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第二章
番外編【驪のように美しい子】
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これはまだ、驪という青年が鉱業地域に住む鎏の家族の元で暮らしていたときのことだ。
ーーーーー
そよ風が通り抜けていく明るい窓。風によって運ばれてくる花々のふんわりとした良い香り。
外からわずかに聞こえてくる、人々の賑やかな話し声。
鉱酪通りから鉱業地域内へ続く1本の通りを行くと建っている家の一室では、寝台の端に背を寄りかからせた驪がゆったりと足を伸ばしながら1冊の本に目を通していた。
手にしている洗練された美しい表紙のそれは、彼の愛読書だ。
(うわ…ここの描写が本当に好きなんだよなぁ…うわ、うわうわ…うわ、これすっご…)
本の内容は小説だが、それがどういったものなのかを説明するには少々難があるというか、はっきり言って誰かに知られるのには憚られてしまうようなものだ。
本を読んでいる驪の口元が『口元が緩みそうになるのをなんとか堪えているといった様子の内容』と言えば少し伝わるだろうか。
表紙から感じられる品のある雰囲気とはそぐわないその内容…
まぁ、つまるところ彼も年頃の男なのである。
静かな、1人きりの部屋。
(……)
夕刻近くになるまでは誰もこの部屋を訪ねてこないだろうと踏んだ驪は、寝台に寝そべり、本の中で最も好きな部分を味わうように何度も読み返しながらふぅっと息を吐く。
いわずもがな、彼の気分はそこそこ高まりつつあった。
こんな状況ですることといえば一つしかないだろう。
もぞもぞと自らの手を伸ばし、あらぬところへ触れようとする驪。
しかしそこに触れるかどうかといったその次の瞬間、気のせいかと思うような軽やかな音が部屋の扉の外から聞こえ、それからすぐに「驪~起きてる?」という柔らかな声までもが彼の耳に飛び込んできた。
『っ!?』
驪は思わず開いていた本をぱたりと閉じて飛び起きる。
突然の声と扉の叩かれた音。
…まったく。何かしようとし始めた時に限ってこうした事態になるというのは、一体何なのであろうか。
つい先ほどまで普通に本を読んでいたというのに…あまりにも間が悪い。
胸に手を当てながら急に暴れ出した心臓をなんとか落ち着かせて『う、うん、起きてるよ』と応えると、再び扉の向こうから「入ってもいい?」と遠慮がちな声がかけられた。
「休んでたんなら別にいいんだよ、そのままでも。また後で…」
『あっ、いや大丈夫だよ、うん。どうぞ入って』
「そう?じゃあ…」
内心(むしろ起きそうだったのがまた寝たんだけど…)と気まずい思いをしながら身なりを整えて寝台を降りた驪は、扉が開けられたその瞬間に『愛読書』を隠していないことに気づき、慌ててそれを寝具の中に突っ込む。
表紙を見た程度ではその内容を察されることはまずないだろうが、万が一にでも興味を持たれたらお終いだ。
危機一髪なんとか愛読書を隠すことができた驪は平然としながら来客を迎える。
『鎏兄どうしたの、今日は仕事の日でしょ?まだ昼過ぎなのに帰ってくるなんて』
驪の部屋を訪ねてきたのは義兄弟の間柄である鎏だ。
窓の近くにあるちょっとした客間(といっても机と椅子があるだけだが)のところへと通すと、鎏は椅子に腰かけながら「そうなんだけど、今日は午前で休みになってね」となにやら手にしていた小包を机の上に置く。
「これを驪にあげようと思って早く帰ってきたんだ」
包んでいる布を取り払い、中にある箱のふたをずらすと…その中身を見た驪は『あっ!これ僕の好きなやつ!』とすぐに嬉しそうな声をあげた。
『もしかしてわざわざこれ、もらってきてくれたの?』
