熊の魚

蓬屋 月餅

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番外編

『温泉』前編

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「熊~お疲れ。おばさん達が淹れてくれたお茶、ここに置くよ」
「うん、ありがとう。君は?君も一休みしたら?」
「おぉ、そのつもりで来たんだ。熊と一緒にと思ってさ」

 昼時を過ぎ、食事をしていた人々がいなくなった食堂では穏やかな休み時間が訪れる。
 好きな場所で好きに茶を淹れ、好きに菓子を焼くなどしながら話をするこの時間は誰にとっても癒やしの時間だ。
 思い思いに過ごすため、話し声だけを聴きながら手芸などをしている人もいる。
 彼と『熊』は調理場の近くの席に腰を下ろし、そろそろ新しい冬物の衣を仕立ててもらおうかと話す。

「熊のあの上着、去年まではなんとか繕いながら着てたけど…もう生地が傷んでるんだよ。寒さが厳しくなる前に新しくしよう」
「うん、君のもね。あと、冬履も使えるか見ておかないと」
「あぁ…そうだな、冬履もか」
「もうそんな季節なんだね、ついこの間仕舞った気がするのに」
「そうだなぁ、衣替えしたばかりな気がするよな。…はぁ、また熊の寝起きが悪くなる季節が来るのか」

 彼は椅子の背もたれに寄りかかりながら何気なく会話をしているように見えるものの、机の下で組まれた足は『熊』に絡みついて締め付けたり擦ったりと忙しなく動いている。
 彼はわざとこうしているのではない。
 もはや彼の習慣、癖と化しているようなもので、それに慣れきっている『熊』も時折足を動かして応えてやっている。
 
「ごめんください…」

 食堂の扉が細く開き、1人の男が申し訳無さそうな声音と共に顔をのぞかせた。
 手芸で手元に目を落としている者以外の瞳が一斉に注がれ、男は僅かに怯みながら食堂の中へと歩を進める。

「あぁ、酪農地域の。どうしたのよ、何か用?」
「やぁどうも、久しぶり。いや、折り入って頼みがあってね…」
「あら、めずらしい。そんなにビクビクしないで言ってみなさいな、地域は違えど、食堂で働く者同士じゃないの」

 男は酪農地域にある食堂で腕をふるう料理人で、彼も『熊』と共に漁業地域へ魚を受け取りに行く際などに顔を合わせたことのある人物だ。
 女性達からすぐそばにある椅子を勧められるものの、男は「いや、このままでいいよ」と断る。

「いや…そう、食堂で働く者同士として頼みがあるんだ、うん。だからぜひ聞き入れてもらいたいんだけどね…」
「だから何なのってば、はっきり言いなさいよ」
「その…急で すまない、明日なんだが俺らのところで祝い膳を作るんだ、それで…」

 男は「あの2人に手伝ってもらいたいんだ」と酷く申し訳無さそうに言った。
 食堂にあるすべての瞳が彼と『熊』に注がれる。
 彼は突然話題の中心にあげられ、「俺ら?」と目を瞬かせた。

「そう、君達2人に」
「なんでまた…」
「実はうちの食堂にいる若いやつらが季節の変わり目だからか体調を崩してね…祝い膳を作るのに体調を崩してるやつを働かせるのも良くないし、ゆっくり休ませた方が後々響かなくて済むからってことで急に人手が足りなくなったんだ」
「だからこの2人を?」
「そう。今の時期、他の地域は冬に備えて保存食の仕込みを始めたりしているから出払うこと
も多いし…なによりこの2人は働き者だって有名だからさ、何人も呼ぶよりずっといいってことになって」

(他の地域の食堂で働くなんて、滅多に出来ることじゃないから面白そうだな。それに熊も一緒だし。…でもおばさん達が良いって言うとは思えないなぁ)

 彼がそう考えていると、予想に反して女性達は「いいわよ」と答える。

「もちろん、当の本人達が良いと言えばね」
「え、そりゃあ俺…はいいけど。でも、おばさん達が大変じゃないか。大丈夫?」
「まぁ、1日くらいはなんとかなるわよ」
「そう?」
「えぇ」

 実際、彼はそういった声がかかったことを嬉しく思っていたため、女性達を心配する気持ちはあるものの、大丈夫だと言われた以上は自分の気持ちに従うことにし、「そういうことなら」と男に対して快く返事をした。
 『熊』もそれは同じだ。
 だが、そんな2人とは対象的に女性達は「だけど」と男に向き直る。

