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第二章
10「昼過ぎの鉱酪通り」
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季節は夏に差し掛かり、日が長くなった陸国。
夕方いつもと同じくらいの時刻になると、一日の仕事を終えてきた夾が【觜宿の杯】を訪ねてくる。
璇は扉が開いたその音を聞きつけると、すぐさま裏の調理場から出て行って夾を出迎え、少しの言葉を交わしてから注文された料理を用意。
そして食事を終えてから夜が深まる前に帰っていくその後姿を見送り、また次の日の夕刻頃に訪ねて来た夾を出迎える…。
見かけ上はそれまでとはなんら変わったところのない璇のそんな毎日。
だが、鎏と話をしたことで心境に変化が訪れた彼にとっては、実は大きな違いのあるものとなっていた。
彼は自分の気持ちにあれこれと言い訳をするのをやめ、夾という男へ関心を向けるのを避けようとはしなくなったのだ。
それまでは『ただの常連だから』『自分のせいで怪我をした相手だから』『親しくなるつもりはないから』などと事あるごとに胸の内で言い続けていたのが、すっかりそうしたことが消え失せて自分の素直な考えのまま接するようになった。
しかし、だからといって何かこれといった行動を起こしているという訳でもない。
璇はかつて1人の男と付き合っていたが、その付き合い始めというのはかなり突然のことだったので、気になる人へどう接するべきなのかという恋人未満な段階については結局のところ初心者であり、注文を取るとき以外には夾へ話しかけることすらできなかったのだ。
ここへは食事をしに来ているのだから、途中であまり話しかけてしまっては邪魔になるだろうし。
かといって琥珀達と話しているところへ入っていくのは気が引ける。
それに話しかけたところで…一体何の話をすればいいというのだろうか。
ずっとそんな調子できっかけも何も掴めずにいる彼ができることといえば、夕食を摂っている夾の近くで酒瓶や酒杯を磨いたり、他の空いている机などを布巾で拭って回ったりしながらなるべく奥の調理場へ引っ込まなくても良いようにして、琥珀達と楽しそうにひと時を過ごす様子を目の端で伺い、そして時々「ねぇ、センはどう思う?」などと琥珀から声をかけられた時に自然と会話の輪の中へ入ったりすることだった。
男同士であるということからしても慎重になる必要があった璇は、それでも十分距離を縮めることができているはずだと思っていた。
『昨日よりは今日の方がいくらか近づくことができている』と。
だがその歩みはあまりにも慎重過ぎて、およそこのままでは夾の本名を知るのすら随分先のことになるだろうというくらいだった。
『璇』や『夾』というのは本名から一部を取った愛称であり、それだけではその人の名前にどういった意味が込められているのかを知ることはできない。
『相手の名前の意味を知る』ということは陸国においてとても大きな意味があることなのだが、初めにそれを自ら名乗り合わなかった場合は知るのが少々難しくなってしまうもので、璇も おいそれと簡単には訊ねることができずにいる。
一般的な関係であれば愛称で充分としても、やはり仲を深めたいのならば知っておきたい相手の本名。
それを訊き出すにはさらなる関係の構築が必要だと璇は考えていて…つまり、彼が大きく踏み出すためにはどうしてもなにか他の大きなきっかけが必要だったのだ。
そんな風にして変化があるような無いような日々を過ごしていたある日のこと、【觜宿の杯】と【柳宿の器】の前を掃除をしながら空になった酒瓶などを回収用の箱に収めて外に置いていた璇は、ふと顔上げたところで目の前の鉱酪通りを通る夾を見かけた。
これまでの日々で得た情報によると まだ夾はここを通らないはずの時間であり、璇もその姿を探そうとしていたわけではないのだが、璇の目はいとも簡単にその姿を見つけてしまう。
(え?なんであいつがこの時間にここを通ってるんだ…?)
見かけるはずがないと思っていたところで見つけてしまったためについジッと目で追ってしまっていた璇はやがて気づく。
夾の向かっている先は彼の家がある方とは真逆だということに。
どうやら夾は仕事終わりで家に帰ろうとしているのではなく、反対方向にある中央広場の方へ向かおうとしているらしかった。
行った先でその人が何をするのかなどということを勝手にあれこれ詮索するのは少々いかがなものかという気もするが、なにせ相手は気になっている人その人であるため璇はつらつらと考えてしまう。
(家の方に帰るんじゃなくて中央広場の方に…あぁそうか、今日は仕事が休みだったんだな)
(でも、だからってどうして中央広場に行くんだ?前にちらっと聞いた感じだと食材とかは工房で仕事終わりにもらってきてるみたいだったし、休みの日でも中央広場に出かけるところなんかは見たことがないのに…趣味の散歩ってやつか?いや、あんまり人通りの多いところは好きそうじゃなかったけどな…だとしたら誰かに会いに行くとか、なんかそういうことか…?)
