる。恋人つなぎだ。レンもルイスの左手を握り返す。
 ルイスは左手の薬指にずっと指輪をしている。固い感触がする。レンも左手に指輪をつけている。
 しばらくのあいだ、お互いに黙って、繋いだ指をにぎにぎする。

「ふふ」
「あはは」

 そうやって、ひとしきり笑い合ったあと、ベッドの上で横向きになって向かい合わせになる。
 朝の光のひだまりで、お互いの頬に手を添えて、どちらともなく顔を寄せて、静かに口づけた。



 <三年目の夏の話に続く>
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