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三年目の春の話
四 別れ話
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真夜中。
「――レン?」
電話越しのルイスの声に、レンは安心する。
ルイスが突然アメリカに一時帰国するといって消えて、一週間が経っていた。
いつ頃戻ってくるのだろうかと思いつつ待っていると、メッセージがあって、電話をしたいというので、待っていた。電話がきたのはさらに三日後だ。
午前二時。仕事終わりを見計らったのだろう。レンは着替えて眠ろうとしていた。ベッドの上に座っている。向こうは何時なのだろうか。
「はい」
「僕ですけど」
「はい」
よく考えると、電話をする機会はほとんどなかった。待ち合わせのとき以来か。久しぶりにルイスの声を聞く。ルイスも、久しぶりのレンの声に耳を傾ける。直接話すときの距離感と異なる。耳元で囁かれるようで、これはこれでいいとルイスは思う。
「今、何時ですか? そちらは」
「サマータイムで、午後一時です。そっちはどう?」
「えっと、桜が、咲いていますね」
「ああ、こちらでも咲きはじめていますね」
「アメリカにも桜ってあるんですか」
「ありますよ。会社からセントラルパークが見えるんですけど、そのあたりに」
桜といえば、ルイスは思い出す。
レンと二人でよぞらの近くの公園で夜桜を見た。
風のない夜で誰もいない。一緒にレンが作ったお弁当を食べて、お菓子を食べて、穏やかな時間を過ごした。レンにアメリカに連れていってもいいかと訊ね、了承を得た。
色々な思い出がある。こんな風に、彼との間で積み重ねたものがあるのだと、ルイスはつくづく思った。だからといって、まだ懐かしみたくはない。
音声だけではなくて、テレビ電話にでもすればよかった。姿を見たい。だがきっとそうしたら、さらに欲求が深くなる。今でも、一足飛びに、直接会いたい。触れたい。
ルイスはため息とともに言った。
「とりあえず、三日後に戻ります」
「そうなんですか」
「はい。話をしてみたものの、父の考えはわからないので、もう少し仕事をして、さっさと帰ります」
ルイスの父親は厳しいが、ルイスに対して策略家ではない。話せない人間ではない。だが、今回は父子で直接話しても言を左右にしていて本音がわからない。ただ帰ってこいと言うだけだ。
そこで、レンは言った。
「お父さんと、よく話し合ってくださいね」
ルイスは苦笑した。
自分と父の関係は、一般的な親子よりも情緒が希薄である。話せないわけではないが、別に仲が良いわけでもないし、ビジネスの付き合いだけの期間のほうがよほど長い。仕事で逆らえない相手だ。
「これ以上話しても、何も得られないんですよ……。ああ、ごめん、レンにいうべきではなかったです。すみません」
二つの意味で、レンを傷つけかねないことにルイスは気づいた。レンは数年前に父親を失っている。父が健在であるルイスには、父を失う辛さはわからない。実母を亡くしたとき、ルイスは生まれたばかりだった。
それに、父子の関係をレンに話しても仕方ない。背景を説明することまではできない。
ルイスは言った。
「ごめんね」
「いえ。大丈夫です。差し出がましいことをいってすみません」
レンは、ルイスに気を遣わせてしまい、申し訳ないと思う。
「ただ、このままこちらの仕事に浸かっていると、日本に戻れなくなりそうです」
ルイスは日本での仕事を奪われようとしている。
「戻らないんですか……?」
「本国で椅子を用意されて、日本では解任ですから」
外堀を埋められつつある。戻ろうにも立場がない。
ルイスは父に、レンのことを話せていない。だが、恋人を残してアメリカに戻ることは、今の自分には想像できない。
父にとって、アメリカに戻ろうとしないルイスのほうが不可解な存在だろう。いずれ戻るために外に出されていたのだから。先ほども、まだ日本にいたいと言ったら、もう十分だろうと言われ、今更何を言っているのかといった顔をされた。
ルイスもそのつもりだった。昔の自分ならば、やっと戻れると喜んでいてもおかしくない。レンと出会っていない頃の自分であれば。
変わってしまったのは自分のほうだとルイスは自覚している。
「日本の会社は、ルイスさんがいなくなって、大丈夫なんですか」
「それは問題ありません。後任であるエマの夫のジムは、前任でもあります。エマも代表ですが、外交役で、経営は別の人、と役割分担しているんです。ただ僕は、実務家寄りで、引き継がなければならないことがまだ残っていて……」
日本に戻る必要はある。しかし、それは一時的な仕事の引き継ぎではない。恒久的に日本に残りたい。少なくともレンが店にピン留めされているうちは、一緒に暮らすためにはルイスが日本に戻るほかない。