だがそうしているうち、夾はこちらには気づかない様子で一瞥もせずに目の前を通り過ぎて行ってしまう。
ただ真っすぐに前を見て道を行く姿勢のいい後姿はとても素晴らしいが、徐々に遠ざかっていくその背を見ていた璇はなぜか咄嗟に思っていた。
もしかしたらこれはかなりいい機会なのではないか、と。
今を逃したら、次の機会はいつ、どのようなものになるだろうか、と。
それ以上考える間もなく、璇は【觜宿の杯】の扉から奥の調理場にいる兄に向かって「に、兄さん!ちょっと俺、足りない香辛料もらいに行ってくるから!中央広場まで!」と声をかけると、すでに雑踏に紛れて消えていた夾を探して鉱酪通りを急いだ。
ーーーーーー
「あれ、璇さん。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
そう遠く離れていないところで後姿を見つけることができた璇が一言呼びかけると、夾はすぐに振り向く。
2人は人通りの多い時間帯の鉱酪通りでばったり会ったということになっているが、実際は璇が夾のことを捜しに来ていたのだから これは奇遇でも偶然でもなく必然というべきものだ。
しかしまさか後を追ってきたとは言えない璇が「あ、あぁ…珍しいな、こんなところで会うなんて」と偶然を装って言うと、夾も「そうですね」と何の疑問も持たずに頷く。
「今は觜宿を開ける準備で忙しい頃じゃないですか?璇さんも中央広場にご用ですか」
夾がそうして訊ねてくるのはなんらおかしいことでもないはずなのだが、璇はギクリとしつつ「そ…うなんだ、うん。香辛料でいくつか足りなくなりそうなのがあったから、その配達の手配をしに行こうと思って…」となんとか答える。
会話を途切れさせてしまうともう2度と口を開けなくなってしまう気がして「あんたは?あんたはどうしたんだよ、今日は仕事は休みか?」と続けると、夾も「はい」と肩に掛けていた鞄を見せた。
「家に常備していたものが色々となくなったのでその補充をしに行くんです。俺も香辛料のところに寄ろうと思っていたんですよ、同じですね」
「あ、あぁ、そうなのか。本当に偶然だな、うん」
「そうですね」
これは、まさに璇にとって願ってもない幸運だった。
目的地が同じなのだからこのまま一緒に行こうということになり、璇は夾と並んで鉱酪通りを中央広場の方へ歩き始める。
香辛料を扱っているところまでは少し距離があるのだが、その道のりをこのまま2人並んで歩けるということなのだ。
いつもの机越しではなく横並びで歩く距離というのは、なんだかとても特別で新鮮で、あまりにも急な展開であることもあいまって璇は内心にわかに緊張しながら一歩一歩を踏みしめる。
何気なく隣に目を遣れば、そこに夾の右の横顔を見ることができる。
艶のある短い黒髪や凛々しいのにどこか愛らしさのある眉、豊かに伸びた睫毛、そしてツンとした鼻先。
…だがその眉の辺りには薄くなったといえどもやはりあの傷跡が消えずに残っていて、璇はそれを見るなり強い自責の念に駆られた。
きっとあの傷跡はこの先もずっと消えることはないだろう。
そう、この先もずっと。
(俺、本当に…最低だよな…)
璇はこのごろ、過去の自分が恥ずかしくて嫌でたまらなくなっていた。
それもそのはずだ。
夾のことが気になりだしてからというもの、彼は知り合ったばかりだった当時のあの自分の態度があまりにも酷いものであったと ことあるごとに強く後悔し続けている。
自分を庇って消えない傷を負った夾に対して『自分には関係ない』とさえ思っていたことは、今の彼からしてみれば考えられないくらいの仕打ちだ。
1人では運びきれるかどうか不安だった荷物を何の躊躇もなく手伝って片付けてくれたことに対しても、きちんと礼ができていなかったようにも思える。
いつだって見返りなど求めずに接してくれていた夾に散々不遜な態度をとり続けていたかつての自分を、今の璇は嫌悪していた。
「その傷…」
躊躇いがちに口を開くと、夾は「傷?これのことですか」と眉の辺りを軽くさする。
「すっかりなんとも無いですよ。そもそもあまり痛みませんでしたからね」
「でも、痕が…」
「痕なんかどうってことありませんよ、俺は男ですし。力仕事をしている職人ならこういうものの1つや2つあるものでしょう」
「それは仕事の傷じゃないだろ」
「そうですけど、とにかく大丈夫ですからそんなに気にしないでください。俺はむしろ気に入っているんです」
夾が璇に気を遣わせまいとしていることはよく分かる。
璇は「…気に入るも何もあるもんか」と小さく悪態をついたが、夾はそれに対しても「少なくとも俺にとってはそうですから」と答えたのだった。
今こそきちんと夾へ言わなければならない。
そう思った璇は「あの時は…悪かったな、本当に」と絞り出すように口を開いた。
「助けてくれて、というか…庇ってくれて……ありがとう」
口ごもりながら何とか言ったその礼に、夾は柔らかく微笑んで応える。
「璇さんが無事でよかったです」
……
璇は夾と話せば話すほどその優しさ心の美しさを感じ、そして夾が怪我をするよりも前の記憶を掘り起こしては頭を抱えたくなってしまう。
あの夜、初対面に近しい夾に脅迫めいた態度で迫ったこと。
なかったことにしてしまいたいくらいだが、もはやそれはどうすることもできない。
(何であんなことしたんだよ、俺…!自分で勝手に勘違いしてキレてつまんない台詞吐いて、なにがしたかったんだ?最悪だろ!印象が悪すぎる、印象が悪すぎるだろうが…!)
