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2章
4「俺はここにいるよ」
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「ん…寒っ…」
掛け具を無意識に肩まで引っ張り上げた彼は、それからしばらくして目を覚ました。
真正面では『熊』がすぅすぅと寝息をたてていて、その規則正しい音が安らぎを与えてくれる。
(あ…熊よりも早く目が覚めたのは初めてだ。こいつ、起き上がるのは時間かかるけど、いつも俺より早く起きてるんだよな)
彼が『熊』の肩にも掛け具を引っ張り上げてやると、身じろぎをした『熊』の首元がちらりと見えた。
それが今は寝間着に覆われているあの白くて滑らかな肌を思い出させる。
(昨日の熊は本当に…すごく綺麗だった。こんな綺麗な人が俺を好きだなんて、なんか信じられないな…でも熊は本当に俺のことが好きなんだってよく分かる。俺はこいつのものだし、こいつは俺のものなんだ…)
彼は『熊』の胸元に顔を近付け、呼吸で胸が動く度に寝間着の中から香る香りと暖かな空気を存分に味わう。
「……おはよう…」
「おはよう、熊…起こしたか?」
「ん…いや…」
彼が顔をあげると、眉根を寄せてなんとか目を開けようとしている『熊』の姿があった。
「なぁ熊、お前…大丈夫か?痛むだろ?その…尻が」
「いや…朝ごはんの仕込みはしてあるよ…」
「…お前、話が噛み合ってないぞ。起きたばかりでまだぼーっとしてるんだな」
ん、とだけ呟いて『熊』は彼を抱きしめてくる。
彼は背中と肩をさすって温めてやりながら『熊』が完全に目を覚ますのを待った。
「俺…あんな風になったことがないからさ、今のお前がどれだけ辛いかとか分かんないんだよ。あんまり辛いようなら、今日は食堂に行かないほうがいいんじゃないか?体調を崩してるって言っておこうか、本当のことだし」
「いや…別にどこも痛くないから大丈夫。あの後からよく寝たし…あれ?今日って…」
「どうした?」
ーーーーーー
「え、泊まり込み?」
「そうよ。…あら、聞いてなかった?」
「うん。まぁ、最近は特にバタバタしてたから」
2人が初めての夜を過ごした翌日、彼は食堂の女性達からこの数日間の予定を聞かされた。
陸国は年の瀬が迫る時分になっている。
この食堂ではこれから数日間、依頼してきた人々の分の保存がきく料理を山のように拵えなければならないというのだ。
何時間も火につきっきりになる必要があるものや、夜の内に乾燥させなければならないものなどもあるため、多くの人が1階の食堂で数日寝泊まりをするのだという。
(熊!なんで言わなかったんだ?前から話してくれてたら、俺だって昨日あんなことは…)
(…忘れてた)
(忘れてた?毎年のことなんだろ?)
(そうだけど…今年は君と一緒だから)
(く、熊…)
彼はその言葉が嬉しかった。
彼自身、まさか今年の年の瀬をこんな風に過ごすとは夢にも思っていなかったのだ。
それほどに日々を新鮮な気持ちで過ごしている彼だが、『熊』のその言葉はこの新たな生活を『熊自身』も新鮮に感じているのだと気付かせる。
2人はただ別々の人生を同じ場所で過ごしているのではない。
これまでとは違う新たな人生を、2人一緒に歩んでいるのだ。
そう感じられることが、彼はとても嬉しかった。
その嬉しさを充分に噛みしめた後、彼は「あっ!でも、そうか…」と突然わざとらしく言う。
(残念…それじゃ、しばらく『アレ』はお預けってことだな)
その声は幾分か甘さを含んでいた。
ーーーーーー
「こ、これ全部…?」
「そうよ!大変だけど、皆でワイワイやればすぐに終わるわ!」
「いや、でもこれ……」
彼は続々と運ばれてくる食材や調味料の量に目をみはる。
中にはすでに地域で加工されてから運ばれてくるものもあるが、それらにも水につけて戻したりするといった下準備が必要だ。
膨大な食材の下拵えと同時進行で行われる調理。
その慌ただしさは尋常ではない。
「こっち、一杯になりそうよ」
「こっちも」
「あっ、今取りに行くよ」
