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第一章
3「觜宿の主」
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水差しの件で接点を持ってからというもの、2人の男《琥珀》と《黒耀》とはなにかと言葉を交わすようになった夾。
友人のような、兄弟のような。
そんな気のおけない関係となってからしばらくの時が経ったある日のこと。
いつものように夕食を求めて食堂へ向かっていた夾はその道すがらで偶然にも酒場に向かっている琥珀に出会った。
「せっかくだから一緒に行こう」ということになり、揃って歩き出す2人。
琥珀は歩きながら今日の仕事で見た鴨達の可愛らしい仕草などについてを熱心に語っていて、夾はうんうんと頷きながら興味深くその話を聞く。
「……でね、そうやって泳いでる姿がすごく可愛いんだよ!どの動物もそうなんだけどさ、やっぱり一生懸命に餌を探したりとかしてるのって、もう、すっごく可愛いの!コウちゃんは見たことある?」
「いえ、あまり酪農地域の区画内には行かないもので…でも興味はあります」
「そうなの?それなら今度見においでよ、僕が案内するから!動物が嫌いじゃないならきっと楽しいよ!」
「いいんですか?」
「もちろん!どの子達も皆よく馴れてて人間のことが大好きだからね、君が来てくれたら喜ぶと思うんだ。…そうだ、たしかコウちゃんは荷車の整備をしてるんだったよね?それならいつも荷車を牽いてるような馬や牛達に会いに行ってみるのもいいよ。外に出て仕事してる姿だけじゃなくて、たまにはのんびり牧草地で過ごしてる様子も見てみて!僕の仕事場からわりとすぐのところにはそういう子達のための放牧場もあるんだけど、皆のびのびとしててね、やっぱりすごく可愛いんだ」
饒舌になって語っているところからして、琥珀はかなりの動物好きだということが分かる。
以前ちらりと話していたことだが、彼は生まれも育ちも酪農地域で、やはり代々鴨の世話を担っている一家の末っ子(三男)なのだそうだ。
幼い頃から沢山の動物達に触れあってきたことで培われたらしい物腰の柔らかなところや明るいところには 小動物を彷彿とさせるような愛嬌がある。
そういったところが彼の魅力の1つであり、(黒耀さんが惹かれるのもよく分かるな)と夾は思うのだ。
きっと仕事場でも周りの人達から人気があるに違いない。
そうこうしているうちに食堂の扉の前に到着した夾と琥珀。
じゃあ俺はこれで、と食堂の方の扉に手をかけた夾だったが、琥珀に「ねぇ、コウちゃん」と呼びかけられてその手を止めた。
「今日はこっちでご飯、食べない?ほら、僕と黒耀と一緒に」
「ね、良いでしょ?別々じゃなくてさ、一緒に食べようよ。せっかくこうして一緒に来たんだし」
そう言って誘いつつ「どう?」と夾の答えを窺う琥珀。
こっち、とは言わずもがな酒場のことだ。
超えることのできない何かがある酒場。
元からその雰囲気のよさに惹かれてはいたものの…やはり夾は琥珀に誘われてもそこへ踏み入るだけの勇気がもてなかった。
それに、その酒場へ足を踏み入れれば例の『明るい髪色の男』とも顔を合わせるのは必然であり、さすがになんとも気まずい。
ちょうどあの男の瞳を見つめたのもこの辺りだった、と夾が回顧すると、脳裏にあの釘を刺すような声が蘇ってきた。
(『…余計なことは するなよ』)
「………」
夾はやはり自分はその酒場には踏み入ることはできない、として「俺はそっちには、ちょっと……」と琥珀の誘いを断る。
「俺、ここにはただ食事をしに来ているだけなので、食堂で十分なんです」
「酒も呑まないですし、せっかくなんですけど…」
すると琥珀は「あっ、気にしなくていいんだよ!」と慌てて手を振りながら遮った。
「ここはたしかに酒場だけど、でも酒を呑まなきゃ居ちゃいけないわけじゃないから!僕も黒耀も食事だけして帰ることなんかよくあるよ、ほんとに!」
「でも俺は…」
「ご飯もすごく美味しいんだ、そりゃほとんどの献立は食堂のと一緒だけど…でも酒場ならではのものもあるし、作り手が違うから味も少し違うんだよ。食堂の方のにも負けないくらいだからさ、一度は食べてみてよ!ね、ほらほら!」
渋る夾にもめげず誘い続ける琥珀。
それでも酒場に行くわけにはいかない夾が断っていると、そこに黒耀もやってきて「こんなところで何やってるんだ?中にも入らずに」と話の中に加わってきた。
「あっ、ねぇ黒耀~コウちゃんが僕達と一緒にご飯食べるの嫌だって言うんだよ。酒場には行きたくないんだって」