ただでさえ想いを寄せ合うのが難しい同性同士だというのに、璇と夾の間には互いへの印象が良くなるようなことが初めからなく、むしろ悪いことばかりが起こっている。
しかもそれらのほとんどは璇が自ら引き起こしたことだ。
自分でも(これで印象良く思えって言ったって無理がありすぎるだろ)と思ってしまうほどの自身が犯した失態の数々に途方に暮れてしまうが、しかしだからといって諦めることもできない。
これからだ。
なんとかこれから印象がよくなるようにと務めるしかない。
璇はこの機会を逃すまいと、思いを新たにした。
・
・
・
「…それで、觜宿と柳宿を先代のじいさん達から受け継いだのが俺と兄さんなんだよ。あの手伝いに来てる若いの2人、双子の兄弟がそのじいさん達の息子の子供で『ゆくゆくは跡を継ぎたい』って言ってたんだけど、まだ当時はどっちも未成年だったからさ。わりと夜遅くまでやってる觜宿とかを任せるには若すぎるっていうんで、成人してきちんと継げるようになるまでは俺達がそれぞれを切り盛りしつつ2人に見習いをさせるってことになったんだ」
「そうだったんですか。どうりで…いつも思っていたんですよ、あの2人は若いのに仕事にとても慣れているなと」
「あぁ、昔っから仕事を早く覚えようとして熱心でさ。でも最近はほとんどあの兄弟にやらせてみることも増えてるし、なによりこの間ついに2人とも成人したからな。そのうち逆に俺達の方が……いや、さすがにつまんないよな、こんな話…悪い」
中央広場へと向かう道中、璇はなんとか夾と会話をし続けたいという一心からついあれこれと話をしてしまい、(自分の話を退屈だと思われていないだろうか)ということが気になって余計に口数が増えてしまうということを繰り返していた。
しかし夾はそれでも小さく笑いながら「つまらなくなんかないですよ、全然」と穏やかに言う。
「璇さんと色々なお話ができて楽しいです。觜宿だといつもお仕事が忙しくて こうしてお話をする機会はなかなかないじゃないですか。なので楽しいですよ、どんな話でも」
「あ…そうかな」
「はい」
それは『お世辞』というものだったかもしれない。
別に本心からそう思っていたわけではないかもしれない。
しかし、璇はたった今 夾が自分と会話をすることを『楽しい』と言ったというそのことが柄にもなく嬉しく感じて仕方がなかった。
【觜宿の杯】という酒場で酒や食事を提供している以上は訪れた人々を楽しませたりするためのちょっとした話術が自然と身につくものであり、璇ももちろんそうした1人だったのだが、しかしそれとは全く別の、仕事としてではない自分の話を楽しんで聞いてくれているというのは彼にとって少し特別に感じたのだ。
(もしかして、俺が家まで見舞いに行って少し話をしたりしてた時も楽しいと思ってくれてたり…したんだろうか。…いや、でもあの時の俺はそんな気の利いたことも言えてなかったと思うし、つまんなかったよな、さすがに…)
(なんか俺…そう考えるとすごくもったいないことをしてたんじゃないか?こいつの家まで行って2人きりでゆっくり話をすることができてたのに、なんでもっと実のある話をしなかったんだ?好きな料理を聞けばよかったのに。名前だってそうだし…いくらでも互いのことを知り合えるいい機会だっただろ。なんだよ…せっかくの時間を無駄にしてたなんて、最悪だ)
「璇さん?どうしたんですか」
「えっ…いや!?」
ぼぅっとしてしまっていた璇は夾に顔を覗き込まれていたことに気付いて息を呑む。
近くで合った目と目。
やはり夾の瞳はあの日見た時と同じような美しい縁取りの瞳をしている。
色の変わる境目の部分をそのまま覗き込んでしまいたくなるような…そんな瞳だ。
「なんでもない…ちょっと考え事を、してたんだ。うん」
「香辛料をな、どれをどれくらい頼むんだったかなと思って。そう、そういうことを考えてたんだよ」
急いで作り上げた言い訳は少し苦しいものだったが、夾は特にいぶかしがることもなく「そうですか、忘れてしまっては大変ですからね」と肯定してさらに歩を進める。
夾の後姿に横顔に、瞳。
全く不思議なことだが璇は夾のそうしたものすべてに自らが体ごと引き寄せられでもしているかのような感覚になりながら隣を歩いた。
夾が寄ったのは湯浴みで使う洗い粉を扱っているところや調味料を扱っているところなど日用品に関するところばかり。
璇はそのすべてに付き添いながら夾が品物を注文したり、受け取りが後日になってしまうものは工房に届けてもらうようにと手配しているのを隣で聞きながら用が済むのを待った。
しかし、彼はそんな時間でさえ退屈しなかった。
1ヵ所でのやり取りが終わるとまた次の所へ向かいながら話をして、また立ち寄ったところでのやり取りが済むまで待つ。
そうしたことを繰り返しながら、2人は共通の目的地に到着する前に 中央広場沿いにある一軒の職人の元に立ち寄ったのだった。
そこは様々な形や長さの麺をある程度長期間保存できるようにと乾燥させた状態で取り揃えている場所だ。
麺類は各家庭で手作りすることもあるが、夾のような1人暮らしの場合や逆に【觜宿の杯】といった一度に多く量が必要になる場合などではこうした専門の職人によって作られた乾燥麺を利用する方が何かと都合がいいため、2人とも馴染みにしている場所だった。
「おじさん、お久しぶりです」
「おぉ!荷車整備の兄ちゃんか!久しぶりだな、今日はどのくらい持ってく?」
「一番小さい紙袋にいっぱいで、お願いします」
慣れた様子でごく一般的な太さ長さのもの一種類だけを注文する夾。
傍らでそれを見ていた璇が「…なぁ、麺はそういう普通のしか食べないのか?こういう蝶みたいな形をしたのとか短いのとか、捻じれてるやつとか…そういうのも美味しいのに」と何気なく訊くと、夾は「あ…そういうのはあまり扱ったことがなくて」と首をすくめる。