「ありがとう、それならそっちのまだ手を付けてないやつも持ってきてくれる?」
「わ、分かった」
彼は大きな桶を抱え、下拵えをしている女性達と調理場の間を何度も往復する。
食材が一杯に入っている桶はかなりの重さで、彼は落としてしまわないよう慎重に、それでいてなるべく早く運べるようにと気を遣いながらあちこちを動き回った。
『熊』も荷を運んだり、沢山の具材が入った鍋を焦げないように何度も底から一気にかき混ぜるなどして、全身の力を使って働いている。
「…疲れた?少し休んだほうがいいよ」
「まぁ、少し…でも俺よりも熊の方が疲れてるだろ?ずっと立ちっぱなしじゃないか」
「僕は慣れてるから」
「そうは言ってもさ…」
「今日だけじゃないんだから、休憩をしっかりしないと。明日からが辛くなる」
『熊』の言う通り、この忙しさは翌日以降も続いた。
ひたすら食材や道具を運ぶことで得た疲れは凄まじく、夜には寝台に横になるだけで泥のように眠ってしまう。
だがそれは『熊』も同じで、お互いを気遣いながらもなんとか1番慌ただしいといわれる日を超えた。
「はぁ…なんとか今年も仕上がってきたわね。もうあんなに沢山の下拵えが必要なものはないし、少し楽になるわ」
「あぁ…良かった…」
「ふふ、あなたが来てくれて本当に良かった」
「とても助かったわ」
「本当にね、ありがとう」
彼は女性達から労いの言葉をかけられて気恥ずかしそうにする。
食堂の女性達の中には老年期に差し掛かっている人もいて、毎年この時期に腰を痛めることもよくあったそうだが、それが今年はなかったのだという。
それは彼の働きのおかげに他ならない。
「もう一働きだけしてくれたら、美味しいものを作ってあげるわよ」
「まだ運ぶものが?」
「ううん、そうじゃなくて」
「やっぱり『あれ』は力のある人が作る方が美味しいのよね」
「『あれ』って…?」
女性達の意図するものを知らずに困惑している彼を見て『熊』が優しく微笑んでいると、そこへあの姪っ子の叔母が申し訳無さそうにやってきた。
「ねぇ、悪いんだけど…少し足りないのがあってね、酪農地域までちょっと行ってきてほしいの。いいかしら」
「うん、何をもらってくればいい?」
「ありがとう、これなんだけど…」
『熊』は手渡された紙切れに目をやると「行ってくる」と外へ出る支度をする。
「熊、外へ行くのか?」
「うん」
「俺も行こうか?」
「いや、今日は特に冷え込んでるし、君はここで『あれ』を作って待ってて」
「『あれ』ってなんだよ、俺だけが知らないじゃないか…?」
女性達が『あれ』の支度を賑やかに始める中、『熊』は彼に「すぐ帰ってくるから」と伝えて外に出た。
ーーーーーー
「よぉ!どうした、何を取りに来た?」
「こんにちは。これなんですけど…」
酪農地域でいつも食堂まで配達してくれている壮年の男性に会った『熊』は、預かってきた紙切れを渡してすぐに用意できそうかと尋ねる。
「おぉ、これならちょうど今さっき予備分が…これと、これだな。荷車を用意しようか?」
「大丈夫です、持てます」
「おぅ、さすがだな!気をつけて帰れよ」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあな!」
幸いすぐに頼まれていたものを受け取ることができ、『熊』は意気揚々と食堂の方角へと足を向けた。
(帰ったら僕も手伝ってあげよう。『あれ』はたしかに力を込めて捏ねないといけないから大変なんだよね)
だがその時、「よぉ」という威圧的な声が聞こえてきた。
無視して立ち去ろうかと思うものの、その声は引き留めるように続く。
「なぁ、お前だよ。ちょっとこっち来て話そうぜ」
「……」
その声は酪農地域と鉱業地域の間にある家畜通路から聞こえてくる。
心の奥底から湧き上がってくる怒りを抑えながら、『熊』は通路の裏の方へと向かった。
「やっと見つけた。俺、あんたをずっと捜してたんだ」
「……」
「まぁ、あんたっていうより『あいつを』だけどな」
「何の用だ」
「おいおい、そんな冷たくすんなよ。ちゃんと話をするのは初めてだし、『同じもの』を好きなんだからさ。仲良くしようぜ」