困ったように眉をひそめる琥珀を見て、黒耀も「気にせず中に入ればいいのに」と一緒になって酒場へ誘いだす。
しかし、いくらそうして誘われたとしてもあの気まずさが消えるわけではない。
どうにも断り切ることができない夾が素直に「俺…あまりここの人に気に入られていないから…」と告白すると、琥珀と黒耀は互いに顔を合わせてから「はぁ…アイツ……」と小さくため息をこぼした。
「それ、さ…何があったか知らないけど、どうせ『セン』の勘違いかなんかなんでしょ?コウちゃんは悪くないんでしょ」
「そうだな、アイツは1度思い込んだらそうだと決めつけてかかるフシがあるから。君が他人の気分を悪くさせることをするような子じゃないっていうのは俺達が分かってるからさ、気にすることはないよ」
「いえ、でも…」
なおも渋る夾だったが、結局黒耀と琥珀によってほとんど強引な形で酒場の中へと連れて行かれてしまった。
中にはまだ他に訪れている人が居らずどこの席も空いていて、3人は揃って酒瓶がずらりと並べられている棚の前の長机に座る。
酒場で働いている若い男が注文を取って裏に行ってからしばらく後、頼んでいた料理を手に表へと出てきたのは…あの『明るい髪色をした男』だった。
黒耀と琥珀に挟まれて座る夾の姿を見てピタリと手を止めた『明るい髪色の男』。
その表情は明らかに『なぜお前がここにいるんだ』というようなもので、夾はやはりいたたまれなくなって席を立とうとしたのだが、すぐさま琥珀によって引き留められる。
「ねぇ、『セン』。この子は僕達の友達のコウちゃん。なに、どうかしたの?」
何とも言えない表情をした『明るい髪色の男』に対して琥珀が明るく言うと、続けて黒耀も「なんだよ、連れてきてもいいだろ?」と口添えする。
「俺達が連れてきたんだ。不都合なんかないよな?この子はいい子だって俺達は知ってる。だから一緒に飯を食べようと思ってこっちに来たけど…」
「コウちゃん、せっかく食堂に行こうとしてたのに僕達が無理やりこっちに連れてきちゃったんだよね。だって僕、一緒にご飯食べたかったからさ」
「だったらこれから俺達も食堂の方で食べるようにするか?な、琥珀」
「うん。僕達、コウちゃんともっと話がしたいからってこうしたのにね。『セン』の料理も食べてみてほしいと思ったんだけど、仕方ないね」
「まったくだな」
2人の息はぴったりだ。
一見何気なく会話しているようでも、その言葉の端々には夾がこの酒場で過ごすことを認めさせようという意思が滲み出ている。
退路を断つように、壁際に追い詰めるように。
そんな風にして2人が話していることに戸惑う『明るい髪色の男』が口を開こうとしたその時、食堂の方から「あれっ?そっちの方に行くことにしたんですか」という食堂の主の声が響いてきた。
「こっちの常連さんだったのに、弟に取られてしまうとは」
あはは、と笑う朗らかな食堂の主。
琥珀は「取られたって言ったって、すぐ隣同士だしあんまり区別はないでしょ?」と笑って応えると、夾に「コウちゃん、ここの食堂と酒場は兄弟で切り盛りしてるんだよ」と説明した。
「食堂の方がお兄さんでね、こっちの酒場の方は弟なの。ここのほとんどの献立は2人が共同で作ってるんだ」
…そう言われてみると、どちらの主も鼻筋や目元が似ているようだ。
しかし兄だという食堂の主の方は落ち着いた髪色も相まってふんわりとした穏やかな雰囲気を漂わせているのに対し、弟の方はキリッとした硬い雰囲気を漂わせていて、その系統は明らかに異なっている。
兄弟は若くしてそれぞれの食堂や酒場を切り盛りしているらしい。
夾が「いつもお世話になってます」と頭を下げると、食堂の主は「またいつでもこっちにおいでね」と微笑みかけてから裏の調理場へと戻っていった。
食堂の主によって和やかな空気がもたらされた酒場。
「ってことで。ほら、せっかく出来た料理も冷めちゃうし早く食べよ?」
仕切り直しだとばかりに明るく言う琥珀は、夾に「コウちゃん、この人はここを切り盛りしてる『セン』だよ」と『明るい髪色の男』を改めて紹介する。
「センは大体いつもこんな感じなんだけどね、料理は上手だし、お酒を作るのも上手だし、良い子なんだ。ビクビクしないで大丈夫、そのうち慣れるから」
すると黒耀も「そうそう」と頷きながら受け取った料理の皿を夾の前に置く。
「食堂で食事してた時と同じように寛いでいいんだよ、きっと君もそのうち居心地がいいと思うようになるはずだから。だけど無理をしてここへ来ることもないからな。俺達に気を遣ってせっかくの時間を寛げないんじゃ意味がないだろ?もしどうしても食堂の方が気が楽だって言うなら、俺達が合わせるよ」