「どう調理するものなのか知らないんですよ。難しそうじゃないですか、普通のとは違う形だし。味付けもどういうのが合うのか…そもそもあまり食べたことがないので見当もつかなくて」
「そうなのか?でも工芸地域の木工場の方で育ったんなら麺を作るときに使う木型なんかもよく見ただろ、それでも馴染みがなかったのか」
「はい、特には。そういう種類のものがあるとは知ってても、口にする機会はあまりありませんでしたから」
調理方法が分からないためいつも普通のもの以外には手を出したことがないという夾。
璇は少し考えてから夾に注文された乾燥麺を包んでいた職人に向かって、蝶に似た形の麺を指差しながら「おじさん、これ5人前分ちょうだい」と声をかけた。
酒場や食堂で出すには少なすぎる量だと夾が不思議に思っていると璇は言う。
「食べたことがないなら、俺が作ってやるよ」
「え」
「この後 觜宿で作って食べさせてやる。味付けはいつも献立にあるようなのと似た感じにしようか、それなら好みもそんな外れないだろ?食べたことがないなら食べてみろよ、それでもし気に入ったんなら…作り方も教えてやるからさ」
「あ…ありがとうございます」
「いいよ、別にそんな…礼なんて」
紙袋に入った乾燥麺を受け取った璇と夾はその後2人共通の目的地である香辛料を扱っている1軒で用を済ませると、そのまま一緒に【觜宿の杯】へと向かった。
まだ早い時間だったせいでどの席も埋まっていない【觜宿の杯】に帰ってきた璇が夾をいつもの席に座らせると、裏の調理場から璇の兄が出てきて「あっ、コウくんも一緒だったんだ」と笑顔で迎えてくれる。
璇の兄は夾の怪我の一件から特に夾を気にかけるようになり、いつの間にか璇も知らないうちに親交を深めていたようで親しげに言葉を交わす。
「この時間に来るなんて、今日は随分と早いね。センと一緒に来たってことは…もしかしてコウくんも中央広場に行ってたの?」
「はい、偶然そこで会ったんです。1度家に帰ろうかと思っていたんですが『それだと却って遅くなるだろうから』と璇さんが觜宿へ誘ってくださったので、お言葉に甘えて」
「そっか、今から帰ってまたここへ来たんじゃちょっと遅い時間になるし、その頃にはここも混んできちゃうからね…あれ、セン?その袋はどうしたの、それでなんか作るの?」
夾の分の飲み物を用意する兄に5人前分の乾燥麺の入った袋を手にしているのを目ざとく見つけられた璇は「あ、あぁ、まぁね」と視線を逸らして答える。
「いや…こういう種類の麺料理を食べたことがないって言ってたから、作ってやろうかと思って。ほら、まだ今日の献立の料理が全部出来上がってるわけでもなかったし、うん…だからさ。兄さん達の分も合わせて多めにもらってきたから、今日じゃなくても近いうちにまかないにするよ。たまにはこういうのも、いいだろ」
そう言い残してそそくさと奥の調理場へ引っ込んでいった璇。
璇の兄はこそこそと夾に近づくと、調理場へ続く扉の方を気にしながら《コウくん…これはかなり珍しいことだよ》と声を潜めた。
《センが持って行ったあの麺。センはあれを使って作る料理が得意でね、どれもすごく美味しく作るんだよ。でも僕達が食べたいからってお願いしてみても、いつも面倒くさがって作ってくれないんだ。それなのにあんなことを言うなんて…どうやらコウくんのおかげで久しぶりに僕も食べることができるみたい》
《ありがとうね、コウくん》
夾に対して兄がそんなことを言っているとは露知らず、璇は紙袋に入っている乾燥麺を1掴みと少しだけ取って茹で始めたのだった。
ーーーーーー
一日の仕事を終えた璇は【觜宿の杯】の2階にある露台に立ち、心地いい夜風に目を閉じる。
昼の暑さとは打って変わって涼やかな夜。
そんな中で彼が思い浮かべているのは昼間共に歩いて時を過ごした夾のことだけだった。
黒髪と横顔と、ふわりと香った彼の衣の香り。そして…あの黄水晶のような瞳。
見舞いをしに行って過ごした時よりもはるかに長い時間を共にし、隣同士という近い距離で本当に様々な話をしたこの日。
結果としてその時間は璇をより一層夾へと惹きつけた。
『俺が働いてる工房の親方には娘さんが1人いるんですけど、親方はその娘の彼氏が隣の工房の職人の男だっていうことを最近知ったらしくて…それからずっと機嫌が悪いままなんですよ』などと眉をひそめて話していた夾に、頬が緩むのを抑えるので必死になるくらいだった。
極めつけは特別に用意した麺料理一品を味わった時の『すごく…すごく美味しいです、これ』という驚きと嬉しさが混じったような表情、声だ。
他に人がいなかったからこそ提供できた夾のための一皿は璇自身が思っていた以上に称賛され、思わず璇も「また…作ってやるよ」と約束してしまった。
(1人分を作るのって本当はすごく面倒でやりたくないんだけどな。そうなんだけど、でも…なんだかすごく…)
(…嬉しかったな)
今までに感じたことのないその気持ちは『作りがいがある』というような、満足感に近いものだったに違いない。
そんなことを考えながらふと微笑んだ璇の右手には知らず知らずのうちに火をつけていた1本の紙巻き煙草があったが、細く煙が立ち上るそれを見ても、璇は夾のことを思い出した。
ーーーーーー
夾が洗い粉などの手配について職人と話をしていた時、その向かいにある煙草を扱っているところを見て(あ、そういえばもう煙草がなくなりそうだったんだよな)と考えていた璇。
夾はそんな璇に気付いてどうかしたのかと尋ねてきたのだが、璇は(こいつは煙草とかそういうのは…興味がなさそうだよな)(今はこいつと一緒にいるんだし、また今度でいいか)と思い直して首を横に振る。
「なんでもない」
「そうですか?もし他に用があるなら…」
「いや、ただ見てただけなんだ」
しかし、実際のところこういった嗜好品というのはその人の好みが現れるものであり(でも…実は吸ってたりすんのかな。それこそ似合いそうな気がするけど)と気になった璇が何気なく煙草について訊いてみると、やはり夾は「いいえ、俺はまったく」と答えたのだった。