レンは、そこで初めて、ルイスがアメリカにずっと住むのだとわかった。それもそうだ、と思う。彼はアメリカ人であり、仕事の都合で日本にいたのだ。
本格的に離れ離れになったら、自分たちはどうなるのだろうか。アメリカと、日本。どちらも、その場に縫いつけられるみたいに動けない。
レンは押し黙った。嫌な想像が頭を過ぎる。考えてはいけない。
自分たちがこのまま、どうなるのか。
「先に言っておきますが」
と、ルイスは切り出した。
「レンのことを諦めるつもりはありません」
ルイスはあらゆる意味を込めてそう言った。レンとの関係の維持も、将来のことも、父の理解もすべて、実現できないものはないと考えている。ルイスはポジティブなのである。
だが、諦めるという言葉にレンは立ち尽くす。レンはネガティブである。
「ですが、実際は、厳しいですよね」
声が震えた。何を言っているんだろうとレンは思う。自分はいったい何を告げようとしているのか、わからなくなる。恐ろしくて手が震える。
頭が痛い。混乱している。ルイスは戻ってこない。会えなくなる。会いたい。
「これって……いずれ、わ、別れる、しかなくなるんじゃ、ないですか」
泣きそうになる。嫌だ。声がかすれる。視界が回る。
うまく話せない。心が拒否するせいだ。
手が震えたままだ。落ち着かせるために握ったら今度は腕ごと震える。
ルイスは静かに怒った。
「レン。いま考えてもわからないことは、考えるのをやめて、後回しにしましょう。そちらは二時過ぎですよね? 夜も遅いし、君はお仕事で疲れています。だから、朝起きて、お日様の下で、ふたりで考えましょう。結論を出すのはまだ早いです」
なぜルイスが冷静でいられるのか、レンは理解できない。
「結論って、だって、ルイスさんって、そちらの仕事を選ぶしか……、そうしたら結論って、一つしかないじゃないですか」
「ちょっと待ってください、レンは別れたいんですか?」
「そんなわけないです」
「レンの口振りだと、別れる選択肢しかないように聞こえますが」
「そんな」
「あとは僕が考えます」
ルイスは少しうんざりしている。レンは結論を急ぎすぎる。
問題ごとの解決は自分向きの仕事であるし、ある程度は筋道も立ててある。あとはレンがどこまで自分を信じてくれるか。
だが、自分はそこまでに至っていないと痛感する。別れるという言葉を安易に口にされることも、レンにはあり得るのかと思うと、ショックが大きい。自分は、別れるという言葉の使用を避けていたのに。
「絶対に別れません」
とルイスはレンに念押しした。
「――レン?」
電話越しのルイスの声に、レンは安心する。
ルイスが突然アメリカに一時帰国するといって消えて、一週間が経っていた。
いつ頃戻ってくるのだろうかと思いつつ待っていると、メッセージがあって、電話をしたいというので、待っていた。電話がきたのはさらに三日後だ。
午前二時。仕事終わりを見計らったのだろう。レンは着替えて眠ろうとしていた。ベッドの上に座っている。向こうは何時なのだろうか。
「はい」
「僕ですけど」
「はい」
よく考えると、電話をする機会はほとんどなかった。待ち合わせのとき以来か。久しぶりにルイスの声を聞く。ルイスも、久しぶりのレンの声に耳を傾ける。直接話すときの距離感と異なる。耳元で囁かれるようで、これはこれでいいとルイスは思う。
「今、何時ですか? そちらは」
「サマータイムで、午後一時です。そっちはどう?」
「えっと、桜が、咲いていますね」
「ああ、こちらでも咲きはじめていますね」
「アメリカにも桜ってあるんですか」
「ありますよ。会社からセントラルパークが見えるんですけど、そのあたりに」
桜といえば、ルイスは思い出す。
レンと二人でよぞらの近くの公園で夜桜を見た。
風のない夜で誰もいない。一緒にレンが作ったお弁当を食べて、お菓子を食べて、穏やかな時間を過ごした。レンにアメリカに連れていってもいいかと訊ね、了承を得た。
色々な思い出がある。こんな風に、彼との間で積み重ねたものがあるのだと、ルイスはつくづく思った。だからといって、まだ懐かしみたくはない。
音声だけではなくて、テレビ電話にでもすればよかった。姿を見たい。だがきっとそうしたら、さらに欲求が深くなる。今でも、一足飛びに、直接会いたい。触れたい。
ルイスはため息とともに言った。
「とりあえず、三日後に戻ります」
「そうなんですか」
「はい。話をしてみたものの、父の考えはわからないので、もう少し仕事をして、さっさと帰ります」
ルイスの父親は厳しいが、ルイスに対して策略家ではない。話せない人間ではない。だが、今回は父子で直接話しても言を左右にしていて本音がわからない。ただ帰ってこいと言うだけだ。
そこで、レンは言った。
「お父さんと、よく話し合ってくださいね」
ルイスは苦笑した。
自分と父の関係は、一般的な親子よりも情緒が希薄である。話せないわけではないが、別に仲が良いわけでもないし、ビジネスの付き合いだけの期間のほうがよほど長い。仕事で逆らえない相手だ。