「『若いのが季節の変わり目で体調を崩した』ですって?この子達がそうなったらどうするつもりなの。ねぇ。ここから酪農地域まで、遠くまで手伝いに行くのよ?働き者だからって、この子達は体調を崩さないとでも?」
「それは…い、いや、きちんと休めるようにするから、もちろん」
「どういう風によ。まさか祝い膳を分けるだけだなんてことはないでしょうね」
「ち、違うよ!えっと…そ、そうだな…城寄りの方なんだけど、よその地域から泊まりに来た人のための家があるんだ。そこへ泊まって休めるように手配しておくよ、うん。それでどうだろう…か。1番広い温泉が一緒になってて綺麗な所なんだよ、泉質も良いし、本当に」
「へぇ…温泉が…」

 彼は男の言葉から風景を想像してみるも、これまでに温泉の湯を利用したことはあってもきちんと整備された『温泉』には浸かったことがなかった事に気がつく。

「…ですって。どう?」

 尋ねてくる女性達の後ろでは男が『頼むから…!!』と言わんばかりに両手を合わせていて、彼と『熊』は「ありがとうございます」「充分ですよ」と気遣うように声をかけた。

「良かった…!それならすぐにそう手配するから!明日の朝、いつもの食材配達の時間に馬を連れて迎えに来るよ。それで明後日の朝、また同じ時間に向こうを出よう!ただ、これから家の手配をするから…寝具がすこし薄いものしか用意できないかもしれなくて…」
「それなら大丈夫です、僕も重ねる寝具を持っていきますから」
「それなら助かるけど…荷物を増やしてしまうね、すまない」
「いえ、僕は寝具が変わると眠りが浅いので」
「ははっ…なんだと?『繊細』なやつめ…」

 彼は横目で『熊』を見やりながら、口の端に笑みを浮かべて呟く。

「それで?」
「え…それで…とは」
「今のは『お礼』でしょ、手伝いに行くあの2人への。この食堂への『見返り』は何かしら」
「この食堂への…?」
「そうよ」

 彼らが快諾したおかげで笑みを見せていた男の表情は再び緊張したものになる。

「何か…お望みのものでもあるの…かな」
「あら、こっちの望みを聞いてくれるのね、それならありがたいわ。…漁業地域が賑やかになるのってもうじきよね、今年はどれほど手に入るかしら」
「まさか…」
「えぇ、そうよ。今年1番にできる干物を確保してちょうだい、確実に。そうね、10ほど」
「じゅ…10…っ!?」

 彼はそれまで女性達に詰め寄られている男に同情していたものの、魚の干物の話になった途端に前のめりになった。
 話題に上がっている魚の干物とはその年の初冬に作られるもので、原料となる魚の捕れる量によって数が変動する貴重なものだ。
 2番、3番、と時期が少しずつずれて作られるものでもあるのだが、やはりその年の初物、1番は味わいが違う。
 彼の大好物である魚の汁物もこの干物を使って作られるもので、それが関わってくるとなればどうしても関心を抱かずにはいられない。

「さすがにそれは…5はどうだろうか、5…」
「5ですって?」
「いや、去年ここは3だったろう?それに比べたら5は…」
「あら、よくご存知だこと。そうよ、去年私達は3しか手に入れられなかった。だから2番や3番の干物が主に使ったのよ!」
「でも…どこも1番のは…」
「人気だって?奇遇ね、ここでも1番を使った料理が大人気なの」
「う…」

 女性達は怯む男にそれ以上何も語らず、全体で結託してなんとも気まずい雰囲気を作り出す。
 そうしてしばらくの逡巡の末、男は「7…」と絞り出すように口にした。

「7でなんとか…手を打ってくれないか…」

 食堂を静寂が包みこんだ後、ようやく「…いいわよ」という声が響く。

「7…ね、それで手を打ちましょう。その代わり、必ず確保してちょうだい」
「それはもちろん…言ったからには必ず。他は…他はないな?これで全部だな!?」
「えぇ。2人の事、それから干物をよろしく頼むわね」
「よし…!それじゃあ2人共!明日はよろしく!」
「あ…はい!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」

