その杯に葡萄酒を

蓬屋 月餅

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第一章

2「琥珀と黒耀」

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 鉱酪通りに面している一軒の荷車整備工房。
 その真ん中にある広い作業場では、こうがなにやら難しい顔をしつつ1つの車輪をじっと見つめている。
 彼の目の前にある車輪はつい先ほどこの工房へと持ち込まれた荷車から交換した物だが、接地する部分の一部が欠けて破損しており、すでに荷を乗せて運ぶには不適格だということは見ての通りだ。

(この辺りはまだ使えそうだけど…どうしたものかな)

 夾は車輪の破損箇所をよく確かめながら《補修するか部品取りにするか》それとも《廃材として解体するか》の見当をつけていた。
 車輪の破損は荷車修理において最も多い故障だと言える。
 荷車の大きさに合わない荷重をかけたまま硬い石畳の上を長く牽いたり、小石を踏んだり、激しく揺れたりするとどうしても車輪には負担がかかってしまい、その結果一部が、または車輪全体が傷んでしまうのだ。
 一部でも明らかな破損が見られるようになるとすでに何ともなさそうなところにも負荷がかかって不具合が出ていることもあるため、多くの場合そういった荷車の足回りはすべて交換となる。
 だがそれらの部品というのは工芸地域の木工職人達によって一つ一つ完全な手作業で造られているものであり、そう簡単に新品の替えが手に入るというものでもない。
 そのため一部の軽い損傷であれば補修したり、解体後に部品として取っておくなどして用途の軽い荷車に再利用するものなのだが…部品としての再利用か、それとも廃材としての再利用か、その見極めは非常に難しいとされている。
 悩んでいた夾は背後から「おう、交換作業お疲れ」と声を掛けられて振り向いた。

「あぁ、こりゃまた随分イかれてるな」

 声の主はこの工房の親方であり、夾の師匠ともいえる壮年の男性だ。
 工房内にある金属加工場の方から作業を終えて出てきた恰幅のいい親方は、車輪の破損箇所を見ると、汚れた手を拭いながら片眉を上げる。

「こんな状態でよくこの工房まで持って来たよな、ここまで壊れてんならもう補修は無理だ。いい木を使ってはいるが、まぁ仕方がない」

 『破損箇所のみを補修して再利用するのは無理だ』という親方の意見に完全に同意する夾。
 しかし車輪の全体の状態としては良好に見受けられるようで、この車輪をそのまま廃材としてしまうのはあまりにも惜しく、夾は「せめて解体して部品を取るのはどうですか」と提案した。

「これ、ちょうどすぐそこの通りで破損したんだそうです。石畳の浮いたところに勢いよく車輪が噛んでしまったんだとか。破損自体はかなり酷いですが、素材がかなりいい木ですし、破損してからここに来るまでそんなに長く動かしたということでもないようなので…この部分くらいなら部品として取っておけそうかと。どうしますか」

 夾の指摘を受けて「うーん…そうだなぁ…」と唸りながら車輪の他の部分に目を向ける親方。
 本来であれば部品取りも諦めた方が良いくらいだが、夾の言うことにも一理あり、親方は注意深く観察しながらたしかに破損箇所以外への影響は最小限に抑えられているらしいと考えて結局いくつかの部品取りをすることに決めた。

「これとこれと、これ。あと…ここも。バラしてみて大丈夫そうなら取っておいていいだろう。ただし本修理に使うんじゃなく、応急処置用の部品としてだな」
「はい。それじゃ俺、やっておきます」
「あぁ、頼む。だけど今日はもうこれであがっていいぞ。ここ最近は朝から立て続けに荷車が来ただろう、たまには早く休めよ」

 親方は夾に「部品取りはまた時間のある時で構わないから」と退勤を促す。
 本当であればまだ退勤には早い時間だが、たしかに夾は今日一日に限らず 連日ずっと朝から働きづめで大した休みも取れていなかった。
 それに加えて、荷車に使われている木材はそのほとんどが密度の高い固く締まった上質なものであり、見かけによらず重量があって、それらに向き合って作業するのはかなりの力仕事となる。
 無理ばかりして体を壊してもよくないから、という親方の薦めに従って車輪などを片付けた夾は、工房に届けられていた自らの朝食にする分の食材を持って帰路についた。