『熊』は相手に冷ややかな視線を向ける。
それは鉱業地域で彼に乱暴をはたらいていた『例の男』だった。
「まずはそれ、置いたらどうだ?」
「長く話をするつもりはない」
「ははっ!本当に冷たいなぁ、それも力自慢のつもりか?あんたの力はもう知ってるよ。あの時、俺らを散々にしてくれたもんな。…ったく、同じ男だってのによくあんなことができるな?もう使いものにならないんじゃないかと…」
薄笑いを浮かべながら話す男に、『熊』はもう一度「何の用だ」と冷たく言い放つ。
「はぁ…まぁいいや。急いでんならこっちもさっさと話をしてやるよ。なぁ、『あいつ』を返せ」
「……」
先程までのヘラヘラとした姿とは異なり、男は射るような眼光を見せる。
威圧的、挑発的なその目は、まるで食べかけの獲物を掠め取られ、ひどく気を立てている獣のようだ。
「俺達、あれからずっと捜してたんだぜ?あいつをどこに隠したんだ?」
「……」
「独り占めするほどあいつが可愛くなっちゃったのか。まったく、いつの間にねぇ…悪いけど、あいつは俺たちが育ててきたみたいなもんなんだからさ、俺らも寂しいわけ。返してくれよ」
何も言わずに男の目を冷たく見据える『熊』。
そのうち男はため息をつき、持っていた何かを薄笑いで差し出した。
「あいつのものがすっかりなくなってたけど、本当に全部なくなったと思ってるのか?これは何だと思う?」
「……っ!」
「お、広げなくても分かったのか?」
『熊』は男の持つものに見覚えがあった。
その色や汚れ具合は彼の…。
「そうだよ!あんたが拐っていった時、あいつは真っ裸だっただろ?これを『忘れ物だよ』って届けてやらなきゃいけないと思ってさ!」
「……」
「あの日はさすがに俺らもやりすぎたよ。だけどさ、あんたが来るまで本当に最高な気分だったんだ。俺がこれを脱がせた時のあいつを思い出すと今でも…」
『熊』が男の手から彼の衣を奪い取って言葉を切らせると、男は肩をすくめて「俺には返させないわけね」とおどけて言った。
「…もう二度と関わってくるな」
「はぁ、怖いなぁ」
『熊』がその場を去ろうと踵を返すと、男はさらに「あんたって見かけによらないな」と呼びかけてくる。
「優しそうだけど、実はそうでもないんだな。あいつがいなくなったら、俺達は別を捜さなきゃならないんだぞ?」
「……」
「あいつの代わりに誰かがなるんだ。その代わりになったやつに悪いと思わないか?」
「…君達には代わりがいるのか」
「あ?」
振り返った『熊』は怒りと悲しみとが混ざった瞳を男に向けた。
「僕には代わりがいない」
ーーーーーー
「はぁ、はぁっ…」
『熊』は中央広場を行き交う人混みの中をあちこち縦横無尽に歩き回り、わざと食堂から遠く離れている漁業地域の方へ向かう。
息が切れるのも、抱えている荷物の重さにも構わない。
沢山の人の間を抜け、漁業地域と農業地域の中を通りながら遠回りをして食堂の方へ帰る。
(「あんなとこで着てた衣なんか、着る気にならないな」)
男から奪い取った彼の衣は、道の途中で暖をとるために焚かれている火の中へ放り込み、完全に燃え尽きるのを見届けてからさらに歩く。
全身の神経を張り詰め、誰も自分の後をついてきていないのを何度も確認しながら食堂へ帰り着いた。
「あっ、熊!遅かったな、大丈夫だったか?ちょうど今捏ね終わったところで…」
「……」
食堂の中はとても賑やかだ。
彼は女性達に教えられるまま捏ねていた生地から手を離すと、帰ってきたばかりの『熊』に話しかける。
だが、荷物を置いた『熊』は彼を一瞥すると、返事もなく2階への階段を上がっていってしまった。
「…俺、もう手を洗ってきていい?」
「えぇ、いいわよ。あとは私達に任せて少し休んで!出来上がったらまた声をかけるわ」
「ありがとう!酪農地域に頼んでたもの、そこに届いてるから!」
彼は女性達に声をかけると、手を拭いながら足早に『熊』の後を追う。
「熊?なぁ、熊…っ!!」
明らかに様子がおかしかったことを心配しながら階段を上がると、すぐに彼は『熊』に強く抱きしめられた。