「うん、久しぶりに食べたいかなと思ってさ。出来たてだよ」
『そりゃあ もう見れば分かるよ~!まぶしてある粉がまださらさらしてるもん!嬉しいなぁ、ありがとう鎏兄!』
中に入っていたのは驪が特に好んでいる菓子だ。
穀類を蒸して搗いた柔らかな少し甘い生地に 炒って挽いた香ばしい穀粉をまぶしたその菓子は、食べる時に少々注意しないと周りについている細かな穀粉によってむせてしまうというものだが、素朴な味をしていて とても美味しい。
作りたてならばその美味しさはさらに格別だ。
どうやら鎏は 今朝から少し体調が優れないということで1人自分の部屋で休んでいた驪のことを元気付けようと、わざわざ好物の菓子を大通りの方で求めてきてくれたらしい。
「具合はどう?良くないようだったら無理して食べなくてもいいよ」と気遣う鎏に『大丈夫!午前中ゆっくり休んでたらもうなんともなくなったから!』と菓子の入った箱を大事そうに抱えた驪は笑みを見せる。
『ん~、美味しそ!鎏兄も一緒に食べようよ、お茶を淹れたげる』
「いや、これは驪にって持ってきたんだから僕はいいよ」
『もう!1人で食べるよりも一緒に食べた方が美味しいでしょ?いいからいいから、ちょうどあと2杯分だけお茶が淹れられるくらいのお湯が残ってるんだ』
驪は戸棚から道具や茶葉を持ってくると、部屋に置いてあった保温水筒の湯をすべて使って手際よく2杯分の茶を用意し、先ほどまで1人静かに過ごしていた部屋を一瞬にして2人の密やかな茶会の場へと変えた。
『それじゃいただきます…』
『ん~っ!まだ柔らかっ!美味っしい!』
満面の笑みを浮かべて美味しさを表現する驪にクスクスとしながら、鎏も菓子を1つ手に取って齧る。
柔らかく伸びる菓子はまだふんわりと温かく、優しい風味と甘みが口いっぱいに広がって自然と2人に笑みをもたらした。
美味しい、と微笑み合いながら菓子を食べて過ごす時間のなんと穏やかで素晴らしいことか。
同じ家に住んでいる鎏の両親のための分は既に別に用意して渡してあるというので、驪は残りを気にせずに菓子をもう1つ手に取る。
驪のあまりにも嬉しそうな表情に、鎏は「本当に美味しそうに食べるね」と目を細めた。
「そんなに美味しそうに食べてくれるなら作りたてをもらってきた甲斐があるよ」
すると驪はもぐもぐとしつつ頷いて応える。
『うん、だって美味しいもん。鎏兄が持ってきてくれたからもっと美味しく感じる』
その屈託のない笑顔に心をほぐされた鎏は、また今度作りたてを貰ってくることを約束しつつゆっくり菓子を食べるようにと注意した。
茶を飲みながら一口ずつ口にしないとむせてしまう心配があるからだ。
しかし驪は『大丈夫だよ、むせない食べ方があるんだから』と大して気にすることもなくまたもぐもぐと菓子を齧る。
驪が2つ目を食べ終わる頃になってようやく1つを食べ終わった鎏は、茶を飲んで口の中を潤すと一息ついた。
ふと窓の外に目を遣る鎏のその横顔はすっきりと整っていて、優しい雰囲気の中に男らしさを感じさせるような骨格の線が通っているのがなんとも印象的だ。
彼はいつもと同じ微笑を湛えている。
しかし、その様子を長めの前髪の間からそっと窺っていた驪は口の中の菓子を咀嚼し終えると、『んん…僕、分かったぞ』とおもむろに口を開いた。
『またフラれたんでしょ、鎏兄』
『分っかりやすく しょぼくれちゃって』
驪によるズバリとした指摘はかなり正確に鎏を捉えていたようで、鎏は誤魔化すことなく素直に「あ…どうして、知ってるの?」と ばつの悪そうな苦笑いで返す。
「誰から聞いたの、そんなこと…」
『ん?風の噂ってやつかな、当たってるでしょ』
「…………………」
