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秋の話
十二 血を舐める
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日が暮れてからルイスの部屋に戻って、ふたりでキッチンに立つ。途中で、深手のフライパンをひとつと包丁とまな板と菜箸、手入れしやすいステンレス製のカトラリーのセットを買った。
「一緒に料理しますか?」
「してみたいです。包丁を持てばいいですか?」
軽食にサラダとサンドイッチを作ろうとしていた。トマトとブロッコリーを切ろうとして、ルイスは早速包丁の先で指を切った。深くなくうっすら血が滲む。別に痛くはない。
「お約束のように切ってしまいました」
レンはルイスの手を取って、血の滲む部分を吸った。しばらくの間、強く吸う。
ルイスはただ黙って立っていた。されるがままだ。
レンが口を離す。
「もう血は止まったかな……」
そう呟いたレンにルイスはキスした。血の味がする。
レンの身体の中に自分の体液が入ると思うとぞくぞくする。唾液、汗、精液。いけないことをしている気分になる。唇を離した。
レンは呆れているらしい。
「ルイスさん……」
ルイスは、レンを見つめ、用意していた言葉を一息に言った。
「レン、僕たちは――恋人だと考えていい?」
突然のことに、レンは驚いた。言葉を失くしてしまう。
ルイスからはっきりとそう言われるのは初めてだ。恋人らしきことをしているのは間違いないが、恋人ではなくともできることではある。
ただ、今日一日一緒に過ごしたのは、より恋人に近かったと思う。
ルイスは必死になる。
「レンに嫌われたくないです。だから、無理に、僕らの関係に名前をつけなくても構いません。大人同士ですし、レンが縛られたくないなら」
ルイスは言葉を切る。視線が泳ぐ。何かを考えているようだった。しばらく沈黙が流れる。
レンも何かを言おうとするが、言葉にならない。
ルイスはため息を吐く。
「――今のは、建前です。物分かりのよさそうな大人のいうことです」
ルイスはレンを、困ったように見つめた。レンは返事をするのも忘れて、ルイスを見つめかえしていた。
ルイスはすべてを言うことにした。
これまでなんとなく遠慮していた言葉を、今なら言える気がする。
すごく緊張する。心臓が鳴る。拒否されたらどうしよう。おそらくすごくショックを受ける。
だが言いたいという衝動を止められない。
レンにこの気持ちを知ってほしい。
知っておいてほしい。
「恋人がいいです。他の人を見ないでほしい。レンを縛りつけたい。大人同士とか全部嘘です。レンが嫌でも、僕のものにしたいです。僕はもう、君なしでは生きていけない。だから僕の思うがままにしたい。だけど、レンがどうしても嫌だったら我慢します。僕の気持ちが一方的なら、僕自身にも意味がない。君は僕のすべてなんです。レンが自分のしたいことをするのも、僕を幸せにしてくれるから」
愛しています、とルイスは言った。
「時間が惜しくて、すみません。何を焦っているんでしょう、僕は」
午後六時だ。
リビングの窓からは空の端に消えかけの夕焼けが眺められる。夜になる。
あと十三時間ほどで、また自分自身の日常が始まる。そこにレンの姿はない。レンの日常にはルイスはおらず、お互いは別々の場所で、自分だけを中心とした生活をする。次にいつ会うかは今のところわからない。
あちら側にいるとき、こちら側の時間はまるでなかったみたいになる。
レンにはレンの生活がある。地盤がある。そこに、細い糸で繋がっている。いつ切れてもおかしくないとルイスは不安に思う。
血が滲んでいた自分の指に、ルイスは唇で触れた。直接のキスもしたいし、レンの唇が触れたならば間接キスもしたい。
ルイスは自分のことをドライな性格だと思っていた。
これほど誰かを好きになったことは、かつてない。
レンは言った。
「邪魔をしたくないんです」
「邪魔?」
「はい。ルイスさんは、忙しくしていてビジネスマンで、かっこいいし、俺とは違います。遠くにいるひとです。ルイスさんに対して俺ができることは少ないです。あなたにとって俺の代わりはいくらでもいます」
ルイスは絶望した。
自分は最大限の愛を伝えるべく言葉を尽くしたはずだが、レンには一切伝わっていない感じがする、とルイスは思った。
これほど直球でものを言って気持ちが通じなかったのは初めてだ。
言葉の使い方を間違えたのかとさえ思う。
いや、受け取る側の問題だ。
日本語だけに限らず、ルイスは外国語が上手いほうだ。使う機会は少ないが、日本語の愛情表現はある程度勉強している。
愛おしい。恋い焦がれる。慕う。心を寄せる。心の中を表す言葉が多い。フランス語のような、愛しい相手に呼びかけるための言葉は少ないとは思う。よくいえば奥ゆかしい。
レンにはレンでその立場から考えることがあるのだろう。その事情はわからない。なぜ自分たちはこんな風なのだろう、とルイスは考えてしまう。
手応えとして、レンは自分を好きなはずだ。なのに、なぜこれ以上は踏み込めないのだろうか。
好きなのに、すれ違っているみたいだ。
「下で絆創膏を買ってきます。この家には無いと思うので」
「ちょっと待ってください、レン」
ルイスが止めるのも聞かず、レンはルイスを残してキッチンを出ていく。遠くで玄関を出ていく音がする。
