牧草地の白馬

蓬屋 月餅

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20「天界」前編

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 【天界】の夜が始まる頃。
 牧草地の神は木々のざわめきに包まれながら落ち着かない様子を見せていた。
 何度も深呼吸をしたり、衣の形を整えるように袖を払ったり。
 傍らでそれを見ていた森の神は「緊張してるね、蒼ちゃん」とにこやかに言う。

「そわそわ しちゃって。ふふっ、なかなか見ない姿だ」
「も、森の神…」

 まるで『可愛くてたまらない』というかのようなその口ぶりに気恥ずかしくなる牧草地の神。
 森の神は「大丈夫、何も心配ないよ」とさらに微笑みかけてきた。

 牧草地の神と森の神、そして森の神の側仕えであるきょうは白馬達がかつて入っていった『転生の泉』のそばでただただ『その時』を待っていた。
 転生を終えた白馬が、【天界】へ戻ってくる『その時』を。

 以前、森の神と風の神の側仕えが戻ってきた時は大小様々な神々がこの泉のほとりに集まっていたものだが、今回は少人数での出迎えとなっている。
 森の神はあらかじめ他の神々に声をかけ、牧草地の神が白馬との再会を静かな中で迎えられるようにと取り計らってくれていたのだ。
 牧草地の神が「すみません…森の神も静かな方が良かったですよね?」と申し訳無さそうにすると、森の神は「ううん、大丈夫だよ」となにやら恥ずかしそうにした。

「僕は別に…そのあと沢山好きに過ごしたし……うん………あ、いや、僕達の時はほら、この泉を初めて使ったからね!皆が気になって当然だったんだ、だから気にしなくていいんだよ」

 あはは、と明るく笑っていた森の神だが、すぐ隣にいる梟がそっと腰に腕を回してわずかに引き寄せると、途端になんとも言えないような表情を浮かべて黙り込む。
 それは、なんだか見ているこちらまで気恥ずかしくなってくるような表情だ。
 なにやら小声で囁き合う森の神と梟は今にも熱烈な口づけでも始めてしまいそうな雰囲気を漂わせていて、気まずさを感じた牧草地の神は2人からぱっと目を逸らした。

 それから間もなくのこと。
 じっと待っていた牧草地の神は、突然泉からなにか強い力が生じたのを感じて息を呑む。
 泉からの その強い力には憶えがあった。
 牧草地の神は泉の水面から目を離さないまま、左腕にある腕輪に触れる。

「…っ!!」

 泉の水面がわずかに波打ったと見るやいなや、その波はすぐに大きくなり、感じられる力もさらに強くなっていく。
 高まる期待と緊張感。
 瞬き1つできない牧草地の神の目に、一際大きな波が映った。


 波の中心から勢いよく顔を上げて姿を現したその男は眉や睫毛に水を滴らせながら泉の中を歩き、やがて縁に辿り着くと軽々とその身を泉から抜け出させる。

 白銀に輝く長い髪。
 真白に銀の繊細な模様があしらわれた重厚な質感の衣。
 近くにいるだけで身震いしてしまうほど精錬された雰囲気。

 まさしくそれは神格を得た姿の白馬だった。

「………」

 牧草地の神は目の前に立つ白馬の姿に圧倒され、声を出すことも忘れたままじっと見つめてしまう。
 【地界】で見ていた時とはまるで別人だ。
 背格好や顔つきは同じであるのに、もはやまったく別人だと感じられる。

「蒼…様……」

 白馬は額にかかったままの髪もそのままに呆然とした様子で言った。
 深みのある、特別な何かが込められているようなその声。
 牧草地の神は弱く1度頷き、さらに続けて2度頷くと、それから大きく何度も頷いてみせた。

「蒼様…蒼様、蒼様…!!!」

 白馬は牧草地の神 目掛けて駆け出したが、すぐに濡れた衣に足を取られて躓いてしまう。
 牧草地の神はそんな白馬をしっかりと抱きとめると、自らの神力を使い、白馬の背を撫でるようにして濡れそぼった衣を乾かしてやった。
 白馬は牧草地の神にしがみつきながら「蒼様…蒼様!」と繰り返す。