「俺と琥珀はともかくとして、君とは仕事場も近くないし、なかなか話せる機会がないからな。こういう時だけでも一緒に過ごしたいんだ、うざったいと思われるかもしれないけどさ」
黒耀はそうして自嘲じみたことを言ったが、夾にはそこに黒耀なりの温かさがこもっているのを感じて「…ありがとうございます。黒耀さん、琥珀さん」と小さく頭を下げた。
その後、琥珀と黒耀は夾と共に酒場で食事をしたということが嬉しくてたまらなかったらしく、食事が終わってからはおすすめの料理や飲み物についてを上機嫌で語り、何とも楽しそうにしていた。
そんな中で聞いたのがこの酒場の名についてだ。
外には隣の食堂のように名を掲げた看板があるわけでもないため、この酒場が何と呼ばれているのかが気になっていた夾。
琥珀達に訊ねると「あぁ、この酒場の名前ね!」と快活な返事が返ってきた。
「そうだよね、看板に書かれてないから分かんないよね。この酒場はね【觜宿の杯】って言うんだ。大体『觜宿』って言えばここのことだって分かるよ、分かる人には分かるってやつ」
「觜宿…」
「うん、觜宿。星のことなんだって、漁業地域が発祥らしいよ。外の看板には足つきの酒器(杯)に星が入ってる絵が描いてあるでしょ?あれは『觜宿っていう星々を湛えた杯』っていう意味でね、この酒場の名前を絵で表したものなんだ。ちなみに隣の食堂の方は『柳宿の器』っていうんだけど、やっぱりその『柳宿』ってのも星のことでね。もともと漁業地域から来た人達が開いたからそういう名前になったんだって聞いたことがあるよ」
『觜宿』に『柳宿』。
星の名前が付いていると聞いてから見てみると、たしかにここに漂う雰囲気は静かな夜のような、星達が瞬く美しい夜空のような、そんな風にも思えてくる。
実は夾の本名も星に関連したものなのだが、そうしたことで感じる『親近感』とは本当に不思議なもので、彼はそれまで以上に酒場と食堂を気に入ってしまった。
いつの間にかこの酒場に足を踏み入れることを躊躇していた理由を忘れ去ってしまうほど、気を楽にして琥珀や黒耀と楽し気に話し込んでいた夾。
そんな彼のことを、酒場【觜宿の杯】の主である『明るい髪色の男』もとい『セン』は狐につままれたかのような表情で見ていた。
それからというもの、夾はこの【觜宿の杯】へ毎日のように通うことになる。
それを特に喜んだのは、時折恋人が仕事の関係で他地域へ何日間か泊りがけで出掛けて行ってしまう度に寂しい思いをしていた琥珀だ。
黒耀は担当している猟犬と共に仕事先の農業地域などへ出掛けていくことがあるのだが、時には仕事先で猟犬の入れ替えを引き受けたり、酪農地域へ戻らずにまた別の場所での仕事へと向かっていくこともあって、長い間姿を見かけないということも多々ある。
その間琥珀は当然1人で食事をしていたわけだが、琥珀はそれを内心とても寂しく思っていたらしく、夾が【觜宿の杯】へ来るようになったことを本当に心から喜んでいた。
黒耀も夾が琥珀のそばにいれば色々な意味で安心だという。
ただ話し相手になるだけでそんなにも喜んでもらえるのだということが夾自身もなんだか嬉しく、すっかり彼は【觜宿の杯】の馴染みとなるほどにもなっていった。
ーーーーーーーーー
酒場【觜宿の杯】に通うようになってから、特に変わり映えもしなかった毎日が大きく変わったのを感じていた夾。
半年も過ぎた頃になると、なんといつの間にか『セン』も夾に対して普通の態度で接するようになっていった。
琥珀達がまだ【觜宿の杯】に来ておらず、夾が1人で居る時にも「今日の献立はこんな感じですけど。どうしますか」と話しかけてくるようになったところを見ると、あの夜のことはともかくとして、どうやら夾が『何かをやらかすような人間ではない』と思うようになったのだろう。
きっと琥珀や黒耀と話している姿を見ているうちに、初めの頃とは考えが変わっていったに違いない。
あからさまな敵意を感じなくなった夾は『セン』とも少しずつ話をするようになり、やがて『セン』は『璇』という名なのだということも知るようになった。
歳はどうやら夾の5つ上らしい。
「今日は…あっ、木の実の炒め物がある。これを主菜にしてください」
まだ琥珀達が【觜宿の杯】に来ていない中でも璇に注文をする夾。
献立を指定した夾の口元は若干嬉しそうに綻んでいて、璇は茶杯に水を注ぎながら「木の実がお好きなんですか」と訊ねてきた。
「献立にあると必ず頼んでいますね」
夾は茶杯を受け取りながら頷いて応える。
「育ちが工芸地域なので馴染みがあるんです。それに ここの木の実を使った料理は特に美味しいと思っていますから。料理だけでなく、時々用意されている甘いものも美味しいです」