「煙草は俺は…ちょっと」
「あぁ、健康に気を遣ってるんだもんな」
「いえ、まぁそれもありますが、それ以前の話です」
「?」
「煙草を否定するわけじゃないんですが…」
「俺、煙草の煙がすごく苦手なんです」
「焚き火とか燻製の煙は全く平気なのに、煙草だけは漂ってくるだけでも咳が出たりするんですよ。…変ですよね、でもそういう体質なんだそうです」
ーーーーーー
昼間のそんなやり取りを思い起こしながら、璇は火が点いたばかりだった紙巻き煙草を灰皿に軽く押し付けて手放す。
それは彼が持っている最後の一本だったが、それを不意にしてしまうことに抵抗は無く、むしろ細くなった紫煙が消えたのと同時に彼をどこか清々しいような気分で包み込んだ。
(なんか…こういうことをするってのは、なんか…うん……)
(俺、あいつのこと…)
「結構好き…になってるんだな…」
ぼんやりとそう呟くとさらにその事実を実感して思わず両手で顔を覆いたくなる璇。
ふっと吹いた風が璇の髪を撫でつけて通り過ぎていった。
夕方いつもと同じくらいの時刻になると、一日の仕事を終えてきた夾が【觜宿の杯】を訪ねてくる。
璇は扉が開いたその音を聞きつけると、すぐさま裏の調理場から出て行って夾を出迎え、少しの言葉を交わしてから注文された料理を用意。
そして食事を終えてから夜が深まる前に帰っていくその後姿を見送り、また次の日の夕刻頃に訪ねて来た夾を出迎える…。
見かけ上はそれまでとはなんら変わったところのない璇のそんな毎日。
だが、鎏と話をしたことで心境に変化が訪れた彼にとっては、実は大きな違いのあるものとなっていた。
彼は自分の気持ちにあれこれと言い訳をするのをやめ、夾という男へ関心を向けるのを避けようとはしなくなったのだ。
それまでは『ただの常連だから』『自分のせいで怪我をした相手だから』『親しくなるつもりはないから』などと事あるごとに胸の内で言い続けていたのが、すっかりそうしたことが消え失せて自分の素直な考えのまま接するようになった。
しかし、だからといって何かこれといった行動を起こしているという訳でもない。
璇はかつて1人の男と付き合っていたが、その付き合い始めというのはかなり突然のことだったので、気になる人へどう接するべきなのかという恋人未満な段階については結局のところ初心者であり、注文を取るとき以外には夾へ話しかけることすらできなかったのだ。
ここへは食事をしに来ているのだから、途中であまり話しかけてしまっては邪魔になるだろうし。
かといって琥珀達と話しているところへ入っていくのは気が引ける。
それに話しかけたところで…一体何の話をすればいいというのだろうか。
ずっとそんな調子できっかけも何も掴めずにいる彼ができることといえば、夕食を摂っている夾の近くで酒瓶や酒杯を磨いたり、他の空いている机などを布巾で拭って回ったりしながらなるべく奥の調理場へ引っ込まなくても良いようにして、琥珀達と楽しそうにひと時を過ごす様子を目の端で伺い、そして時々「ねぇ、センはどう思う?」などと琥珀から声をかけられた時に自然と会話の輪の中へ入ったりすることだった。
男同士であるということからしても慎重になる必要があった璇は、それでも十分距離を縮めることができているはずだと思っていた。
『昨日よりは今日の方がいくらか近づくことができている』と。
だがその歩みはあまりにも慎重過ぎて、およそこのままでは夾の本名を知るのすら随分先のことになるだろうというくらいだった。
『璇』や『夾』というのは本名から一部を取った愛称であり、それだけではその人の名前にどういった意味が込められているのかを知ることはできない。
『相手の名前の意味を知る』ということは陸国においてとても大きな意味があることなのだが、初めにそれを自ら名乗り合わなかった場合は知るのが少々難しくなってしまうもので、璇も おいそれと簡単には訊ねることができずにいる。
一般的な関係であれば愛称で充分としても、やはり仲を深めたいのならば知っておきたい相手の本名。
それを訊き出すにはさらなる関係の構築が必要だと璇は考えていて…つまり、彼が大きく踏み出すためにはどうしてもなにか他の大きなきっかけが必要だったのだ。
そんな風にして変化があるような無いような日々を過ごしていたある日のこと、【觜宿の杯】と【柳宿の器】の前を掃除をしながら空になった酒瓶などを回収用の箱に収めて外に置いていた璇は、ふと顔上げたところで目の前の鉱酪通りを通る夾を見かけた。
これまでの日々で得た情報によると まだ夾はここを通らないはずの時間であり、璇もその姿を探そうとしていたわけではないのだが、璇の目はいとも簡単にその姿を見つけてしまう。
(え?なんであいつがこの時間にここを通ってるんだ…?)
見かけるはずがないと思っていたところで見つけてしまったためについジッと目で追ってしまっていた璇はやがて気づく。
夾の向かっている先は彼の家がある方とは真逆だということに。
どうやら夾は仕事終わりで家に帰ろうとしているのではなく、反対方向にある中央広場の方へ向かおうとしているらしかった。
行った先でその人が何をするのかなどということを勝手にあれこれ詮索するのは少々いかがなものかという気もするが、なにせ相手は気になっている人その人であるため璇はつらつらと考えてしまう。
(家の方に帰るんじゃなくて中央広場の方に…あぁそうか、今日は仕事が休みだったんだな)
(でも、だからってどうして中央広場に行くんだ?前にちらっと聞いた感じだと食材とかは工房で仕事終わりにもらってきてるみたいだったし、休みの日でも中央広場に出かけるところなんかは見たことがないのに…趣味の散歩ってやつか?いや、あんまり人通りの多いところは好きそうじゃなかったけどな…だとしたら誰かに会いに行くとか、なんかそういうことか…?)