「蒼様…ただいま戻りました、私…私はあなた様のもとに……」
「うん…戻ってきた、君がこの【天界】に……戻ってきたんだ……」

 牧草地の神は白馬の両頬に手を添えると、まっすぐに目を見つめながら言った。

「おかえり…本当に、よく戻ってきてくれたね」

ーーーーーーーー

 森の神達との挨拶もそこそこに、牧草地の神は白馬の手を引いて自らの屋敷へと向かう。
 しっかりと繋がれた手は牧草地の神の気分を明らかに高揚させていて、緊張もあってか口数を多くさせていた。

「久しぶりの【天界】だから戸惑うことがあるかもしれない、でも大丈夫だよ、銀!きっとすぐに居心地が良くなるから!」

 牧草地の神は機嫌よく話し続ける。

「そのうち水の神や金君ともお茶をしよう、私の屋敷に皆を招いたらいいよ!そうだ銀、金君のことが気になるよね?金君はまだ【天界】に帰ってきてないんだけど、もう明日には帰ってくるそうだから心配しないで!直接会うのはまた少し先のことになるかもしれないけど…でも君と金君がいれば賑やかで楽しいのは間違いないし、皆で集まればきっと良い時間を過ごせるよ」

 牧草地の神に手を引かれている白馬は「蒼様…金をご存知なんですか?」と驚いたように言う。

「金が誰のことなのか、ご存知なんですか?」
「うん?もちろん!水の神の側仕えの、あの白蛇殿だ。君達は【地界】でもとても仲が良かったね?【天界】にいる時とまったく同じようにしていて…ふふ、微笑ましかったよ、とても」
「え、えぇ…そう…ですね…」

 白馬はそう言いつつ、状況が理解できないというように目を瞬かせていて、ついに「その…なぜご存知なんですか?」と尋ねてきた。

「【天界】では…彼は『金』と呼ばれたことはなかったはず、でしたよね?それに私のことも先程から、『銀』と…あれは【地界】での、人間としての名だったはず…」
「うん、そうだよ。『白銀のたてがみをもつ子』、銀だよね」
「な、なぜそれを……?」

 いよいよ訳が分からないという風に小首をかしげた白馬。
 牧草地の神は振り返って白馬に真正面から向き合うと、繋いでいた白馬の手のひらを自らの頬に当てさせた。

「……っ」

 牧草地の神は微笑みながら、添えられた白馬の手のひらにそっと頬を擦り寄せる。
 喉をゴロゴロと鳴らすことはできないが、『かりん』に魄を移していたときのようにして…。

「………」

 初めはその行動の意味が分からなかったらしい白馬も、突然「ま、まさか…」と息を呑んで体を固まらせた。

「蒼様が…いや、でもそんな、まさか…」

 それでも信じられないという様子の白馬。
 牧草地の神はいよいよ愉快な気分になり、左腕に通されたままの腕輪を白馬に見せる。

「この『白い輪』に見覚えはない?」
「白い…輪……?」
「いつだったか、君は『神様からもらった首輪なの?』って言ってたね。ふふっ、これは…銀、君からもらったものなのに!」

 そこで白馬は確信したらしい。
 牧草地の神が「私はずっとそばにいたんだよ」と微笑みかけると、白馬はにわかに泣きそうな表情になって唇を噛み締めた。

「ど、どうやって……蒼様は かりんに?」
「うん、それを話すと とても長くなるんだ。だって君が転生した時から話をしなくちゃいけないからね、もう30年も前のことから話をしないと!」
「転生した時から…?」

 牧草地の神は白馬の手を取り直すと、「長い話だけど、でも聞いてくれる?」と再び歩き出した。

「早く屋敷にも君を連れて帰りたいけど、まずはこうして一緒に歩いていたいんだ。話をしながら、こうやって……」

 牧草地の神がわずかに握る手に力を込めると、白馬もそれに応えるようにそっと手を握り返した。

「…はい。蒼様のお話を、沢山聞かせてください」

ーーーーー

 2人は様々な話をしつつ、広大な【天界】の牧草地の中に佇む屋敷に帰ってきた。
 いつもとまったく同じ屋敷であるはずなのに不思議とどこか違って見えるのは、やはり隣に白馬がいるからだろうか。
 牧草地の神は感慨深げにあちこちに視線を移す白馬に、「まずは泉に入るといいよ」と沐浴を勧めた。