聞こえるか聞こえないかくらいのなんとも小さな声で うん、と答えた鎏は少し項垂れてていて、驪に指摘される前と比べると沈み込んだ気分を隠そうともしていなくなっているのがはっきりと見てとれる。
ふぅっとため息をつきながら『まったくもぅ、鎏兄は…』と驪は椅子の背にもたれ掛かった。
『鎏兄はさ、鈍感なんだよね。それでいつもそうやって上手くいかなくて落ち込んでる。もう何回目になるかな、優しくて良い人なのにやっぱりフラれちゃうんだよね』
「う…僕ってそんなに鈍感っていうか…分からずや、なのかな…」
『まぁ、恋愛が下手ではあるのはたしかだよね』
「うぅ…っ」
『本当のことじゃん。だって現に上手くいってないんだもん』
あまりにも驪がはっきりと言うので、鎏は窓の外を遠い目で見ながら「もう、僕のことを好きになってくれる人なんてどこにもいないんじゃないかって気がするよ」と寂しげに呟いた。
「自分の何がダメなのかも分からなくなってて、もうお付き合いすらもできないし。…はぁ、結婚なんか夢のまた夢って感じがする…」
悲壮感すら漂う鎏の言葉を聞いた驪は茶を一口飲んでから『そうやって諦めちゃったらどうしようもないでしょ?自信を持ってよ』と明るい声音と表情で励ます。
『その人とは…まぁ、縁がなかったってことでさ。鎏兄のことを好きな人は必ずいるんだよ?だから諦めちゃダメ!』
「そうは言ってもね…」
『そもそも鎏兄はさ、自分にダメなところがあるから上手くいかないと思ってるの?だったら皆完璧人間じゃないと恋愛とか結婚なんてできてないでしょ。鎏兄はもう十分素敵だよ、だってこうやってお菓子を持ってきてくれたりするし、面倒見もすごく良いし…だからその素敵さを、良さを見てくれる人に出逢わなきゃ。ね?』
「うん…いや、そんな出逢いがあればいいんだけど、さ…」
『大丈夫だってば!』
あまりの鎏のしょげ具合に見かねた驪は、辺りを気にするようなそぶりを見せつつ、こそこそと声を潜めて『実はね、鎏兄のことが好きだって人を僕は知ってるんだ』と笑みを浮かべた。
『絶対に教えないけど、でも1人は確実にいるんだよ』と話す驪に「だ、誰?誰なのその人は」といくらか食い気味に関心を示す鎏。
驪は『あははっそりゃあ教えられないよ!相手のこともあるんだから簡単には話せないってば』と宥めると、肩をすくめている鎏に向かって『でも本当に…心配することはないからさ』と今度は穏やかに言い諭す。
『鎏兄の夢はさ、結婚して、ご両親みたいな夫婦になって、そして子供達と過ごすことでしょ?うん…きっと叶うから大丈夫だよ。鎏兄はそのまま自然体でいてよ』
「そうかな…大丈夫なのかな…」
『もう!心配ないってば!』
自信なさげな鎏がむしろ微笑ましくなってしまう驪。
鎏という男は優しくて面倒見のいい性格をしているのだが、女性達からするとそうした面が《いい人なんだけど…お兄ちゃんって感じがして》と恋仲のそれとは違うと思われてしまい、結局いつもそうした恋愛ごとが上手くいかずにこうして驪に相談したり、話を聞いてもらうなどしているのだった。
鎏の将来の夢は驪が言ったように《自らの両親のような夫婦になって、子供達のいる賑やかな家庭を築きたい》というものだ。
今はあまり上手くいっていないものの、いつかその夢を叶えてほしいと驪は切に願っている。
そう願う心に嘘偽りはない。
だが、にこにこと微笑みながら新たに取った菓子を一口齧る彼の胸中が少々複雑だったのを他に知る人はなかった。
『鎏兄の家族かぁ…いいね、でも僕の父さんと母さんもすごく素敵なんだよ』
『いっつも2人一緒で寄り添っててさ。息子の僕も赤くなっちゃうくらいに仲が良いんだ』
茶杯を両手で包み込みながら言う驪に、鎏も「そうだよね、とっても仲睦まじいご夫婦だと思う」と頷く。
誰から見ても憧れの的になるような両親の姿を思いながら『本当に憧れちゃうよね、ああいうの…』と驪は呟いた。