「そうですか」
短く答えてから料理の用意をしに裏の調理場へ向かおうとする璇。
するとちょうどその時、【觜宿の杯】の扉が開いて琥珀がやってきた。
「あっ、いたいた~コウちゃん!」
「琥珀さん、お仕事お疲れ様です」
「ありがとう!コウちゃんもね、お疲れさま」
次第に賑やかになっていく夕暮れの【觜宿の杯】。
琥珀や少し遅れてやって来た黒耀と話す夾の目の端には、訪れた人々の注文を難なくさばいていく璇の動きが映っていた。
それも一度や二度ではなく、頻繁に。
いったいなぜそんなにも璇が視界の端に映り込むのかは夾自身にもはっきりとは分かっていなかったのだが、1つ大きな理由として挙げるとするならばそれは『璇の接客姿があまりにも素晴らしいから』ということになるだろう。
席に着いた人から献立を聞き出す際の、柔らかな笑みでの談笑。
料理を運んで提供する際の、しなやかで流れるような動き。
背後の棚に並ぶ無数の酒瓶から数本を選び取り、適量を合わせて新たな味わいの一杯を作りだす背筋の伸びた姿。
そして時折明かりを反射してきらきらと輝く、赤みがかった美しい髪。
(どうしてあんなに綺麗…なんだろうか)
ぼぅっと考える夾。
主として【觜宿の杯】を切り盛りしている璇の立ち居振る舞いや表情といった何もかもが目を惹いているのはたしかだ。
(見ずにはいられないというか、なんというか…他の人はそうじゃないのか?どんな小さな仕草一つでもとても繊細で…)
「コウちゃん?どうかしたの?」
「…っい、いえ」
琥珀に話しかけられたことでふと我に返った夾が「なんでもないですよ」と取り繕いながら茶杯を手にすると、琥珀は「そう?でも今お酒を見てたんじゃない?」と首をかしげて言った。
「コウちゃんてさ、前にお酒は呑まないって言ってたけど、それは呑めないってことなの?それともあんまりお酒自体が好きじゃないってこと?」
実際は璇の事を目で追ってしまっていたのだが、どうやら琥珀は夾がその背後にある酒瓶の並んだ棚を見ているのだと思ったらしい。
琥珀からの問いに「どちらも、ですかね」と眉をひそめて夾は応える。
「酒に弱い方だとは思いますが、そもそもあまり美味しいと思ったこともないですし、呑む機会もないのでどの程度の弱さなのかは自分でも分からないんです。それに次の日の仕事のことを考えると酔っている暇もないというか…」
「そっか、コウちゃんの仕事は特に体力勝負なところがあるもんね」
「はい。でも酒瓶を見るのは好きですよ、たくさん種類があって綺麗ですから」
それから壁一面に並ぶ酒瓶についての話に花が咲いた琥珀達はやがて「なにか一杯ぐらいセンに作ってもらおうか」と乗り気になって璇をそばに呼んだ。
琥珀と黒耀はそれぞれ好んでいる酒があるらしく慣れた様子で注文していて、夾は(せっかくなら自分も)と思うものの、どういったものがあるのかすらも知らないために結局水のおかわりを頼むだけにする。
注文を受けた後に手際よく酒を混ぜ合わせていく璇の姿はやはり素晴らしく洗練されていて、それを目の前で見ることができただけでも夾は充分に満足していたのだが…琥珀と黒耀の分の一杯を仕上げてから流れるようにさらなる一杯を作りだした璇は、なんとその一杯を夾の前へと差し出した。
鮮やかな美しい黄と赤に彩られたその一杯。
それはどう見ても水ではない。
璇は目を瞬かせる夾に言う。
「酒類が苦手なんでしょう。これには酒類は使っていませんから、飲めると思います。試してみてください」
「あ…ありがとう、ございます」
「いえ」
一言だけで応えつつ使用した酒瓶を再び棚に戻していく璇に、あっけにとられていた琥珀と黒耀は「わぁ、粋なことするね、セン」と感心して声をかけた。
どうやら璇は本来であれば酒を使うところを別のもので代用し、一切酒類を含まない一杯を作りだしたらしい。
自分のためだけに用意されたもの、というのはどうしてこんなにも特別に思えるのだろうか。
夾が慎重にその一杯を手に取ると、琥珀と黒耀も同じようにそれぞれの一杯を持って「よし、乾杯しよ」と明るく言った。
杯を掲げて「乾杯っ」と小さく声を合わせてから各々の一杯を味わう3人。
「ん~、さすがセンだね。久しぶりにもらったけど、ちゃんと美味しい」
「これが俺の仕事なんで」
「あははっ!そんなこと言って~照れてるみたいに見えるけど?」
軽快なやり取りが繰り広げられる中、夾はじっと手の中の一杯を見つめていた。
口に含んだ時にかすかに感じた、どこか馴染みのある香り。
それは工芸地域の木工場を思い起こさせるようなものだったのだが…もしや璇は意識してその香りを含ませたのだろうか。
(これは木樽の香り…?)