「【地界】での疲れも癒せるし、身を清めることができるからね」
「えっ…い、いえ、しかし!お屋敷の泉は神聖なもので…私のような者が入るわけには……」

 恐縮してそう断ろうとする白馬に、牧草地の神は「何を言うの」と眉をひそめて笑う。

「君はもう神格を得たんだよ、今や私と大して変わらない存在になっているんだ。そう、違うのは【天界】に住んでいる時間だけ。君はもう泉できちんと身を清めなければいけない神格の持ち主になっているんだから、さぁ、ほら行って!泉で身を清めなきゃ」

 牧草地の神は白馬を半ば強引に泉へと連れて行った。

 白馬にとってこの泉は牧草地の神が身を清めるための神聖なものであり、一介の側仕えである自分が、ましてやただの馬に過ぎなかった自分がそこで沐浴をするなど、考えられなかったことだった。
 1人、薄衣だけを纏って泉に身を沈めながら(いくら神格を得た身とはいえ、本当にいいのだろうか)と考えてしまう白馬。
 しかし、沐浴をしていると気分がすっきりとしていくのも事実だ。
 身が清められていくことでそれまで感じていた多少の気分の悪さも消え失せ、頭の中もはっきりとしていく。
 白馬はようやく自らが【天界】に帰ってきたのだと実感し始めていた。

「ねぇ、銀」

 長い髪を泉に揺蕩わせながらじっとなにか考え込んでいた白馬が牧草地の神の声に振り向くと、そこには気恥ずかしそうな微笑みを浮かべた牧草地の神が立っていた。

「あの…良かったら私も一緒に沐浴をして、いいかな?」
「えっ……」
「い、いや、1人の方がいいなら私は後にするよ、うん」

 そう言いつつ、「だめ…かな?」と言いたげな視線を投げかけてくる牧草地の神。
 白馬はそんな視線を受けて断れるはずもなく、「どうぞ、蒼様」と少し横に移動した。
 牧草地の神は殊の外嬉しそうに「そっか、ありがとう、それなら…」と言うと、脱いだ衣をそばの衣掛けに掛け、ほとんど下着と同等である上下揃いの薄衣だけになって白馬のすぐ横に身を沈めた。
 2人の距離はとても近く、ほとんど腕が触れ合ってしまいそうだ。
 白馬は牧草地の神に気づかれないよう、再びほんの僅かに横へ移動した。

「その…本当は1人でゆっくりさせてあげようかと思ったんだけど、でも、なんだか君と離れたらまた君がいなくなってしまうような気がして…そう思ったらどうしても一緒に沐浴をしたくなってしまったんだ。ごめんね」
「い、いえ、構いませんが…」
「ふふっ、なんだかまだ信じられない、本当に君がこの屋敷に戻ってきただなんて!もしかしたらまだ君は【地界】のあの家にいるんじゃないかって、そんな気がしてしまうよ。君は私がただここにいると思い込んでいるだけなんじゃないかって…」

 困ったような笑い顔を浮かべる牧草地の神に、白馬は「違います、私はここにいます」とはっきり言った。

「私はここに、蒼様のおそばに戻ってきたんです。夢なんかじゃ、思い込みなんかじゃありません」

 白馬の瞳はまっすぐに牧草地の神を捉えていて、その真剣さは嘘偽りのない真実をこれ以上ないというほどに伝えてくる。
 それと同時に、牧草地の神は白馬の瞳が『あけび』でも『やまもも』でも『かりん』でもなく、まさに自分に向けてのものであることが感じられて頬をほころばせた。

「そうだね…本当に君はここに戻ってきたんだ。私はこの日をずっと待ち続けてきた、あけびや やまもも、かりん達と一緒に……」

 感慨深さが押し寄せてきてしみじみとする牧草地の神だが、それとは反対に白馬は「蒼様…お辛かったでしょう?」と表情を強張らせる。

「蒼様が魄を移していたのに……あの子は、やまももは一体どうして…やまももがそんな事になって、蒼様の御体は無事だったんですか?どこか辛いということは……」
「ううん、体はなんともないよ。魄も大丈夫。随分と悲しみはしたけどね…」