『…父さんと母さんは生まれ変わっても一緒になるんだって、よくそう言ってるよ。僕が《本当に仲が良いね》って言うと、2人はいつも《そうだろ?父さん達は運命で結ばれてるからな》ってすごく嬉しそうにするんだ。だから…僕も生まれ変わったらまたあの2人の子供になるよ。それでもっともっと、もっっっと一緒に暮らすんだ。今よりもずっと一緒に、一緒にね……』
鎏は「そうなったら、僕もまた同じように驪と知り合ってるかな?」と微笑んだが、驪は『さぁ…それはどうだろう』と左手首にある蝶のような模様の痣をそっと撫でて答えた。
『どうなるか分からないけど…だけどもし生まれ変わったとしたら、その時は僕は今とは違う新しい縁を探さなきゃ』
驪の長い睫毛が瞳に影を落とす。
『僕、もう自分の運命の人を見つけたと、長いこと思ってたんだけどね…でも違ったみたいでさ。これはもう、諦めるとかそういう以前の…どうしようもないことでね。だから生まれ変わったら今度こそ《その人》を見つけたいんだ。それで、やっぱり僕も父さんと母さんみたいに…その人と一緒に生きていきたい。父さん達が逆に羨ましく思うくらいに、その人と仲睦まじく暮らしたい』
『この痣を目印にして僕は僕の運命の人を見つけるんだ。いつか必ず…きっとね』
手首を軽く振って鎏に痣を見せると、驪は3つ目となる菓子に手を伸ばして一口齧った。
彼が見せた珍しく寂しげなその様子。
鎏は実父の病のことを思っているであろうという驪に対して簡単に励ますような言葉をかけるのはふさわしくないと思えてならず、なんと声をかけるべきなのかと迷っていた。
それに《運命の人》についてを特に意識したような語り口も気になる。
しかし(驪にはこの先まだまだいい未来がきっと待っている)と信じて疑わない鎏が口を開こうとしたそのとき、菓子を頬張っていた驪はにわかに けほけほとむせだしたのだった。
『うっ…お菓子…お菓子の粉が…っけほ、けほけほ…っ』
涙目になった驪を見て「あっ、ほら!だから気をつけろって言ったのに…!」と鎏は慌てる。
『う…吸い込んじゃった、っけほ…』
「あぁっ、もう!お茶は?お茶…もう飲んじゃってたのか、それじゃ水を持ってくるから、とりあえず僕のこのお茶を飲んでおいて!」
鎏はすでに驪の茶杯が空になっているのを見ると、まだ少し茶の残っている自らの茶杯を差し出し、急いで階下へと水を取りに行った。
再び驪1人きりとなって、シン…とする部屋の中。
階段の方から聞こえてくる足音がたしかに遠ざかっていったのを見計らい、むせるのを止めた驪は差し出された茶杯に目を向けたままほろほろと頬を濡らし始めた。
彼は本当はむせていたわけではない。
とっさにそう装っただけなのだ。
そうでもしないと目にこみ上げてくるものを誤魔化すことができそうになかった。
最近になって体調を崩すことが増えたその理由を彼は理解している。
そして、自身がずっと昔から想いを寄せ続けていた《運命の人》には絶対に自らの手が届かないということも、胸に痛いほど理解していた。
病のことはそのうち知られるとしても、その想いを明かすつもりは一切ない。
今生 胸に秘めたままでいようと、彼はずっと前から決めていた。
(本当に…本当に、幸せになってほしいんだよ)
(その夢が叶うようにって、僕は心から願ってるんだ…)
驪はさらに一粒の涙を溢れさせながら、茶の残っている茶杯の縁にそっと唇を覆いかぶせた。
ーーーーー
そよ風が通り抜けていく明るい窓。風によって運ばれてくる花々のふんわりとした良い香り。
外からわずかに聞こえてくる、人々の賑やかな話し声。
鉱酪通りから鉱業地域内へ続く1本の通りを行くと建っている家の一室では、寝台の端に背を寄りかからせた驪がゆったりと足を伸ばしながら1冊の本に目を通していた。