だがそうしているうち、夾はこちらには気づかない様子で一瞥もせずに目の前を通り過ぎて行ってしまう。
ただ真っすぐに前を見て道を行く姿勢のいい後姿はとても素晴らしいが、徐々に遠ざかっていくその背を見ていた璇はなぜか咄嗟に思っていた。
もしかしたらこれはかなりいい機会なのではないか、と。
今を逃したら、次の機会はいつ、どのようなものになるだろうか、と。
それ以上考える間もなく、璇は【觜宿の杯】の扉から奥の調理場にいる兄に向かって「に、兄さん!ちょっと俺、足りない香辛料もらいに行ってくるから!中央広場まで!」と声をかけると、すでに雑踏に紛れて消えていた夾を探して鉱酪通りを急いだ。
ーーーーーー
「あれ、璇さん。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
そう遠く離れていないところで後姿を見つけることができた璇が一言呼びかけると、夾はすぐに振り向く。
2人は人通りの多い時間帯の鉱酪通りでばったり会ったということになっているが、実際は璇が夾のことを捜しに来ていたのだから これは奇遇でも偶然でもなく必然というべきものだ。
しかしまさか後を追ってきたとは言えない璇が「あ、あぁ…珍しいな、こんなところで会うなんて」と偶然を装って言うと、夾も「そうですね」と何の疑問も持たずに頷く。
「今は觜宿を開ける準備で忙しい頃じゃないですか?璇さんも中央広場にご用ですか」
夾がそうして訊ねてくるのはなんらおかしいことでもないはずなのだが、璇はギクリとしつつ「そ…うなんだ、うん。香辛料でいくつか足りなくなりそうなのがあったから、その配達の手配をしに行こうと思って…」となんとか答える。
会話を途切れさせてしまうともう2度と口を開けなくなってしまう気がして「あんたは?あんたはどうしたんだよ、今日は仕事は休みか?」と続けると、夾も「はい」と肩に掛けていた鞄を見せた。
「家に常備していたものが色々となくなったのでその補充をしに行くんです。俺も香辛料のところに寄ろうと思っていたんですよ、同じですね」
「あ、あぁ、そうなのか。本当に偶然だな、うん」
「そうですね」
これは、まさに璇にとって願ってもない幸運だった。
目的地が同じなのだからこのまま一緒に行こうということになり、璇は夾と並んで鉱酪通りを中央広場の方へ歩き始める。
香辛料を扱っているところまでは少し距離があるのだが、その道のりをこのまま2人並んで歩けるということなのだ。
いつもの机越しではなく横並びで歩く距離というのは、なんだかとても特別で新鮮で、あまりにも急な展開であることもあいまって璇は内心にわかに緊張しながら一歩一歩を踏みしめる。
何気なく隣に目を遣れば、そこに夾の右の横顔を見ることができる。
艶のある短い黒髪や凛々しいのにどこか愛らしさのある眉、豊かに伸びた睫毛、そしてツンとした鼻先。
…だがその眉の辺りには薄くなったといえどもやはりあの傷跡が消えずに残っていて、璇はそれを見るなり強い自責の念に駆られた。
きっとあの傷跡はこの先もずっと消えることはないだろう。
そう、この先もずっと。
(俺、本当に…最低だよな…)
璇はこのごろ、過去の自分が恥ずかしくて嫌でたまらなくなっていた。
それもそのはずだ。
夾のことが気になりだしてからというもの、彼は知り合ったばかりだった当時のあの自分の態度があまりにも酷いものであったと ことあるごとに強く後悔し続けている。
自分を庇って消えない傷を負った夾に対して『自分には関係ない』とさえ思っていたことは、今の彼からしてみれば考えられないくらいの仕打ちだ。
1人では運びきれるかどうか不安だった荷物を何の躊躇もなく手伝って片付けてくれたことに対しても、きちんと礼ができていなかったようにも思える。
いつだって見返りなど求めずに接してくれていた夾に散々不遜な態度をとり続けていたかつての自分を、今の璇は嫌悪していた。
「その傷…」
躊躇いがちに口を開くと、夾は「傷?これのことですか」と眉の辺りを軽くさする。
「すっかりなんとも無いですよ。そもそもあまり痛みませんでしたからね」
「でも、痕が…」
「痕なんかどうってことありませんよ、俺は男ですし。力仕事をしている職人ならこういうものの1つや2つあるものでしょう」
「それは仕事の傷じゃないだろ」
「そうですけど、とにかく大丈夫ですからそんなに気にしないでください。俺はむしろ気に入っているんです」
夾が璇に気を遣わせまいとしていることはよく分かる。
璇は「…気に入るも何もあるもんか」と小さく悪態をついたが、夾はそれに対しても「少なくとも俺にとってはそうですから」と答えたのだった。
今こそきちんと夾へ言わなければならない。
そう思った璇は「あの時は…悪かったな、本当に」と絞り出すように口を開いた。
「助けてくれて、というか…庇ってくれて……ありがとう」
口ごもりながら何とか言ったその礼に、夾は柔らかく微笑んで応える。
「璇さんが無事でよかったです」
……
璇は夾と話せば話すほどその優しさ心の美しさを感じ、そして夾が怪我をするよりも前の記憶を掘り起こしては頭を抱えたくなってしまう。
あの夜、初対面に近しい夾に脅迫めいた態度で迫ったこと。
なかったことにしてしまいたいくらいだが、もはやそれはどうすることもできない。
(何であんなことしたんだよ、俺…!自分で勝手に勘違いしてキレてつまんない台詞吐いて、なにがしたかったんだ?最悪だろ!印象が悪すぎる、印象が悪すぎるだろうが…!)