 狼狽える白馬の頬にそっと触れながら、牧草地の神は「私よりも君が辛かっただろう、銀」と声をかける。

「やまももはあの時、自ら狼に身を差し出したんだよ。私はただ なす術もなくその様子を見ていることしかできなかった。だけど何も知らない君はもっと辛くてたまらなかったよね?やまももは自ら進んであの狼にその身を捧げたんだ。決して君が悪いわけではなかったんだよ、銀」
「……」
「あのね、銀。やまももは最後に言っていたんだ、『また会いましょう』と。…どんな形になるかは分からないけど、きっといつかまたあの子にも会えるはず。そう、きっとまたいつか会えるんだ。君がここへ戻ってきたように、いつかあの子達にも会える」 

 そっと目を閉じ、牧草地の神は白馬の肩に頭を預けた。
 『かりん』だった時、白馬に甘えていたのと同じようにして。
 【地界】では膝に乗るのと、横に寝そべるのが精一杯の触れ合いだったが、今は手を繋ぐことも、こうして肩に頭を預けることもできる。
 隣に立って歩幅を同じに歩くことも、自由に言葉を交わすことも。
 なんだってすることができるのだ。
 牧草地の神はそのまま白馬の肩に頬を擦り寄せた。

(あぁ…本当に、心が安らぐ……)

 白馬の体を巡る神力は心地よいぬくもりをもたらしていて、【地界】で感じていたものとまったく同じそれは牧草地の神に深い癒やしをもたらしている。

泉に湧き出している水の音。
草木のざわめく音。
衣掛けに掛けた2人分の衣が擦れ合う軽やかな音。

 あまりにも穏やかな夜のおかげで、まるで星の瞬く音までもが聴こえてくるようだ。

 牧草地の神はそのすべてを感じ取りながらうっとりとした気分に浸っていた。

「あの…蒼、様?」
「うん…?」

 白馬の声に反応した牧草地の神が顔を上げると、すぐそこには白馬の美しく、凛々しい横顔があった。
 『かりん』として何度も眺めてきたその横顔。
 牧草地の神は(銀だ…本当に銀が横にいる)とにわかに嬉しさが立ち込めてきて、そっとその頬に鼻先をくっつけた。

「……っ!」

 びくりとしてわずかに身を引いた白馬。
 牧草地の神は「あっ…ごめんね」と肩をすくめて微笑む。

「もうずっとこうしてきていたから、つい…かりんに魄を移していた時のクセがまだ抜けていないみたいだ」

 くすくす笑う牧草地の神に、白馬は「い、いえ…」とぎこちなく答えた。

「そう、ですよね…蒼様はずっと私のそばに居てくださったんですよね」
「うん、そうだよ、銀。君が8歳になる頃から私はそばにいた。君はどんな時も愛してくれたね、あけびも やまももも、かりんも。沢山撫でて、声をかけてくれた。私はとても嬉しかった、きっとあの子達もそうだったよ」

 白馬の顔を見つめていると『器達』との懐かしい日々が鮮明に思い出され、牧草地の神は嬉しく、楽しくてたまらない気持ちだ。

どんな時も優しく見つめてくる瞳。
柔らかく、心地の良い声を響かせる唇。
『器』の体や額に口づけをする度、唇と同じように触れてきた鼻先。

 そのどれもが今、牧草地の神の目と鼻の先にある。
 美しく光り輝くようなその肌と瞳は牧草地の神の視線を強く捉えて離さない。
 まるで時が止まったかのように言葉もなく見つめ合っていると、白馬の長い前髪が一房はらりと落ちて瞳を覆い隠した。
 転生前よりも輝きを増したその銀の髪はとてもしなやかで、牧草地の神はその触り心地の良さまでも味わうかのようにして前髪をそっと指先で除けるとそのまま手のひらで白馬の髪を撫でる。
 
「蒼…様…」

 白馬のほとんど消え入りそうな声。
 牧草地の神は柔らかく笑いながら「お返しだよ、銀」とさらに頭を撫でた。

「君は私をこうしてたくさん撫でてくれたから。かりんとして私にできることは身を擦り寄せることだけだったけど…今はこうして同じように撫でてあげることができる。ほら、こうやって……」

 白馬の手つきを思い出しながら頭を撫で続ける牧草地の神だったが、白馬がそっと身を引いたことでその手を止めた。
 白馬のその動きが自らを避けたように思えた牧草地の神は「あ…嫌、だった?」と苦笑いを浮かべて謝る。