手にしている洗練された美しい表紙のそれは、彼の愛読書だ。
(うわ…ここの描写が本当に好きなんだよなぁ…うわ、うわうわ…うわ、これすっご…)
本の内容は小説だが、それがどういったものなのかを説明するには少々難があるというか、はっきり言って誰かに知られるのには憚られてしまうようなものだ。
本を読んでいる驪の口元が『口元が緩みそうになるのをなんとか堪えているといった様子の内容』と言えば少し伝わるだろうか。
表紙から感じられる品のある雰囲気とはそぐわないその内容…
まぁ、つまるところ彼も年頃の男なのである。
静かな、1人きりの部屋。
(……)
夕刻近くになるまでは誰もこの部屋を訪ねてこないだろうと踏んだ驪は、寝台に寝そべり、本の中で最も好きな部分を味わうように何度も読み返しながらふぅっと息を吐く。
いわずもがな、彼の気分はそこそこ高まりつつあった。
こんな状況ですることといえば一つしかないだろう。
もぞもぞと自らの手を伸ばし、あらぬところへ触れようとする驪。
しかしそこに触れるかどうかといったその次の瞬間、気のせいかと思うような軽やかな音が部屋の扉の外から聞こえ、それからすぐに「驪~起きてる?」という柔らかな声までもが彼の耳に飛び込んできた。
『っ!?』
驪は思わず開いていた本をぱたりと閉じて飛び起きる。
突然の声と扉の叩かれた音。
…まったく。何かしようとし始めた時に限ってこうした事態になるというのは、一体何なのであろうか。
つい先ほどまで普通に本を読んでいたというのに…あまりにも間が悪い。
胸に手を当てながら急に暴れ出した心臓をなんとか落ち着かせて『う、うん、起きてるよ』と応えると、再び扉の向こうから「入ってもいい?」と遠慮がちな声がかけられた。
「休んでたんなら別にいいんだよ、そのままでも。また後で…」
『あっ、いや大丈夫だよ、うん。どうぞ入って』
「そう?じゃあ…」
内心(むしろ起きそうだったのがまた寝たんだけど…)と気まずい思いをしながら身なりを整えて寝台を降りた驪は、扉が開けられたその瞬間に『愛読書』を隠していないことに気づき、慌ててそれを寝具の中に突っ込む。
表紙を見た程度ではその内容を察されることはまずないだろうが、万が一にでも興味を持たれたらお終いだ。
危機一髪なんとか愛読書を隠すことができた驪は平然としながら来客を迎える。
『鎏兄どうしたの、今日は仕事の日でしょ?まだ昼過ぎなのに帰ってくるなんて』
驪の部屋を訪ねてきたのは義兄弟の間柄である鎏だ。
窓の近くにあるちょっとした客間(といっても机と椅子があるだけだが)のところへと通すと、鎏は椅子に腰かけながら「そうなんだけど、今日は午前で休みになってね」となにやら手にしていた小包を机の上に置く。
「これを驪にあげようと思って早く帰ってきたんだ」
包んでいる布を取り払い、中にある箱のふたをずらすと…その中身を見た驪は『あっ!これ僕の好きなやつ!』とすぐに嬉しそうな声をあげた。
『もしかしてわざわざこれ、もらってきてくれたの?』
「うん、久しぶりに食べたいかなと思ってさ。出来たてだよ」
『そりゃあ もう見れば分かるよ~!まぶしてある粉がまださらさらしてるもん!嬉しいなぁ、ありがとう鎏兄!』
中に入っていたのは驪が特に好んでいる菓子だ。
穀類を蒸して搗いた柔らかな少し甘い生地に 炒って挽いた香ばしい穀粉をまぶしたその菓子は、食べる時に少々注意しないと周りについている細かな穀粉によってむせてしまうというものだが、素朴な味をしていて とても美味しい。
作りたてならばその美味しさはさらに格別だ。
どうやら鎏は 今朝から少し体調が優れないということで1人自分の部屋で休んでいた驪のことを元気付けようと、わざわざ好物の菓子を大通りの方で求めてきてくれたらしい。
