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春の話
一 迷い込んだ少女
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それは四月十日。
桜の花びらが散った名残りが連日の雨に流れ、まだ肌寒い、夜のはじまりのころ。日が暮れて、明かりが頼りになる午後六時頃のことだった。
レンが店主をしている『夜食屋よぞら』は、駅から三分の下町のアーケード商店街にある。商店街は東西南北に十字になっていて、もっとも駅に近い南口のすぐそばだ。アーケードを出て駅の近くへ行けばチェーン系の飲食店がひしめいているエリアだが、商店街はいまだ、個人経営の飲食店が多い。
よぞらは独立した二階建ての古い建物で、一階はオープン型のキッチンとカウンター席が十席と小規模だ。午後六時開店、午前一時閉店の店だ。レンの親の代で営業しはじめ、レンに代替わりして数年が経っている。
周辺には単身者用のマンションが多いおかげで、独身者の客が多く、それなりに繁盛している。平日の午後七時頃から午後十時がピークタイムだ。
冬の香を含む夕方の風を感じながら、店の軒先に藍染の暖簾をかける。
北に向かって商店街のメインストリートが真っすぐに続いている。商店街の名前を冠した色褪せたアーチにはじまり、アーケードの下は淡い色合いの石畳だ。この時間になるとシャッターが閉まり始める。クリーニング店がちょうどシャッターをおろすところだ。学生に人気の激安コロッケを売る精肉店も、半額セールでそろそろ店じまい。
ラーメン店は長時間がんばっている。寿司屋もまだこれから。小さな個人スーパーは、コンビニに負けじと二十四時間営業だ。夕方のタイムセールの時間帯にはスーパーの前に大量の自転車が停まるが、七時になるとすっかりなくなっている。
小さな商店街には居酒屋が五、六軒ある。大衆居酒屋や赤のれん系、高級店もある。レンの店も酒を出すために競合するが、供給よりも需要のほうが大きいようで、このあたりはまだ競争が穏やかだ。午後六時、五分前。
そういう、ごく当たり前の日常をレンが感じていたときだった。ふと視線を感じ、南側、商店街の南口のほうを見ると、アーチの下に少女がひとり立っていた。
知らない子だ。商店街の子どもならばすぐにわかる。この先にある公営住宅の子どもも大体わかる。だがそのだれでもない。
ただ、その制服は見覚えがあった。たしか、隣の駅の最寄りにある、私立大学の付属小学校の制服だ。
ベレー帽を被り、指定のしっかりした革のランドセルはまだ身体にとって大きい。金色の髪を後ろでふたつにまとめている。外国人の血が入っていると一目でわかる。
裕福な家庭で育った、小学校一年生か、二年生くらい。レンはそう判断した。
その青い瞳は、野生の猫のように厳しい。
できるだけ怖がらせないよう、レンは少女に向かって言った。
「こんばんは。酔っ払いがいるから、奥のほうは行かないほうがいいですよ。道に迷ったのならそこに案内板が、コンビニの向こうに交番もありますよ。それとも人探しでしょうか?」
南口を出てすぐにコンビニがあり、コンビニの斜向かいには警察官のいる交番がある。みんな顔見知りだ。
少女の返事はなく、代わりに、雷が落ちたかのような、盛大なおなかの音が鳴った。少女は恥ずかしそうにおなかをおさえている。
「あらら。おうちにお帰り」
「まだ家には帰れない。三十分後に塾だから。あの、お、お金ならあるの」
「……では、何かうちで食べますか?」
とレンが店を指しながら訊ねると、少女はこっくりと頷いた。
駅の近くに進学塾がある。そこの生徒なのだろう。コンビニでその塾生たちが夕食を買っているのをよく見かける。
レンは店の引き戸を開け、片手でのれんを分けた。少女を誘う。
「どうぞ。いらっしゃいませ」
桜の花びらが散った名残りが連日の雨に流れ、まだ肌寒い、夜のはじまりのころ。日が暮れて、明かりが頼りになる午後六時頃のことだった。
レンが店主をしている『夜食屋よぞら』は、駅から三分の下町のアーケード商店街にある。商店街は東西南北に十字になっていて、もっとも駅に近い南口のすぐそばだ。アーケードを出て駅の近くへ行けばチェーン系の飲食店がひしめいているエリアだが、商店街はいまだ、個人経営の飲食店が多い。
よぞらは独立した二階建ての古い建物で、一階はオープン型のキッチンとカウンター席が十席と小規模だ。午後六時開店、午前一時閉店の店だ。レンの親の代で営業しはじめ、レンに代替わりして数年が経っている。
周辺には単身者用のマンションが多いおかげで、独身者の客が多く、それなりに繁盛している。平日の午後七時頃から午後十時がピークタイムだ。
冬の香を含む夕方の風を感じながら、店の軒先に藍染の暖簾をかける。
北に向かって商店街のメインストリートが真っすぐに続いている。商店街の名前を冠した色褪せたアーチにはじまり、アーケードの下は淡い色合いの石畳だ。この時間になるとシャッターが閉まり始める。クリーニング店がちょうどシャッターをおろすところだ。学生に人気の激安コロッケを売る精肉店も、半額セールでそろそろ店じまい。
ラーメン店は長時間がんばっている。寿司屋もまだこれから。小さな個人スーパーは、コンビニに負けじと二十四時間営業だ。夕方のタイムセールの時間帯にはスーパーの前に大量の自転車が停まるが、七時になるとすっかりなくなっている。
小さな商店街には居酒屋が五、六軒ある。大衆居酒屋や赤のれん系、高級店もある。レンの店も酒を出すために競合するが、供給よりも需要のほうが大きいようで、このあたりはまだ競争が穏やかだ。午後六時、五分前。
そういう、ごく当たり前の日常をレンが感じていたときだった。ふと視線を感じ、南側、商店街の南口のほうを見ると、アーチの下に少女がひとり立っていた。
知らない子だ。商店街の子どもならばすぐにわかる。この先にある公営住宅の子どもも大体わかる。だがそのだれでもない。
ただ、その制服は見覚えがあった。たしか、隣の駅の最寄りにある、私立大学の付属小学校の制服だ。
ベレー帽を被り、指定のしっかりした革のランドセルはまだ身体にとって大きい。金色の髪を後ろでふたつにまとめている。外国人の血が入っていると一目でわかる。
裕福な家庭で育った、小学校一年生か、二年生くらい。レンはそう判断した。
その青い瞳は、野生の猫のように厳しい。
できるだけ怖がらせないよう、レンは少女に向かって言った。
「こんばんは。酔っ払いがいるから、奥のほうは行かないほうがいいですよ。道に迷ったのならそこに案内板が、コンビニの向こうに交番もありますよ。それとも人探しでしょうか?」
南口を出てすぐにコンビニがあり、コンビニの斜向かいには警察官のいる交番がある。みんな顔見知りだ。
少女の返事はなく、代わりに、雷が落ちたかのような、盛大なおなかの音が鳴った。少女は恥ずかしそうにおなかをおさえている。
「あらら。おうちにお帰り」
「まだ家には帰れない。三十分後に塾だから。あの、お、お金ならあるの」
「……では、何かうちで食べますか?」
とレンが店を指しながら訊ねると、少女はこっくりと頷いた。
駅の近くに進学塾がある。そこの生徒なのだろう。コンビニでその塾生たちが夕食を買っているのをよく見かける。
レンは店の引き戸を開け、片手でのれんを分けた。少女を誘う。
「どうぞ。いらっしゃいませ」
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