「これ以上話しても、何も得られないんですよ……。ああ、ごめん、レンにいうべきではなかったです。すみません」
二つの意味で、レンを傷つけかねないことにルイスは気づいた。レンは数年前に父親を失っている。父が健在であるルイスには、父を失う辛さはわからない。実母を亡くしたとき、ルイスは生まれたばかりだった。
それに、父子の関係をレンに話しても仕方ない。背景を説明することまではできない。
ルイスは言った。
「ごめんね」
「いえ。大丈夫です。差し出がましいことをいってすみません」
レンは、ルイスに気を遣わせてしまい、申し訳ないと思う。
「ただ、このままこちらの仕事に浸かっていると、日本に戻れなくなりそうです」
ルイスは日本での仕事を奪われようとしている。
「戻らないんですか……?」
「本国で椅子を用意されて、日本では解任ですから」
外堀を埋められつつある。戻ろうにも立場がない。
ルイスは父に、レンのことを話せていない。だが、恋人を残してアメリカに戻ることは、今の自分には想像できない。
父にとって、アメリカに戻ろうとしないルイスのほうが不可解な存在だろう。いずれ戻るために外に出されていたのだから。先ほども、まだ日本にいたいと言ったら、もう十分だろうと言われ、今更何を言っているのかといった顔をされた。
ルイスもそのつもりだった。昔の自分ならば、やっと戻れると喜んでいてもおかしくない。レンと出会っていない頃の自分であれば。
変わってしまったのは自分のほうだとルイスは自覚している。
「日本の会社は、ルイスさんがいなくなって、大丈夫なんですか」
「それは問題ありません。後任であるエマの夫のジムは、前任でもあります。エマも代表ですが、外交役で、経営は別の人、と役割分担しているんです。ただ僕は、実務家寄りで、引き継がなければならないことがまだ残っていて……」
日本に戻る必要はある。しかし、それは一時的な仕事の引き継ぎではない。恒久的に日本に残りたい。少なくともレンが店にピン留めされているうちは、一緒に暮らすためにはルイスが日本に戻るほかない。
レンは、そこで初めて、ルイスがアメリカにずっと住むのだとわかった。それもそうだ、と思う。彼はアメリカ人であり、仕事の都合で日本にいたのだ。
本格的に離れ離れになったら、自分たちはどうなるのだろうか。アメリカと、日本。どちらも、その場に縫いつけられるみたいに動けない。
レンは押し黙った。嫌な想像が頭を過ぎる。考えてはいけない。
自分たちがこのまま、どうなるのか。
「先に言っておきますが」
と、ルイスは切り出した。
「レンのことを諦めるつもりはありません」
ルイスはあらゆる意味を込めてそう言った。レンとの関係の維持も、将来のことも、父の理解もすべて、実現できないものはないと考えている。ルイスはポジティブなのである。
だが、諦めるという言葉にレンは立ち尽くす。レンはネガティブである。
「ですが、実際は、厳しいですよね」
声が震えた。何を言っているんだろうとレンは思う。自分はいったい何を告げようとしているのか、わからなくなる。恐ろしくて手が震える。
頭が痛い。混乱している。ルイスは戻ってこない。会えなくなる。会いたい。
「これって……いずれ、わ、別れる、しかなくなるんじゃ、ないですか」
泣きそうになる。嫌だ。声がかすれる。視界が回る。
うまく話せない。心が拒否するせいだ。
手が震えたままだ。落ち着かせるために握ったら今度は腕ごと震える。
ルイスは静かに怒った。
「レン。いま考えてもわからないことは、考えるのをやめて、後回しにしましょう。そちらは二時過ぎですよね? 夜も遅いし、君はお仕事で疲れています。だから、朝起きて、お日様の下で、ふたりで考えましょう。結論を出すのはまだ早いです」
なぜルイスが冷静でいられるのか、レンは理解できない。
「結論って、だって、ルイスさんって、そちらの仕事を選ぶしか……、そうしたら結論って、一つしかないじゃないですか」
「ちょっと待ってください、レンは別れたいんですか?」
「そんなわけないです」
「レンの口振りだと、別れる選択肢しかないように聞こえますが」
「そんな」
「あとは僕が考えます」
ルイスは少しうんざりしている。レンは結論を急ぎすぎる。
問題ごとの解決は自分向きの仕事であるし、ある程度は筋道も立ててある。あとはレンがどこまで自分を信じてくれるか。
だが、自分はそこまでに至っていないと痛感する。別れるという言葉を安易に口にされることも、レンにはあり得るのかと思うと、ショックが大きい。自分は、別れるという言葉の使用を避けていたのに。
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とルイスはレンに念押しした。
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