 男は晴れやかな顔つきで帰っていった。
 食堂では歓喜の声があがり、すでに食堂で提供する干物を使った料理についての相談が始まっている。

「明日…それじゃあ、おばさん達には悪いけど、行ってくるよ」
「えぇ、せっかくだからゆっくりしてきなさいね」
「だけど本当に大丈夫?」
「もうっ、大丈夫よ1日くらい!それに前から思ってたの、あなた達もどこかへ遊びに行ったらいいのにって。まったく、あなた達ときたら休みの日もそれらしい休み方をしないんだから。食堂で料理するか工房へ遊びに行くかしかしないでしょう?ちょうど良い機会だわ、手伝いではあるけど時間もあるはずだし、ゆっくりしてきなさい」
「おばさん…ありがとう」

 外へ出かけるよりも部屋や食堂の厨房にいるのを好むのは2人の性分であり、さらに言えば2人きりの時間を散々に楽しんでいるためなのだが、女性達の心遣いも温かいものだ。

「それにしても…干物を10だなんて、随分強気に話したね」
「あははっ!いやいや、まさか本当に10で首を縦に振るとは思ってないわよ!ああいう時はね、少し多めに言っておくものだわ。『どうしても5で』というならそれでも仕方ないと思ったけど、7にまであげてくれたわね。これで去年 干物を分けてくれた他の食堂にもお返しできるというものよ」
「そうよ。知らない仲じゃないんだし、あの人だって手に入るアテがあるから条件を飲んだんだわ。今年はあなた達のおかげで、美味しい冬になりそうね」

ーーーーーー

 翌日、朝の配達よりも少し早い時間に、男は2頭の馬を連れてやってきた。
 彼も幼い頃は酪農地域で遊ぶことがあったため、乗馬自体は初めてではない。
 ほんの少しだけ『熊』の手を借りながら、彼は馬に跨った。

「荷物は持ったかな…君は?それだけ?」
「あ、俺は着替えくらいなもんなんで」
「そうか、それじゃ行こう」

 男は自身の馬を歩かせながら「いやぁ本当に突然ですまないね」と何度目かの詫びを口にする。

「向こうへ着いたら食堂に寄って、それから泊まる所へ案内するよ。荷を置いたらすぐに手伝ってほしいんだけど…もし何か他に必要なものがあったら言ってくれ」
「ありがとうございます、俺らの方こそ何から何まですみません」
「いやいや、君達が手伝ってくれるというので本当に助かったんだ。城や他の厨房から運ばれてくる料理を受け取るのも、最後の仕上げも、盛り付けも…まったく、君達が承諾してくれなかったらどうなってたか」

 男は心底安堵しきって柔らかな笑みを見せた。
 昨日の緊張した表情とは打って変わったその姿に、彼は「昨日は大変でしたね」と声をかける。

「あんな…干物を7つもなんて、大変じゃないですか」
「あぁ、まぁ、大丈夫だよ。実はね、俺の従兄弟がその干物づくりの職人をやってるんだ。だから今年は去年よりも多く干物ができてるって知ってたし、なにより去年の君達の食堂に分けられた干物は本当に数が少なかったからね。あれくらいはなんとかするよ。おばさん達だって分かってるんだ、俺が多少融通を利かせることができるってことも。昨日のあれは、まぁ、正直に言って半分は茶番だったよ」

 楽しそうに笑う男につられ、彼も笑みを浮かべる。

「それなら良かったです、なんだかすごく…緊張しているように見えたもんですから」
「そりゃ緊張したさ、もちろん。あんなに沢山の人に、それも女性達に視線を向けられてみなさい、怯みもします」
「あっははは!そう、そうですよね!」

 男は気さくな人物である上に元々顔見知りだったということもあり、道中楽しく会話をしながら酪農地域へ向かう。
 作業内容についても話していると、あっという間に酪農地域にある食堂の1つへ到着した。
 ここが今日、彼と『熊』が働く場所だ。
 どの地域の食堂も主に腕をふるっているのは男性達のため、この食堂でも見受けられるのは壮年の男性ばかり。
 男性達は彼と『熊』を見るなり、「よく来てくれたね」と温かく歓迎してくれた。

「もうじき城から料理が届けられるはずだ。ちょっと忙しくなるけど、よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします。何でも言ってください、精一杯頑張りますから」
「あぁ良かった…本当にありがとう、助かるよ」
「さぁさぁ、挨拶はこれくらいにして荷物を置きに行こう、慌ただしくてすまないね」
「あっ…それじゃ、また後で」
「おう!」

 男はそれからさらに馬を歩かせ、酪農地域の端へと向かっていく。
 陸国の城へと続く並木が遠くに見えるこの辺りは、木が繁っている森のようなものが前方に見えるだけで、他にあるものといえば一面に広がる草原ばかり。
 泊まれるような所があるとは思えない場所だ。
 だが、ただ木が繁っているように見えたそこへ近付くと、隠れるようにして木の扉が建てつけられているのが分かった。