ーーーーー

 彼の一日は毎日ほぼほぼお決まりの行動で成り立っている。
 朝起きて身支度をし、自ら作った朝食を食べ、工房へ行って仕事。
 昼食は工房で振舞われるものをいただき、陽が傾き始める頃に仕事を終わらせ、工房に届けられた翌朝の分の食料を受け取って帰宅。
 仕事によって汚れた体を浴室で軽く流してから、夕食を摂るために再び鉱酪通りまで出て行き、夕食を終えたら2度目の帰宅。
 そして今度はきちんと湯を浴びて寝支度をし、就寝する。
 仕事内容によっては多少変化することもあるが、彼の一日はおおむねこの通りだ。
 仕事が休みの日には近くの川沿いや森などの自然の中を散歩して回っていて、人通りのある中央広場へは近づくこともない。
 彼は人と関わるのも会話をするのも好きな方だが、それは相手が誰でもいいという訳でも、ただ賑やかであればいいという訳でもないのだ。
 慣れ親しんだ人々と日々の中で関わり合い、穏やかで変化のない生活を送ることを好んでいるというだけ、それだけ。
 そんな彼が工芸地域から酪農地域へと引っ越して住環境を変えたというのはかなり冒険的なことであり、今にして思えば彼自身でさえも(よくそんなことができたな)と感心してしまうほどのことなのだが、当時はなぜか何か強い一念に突き動かされているかのように1人暮らしに向けて邁進していた。
 結果、それは彼にさらなる平穏をもたらすことになった。
 、だが。


 あの夜の1件以降も夾は食堂【柳宿の器】に通っている。
 最初のうちはどこか他の所へ行くようにした方がいいかとも思っていたのだが、酒場の主である『明るい髪色をした男』は夾が食事をしている時間帯は大体裏の調理場で提供する料理を手掛けているらしく、直接顔を合わせることもほとんどないため、そのままずるずるとそこに居ついていたのだ。
 なにより前述したように、彼はあまり慣れた生活や習慣を変えることはしたがらない性格をしていることもあって、美味しい食事が提供されるこの食堂からはどうしても離れることができなかった。


ーーーーー


 仕事場である整備工房から帰宅後、今度は夕食を求めて鉱酪通りへと向かう夾。
 いつもより少し時間が早いという以外は、まったくいつも通りの行動だ。
 陸国は季節が移り、すっかり真夏の陽気に包まれている。
 よく茂った木々の濃い緑で覆われた山や蒼天に浮かぶ真っ白な雲が美しい風景があちこちに見られるというなんとも素晴らしい季節だが、しかし真夏には当然『暑さ』というものが付きまとうものだ。
 夾は自宅から食堂までの道のりを散歩を兼ねて徒歩で行き来しているため、日陰を歩いていても暑いものは暑く、食堂に到着してから出される一杯の水がなんともありがたく感じる。
 今日もそうして食堂のいつもの席に座ってから、夾は早々に茶杯の水を飲み干して空にしてしまった。
 体の芯から込み上げてくるような暑さはまだまだ治まりそうになく、もう一杯は欲しいところではあるものの、まだ食堂には他に人がいない少し早めの時間だということもあり、新たに水を注ごうにも食堂内には水差しも何も用意されていない。
 かといって料理の支度をしに行った食堂の主をまた呼ぶのもなんだか気がひけて、夾はそのまま喉の渇きを堪えるほか無くなってしまう。
 室内は陸国の特別な建材、建築方法によって通年快適な温度に保たれているために涼しくて居心地はいいが、喉の渇きによる妙なひりつきというのはそうしてじっとしていても治まるわけではない。
 他の何物でもなく まさに今、水が喉を滑り落ちていく感覚が欲しくてたまらない。
 そう考えながら茶杯を手に夾がじっと堪えていると、ふいに横から「ねぇ、お兄さん」という声がした。

「あの、もし良かったら水をもう一杯、どうですか。いります?」

 喉の渇きを堪える夾の様子を窺うように小首をかしげながら話しかけてきたその人物。
 物腰が柔らかく、年下にも思えるその姿…それはよく酒場の方にいるのを見かける『小柄で童顔の男』だった。
 、おんぶをせがんでいた男だ。
 手には清涼感のある澄んだ青色の水差しを持っているのだが、その水差しにはなみなみと水が入っているのが分かる。
 夾はすぐに頷いて応えていた。

「すみません、いただきます」
「いえいえ!今日は暑いもんね、お水はたくさん飲まなきゃ」

 『小柄で童顔の男』はそう言いながら夾の手の中にある茶杯に水を注ぐ。
 注がれたのは近くの井戸から汲まれたただの真水のようだが、喉の渇きに堪えかねているというこの状況下で目の前にある波打つ水面の魅力に抗える者はそういないだろう。
 水に満たされた一杯をぐいっと飲み干すとようやく喉の渇きは落ち着きを取り戻し、込み上げていた暑さも和らいで一層涼しくなった。
 再び空になった茶杯には「まぁまぁまぁ、もう一杯どうぞ。ね」とさらに水が注がれていて、夾は小さく頭を下げる。