「ごめん、馴れ馴れしかった…よね」
「いえ…あの、そうでは…なくて…」
「ううん、いいんだ、いいんだよ。その、私はずっと君のそばにいたけどこうして触れることはできなかったから…つい、うん」

 そこはかとなく漂う気まずさから、牧草地の神は「そうだ、撫でるといえば」とつい口数多く話し始めた。

「君は『かりんが眠るまで撫でていたい』って言ってよく夜半まで撫で続けたりしてたよね?さっき話したように、魄を抜け出さない限り『器』のかりん達は眠ることがないから、君がそんな風に言った時はいつもどうしようかと思ってたんだ。このままこうしていたいけど、君は かりんが眠るまで頑として撫で続けるだろうから…君が眠れなくなってしまうと思ってね。そうそう、君はあけびのことを覚えてる?ふふっ、あけびは……」
「蒼様」

 白馬の静かな声は水面に投げた1つの石のように、波紋を広げながら牧草地の神の口を閉ざさせる。
 シン、とした中で白馬は「蒼様は…私のことを『銀』とお呼びになりますね」とどこか遠くの一点を見つめたまま言った。

「先程から…私を、銀…と」

 牧草地の神は「うん、そうだね」と頷いて答える。

「私が君に会いに行った時、君は人々から『銀』と呼ばれていたから。それでいつしか私も君を銀と呼ぶようになったんだ、もう君が8歳の時からずっとだよ。『白銀のたてがみの子』って、まさに君らしくてとてもいい名前で…」
「私は…私は『銀』では、ありません…!!」

 一瞬木々のざわめきが大きくなった後、牧草地の神の言葉を遮った白馬はさらに「私の名は銀ではありません」とはっきり言った。

「私の名は『ハク』です。白馬のハク。『美しい白の馬体をしている白馬の中の白馬だ』『君をハクバと呼ぼう』、そう蒼様が仰ったじゃありませんか。蒼様につけていただいたこの『白馬』という名こそ、私の名です。銀ではありません、銀なんかじゃありません」

 突然の言葉に思わず呆然とする牧草地の神だが、白馬はさらに項垂れるようにして「一体私は…蒼様にとっての、何になってしまったんでしょうか」と続ける。

「親しい友人ですか、兄弟ですか、それとも飼い主ですか。一緒に時を過ごしていた かりん達が姿を変えた蒼様であると気づかなかった私は…この30年で一体、蒼様の何になってしまったんでしょうか」

「私はあの日から変わっていません、想いも何1つ変わらずそのままです。人間としての30年は私であって私ではなかったようなもので、私にとっての蒼様は泉に入る前のあの一時ひとときと同じなんです。あの一時のことを…蒼様は覚えていらっしゃいますか?私にはつい昨日のことのようです。やっと蒼様と…想いが同じだと、思えたのに……それなのに、今のあなた様はこんな…薄い衣だけの姿で………」

 白馬の横顔は枝垂れた髪によって完全に隠されていて、少しも表情を伺うことができない。
 牧草地の神はそんな白馬をじっと見つめながら胸を締め付けられるような思いになると同時に気づいた。

 そうだ。
 牧草地の神は何度も白馬の姿を見ていたが、白馬にとってはあの泉での別れ以来、まさに30年ぶりの再会なのだ、と。
 白馬にとっては『あけび』は『あけび』、『やまもも』は『やまもも』、『かりん』は『かりん』であり、それは牧草地の神との時間ではなかった。
 さらに【地界】と【天界】での暮らしも別物だったのだ。
 それを、いつしか牧草地の神は忘れ去ってしまっていた。

「ハ…ハク……?」

 牧草地の神はそう声をかけながらそっと白馬の肩に手を添えると、髪に隠された表情を伺おうと覗き込む。
 すると、白馬はなんとも悲しげに眉をひそめ、潤んだ瞳をしていた。
 牧草地の神はたまらず「ごめん、その…」となんとか喉から声を出す。

「名前は…本当に君によく似合う名前だと思ったから…そう呼ぶようになっただけなんだよ。君も小さい頃に『この名前が好きだ』と言っていたから…」
「それでも…私はハクです」
「…うん、そうだね」