「はぁ…ちょっと遠いだろう?だけどきっと気に入ってもらえると思うんだ。馬はここに繋いで…荷物を持って中へどうぞ、軽く案内するよ」

 男に従って扉をくぐると、なんと想像していたものとは全く違う風景が目に飛び込んできた。
 『広い温泉』『綺麗な所』と聞いていたものの、民家や他の建物から離れ、周りを草原に囲まれた家は管理をするのにも手間がかかるだろうと考えていた彼はなんとなくこじんまりとした空間を想像していたのだ。
 ところが実際はどうだろう。
 仕切りが最小限に抑えられた平屋造りの空間は明るく開放感があり、調度品の木や布からは落ち着きのある深い香りが立ち込めている。
 建てられてからかなりの年数が経過しているらしく、天井、柱、床など、どの部分も美しい飴色をしていて、迂闊に触れることさえも憚られるようだ。
 庭らしき部分に面した窓は大きく、紅葉した木々やその下に茂る香草、薬草は造りものかと見紛うほどに完璧な手入れがされていて、そこから射し込む陽の光は充分すぎるというほど部屋中を照らしていた。

「すっ…ごい所ですね…」
「うん、ちょっと部屋も何もかも広過ぎるくらいだろう?ここが居間でこの左側は洗面所なんだ。それからこの奥が…」

 男が説明しながら開けたのは浴室、つまり温泉への扉だ。
 洗い場の床には板が張られているものの、他は全て石造りで、屋根も洗い場と温泉の半分ほどを覆うのみ。
 周りを囲う壁から木の板の香りが湯気に溶けたここは、開放的な露天風呂だった。

「ひ、広…い…」
「そうだろう?ここは泉質も良いんだよ。この家はね、元々酪農地域の領主が時々過ごすために作った場所だったんだ。温泉好きだったらしくてね、とにかくあちこちに拘ったものだから温泉もこの通りだ。普通の浴室みたいにすると湯気がこもって維持するのも大変だったからとか、冬の外気に当たりながら湯に浸かるのが良いんだとか、そんな感じで造られたらしい」
「そんな…御領主のものだったのに、僕達が泊まっちゃっていいんですか?」

 『熊』が尋ねると、男は扉を閉めながら「いいんだよ」と手をひらひら振って応える。

「もう何代も前の話だし、とっくに御領主方の手を離れてるんだ。これだけ立派なものだから失くすのも惜しいって俺達が管理してるんだけど、やっぱりこういうのは使ってこそだからな。なるべく人に泊まってもらえるようにしてるんだ。住むには中心から離れてて不便だし、温泉に入りに行くならもっと専用に整備されたあっちの湯治場の方へ行けばいい。そもそもこの地域に住む人らは大体自宅に温泉をひいてるからわざわざここへ来なくてもいいんだ。…ほら、君達向きの場所だろう?」

 男は微笑むと、さらに右側にある扉を開けた。

「それから、ここが寝室。これね、寝台が1つしかないんだ。さっきも言ったけど、当時の領主が装飾にこだわった結果、寝台がこんなに大きなものになったらしくて。…さっきの居間にも寝台として使えるのがあるし、まぁ、どれでも好きなのを使ってくれて構わないから。寝具はもっと冬向けのを用意できたら良かったんだけど…間に合わなくてすまない、そこに重ねてあるから、好きな所に広げて使ってくれ」

 中央に置かれた大きな寝台の傍らには寝具が積まれている。
 まだまだ冬用のものを用意するには早い時期のはずだが、食堂の女性達に「体調を崩させるな」と言われていることを気にしているためか、薄めの寝具が何枚も重ねられていて、彼はかえって申し訳ない気になってしまう。

「こんな綺麗な所をありがとうございます、気を遣わせてしまったみたいで…」
「そんな礼儀正しくしなくていいんだよ、こっちがお願いしたんだから。手伝ってもらうのもここに泊まってもらうのも、お礼を言うのはこっちなんだ。…だから、おばさん達によろしく言っといてくれよ、な」
「それはもちろん、もちろんですよ」

 手伝いの時間が迫っていることもあり、2人は荷物を置いて早々に家を出た。
 彼はあんな場所で一晩を過ごせるということが未だに信じられず、食堂へ向かいながら何度も後ろを振り返る。