「く、熊、もうちょっと部屋の扉の方まで行こう、ここだと誰かが少しでも階段を昇ってきたら見えちゃうよ」
「…」
「な?もう少し、もう少しだけ」
抱きしめられたままなんとか移動した彼は、強張っている『熊』の背をさすりながら「熊?どうしたんだ、何があった?」と囁くように尋ねる。
「随分取り乱してるな、大丈夫、落ち着けって」
「……」
「体が冷えてるな…外は寒かっただろ?俺、頑張って生地を作ったからさ、出来上がったら一緒に食べよう」
「……」
「大丈夫か?ほら、ゆっくり息をして…」
きつく抱きしめられすぎて息がし辛いものの、彼は何度も背をさすって『熊』の呼吸が落ち着くのを待つ。
「…僕から、僕から離れないで」
「うん、俺は熊のそばにいるよ」
「絶対に離れないで」
「分かった、そばにいる」
「1人で外に行かないで、お願いだから」
「うん、行かないよ。俺はお前と一緒じゃないとどこにも行かない」
怯えているようなその姿には、いつもの悠然とした雰囲気はまったく感じられない。
どういうわけか、体までもが一回りも、二回りも小さくなったように見える。
「熊…俺はここにいるよ、大丈夫。ほら、お前をキツく抱きしめてるし、口づけもする…大丈夫、落ち着いて…」
彼は『熊』の肩や首筋に何度も口づけながら、背をさすり続けた。
階下から声がかかるまで、そうして2人はずっと抱き合ったままだった。
彼が捏ねた生地は切られて麺になり、良い香りの出汁の中でよく煮えている。
それは食堂の人達と2人を体の芯から温めた。
掛け具を無意識に肩まで引っ張り上げた彼は、それからしばらくして目を覚ました。
真正面では『熊』がすぅすぅと寝息をたてていて、その規則正しい音が安らぎを与えてくれる。
(あ…熊よりも早く目が覚めたのは初めてだ。こいつ、起き上がるのは時間かかるけど、いつも俺より早く起きてるんだよな)
彼が『熊』の肩にも掛け具を引っ張り上げてやると、身じろぎをした『熊』の首元がちらりと見えた。
それが今は寝間着に覆われているあの白くて滑らかな肌を思い出させる。
(昨日の熊は本当に…すごく綺麗だった。こんな綺麗な人が俺を好きだなんて、なんか信じられないな…でも熊は本当に俺のことが好きなんだってよく分かる。俺はこいつのものだし、こいつは俺のものなんだ…)
彼は『熊』の胸元に顔を近付け、呼吸で胸が動く度に寝間着の中から香る香りと暖かな空気を存分に味わう。
「……おはよう…」
「おはよう、熊…起こしたか?」
「ん…いや…」
彼が顔をあげると、眉根を寄せてなんとか目を開けようとしている『熊』の姿があった。
「なぁ熊、お前…大丈夫か?痛むだろ?その…尻が」
「いや…朝ごはんの仕込みはしてあるよ…」
「…お前、話が噛み合ってないぞ。起きたばかりでまだぼーっとしてるんだな」
ん、とだけ呟いて『熊』は彼を抱きしめてくる。
彼は背中と肩をさすって温めてやりながら『熊』が完全に目を覚ますのを待った。
「俺…あんな風になったことがないからさ、今のお前がどれだけ辛いかとか分かんないんだよ。あんまり辛いようなら、今日は食堂に行かないほうがいいんじゃないか?体調を崩してるって言っておこうか、本当のことだし」
「いや…別にどこも痛くないから大丈夫。あの後からよく寝たし…あれ?今日って…」
「どうした?」
ーーーーーー
「え、泊まり込み?」
「そうよ。…あら、聞いてなかった?」
「うん。まぁ、最近は特にバタバタしてたから」
2人が初めての夜を過ごした翌日、彼は食堂の女性達からこの数日間の予定を聞かされた。
陸国は年の瀬が迫る時分になっている。
この食堂ではこれから数日間、依頼してきた人々の分の保存がきく料理を山のように拵えなければならないというのだ。
何時間も火につきっきりになる必要があるものや、夜の内に乾燥させなければならないものなどもあるため、多くの人が1階の食堂で数日寝泊まりをするのだという。
(熊!なんで言わなかったんだ?前から話してくれてたら、俺だって昨日あんなことは…)
(…忘れてた)
(忘れてた?毎年のことなんだろ?)