それが意図してのものかどうかはともかくとして、夾はなんだか嬉しい気持ちのまま、さらにそっともう一口味わった。
順調な仕事。気の合う人達。
美味しい料理に気兼ねない生活。
夾の毎日は満ち足りていて、それ以上のものは求めることがなかった。
刺激的な変化などはまったく必要ない。
彼はただ穏やかな日々のままでいれさえすればそれで良かった。
そう、それで良かったのだが…不思議なことに、そう願えば願うほど何かが起こるというものだ。
きっかけというのはある日突然、前触れもなく訪れる。
夾の場合はそれが、まだ底冷えのする ある春の日のことだった。
友人のような、兄弟のような。
そんな気のおけない関係となってからしばらくの時が経ったある日のこと。
いつものように夕食を求めて食堂へ向かっていた夾はその道すがらで偶然にも酒場に向かっている琥珀に出会った。
「せっかくだから一緒に行こう」ということになり、揃って歩き出す2人。
琥珀は歩きながら今日の仕事で見た鴨達の可愛らしい仕草などについてを熱心に語っていて、夾はうんうんと頷きながら興味深くその話を聞く。
「……でね、そうやって泳いでる姿がすごく可愛いんだよ!どの動物もそうなんだけどさ、やっぱり一生懸命に餌を探したりとかしてるのって、もう、すっごく可愛いの!コウちゃんは見たことある?」
「いえ、あまり酪農地域の区画内には行かないもので…でも興味はあります」
「そうなの?それなら今度見においでよ、僕が案内するから!動物が嫌いじゃないならきっと楽しいよ!」
「いいんですか?」
「もちろん!どの子達も皆よく馴れてて人間のことが大好きだからね、君が来てくれたら喜ぶと思うんだ。…そうだ、たしかコウちゃんは荷車の整備をしてるんだったよね?それならいつも荷車を牽いてるような馬や牛達に会いに行ってみるのもいいよ。外に出て仕事してる姿だけじゃなくて、たまにはのんびり牧草地で過ごしてる様子も見てみて!僕の仕事場からわりとすぐのところにはそういう子達のための放牧場もあるんだけど、皆のびのびとしててね、やっぱりすごく可愛いんだ」
饒舌になって語っているところからして、琥珀はかなりの動物好きだということが分かる。
以前ちらりと話していたことだが、彼は生まれも育ちも酪農地域で、やはり代々鴨の世話を担っている一家の末っ子(三男)なのだそうだ。
幼い頃から沢山の動物達に触れあってきたことで培われたらしい物腰の柔らかなところや明るいところには 小動物を彷彿とさせるような愛嬌がある。
そういったところが彼の魅力の1つであり、(黒耀さんが惹かれるのもよく分かるな)と夾は思うのだ。
きっと仕事場でも周りの人達から人気があるに違いない。
そうこうしているうちに食堂の扉の前に到着した夾と琥珀。
じゃあ俺はこれで、と食堂の方の扉に手をかけた夾だったが、琥珀に「ねぇ、コウちゃん」と呼びかけられてその手を止めた。
「今日はこっちでご飯、食べない?ほら、僕と黒耀と一緒に」
「ね、良いでしょ?別々じゃなくてさ、一緒に食べようよ。せっかくこうして一緒に来たんだし」
そう言って誘いつつ「どう?」と夾の答えを窺う琥珀。
こっち、とは言わずもがな酒場のことだ。
超えることのできない何かがある酒場。
元からその雰囲気のよさに惹かれてはいたものの…やはり夾は琥珀に誘われてもそこへ踏み入るだけの勇気がもてなかった。
それに、その酒場へ足を踏み入れれば例の『明るい髪色の男』とも顔を合わせるのは必然であり、さすがになんとも気まずい。
ちょうどあの男の瞳を見つめたのもこの辺りだった、と夾が回顧すると、脳裏にあの釘を刺すような声が蘇ってきた。
(『…余計なことは するなよ』)
「………」
夾はやはり自分はその酒場には踏み入ることはできない、として「俺はそっちには、ちょっと……」と琥珀の誘いを断る。
「俺、ここにはただ食事をしに来ているだけなので、食堂で十分なんです」
「酒も呑まないですし、せっかくなんですけど…」
すると琥珀は「あっ、気にしなくていいんだよ!」と慌てて手を振りながら遮った。
「ここはたしかに酒場だけど、でも酒を呑まなきゃ居ちゃいけないわけじゃないから!僕も黒耀も食事だけして帰ることなんかよくあるよ、ほんとに!」
「でも俺は…」
「ご飯もすごく美味しいんだ、そりゃほとんどの献立は食堂のと一緒だけど…でも酒場ならではのものもあるし、作り手が違うから味も少し違うんだよ。食堂の方のにも負けないくらいだからさ、一度は食べてみてよ!ね、ほらほら!」
渋る夾にもめげず誘い続ける琥珀。
それでも酒場に行くわけにはいかない夾が断っていると、そこに黒耀もやってきて「こんなところで何やってるんだ?中にも入らずに」と話の中に加わってきた。
「あっ、ねぇ黒耀~コウちゃんが僕達と一緒にご飯食べるの嫌だって言うんだよ。酒場には行きたくないんだって」