(俺らの食堂も古いけど、あの家も相当歴史がありそうな…そういえば、さっきおじさんが『代々管理してる』って言ってた。ってことは…もしかして)

「あの、代々あの家を管理してるんですよね?」
「うん、そうだよ。俺も親父から引き継いでるんだ」
「それじゃ、おじさんは生まれも育ちも酪農地域…ですね?」

 彼は意を決して自らの姉の名と年齢を男に伝えた。
 もう何年も顔を合わせず、連絡すらも取り合っていない姉。
 だが同じ地域に滞在する以上、一言か二言だけでも会って話をする機会があるかもしれないと彼は密かに期待して尋ねていた。

「漁業地域から酪農地域に嫁へ来たはず…なんですけど、知りませんか」
「さぁ…どうだったかな、聞いたような覚えはあるけど。おふくろなら知ってるかもしれないから、後で聞いてみるよ」
「あ…ありがとうございます」

 もし姉と会えたなら。
 そう思うと、再会を期待する気持ちや懐かしさ、嬉しさ、そして少しの緊張が彼の胸に溢れ出していた。

ーーーーーー

 祝い膳は領主や地域の長老の祝い事に振る舞われる特別な料理だ。
 主役となる1品は貴重な肉を使う上に調理法も複雑であるため、必ず城で研鑽を積む料理人達によって作られるが、それ以外の副菜は地域にある食堂がそれぞれ1品ずつ担当して作ることになっている。
 地域のほぼ全員に振る舞われる料理の量は、食堂が作るいつもの量よりも遥かに多い。

「斜向かいの食堂から1品届きました、こっちの出来てるやつを渡してもいいですか?」
「おぅ、頼む!」
「これ、刻んでおきました。野菜が足りなくなりそうですね、さっき追加で届いたやつも切っていいですか」
「助かるよ、そうしてくれ!」
「おっ…と危ないな…ここの仕上がってる鍋は一旦避けときますよ」

 他の食堂から届いた料理を受け取り、代わりにここで作られた料理を渡していくと、次第に食堂の中は祝い膳の献立が出来上がっていく。
 彼と『熊』も度々工芸地域で体験している作業であり、基本的にその内容は変わらない。
 そのため、忙しさはあるもののある程度の余裕を持って動くことができた。

ーーーーーー

 昼時には祝い膳を求めてやってきた人々に1品ずつ配膳し続け、2人がようやく一息つけたのはとっくに昼を過ぎた頃だった。

「お疲れ!ほら、これは2人の分の祝い膳だ、召し上がれ」
「わぁ…ありがとうございます」

 落ち着きを取り戻した食堂の中、2人は席について自分達のために用意された祝い膳を口にする。
 この祝い膳のためだけに使われる肉の味は何度味わっても感動を覚えるほどで、午前中から昼過ぎまで働き続けた身体に優しく染み渡っていった。

「本当にありがとうな、兄ちゃん達!働き者だっていうのは本当だな、いつもと違う食堂じゃ動きづらかったろうに、大活躍だったぞ」

 食堂の男性達から褒められてくすぐったくなった彼は「お役に立てて何よりです」とかしこまる。

「どうりで工芸地域が2人を離さないわけだ。俺達だってずっと手伝ってもらえたらって思ったもんな」
「あっはははっ!それ、おばさん達が聞いたら…」
「そうだよ、こうして手伝いに来てもらうのだけでも交渉するのに大変だったんだから」

 外で大鍋を洗っていた男が帰ってきて女性達と話をしたときの様子を話すと、男性達は愉快そうに声を上げて笑った。

「まったく、誰かもう1人連れて行けば良かったな。俺だけあんな目に遭うなんてさ」

 男はやれやれというように頭を振ると、鍋を厨房に置いて2人の方を振り返る。

「2人はもう休んでいいよ、あとは俺達でできるからさ」
「え、でも…」
「せっかくここまで遠出したんだ、羽を伸ばせっておばさん達も言ってたんじゃないか?ゆっくり温泉にでも浸かったらいいさ。…あ、そうだ、今そんだけ食べたら夕食が曖昧になっちゃうだろ?あの家の裏にある源泉は卵を茹でたり蒸したりって簡単な調理ができるんだよ、この食堂にあるものなら何でも持って行っていいからさ、夜食にしていいよ」

 それを聞いた彼が輝く目を『熊』に向けると、『熊』は「ありがとうございます」と男に頭を下げた。

「それじゃお言葉に甘えて…明日の朝の分と少し、いただいていきます」
「おう、祝い膳の残りのおかずもいいからな。それと、さっき話した件なんだけど…おふくろと親父に聞いてみたよ」