ただでさえ想いを寄せ合うのが難しい同性同士だというのに、璇と夾の間には互いへの印象が良くなるようなことが初めからなく、むしろ悪いことばかりが起こっている。
しかもそれらのほとんどは璇が自ら引き起こしたことだ。
自分でも(これで印象良く思えって言ったって無理がありすぎるだろ)と思ってしまうほどの自身が犯した失態の数々に途方に暮れてしまうが、しかしだからといって諦めることもできない。
これからだ。
なんとかこれから印象がよくなるようにと務めるしかない。
璇はこの機会を逃すまいと、思いを新たにした。
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「…それで、觜宿と柳宿を先代のじいさん達から受け継いだのが俺と兄さんなんだよ。あの手伝いに来てる若いの2人、双子の兄弟がそのじいさん達の息子の子供で『ゆくゆくは跡を継ぎたい』って言ってたんだけど、まだ当時はどっちも未成年だったからさ。わりと夜遅くまでやってる觜宿とかを任せるには若すぎるっていうんで、成人してきちんと継げるようになるまでは俺達がそれぞれを切り盛りしつつ2人に見習いをさせるってことになったんだ」
「そうだったんですか。どうりで…いつも思っていたんですよ、あの2人は若いのに仕事にとても慣れているなと」
「あぁ、昔っから仕事を早く覚えようとして熱心でさ。でも最近はほとんどあの兄弟にやらせてみることも増えてるし、なによりこの間ついに2人とも成人したからな。そのうち逆に俺達の方が……いや、さすがにつまんないよな、こんな話…悪い」
中央広場へと向かう道中、璇はなんとか夾と会話をし続けたいという一心からついあれこれと話をしてしまい、(自分の話を退屈だと思われていないだろうか)ということが気になって余計に口数が増えてしまうということを繰り返していた。
しかし夾はそれでも小さく笑いながら「つまらなくなんかないですよ、全然」と穏やかに言う。
「璇さんと色々なお話ができて楽しいです。觜宿だといつもお仕事が忙しくて こうしてお話をする機会はなかなかないじゃないですか。なので楽しいですよ、どんな話でも」
「あ…そうかな」
「はい」
それは『お世辞』というものだったかもしれない。
別に本心からそう思っていたわけではないかもしれない。
しかし、璇はたった今 夾が自分と会話をすることを『楽しい』と言ったというそのことが柄にもなく嬉しく感じて仕方がなかった。
【觜宿の杯】という酒場で酒や食事を提供している以上は訪れた人々を楽しませたりするためのちょっとした話術が自然と身につくものであり、璇ももちろんそうした1人だったのだが、しかしそれとは全く別の、仕事としてではない自分の話を楽しんで聞いてくれているというのは彼にとって少し特別に感じたのだ。
(もしかして、俺が家まで見舞いに行って少し話をしたりしてた時も楽しいと思ってくれてたり…したんだろうか。…いや、でもあの時の俺はそんな気の利いたことも言えてなかったと思うし、つまんなかったよな、さすがに…)
(なんか俺…そう考えるとすごくもったいないことをしてたんじゃないか?こいつの家まで行って2人きりでゆっくり話をすることができてたのに、なんでもっと実のある話をしなかったんだ?好きな料理を聞けばよかったのに。名前だってそうだし…いくらでも互いのことを知り合えるいい機会だっただろ。なんだよ…せっかくの時間を無駄にしてたなんて、最悪だ)
「璇さん?どうしたんですか」
「えっ…いや!?」
ぼぅっとしてしまっていた璇は夾に顔を覗き込まれていたことに気付いて息を呑む。
近くで合った目と目。
やはり夾の瞳はあの日見た時と同じような美しい縁取りの瞳をしている。
色の変わる境目の部分をそのまま覗き込んでしまいたくなるような…そんな瞳だ。
「なんでもない…ちょっと考え事を、してたんだ。うん」
「香辛料をな、どれをどれくらい頼むんだったかなと思って。そう、そういうことを考えてたんだよ」
急いで作り上げた言い訳は少し苦しいものだったが、夾は特にいぶかしがることもなく「そうですか、忘れてしまっては大変ですからね」と肯定してさらに歩を進める。
夾の後姿に横顔に、瞳。
全く不思議なことだが璇は夾のそうしたものすべてに自らが体ごと引き寄せられでもしているかのような感覚になりながら隣を歩いた。
夾が寄ったのは湯浴みで使う洗い粉を扱っているところや調味料を扱っているところなど日用品に関するところばかり。
璇はそのすべてに付き添いながら夾が品物を注文したり、受け取りが後日になってしまうものは工房に届けてもらうようにと手配しているのを隣で聞きながら用が済むのを待った。
しかし、彼はそんな時間でさえ退屈しなかった。
1ヵ所でのやり取りが終わるとまた次の所へ向かいながら話をして、また立ち寄ったところでのやり取りが済むまで待つ。
そうしたことを繰り返しながら、2人は共通の目的地に到着する前に 中央広場沿いにある一軒の職人の元に立ち寄ったのだった。
そこは様々な形や長さの麺をある程度長期間保存できるようにと乾燥させた状態で取り揃えている場所だ。
麺類は各家庭で手作りすることもあるが、夾のような1人暮らしの場合や逆に【觜宿の杯】といった一度に多く量が必要になる場合などではこうした専門の職人によって作られた乾燥麺を利用する方が何かと都合がいいため、2人とも馴染みにしている場所だった。
「おじさん、お久しぶりです」
「おぉ!荷車整備の兄ちゃんか!久しぶりだな、今日はどのくらい持ってく?」
「一番小さい紙袋にいっぱいで、お願いします」
慣れた様子でごく一般的な太さ長さのもの一種類だけを注文する夾。
傍らでそれを見ていた璇が「…なぁ、麺はそういう普通のしか食べないのか?こういう蝶みたいな形をしたのとか短いのとか、捻じれてるやつとか…そういうのも美味しいのに」と何気なく訊くと、夾は「あ…そういうのはあまり扱ったことがなくて」と首をすくめる。
「どう調理するものなのか知らないんですよ。難しそうじゃないですか、普通のとは違う形だし。味付けもどういうのが合うのか…そもそもあまり食べたことがないので見当もつかなくて」
「そうなのか?でも工芸地域の木工場の方で育ったんなら麺を作るときに使う木型なんかもよく見ただろ、それでも馴染みがなかったのか」
「はい、特には。そういう種類のものがあるとは知ってても、口にする機会はあまりありませんでしたから」
調理方法が分からないためいつも普通のもの以外には手を出したことがないという夾。