困ったように眉をひそめる琥珀を見て、黒耀も「気にせず中に入ればいいのに」と一緒になって酒場へ誘いだす。
しかし、いくらそうして誘われたとしてもあの気まずさが消えるわけではない。
どうにも断り切ることができない夾が素直に「俺…あまりここの人に気に入られていないから…」と告白すると、琥珀と黒耀は互いに顔を合わせてから「はぁ…アイツ……」と小さくため息をこぼした。
「それ、さ…何があったか知らないけど、どうせ『セン』の勘違いかなんかなんでしょ?コウちゃんは悪くないんでしょ」
「そうだな、アイツは1度思い込んだらそうだと決めつけてかかるフシがあるから。君が他人の気分を悪くさせることをするような子じゃないっていうのは俺達が分かってるからさ、気にすることはないよ」
「いえ、でも…」
なおも渋る夾だったが、結局黒耀と琥珀によってほとんど強引な形で酒場の中へと連れて行かれてしまった。
中にはまだ他に訪れている人が居らずどこの席も空いていて、3人は揃って酒瓶がずらりと並べられている棚の前の長机に座る。
酒場で働いている若い男が注文を取って裏に行ってからしばらく後、頼んでいた料理を手に表へと出てきたのは…あの『明るい髪色をした男』だった。
黒耀と琥珀に挟まれて座る夾の姿を見てピタリと手を止めた『明るい髪色の男』。
その表情は明らかに『なぜお前がここにいるんだ』というようなもので、夾はやはりいたたまれなくなって席を立とうとしたのだが、すぐさま琥珀によって引き留められる。
「ねぇ、『セン』。この子は僕達の友達のコウちゃん。なに、どうかしたの?」
何とも言えない表情をした『明るい髪色の男』に対して琥珀が明るく言うと、続けて黒耀も「なんだよ、連れてきてもいいだろ?」と口添えする。
「俺達が連れてきたんだ。不都合なんかないよな?この子はいい子だって俺達は知ってる。だから一緒に飯を食べようと思ってこっちに来たけど…」
「コウちゃん、せっかく食堂に行こうとしてたのに僕達が無理やりこっちに連れてきちゃったんだよね。だって僕、一緒にご飯食べたかったからさ」
「だったらこれから俺達も食堂の方で食べるようにするか?な、琥珀」
「うん。僕達、コウちゃんともっと話がしたいからってこうしたのにね。『セン』の料理も食べてみてほしいと思ったんだけど、仕方ないね」
「まったくだな」
2人の息はぴったりだ。
一見何気なく会話しているようでも、その言葉の端々には夾がこの酒場で過ごすことを認めさせようという意思が滲み出ている。
退路を断つように、壁際に追い詰めるように。
そんな風にして2人が話していることに戸惑う『明るい髪色の男』が口を開こうとしたその時、食堂の方から「あれっ?そっちの方に行くことにしたんですか」という食堂の主の声が響いてきた。
「こっちの常連さんだったのに、弟に取られてしまうとは」
あはは、と笑う朗らかな食堂の主。
琥珀は「取られたって言ったって、すぐ隣同士だしあんまり区別はないでしょ?」と笑って応えると、夾に「コウちゃん、ここの食堂と酒場は兄弟で切り盛りしてるんだよ」と説明した。
「食堂の方がお兄さんでね、こっちの酒場の方は弟なの。ここのほとんどの献立は2人が共同で作ってるんだ」
…そう言われてみると、どちらの主も鼻筋や目元が似ているようだ。
しかし兄だという食堂の主の方は落ち着いた髪色も相まってふんわりとした穏やかな雰囲気を漂わせているのに対し、弟の方はキリッとした硬い雰囲気を漂わせていて、その系統は明らかに異なっている。
兄弟は若くしてそれぞれの食堂や酒場を切り盛りしているらしい。
夾が「いつもお世話になってます」と頭を下げると、食堂の主は「またいつでもこっちにおいでね」と微笑みかけてから裏の調理場へと戻っていった。
食堂の主によって和やかな空気がもたらされた酒場。
「ってことで。ほら、せっかく出来た料理も冷めちゃうし早く食べよ?」
仕切り直しだとばかりに明るく言う琥珀は、夾に「コウちゃん、この人はここを切り盛りしてる『セン』だよ」と『明るい髪色の男』を改めて紹介する。
「センは大体いつもこんな感じなんだけどね、料理は上手だし、お酒を作るのも上手だし、良い子なんだ。ビクビクしないで大丈夫、そのうち慣れるから」
すると黒耀も「そうそう」と頷きながら受け取った料理の皿を夾の前に置く。
「食堂で食事してた時と同じように寛いでいいんだよ、きっと君もそのうち居心地がいいと思うようになるはずだから。だけど無理をしてここへ来ることもないからな。俺達に気を遣ってせっかくの時間を寛げないんじゃ意味がないだろ?もしどうしても食堂の方が気が楽だって言うなら、俺達が合わせるよ」
「俺と琥珀はともかくとして、君とは仕事場も近くないし、なかなか話せる機会がないからな。こういう時だけでも一緒に過ごしたいんだ、うざったいと思われるかもしれないけどさ」
黒耀はそうして自嘲じみたことを言ったが、夾にはそこに黒耀なりの温かさがこもっているのを感じて「…ありがとうございます。黒耀さん、琥珀さん」と小さく頭を下げた。