逃げられた、とルイスは思った。
いったいなぜレンが逃げたのか、ルイスにはわからなかった。
<冬の話に続く>
「一緒に料理しますか?」
「してみたいです。包丁を持てばいいですか?」
軽食にサラダとサンドイッチを作ろうとしていた。トマトとブロッコリーを切ろうとして、ルイスは早速包丁の先で指を切った。深くなくうっすら血が滲む。別に痛くはない。
「お約束のように切ってしまいました」
レンはルイスの手を取って、血の滲む部分を吸った。しばらくの間、強く吸う。
ルイスはただ黙って立っていた。されるがままだ。
レンが口を離す。
「もう血は止まったかな……」
そう呟いたレンにルイスはキスした。血の味がする。
レンの身体の中に自分の体液が入ると思うとぞくぞくする。唾液、汗、精液。いけないことをしている気分になる。唇を離した。
レンは呆れているらしい。
「ルイスさん……」
ルイスは、レンを見つめ、用意していた言葉を一息に言った。
「レン、僕たちは――恋人だと考えていい?」
突然のことに、レンは驚いた。言葉を失くしてしまう。
ルイスからはっきりとそう言われるのは初めてだ。恋人らしきことをしているのは間違いないが、恋人ではなくともできることではある。
ただ、今日一日一緒に過ごしたのは、より恋人に近かったと思う。
ルイスは必死になる。
「レンに嫌われたくないです。だから、無理に、僕らの関係に名前をつけなくても構いません。大人同士ですし、レンが縛られたくないなら」
ルイスは言葉を切る。視線が泳ぐ。何かを考えているようだった。しばらく沈黙が流れる。
レンも何かを言おうとするが、言葉にならない。
ルイスはため息を吐く。
「――今のは、建前です。物分かりのよさそうな大人のいうことです」
ルイスはレンを、困ったように見つめた。レンは返事をするのも忘れて、ルイスを見つめかえしていた。
ルイスはすべてを言うことにした。
これまでなんとなく遠慮していた言葉を、今なら言える気がする。
すごく緊張する。心臓が鳴る。拒否されたらどうしよう。おそらくすごくショックを受ける。
だが言いたいという衝動を止められない。
レンにこの気持ちを知ってほしい。
知っておいてほしい。
「恋人がいいです。他の人を見ないでほしい。レンを縛りつけたい。大人同士とか全部嘘です。レンが嫌でも、僕のものにしたいです。僕はもう、君なしでは生きていけない。だから僕の思うがままにしたい。だけど、レンがどうしても嫌だったら我慢します。僕の気持ちが一方的なら、僕自身にも意味がない。君は僕のすべてなんです。レンが自分のしたいことをするのも、僕を幸せにしてくれるから」
愛しています、とルイスは言った。
「時間が惜しくて、すみません。何を焦っているんでしょう、僕は」
午後六時だ。
リビングの窓からは空の端に消えかけの夕焼けが眺められる。夜になる。
あと十三時間ほどで、また自分自身の日常が始まる。そこにレンの姿はない。レンの日常にはルイスはおらず、お互いは別々の場所で、自分だけを中心とした生活をする。次にいつ会うかは今のところわからない。
あちら側にいるとき、こちら側の時間はまるでなかったみたいになる。
レンにはレンの生活がある。地盤がある。そこに、細い糸で繋がっている。いつ切れてもおかしくないとルイスは不安に思う。
血が滲んでいた自分の指に、ルイスは唇で触れた。直接のキスもしたいし、レンの唇が触れたならば間接キスもしたい。
ルイスは自分のことをドライな性格だと思っていた。
これほど誰かを好きになったことは、かつてない。
レンは言った。
「邪魔をしたくないんです」
「邪魔?」
「はい。ルイスさんは、忙しくしていてビジネスマンで、かっこいいし、俺とは違います。遠くにいるひとです。ルイスさんに対して俺ができることは少ないです。あなたにとって俺の代わりはいくらでもいます」
ルイスは絶望した。
自分は最大限の愛を伝えるべく言葉を尽くしたはずだが、レンには一切伝わっていない感じがする、とルイスは思った。
これほど直球でものを言って気持ちが通じなかったのは初めてだ。
言葉の使い方を間違えたのかとさえ思う。
いや、受け取る側の問題だ。
日本語だけに限らず、ルイスは外国語が上手いほうだ。使う機会は少ないが、日本語の愛情表現はある程度勉強している。
愛おしい。恋い焦がれる。慕う。心を寄せる。心の中を表す言葉が多い。フランス語のような、愛しい相手に呼びかけるための言葉は少ないとは思う。よくいえば奥ゆかしい。
レンにはレンでその立場から考えることがあるのだろう。その事情はわからない。なぜ自分たちはこんな風なのだろう、とルイスは考えてしまう。
手応えとして、レンは自分を好きなはずだ。なのに、なぜこれ以上は踏み込めないのだろうか。
好きなのに、すれ違っているみたいだ。
「下で絆創膏を買ってきます。この家には無いと思うので」
「ちょっと待ってください、レン」
ルイスが止めるのも聞かず、レンはルイスを残してキッチンを出ていく。遠くで玄関を出ていく音がする。
逃げられた、とルイスは思った。
いったいなぜレンが逃げたのか、ルイスにはわからなかった。
<冬の話に続く>
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