璇は少し考えてから夾に注文された乾燥麺を包んでいた職人に向かって、蝶に似た形の麺を指差しながら「おじさん、これ5人前分ちょうだい」と声をかけた。
酒場や食堂で出すには少なすぎる量だと夾が不思議に思っていると璇は言う。
「食べたことがないなら、俺が作ってやるよ」
「え」
「この後 觜宿で作って食べさせてやる。味付けはいつも献立にあるようなのと似た感じにしようか、それなら好みもそんな外れないだろ?食べたことがないなら食べてみろよ、それでもし気に入ったんなら…作り方も教えてやるからさ」
「あ…ありがとうございます」
「いいよ、別にそんな…礼なんて」
紙袋に入った乾燥麺を受け取った璇と夾はその後2人共通の目的地である香辛料を扱っている1軒で用を済ませると、そのまま一緒に【觜宿の杯】へと向かった。
まだ早い時間だったせいでどの席も埋まっていない【觜宿の杯】に帰ってきた璇が夾をいつもの席に座らせると、裏の調理場から璇の兄が出てきて「あっ、コウくんも一緒だったんだ」と笑顔で迎えてくれる。
璇の兄は夾の怪我の一件から特に夾を気にかけるようになり、いつの間にか璇も知らないうちに親交を深めていたようで親しげに言葉を交わす。
「この時間に来るなんて、今日は随分と早いね。センと一緒に来たってことは…もしかしてコウくんも中央広場に行ってたの?」
「はい、偶然そこで会ったんです。1度家に帰ろうかと思っていたんですが『それだと却って遅くなるだろうから』と璇さんが觜宿へ誘ってくださったので、お言葉に甘えて」
「そっか、今から帰ってまたここへ来たんじゃちょっと遅い時間になるし、その頃にはここも混んできちゃうからね…あれ、セン?その袋はどうしたの、それでなんか作るの?」
夾の分の飲み物を用意する兄に5人前分の乾燥麺の入った袋を手にしているのを目ざとく見つけられた璇は「あ、あぁ、まぁね」と視線を逸らして答える。
「いや…こういう種類の麺料理を食べたことがないって言ってたから、作ってやろうかと思って。ほら、まだ今日の献立の料理が全部出来上がってるわけでもなかったし、うん…だからさ。兄さん達の分も合わせて多めにもらってきたから、今日じゃなくても近いうちにまかないにするよ。たまにはこういうのも、いいだろ」
そう言い残してそそくさと奥の調理場へ引っ込んでいった璇。
璇の兄はこそこそと夾に近づくと、調理場へ続く扉の方を気にしながら《コウくん…これはかなり珍しいことだよ》と声を潜めた。
《センが持って行ったあの麺。センはあれを使って作る料理が得意でね、どれもすごく美味しく作るんだよ。でも僕達が食べたいからってお願いしてみても、いつも面倒くさがって作ってくれないんだ。それなのにあんなことを言うなんて…どうやらコウくんのおかげで久しぶりに僕も食べることができるみたい》
《ありがとうね、コウくん》
夾に対して兄がそんなことを言っているとは露知らず、璇は紙袋に入っている乾燥麺を1掴みと少しだけ取って茹で始めたのだった。
ーーーーーー
一日の仕事を終えた璇は【觜宿の杯】の2階にある露台に立ち、心地いい夜風に目を閉じる。
昼の暑さとは打って変わって涼やかな夜。
そんな中で彼が思い浮かべているのは昼間共に歩いて時を過ごした夾のことだけだった。
黒髪と横顔と、ふわりと香った彼の衣の香り。そして…あの黄水晶のような瞳。
見舞いをしに行って過ごした時よりもはるかに長い時間を共にし、隣同士という近い距離で本当に様々な話をしたこの日。
結果としてその時間は璇をより一層夾へと惹きつけた。
『俺が働いてる工房の親方には娘さんが1人いるんですけど、親方はその娘の彼氏が隣の工房の職人の男だっていうことを最近知ったらしくて…それからずっと機嫌が悪いままなんですよ』などと眉をひそめて話していた夾に、頬が緩むのを抑えるので必死になるくらいだった。
極めつけは特別に用意した麺料理一品を味わった時の『すごく…すごく美味しいです、これ』という驚きと嬉しさが混じったような表情、声だ。
他に人がいなかったからこそ提供できた夾のための一皿は璇自身が思っていた以上に称賛され、思わず璇も「また…作ってやるよ」と約束してしまった。
(1人分を作るのって本当はすごく面倒でやりたくないんだけどな。そうなんだけど、でも…なんだかすごく…)
(…嬉しかったな)
今までに感じたことのないその気持ちは『作りがいがある』というような、満足感に近いものだったに違いない。
そんなことを考えながらふと微笑んだ璇の右手には知らず知らずのうちに火をつけていた1本の紙巻き煙草があったが、細く煙が立ち上るそれを見ても、璇は夾のことを思い出した。
ーーーーーー
夾が洗い粉などの手配について職人と話をしていた時、その向かいにある煙草を扱っているところを見て(あ、そういえばもう煙草がなくなりそうだったんだよな)と考えていた璇。
夾はそんな璇に気付いてどうかしたのかと尋ねてきたのだが、璇は(こいつは煙草とかそういうのは…興味がなさそうだよな)(今はこいつと一緒にいるんだし、また今度でいいか)と思い直して首を横に振る。
「なんでもない」
「そうですか?もし他に用があるなら…」
「いや、ただ見てただけなんだ」
しかし、実際のところこういった嗜好品というのはその人の好みが現れるものであり(でも…実は吸ってたりすんのかな。それこそ似合いそうな気がするけど)と気になった璇が何気なく煙草について訊いてみると、やはり夾は「いいえ、俺はまったく」と答えたのだった。
「煙草は俺は…ちょっと」
「あぁ、健康に気を遣ってるんだもんな」
「いえ、まぁそれもありますが、それ以前の話です」
「?」
「煙草を否定するわけじゃないんですが…」
「俺、煙草の煙がすごく苦手なんです」
「焚き火とか燻製の煙は全く平気なのに、煙草だけは漂ってくるだけでも咳が出たりするんですよ。…変ですよね、でもそういう体質なんだそうです」
ーーーーーー
昼間のそんなやり取りを思い起こしながら、璇は火が点いたばかりだった紙巻き煙草を灰皿に軽く押し付けて手放す。
それは彼が持っている最後の一本だったが、それを不意にしてしまうことに抵抗は無く、むしろ細くなった紫煙が消えたのと同時に彼をどこか清々しいような気分で包み込んだ。
(なんか…こういうことをするってのは、なんか…うん……)
(俺、あいつのこと…)
「結構好き…になってるんだな…」
ぼんやりとそう呟くとさらにその事実を実感して思わず両手で顔を覆いたくなる璇。
ふっと吹いた風が璇の髪を撫でつけて通り過ぎていった。
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