その後、琥珀と黒耀は夾と共に酒場で食事をしたということが嬉しくてたまらなかったらしく、食事が終わってからはおすすめの料理や飲み物についてを上機嫌で語り、何とも楽しそうにしていた。
そんな中で聞いたのがこの酒場の名についてだ。
外には隣の食堂のように名を掲げた看板があるわけでもないため、この酒場が何と呼ばれているのかが気になっていた夾。
琥珀達に訊ねると「あぁ、この酒場の名前ね!」と快活な返事が返ってきた。
「そうだよね、看板に書かれてないから分かんないよね。この酒場はね【觜宿の杯】って言うんだ。大体『觜宿』って言えばここのことだって分かるよ、分かる人には分かるってやつ」
「觜宿…」
「うん、觜宿。星のことなんだって、漁業地域が発祥らしいよ。外の看板には足つきの酒器(杯)に星が入ってる絵が描いてあるでしょ?あれは『觜宿っていう星々を湛えた杯』っていう意味でね、この酒場の名前を絵で表したものなんだ。ちなみに隣の食堂の方は『柳宿の器』っていうんだけど、やっぱりその『柳宿』ってのも星のことでね。もともと漁業地域から来た人達が開いたからそういう名前になったんだって聞いたことがあるよ」
『觜宿』に『柳宿』。
星の名前が付いていると聞いてから見てみると、たしかにここに漂う雰囲気は静かな夜のような、星達が瞬く美しい夜空のような、そんな風にも思えてくる。
実は夾の本名も星に関連したものなのだが、そうしたことで感じる『親近感』とは本当に不思議なもので、彼はそれまで以上に酒場と食堂を気に入ってしまった。
いつの間にかこの酒場に足を踏み入れることを躊躇していた理由を忘れ去ってしまうほど、気を楽にして琥珀や黒耀と楽し気に話し込んでいた夾。
そんな彼のことを、酒場【觜宿の杯】の主である『明るい髪色の男』もとい『セン』は狐につままれたかのような表情で見ていた。
それからというもの、夾はこの【觜宿の杯】へ毎日のように通うことになる。
それを特に喜んだのは、時折恋人が仕事の関係で他地域へ何日間か泊りがけで出掛けて行ってしまう度に寂しい思いをしていた琥珀だ。
黒耀は担当している猟犬と共に仕事先の農業地域などへ出掛けていくことがあるのだが、時には仕事先で猟犬の入れ替えを引き受けたり、酪農地域へ戻らずにまた別の場所での仕事へと向かっていくこともあって、長い間姿を見かけないということも多々ある。
その間琥珀は当然1人で食事をしていたわけだが、琥珀はそれを内心とても寂しく思っていたらしく、夾が【觜宿の杯】へ来るようになったことを本当に心から喜んでいた。
黒耀も夾が琥珀のそばにいれば色々な意味で安心だという。
ただ話し相手になるだけでそんなにも喜んでもらえるのだということが夾自身もなんだか嬉しく、すっかり彼は【觜宿の杯】の馴染みとなるほどにもなっていった。
ーーーーーーーーー
酒場【觜宿の杯】に通うようになってから、特に変わり映えもしなかった毎日が大きく変わったのを感じていた夾。
半年も過ぎた頃になると、なんといつの間にか『セン』も夾に対して普通の態度で接するようになっていった。
琥珀達がまだ【觜宿の杯】に来ておらず、夾が1人で居る時にも「今日の献立はこんな感じですけど。どうしますか」と話しかけてくるようになったところを見ると、あの夜のことはともかくとして、どうやら夾が『何かをやらかすような人間ではない』と思うようになったのだろう。
きっと琥珀や黒耀と話している姿を見ているうちに、初めの頃とは考えが変わっていったに違いない。
あからさまな敵意を感じなくなった夾は『セン』とも少しずつ話をするようになり、やがて『セン』は『璇』という名なのだということも知るようになった。
歳はどうやら夾の5つ上らしい。
「今日は…あっ、木の実の炒め物がある。これを主菜にしてください」
まだ琥珀達が【觜宿の杯】に来ていない中でも璇に注文をする夾。
献立を指定した夾の口元は若干嬉しそうに綻んでいて、璇は茶杯に水を注ぎながら「木の実がお好きなんですか」と訊ねてきた。
「献立にあると必ず頼んでいますね」
夾は茶杯を受け取りながら頷いて応える。
「育ちが工芸地域なので馴染みがあるんです。それに ここの木の実を使った料理は特に美味しいと思っていますから。料理だけでなく、時々用意されている甘いものも美味しいです」
「そうですか」
短く答えてから料理の用意をしに裏の調理場へ向かおうとする璇。
するとちょうどその時、【觜宿の杯】の扉が開いて琥珀がやってきた。
「あっ、いたいた~コウちゃん!」
「琥珀さん、お仕事お疲れ様です」
「ありがとう!コウちゃんもね、お疲れさま」
次第に賑やかになっていく夕暮れの【觜宿の杯】。
琥珀や少し遅れてやって来た黒耀と話す夾の目の端には、訪れた人々の注文を難なくさばいていく璇の動きが映っていた。