「ありがとうございます」

 すると『小柄で童顔の男』は「どういたしまして」とお茶目に返し、食堂と酒場の境にある壁に寄りかかりながら「君、いっつもこの席にいるよね」と明るく話しかけてきた。

「綺麗な黒髪だし、1人静かに居る感じがすごく印象的だったんだ。だからついこうやって…ごめんね、いきなり話しかけちゃって」
「いえ、俺の方こそ。水をいただけて良かったです、喉が渇いてしまっていたので」
「今日は特に暑いもん、こっちに水差しがあって良かったよ。喉が渇いてるのってさ、結構辛いでしょ」

 朗らかな笑顔を見せるその男は快活そうな様子が表情や声、口調から現れていて、とても話しやすい。
 夾もついその調子に乗せられてしまい、結局酒場の方に『小柄で童顔の男』の連れであるらしい人物(やはり一緒にいた、)が来るまでそうして話をしていた。
 それはまるで食堂と酒場の境界がなくなったようにも感じられるほど気楽で楽しいひと時だったが、夾のもとに料理が運ばれてきたのと同時に食堂や酒場には続々と人が集まり始め、結局また別世界のような雰囲気が戻ってきてしまう。
 普段会話することのない、酒場側にいる2人との交流。
 それは日々の中でのだったはず、なのだが…なんとそれから夾はことあるごとに『小柄で童顔の男』やその連れの男に話しかけられるようになっていった。
 夾がいつもより少し早い時間に食堂へ行くと、大概酒場の方には『小柄で童顔の男』か『平凡な体格の男』のどちらかがいて、彼らは夾の姿を見つけるなり すすっと食堂との境目に来ては挨拶や取り留めのない話をして去っていくのだ。
 それは毎日というわけではなかったが、少しずつでもそうしたことを繰り返していれば自然と相手の事を知るようになっていくものであり、やがて彼らの関係はただの『顔見知り』から『友人』と言えるまでのものになっていく。
 『小柄で童顔の男』は名(というよりも愛称)を【琥珀こはく】といい、『平凡な体格の男』の方は【黒耀こくよう】というのだそうだ。
 夾は2人のことをそれぞれ『琥珀さん』『黒耀さん』と呼ぶのだが、琥珀は夾のことを『コウちゃん』、黒耀は『コウ君』と呼んでいて、やはり夾はここでも弟のような立ち位置に落ち着いた。

 年齢に関しては詳しい数字を訊いていないが、どうやら琥珀は黒耀よりも5歳ほど年上らしい。
 それ自体は何ということもないだろう。
 黒耀の方がいくらかしっかり者だという印象はあるものの、琥珀にはそんな黒耀を包み込むような【年上の余裕】というべきものがあると感じられるからだ。
 しかし。
 なんと驚くべきことに、琥珀は夾の年齢を聞くなりこう言った。

「わぁ、ほとんど僕と10なんだね?なんだかもっと近い気がしてたのに。君がすごく大人びてるからそう思えたのかな」

…まさか10歳差だとは。
 とてもそうは見えない。
 どうかすれば琥珀は『夾と同い年(もしくは年下)だ』と言っても通じるだろうというくらいの容姿をしているのだ。
 だが隣にいる黒耀が否定しなかったところを見ると、それはたしかに嘘ではないらしい。
 これには夾も(人は見かけによらないな)と心の底から驚いたものだ。

 そんな2人はどちらも酪農地域住まいで、琥珀は農業地域へと虫取りなどのために借り出される鴨達の世話を、黒耀の方は農業地域に猟犬として借り出される犬達の世話をしているそうだ。
 当初、黒耀は琥珀がやけに親しげに話しているのを気にして夾に話しかけてきたとのことだったが、夾はすでに2人がであることを知っている上で接していたため、その点に関しても若干心配していたという黒耀はそれからすっかり良き友人、話し相手として打ち解けていった。
 真面目な性格をしている者同士であるため、黒耀と夾は特に親しくなるのも早かったようだ。

 依然として夾は酒場に対して近づき難い思いを持っていて、時折 琥珀や黒耀と話していると酒場の方からあの『明るい髪色をした男』による訝し気な視線が投げかけられているのも感じていたのだが、それ以上に新たな友人2人との関係はなぜかとても心地良く、会話することをあえて止めようとはせずに割り切って交流を深めていった。
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