「具合はどう?良くないようだったら無理して食べなくてもいいよ」と気遣う鎏に『大丈夫!午前中ゆっくり休んでたらもうなんともなくなったから!』と菓子の入った箱を大事そうに抱えた驪は笑みを見せる。
『ん~、美味しそ!鎏兄も一緒に食べようよ、お茶を淹れたげる』
「いや、これは驪にって持ってきたんだから僕はいいよ」
『もう!1人で食べるよりも一緒に食べた方が美味しいでしょ?いいからいいから、ちょうどあと2杯分だけお茶が淹れられるくらいのお湯が残ってるんだ』
驪は戸棚から道具や茶葉を持ってくると、部屋に置いてあった保温水筒の湯をすべて使って手際よく2杯分の茶を用意し、先ほどまで1人静かに過ごしていた部屋を一瞬にして2人の密やかな茶会の場へと変えた。
『それじゃいただきます…』
『ん~っ!まだ柔らかっ!美味っしい!』
満面の笑みを浮かべて美味しさを表現する驪にクスクスとしながら、鎏も菓子を1つ手に取って齧る。
柔らかく伸びる菓子はまだふんわりと温かく、優しい風味と甘みが口いっぱいに広がって自然と2人に笑みをもたらした。
美味しい、と微笑み合いながら菓子を食べて過ごす時間のなんと穏やかで素晴らしいことか。
同じ家に住んでいる鎏の両親のための分は既に別に用意して渡してあるというので、驪は残りを気にせずに菓子をもう1つ手に取る。
驪のあまりにも嬉しそうな表情に、鎏は「本当に美味しそうに食べるね」と目を細めた。
「そんなに美味しそうに食べてくれるなら作りたてをもらってきた甲斐があるよ」
すると驪はもぐもぐとしつつ頷いて応える。
『うん、だって美味しいもん。鎏兄が持ってきてくれたからもっと美味しく感じる』
その屈託のない笑顔に心をほぐされた鎏は、また今度作りたてを貰ってくることを約束しつつゆっくり菓子を食べるようにと注意した。
茶を飲みながら一口ずつ口にしないとむせてしまう心配があるからだ。
しかし驪は『大丈夫だよ、むせない食べ方があるんだから』と大して気にすることもなくまたもぐもぐと菓子を齧る。
驪が2つ目を食べ終わる頃になってようやく1つを食べ終わった鎏は、茶を飲んで口の中を潤すと一息ついた。
ふと窓の外に目を遣る鎏のその横顔はすっきりと整っていて、優しい雰囲気の中に男らしさを感じさせるような骨格の線が通っているのがなんとも印象的だ。
彼はいつもと同じ微笑を湛えている。
しかし、その様子を長めの前髪の間からそっと窺っていた驪は口の中の菓子を咀嚼し終えると、『んん…僕、分かったぞ』とおもむろに口を開いた。
『またフラれたんでしょ、鎏兄』
『分っかりやすく しょぼくれちゃって』
驪によるズバリとした指摘はかなり正確に鎏を捉えていたようで、鎏は誤魔化すことなく素直に「あ…どうして、知ってるの?」と ばつの悪そうな苦笑いで返す。
「誰から聞いたの、そんなこと…」
『ん?風の噂ってやつかな、当たってるでしょ』
「…………………」
聞こえるか聞こえないかくらいのなんとも小さな声で うん、と答えた鎏は少し項垂れてていて、驪に指摘される前と比べると沈み込んだ気分を隠そうともしていなくなっているのがはっきりと見てとれる。
ふぅっとため息をつきながら『まったくもぅ、鎏兄は…』と驪は椅子の背にもたれ掛かった。
『鎏兄はさ、鈍感なんだよね。それでいつもそうやって上手くいかなくて落ち込んでる。もう何回目になるかな、優しくて良い人なのにやっぱりフラれちゃうんだよね』
「う…僕ってそんなに鈍感っていうか…分からずや、なのかな…」
『まぁ、恋愛が下手ではあるのはたしかだよね』
「うぅ…っ」
『本当のことじゃん。だって現に上手くいってないんだもん』