 白馬は顔を上げると「蒼様」とまっすぐに牧草地の神の瞳を見た。

「蒼様が私を『銀』と呼ぶ度…その度に蒼様が誰か私ではない別の者を見ているようで……辛いんです」
「そんなこと…私には君しかいないのに」
「そうでしょうか…これだけ時が経ったんですよ。私はこの月日の間、蒼様がどう過ごされていたのかを知りません……」

 そっぽを向きながら唇を尖らせた白馬。
 牧草地の神はそんな白馬の両頬に手を添えて自らの方を向かせると「もう…どうして分からないの?」と囁いた。

「私が【地界】に…『器』に魄を移してまで行ったのは、君に逢いたかったからなのに」
「……」
「ねぇ、ハク……」

 微笑みかける牧草地の神だが、白馬の方は微笑みとは違った表情を浮かべている。
 燃えるような熱をその瞳に宿し、ただじっと真正面から牧草地の神を見つめているのだ。

「蒼様…」

 白馬の手のひらが牧草地の神の頬に手を添えられると、そこから白馬の体を巡る神力の熱が感じられる。
 熱い眼差しと、手のひらと、声。
 牧草地の神は突然緊張して身を固くした。

 白馬が【天界】に戻ってくるのを待つ間、なんとなく感じていた期待感と緊張感の正体を、牧草地の神はようやくそこで悟る。

(これ、は……あの時と…同じ……)

 それは白馬が泉に向かう直前の、初めての口づけを交わしたあの一時のことだ。
 そっと顔を近づけ合い、瞳を閉じ、唇だけの感覚に身を任せたあの時。
 牧草地の神はどこか心の奥底で白馬が戻ってきたらあの時と同様の、いや、それ以上のものがもたらされると感じ取っていたのだ。
 【天界】の時間にすれば60年という、決して短くない日々を乗り越えた今。
 2人を隔てるものは何もない。

「……」

 気づけば鼻先が触れ合うほど近づいていた。
 間近で見つめ合う瞳にはもはや互いの姿しか映っていない。
 そっと瞳を閉じ、わずかに顔を上げた牧草地の神がその唇にたしかな感触を感じたのはそれからすぐのことだった。

 柔らかでありながらも、はっきりとした形の唇。
 触れ合ったところからは白馬の身を巡る迸るような神力が牧草地の神に流れ込み、なんとも不思議な快感をもたらす。
 それはどんなに香り高い酒や茶にも勝るほど素晴らしく、甘露だ。
 さらにそれを求めるかのように、牧草地の神は手を白馬の頬から首筋、背へと移していく。
 互いの体を擦り、互いの唇を食み、互いの舌を絡め、まるで口内のすべてを舐め尽くすかのように。
 ちゅくちゅくという触れ合いの音に泉の水の涼やかな音が加わるのも、実に耳に心地良い。
 互いへの欲求はとどまるところを知らず、口づけは激しく深さを増すばかりだが、どれだけそうしていたとしても結局それは満足には程遠いものだ。
 しばらくしてようやく僅かに顔を離したところで、牧草地の神は白馬にありったけの力で抱きつきながらその耳元に囁いた。

「おかえり…おかえり、ハク……」
「蒼様……」

 白馬も負けじと牧草地の神を抱きしめ返しながら「戻ってまいりました」と万感の思いを込める。

「蒼様のおそばへ……蒼様のハクは戻ってまいりました」

 もはや2人は一瞬たりとも離れ難い。
 白馬は牧草地の神を何度も抱きしめ直すと、さらに熱い吐息と共に囁いた。

「蒼様……このまま、蒼様のねやへ………よろしいですか」

 耳たぶに白馬の唇が触れた牧草地の神は思わず身を震わせながら、「もちろん…」と何度も頷いて応える。

「そうして、お願い……ハク………」

 牧草地の神が言い終わるやいなや、白馬は牧草地の神の背と膝裏に腕を回し、軽々と横抱きに抱えあげて泉から上がった。

ーーーーーーーー

 屋敷の廊下を牧草地の神を抱えたまま行く白馬。
 自らと牧草地の神の濡れそぼった薄衣や髪を身の振り一つで完全に乾かしてしまった白馬の神力は相当なものであり、さらにそれをすでに自在に操れるとは驚きだ。
 しかし、今ここにはそんな事を気に留める者はいない。
 牧草地の神は白馬の腕の中で 信じられないほどの胸の高鳴りに心を震わせていた。
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