それも一度や二度ではなく、頻繁に。
いったいなぜそんなにも璇が視界の端に映り込むのかは夾自身にもはっきりとは分かっていなかったのだが、1つ大きな理由として挙げるとするならばそれは『璇の接客姿があまりにも素晴らしいから』ということになるだろう。
席に着いた人から献立を聞き出す際の、柔らかな笑みでの談笑。
料理を運んで提供する際の、しなやかで流れるような動き。
背後の棚に並ぶ無数の酒瓶から数本を選び取り、適量を合わせて新たな味わいの一杯を作りだす背筋の伸びた姿。
そして時折明かりを反射してきらきらと輝く、赤みがかった美しい髪。
(どうしてあんなに綺麗…なんだろうか)
ぼぅっと考える夾。
主として【觜宿の杯】を切り盛りしている璇の立ち居振る舞いや表情といった何もかもが目を惹いているのはたしかだ。
(見ずにはいられないというか、なんというか…他の人はそうじゃないのか?どんな小さな仕草一つでもとても繊細で…)
「コウちゃん?どうかしたの?」
「…っい、いえ」
琥珀に話しかけられたことでふと我に返った夾が「なんでもないですよ」と取り繕いながら茶杯を手にすると、琥珀は「そう?でも今お酒を見てたんじゃない?」と首をかしげて言った。
「コウちゃんてさ、前にお酒は呑まないって言ってたけど、それは呑めないってことなの?それともあんまりお酒自体が好きじゃないってこと?」
実際は璇の事を目で追ってしまっていたのだが、どうやら琥珀は夾がその背後にある酒瓶の並んだ棚を見ているのだと思ったらしい。
琥珀からの問いに「どちらも、ですかね」と眉をひそめて夾は応える。
「酒に弱い方だとは思いますが、そもそもあまり美味しいと思ったこともないですし、呑む機会もないのでどの程度の弱さなのかは自分でも分からないんです。それに次の日の仕事のことを考えると酔っている暇もないというか…」
「そっか、コウちゃんの仕事は特に体力勝負なところがあるもんね」
「はい。でも酒瓶を見るのは好きですよ、たくさん種類があって綺麗ですから」
それから壁一面に並ぶ酒瓶についての話に花が咲いた琥珀達はやがて「なにか一杯ぐらいセンに作ってもらおうか」と乗り気になって璇をそばに呼んだ。
琥珀と黒耀はそれぞれ好んでいる酒があるらしく慣れた様子で注文していて、夾は(せっかくなら自分も)と思うものの、どういったものがあるのかすらも知らないために結局水のおかわりを頼むだけにする。
注文を受けた後に手際よく酒を混ぜ合わせていく璇の姿はやはり素晴らしく洗練されていて、それを目の前で見ることができただけでも夾は充分に満足していたのだが…琥珀と黒耀の分の一杯を仕上げてから流れるようにさらなる一杯を作りだした璇は、なんとその一杯を夾の前へと差し出した。
鮮やかな美しい黄と赤に彩られたその一杯。
それはどう見ても水ではない。
璇は目を瞬かせる夾に言う。
「酒類が苦手なんでしょう。これには酒類は使っていませんから、飲めると思います。試してみてください」
「あ…ありがとう、ございます」
「いえ」
一言だけで応えつつ使用した酒瓶を再び棚に戻していく璇に、あっけにとられていた琥珀と黒耀は「わぁ、粋なことするね、セン」と感心して声をかけた。
どうやら璇は本来であれば酒を使うところを別のもので代用し、一切酒類を含まない一杯を作りだしたらしい。
自分のためだけに用意されたもの、というのはどうしてこんなにも特別に思えるのだろうか。
夾が慎重にその一杯を手に取ると、琥珀と黒耀も同じようにそれぞれの一杯を持って「よし、乾杯しよ」と明るく言った。
杯を掲げて「乾杯っ」と小さく声を合わせてから各々の一杯を味わう3人。
「ん~、さすがセンだね。久しぶりにもらったけど、ちゃんと美味しい」
「これが俺の仕事なんで」
「あははっ!そんなこと言って~照れてるみたいに見えるけど?」
軽快なやり取りが繰り広げられる中、夾はじっと手の中の一杯を見つめていた。
口に含んだ時にかすかに感じた、どこか馴染みのある香り。
それは工芸地域の木工場を思い起こさせるようなものだったのだが…もしや璇は意識してその香りを含ませたのだろうか。
(これは木樽の香り…?)
それが意図してのものかどうかはともかくとして、夾はなんだか嬉しい気持ちのまま、さらにそっともう一口味わった。
順調な仕事。気の合う人達。
美味しい料理に気兼ねない生活。
夾の毎日は満ち足りていて、それ以上のものは求めることがなかった。
刺激的な変化などはまったく必要ない。
彼はただ穏やかな日々のままでいれさえすればそれで良かった。
そう、それで良かったのだが…不思議なことに、そう願えば願うほど何かが起こるというものだ。
きっかけというのはある日突然、前触れもなく訪れる。
夾の場合はそれが、まだ底冷えのする ある春の日のことだった。
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