あまりにも驪がはっきりと言うので、鎏は窓の外を遠い目で見ながら「もう、僕のことを好きになってくれる人なんてどこにもいないんじゃないかって気がするよ」と寂しげに呟いた。
「自分の何がダメなのかも分からなくなってて、もうお付き合いすらもできないし。…はぁ、結婚なんか夢のまた夢って感じがする…」
悲壮感すら漂う鎏の言葉を聞いた驪は茶を一口飲んでから『そうやって諦めちゃったらどうしようもないでしょ?自信を持ってよ』と明るい声音と表情で励ます。
『その人とは…まぁ、縁がなかったってことでさ。鎏兄のことを好きな人は必ずいるんだよ?だから諦めちゃダメ!』
「そうは言ってもね…」
『そもそも鎏兄はさ、自分にダメなところがあるから上手くいかないと思ってるの?だったら皆完璧人間じゃないと恋愛とか結婚なんてできてないでしょ。鎏兄はもう十分素敵だよ、だってこうやってお菓子を持ってきてくれたりするし、面倒見もすごく良いし…だからその素敵さを、良さを見てくれる人に出逢わなきゃ。ね?』
「うん…いや、そんな出逢いがあればいいんだけど、さ…」
『大丈夫だってば!』
あまりの鎏のしょげ具合に見かねた驪は、辺りを気にするようなそぶりを見せつつ、こそこそと声を潜めて『実はね、鎏兄のことが好きだって人を僕は知ってるんだ』と笑みを浮かべた。
『絶対に教えないけど、でも1人は確実にいるんだよ』と話す驪に「だ、誰?誰なのその人は」といくらか食い気味に関心を示す鎏。
驪は『あははっそりゃあ教えられないよ!相手のこともあるんだから簡単には話せないってば』と宥めると、肩をすくめている鎏に向かって『でも本当に…心配することはないからさ』と今度は穏やかに言い諭す。
『鎏兄の夢はさ、結婚して、ご両親みたいな夫婦になって、そして子供達と過ごすことでしょ?うん…きっと叶うから大丈夫だよ。鎏兄はそのまま自然体でいてよ』
「そうかな…大丈夫なのかな…」
『もう!心配ないってば!』
自信なさげな鎏がむしろ微笑ましくなってしまう驪。
鎏という男は優しくて面倒見のいい性格をしているのだが、女性達からするとそうした面が《いい人なんだけど…お兄ちゃんって感じがして》と恋仲のそれとは違うと思われてしまい、結局いつもそうした恋愛ごとが上手くいかずにこうして驪に相談したり、話を聞いてもらうなどしているのだった。
鎏の将来の夢は驪が言ったように《自らの両親のような夫婦になって、子供達のいる賑やかな家庭を築きたい》というものだ。
今はあまり上手くいっていないものの、いつかその夢を叶えてほしいと驪は切に願っている。
そう願う心に嘘偽りはない。
だが、にこにこと微笑みながら新たに取った菓子を一口齧る彼の胸中が少々複雑だったのを他に知る人はなかった。
『鎏兄の家族かぁ…いいね、でも僕の父さんと母さんもすごく素敵なんだよ』
『いっつも2人一緒で寄り添っててさ。息子の僕も赤くなっちゃうくらいに仲が良いんだ』
茶杯を両手で包み込みながら言う驪に、鎏も「そうだよね、とっても仲睦まじいご夫婦だと思う」と頷く。
誰から見ても憧れの的になるような両親の姿を思いながら『本当に憧れちゃうよね、ああいうの…』と驪は呟いた。
『…父さんと母さんは生まれ変わっても一緒になるんだって、よくそう言ってるよ。僕が《本当に仲が良いね》って言うと、2人はいつも《そうだろ?父さん達は運命で結ばれてるからな》ってすごく嬉しそうにするんだ。だから…僕も生まれ変わったらまたあの2人の子供になるよ。それでもっともっと、もっっっと一緒に暮らすんだ。今よりもずっと一緒に、一緒にね……』
鎏は「そうなったら、僕もまた同じように驪と知り合ってるかな?」と微笑んだが、驪は『さぁ…それはどうだろう』と左手首にある蝶のような模様の痣をそっと撫でて答えた。
『どうなるか分からないけど…だけどもし生まれ変わったとしたら、その時は僕は今とは違う新しい縁を探さなきゃ』