 男の言葉に、彼は体に緊張がはしるのを感じながら「どう…でしたか」と尋ねる。

「何年か前に娘を連れて酪農地域を出ていった人がそんな名前だったって言ってた。ちょうど歳もそれぐらいみたいだ」
「え、出ていった…?」
「旦那さんを亡くして身寄りがなかったらしい。1人娘も体が弱くて、その子の療養も兼ねて別の地域へ行ったんだと。農業地域に行ったはずだって」
「そうですか…」
「捜せば見つけられると思うけど、行き先を調べてみようか?」
「あ…い、いえ、大丈夫です。ちょっと気になってただけなんで」
「そうか?まぁ、俺も気にしておいてみるよ。もしかしたら顔を合わせてたかもしれないからな」

 彼は「わざわざありがとうございました」と丁寧にお礼を言った。

ーーーーーー

「はぁー!美味かったね、熊!忙しいけど楽しかったし、泊まるのはあんなに綺麗な所だし、その上感謝までされてさ…ほんと、来てよかったよ」

 彼は馬に揺られながら満面の笑みを浮かべて話す。
 祝い膳を食べ終えていくつか食材を選んだ2人は、男が後で馬を引き取りに来ると言うので先にあの家へ向かうことにした。
 道はほとんど真っ直ぐで、遠くまで広がる草原に吹き渡る風の香りと音、風景を堪能しながらゆったりと歩を進める。

「本当に…良かったの?」
「うん?」
「お姉さんのこと、捜してもらわなくて。会いたかったんでしょ?」

 2人の馬の鞍から革の軋む音が辺りに響く。
 彼は「…うん、いいんだ」と明るく言った。

「もしかしたら会えたりするかなぁとは思ってたけど、『何が何でも会わないと』っていうわけじゃないからさ。気恥ずかしいっていうのかな、別に改まって話すこともないし、うん。俺に姪っ子がいるってのはなんか不思議な感じがするけど…酪農地域よりは農業地域の方が距離は近いんだし、そのうちどっかで会うこともあるよ、きっと。ある程度大きくなってから別れたから、お互いの顔を見りゃ分かると思うしさ」

 『熊』はそれでもなにか言いたげな表情をしていて、彼は「いいんだってば」と笑いながら背を叩く。

「なんだよ、もしかして熊の方が姉ちゃんに会いたかったのか?」
「……」
「俺の姉ちゃんがどんな人なのか気になるんだ、そうだろ?あっはははっ!俺と姉ちゃんさ、俺らはあんまり似てないと思うんだけど、よく周りから『似てる』って言われてたんだ。だから熊が俺の姉ちゃんに会って一目惚れでもしちゃったら困るなぁ、俺は姉ちゃんに嫉妬しなきゃならなくなる」
「僕は君しか見てないよ、分かってるでしょ」
「でも俺とそっくりだったらどうする?」
「そんなの関係ない」
「あっははは!そっかそっか、そうだね、熊!」

 前の方に家の目印でもある、あの森のような木々が見えてきた。
 後で馬を引き取りに人が来る以上、家の中で『熊』とくっついている訳にもいかないと考えた彼は「なぁ、熊!」と呼びかける。

「俺さ、熊が馬で駆けるのを見たことないだろ。だから今、見せてくれないか?ちょっとでいいから!見てみたいんだよ、俺」

 『熊』は彼の方を振り返ると「いいよ」と微笑みながら近付いてきた。
 食堂からもらってきた食料を彼に託した『熊』は「見てて」と声をかけ、馬の腹を軽く蹴って優雅に駆けだす。
 馬を操るその姿はとても軽やかで、たとえ遠くに離れていたとしても目を奪われてしまうだろう。
 円を描いたり、直線を駆けたり。
 彼には馬と一体となっている『熊』が心底楽しそうな表情をしているのがよく分かり、ついそれにつられて笑みを浮かべた。

(はぁ…本当に、どうしてそんなにかっこいいんだよ、熊…俺はもうこれ以上ないってくらいお前のことが好きなのに、こんな姿を見たらそれでも足りなかったんだと思っちゃうんだ。俺を捕らえて放さない熊め、お前ってやつは本当…本当に…!!)

 いつの間にか空には茜が差し始めている。
 爽やかな風と草や木々の香り、美しく色付く空に愛する人。
 何ものにも代え難い風景がそこには広がっていた。
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