驪の長い睫毛が瞳に影を落とす。
『僕、もう自分の運命の人を見つけたと、長いこと思ってたんだけどね…でも違ったみたいでさ。これはもう、諦めるとかそういう以前の…どうしようもないことでね。だから生まれ変わったら今度こそ《その人》を見つけたいんだ。それで、やっぱり僕も父さんと母さんみたいに…その人と一緒に生きていきたい。父さん達が逆に羨ましく思うくらいに、その人と仲睦まじく暮らしたい』
『この痣を目印にして僕は僕の運命の人を見つけるんだ。いつか必ず…きっとね』
手首を軽く振って鎏に痣を見せると、驪は3つ目となる菓子に手を伸ばして一口齧った。
彼が見せた珍しく寂しげなその様子。
鎏は実父の病のことを思っているであろうという驪に対して簡単に励ますような言葉をかけるのはふさわしくないと思えてならず、なんと声をかけるべきなのかと迷っていた。
それに《運命の人》についてを特に意識したような語り口も気になる。
しかし(驪にはこの先まだまだいい未来がきっと待っている)と信じて疑わない鎏が口を開こうとしたそのとき、菓子を頬張っていた驪はにわかに けほけほとむせだしたのだった。
『うっ…お菓子…お菓子の粉が…っけほ、けほけほ…っ』
涙目になった驪を見て「あっ、ほら!だから気をつけろって言ったのに…!」と鎏は慌てる。
『う…吸い込んじゃった、っけほ…』
「あぁっ、もう!お茶は?お茶…もう飲んじゃってたのか、それじゃ水を持ってくるから、とりあえず僕のこのお茶を飲んでおいて!」
鎏はすでに驪の茶杯が空になっているのを見ると、まだ少し茶の残っている自らの茶杯を差し出し、急いで階下へと水を取りに行った。
再び驪1人きりとなって、シン…とする部屋の中。
階段の方から聞こえてくる足音がたしかに遠ざかっていったのを見計らい、むせるのを止めた驪は差し出された茶杯に目を向けたままほろほろと頬を濡らし始めた。
彼は本当はむせていたわけではない。
とっさにそう装っただけなのだ。
そうでもしないと目にこみ上げてくるものを誤魔化すことができそうになかった。
最近になって体調を崩すことが増えたその理由を彼は理解している。
そして、自身がずっと昔から想いを寄せ続けていた《運命の人》には絶対に自らの手が届かないということも、胸に痛いほど理解していた。
病のことはそのうち知られるとしても、その想いを明かすつもりは一切ない。
今生 胸に秘めたままでいようと、彼はずっと前から決めていた。
(本当に…本当に、幸せになってほしいんだよ)
(その夢が叶うようにって、僕は心から願ってるんだ…)
驪はさらに一粒の涙を溢れさせながら、茶の残っている茶杯の縁にそっと唇を覆いかぶせた。
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新しいクラスで新しい友達ができることを楽しみにしていたが、特に気になる存在がいた。それは幼馴染のランだった。
ランはいつもクールで落ち着いていて、どこか遠くを見ているような眼差しが印象的だった。レンとは対照的に、内向的で多くの人と打ち解けることが少なかった。しかし、レンだけは違った。ランはレンに対してだけ心を開き、笑顔を見せることが多かった。
教室に入ると、運命的にレンとランは隣同士の席になった。レンは心の中でガッツポーズをしながら、ランに話しかけた。
「ラン、おはよう!今年も一緒のクラスだね。」
ランは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。「おはよう、レン。そうだね、今年もよろしく。」
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