(そうだけど…今年は君と一緒だから)
(く、熊…)
彼はその言葉が嬉しかった。
彼自身、まさか今年の年の瀬をこんな風に過ごすとは夢にも思っていなかったのだ。
それほどに日々を新鮮な気持ちで過ごしている彼だが、『熊』のその言葉はこの新たな生活を『熊自身』も新鮮に感じているのだと気付かせる。
2人はただ別々の人生を同じ場所で過ごしているのではない。
これまでとは違う新たな人生を、2人一緒に歩んでいるのだ。
そう感じられることが、彼はとても嬉しかった。
その嬉しさを充分に噛みしめた後、彼は「あっ!でも、そうか…」と突然わざとらしく言う。
(残念…それじゃ、しばらく『アレ』はお預けってことだな)
その声は幾分か甘さを含んでいた。
ーーーーーー
「こ、これ全部…?」
「そうよ!大変だけど、皆でワイワイやればすぐに終わるわ!」
「いや、でもこれ……」
彼は続々と運ばれてくる食材や調味料の量に目をみはる。
中にはすでに地域で加工されてから運ばれてくるものもあるが、それらにも水につけて戻したりするといった下準備が必要だ。
膨大な食材の下拵えと同時進行で行われる調理。
その慌ただしさは尋常ではない。
「こっち、一杯になりそうよ」
「こっちも」
「あっ、今取りに行くよ」
「ありがとう、それならそっちのまだ手を付けてないやつも持ってきてくれる?」
「わ、分かった」
彼は大きな桶を抱え、下拵えをしている女性達と調理場の間を何度も往復する。
食材が一杯に入っている桶はかなりの重さで、彼は落としてしまわないよう慎重に、それでいてなるべく早く運べるようにと気を遣いながらあちこちを動き回った。
『熊』も荷を運んだり、沢山の具材が入った鍋を焦げないように何度も底から一気にかき混ぜるなどして、全身の力を使って働いている。
「…疲れた?少し休んだほうがいいよ」
「まぁ、少し…でも俺よりも熊の方が疲れてるだろ?ずっと立ちっぱなしじゃないか」
「僕は慣れてるから」
「そうは言ってもさ…」
「今日だけじゃないんだから、休憩をしっかりしないと。明日からが辛くなる」
『熊』の言う通り、この忙しさは翌日以降も続いた。
ひたすら食材や道具を運ぶことで得た疲れは凄まじく、夜には寝台に横になるだけで泥のように眠ってしまう。
だがそれは『熊』も同じで、お互いを気遣いながらもなんとか1番慌ただしいといわれる日を超えた。
「はぁ…なんとか今年も仕上がってきたわね。もうあんなに沢山の下拵えが必要なものはないし、少し楽になるわ」
「あぁ…良かった…」
「ふふ、あなたが来てくれて本当に良かった」
「とても助かったわ」
「本当にね、ありがとう」
彼は女性達から労いの言葉をかけられて気恥ずかしそうにする。
食堂の女性達の中には老年期に差し掛かっている人もいて、毎年この時期に腰を痛めることもよくあったそうだが、それが今年はなかったのだという。
それは彼の働きのおかげに他ならない。
「もう一働きだけしてくれたら、美味しいものを作ってあげるわよ」
「まだ運ぶものが?」
「ううん、そうじゃなくて」
「やっぱり『あれ』は力のある人が作る方が美味しいのよね」
「『あれ』って…?」
女性達の意図するものを知らずに困惑している彼を見て『熊』が優しく微笑んでいると、そこへあの姪っ子の叔母が申し訳無さそうにやってきた。
「ねぇ、悪いんだけど…少し足りないのがあってね、酪農地域までちょっと行ってきてほしいの。いいかしら」
「うん、何をもらってくればいい?」
「ありがとう、これなんだけど…」
『熊』は手渡された紙切れに目をやると「行ってくる」と外へ出る支度をする。
「熊、外へ行くのか?」
「うん」
「俺も行こうか?」
「いや、今日は特に冷え込んでるし、君はここで『あれ』を作って待ってて」
「『あれ』ってなんだよ、俺だけが知らないじゃないか…?」
女性達が『あれ』の支度を賑やかに始める中、『熊』は彼に「すぐ帰ってくるから」と伝えて外に出た。
ーーーーーー
「よぉ!どうした、何を取りに来た?」
「こんにちは。これなんですけど…」
酪農地域でいつも食堂まで配達してくれている壮年の男性に会った『熊』は、預かってきた紙切れを渡してすぐに用意できそうかと尋ねる。
「おぉ、これならちょうど今さっき予備分が…これと、これだな。荷車を用意しようか?」
「大丈夫です、持てます」
「おぅ、さすがだな!気をつけて帰れよ」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあな!」
幸いすぐに頼まれていたものを受け取ることができ、『熊』は意気揚々と食堂の方角へと足を向けた。
(帰ったら僕も手伝ってあげよう。『あれ』はたしかに力を込めて捏ねないといけないから大変なんだよね)
だがその時、「よぉ」という威圧的な声が聞こえてきた。
無視して立ち去ろうかと思うものの、その声は引き留めるように続く。
「なぁ、お前だよ。ちょっとこっち来て話そうぜ」
「……」
その声は酪農地域と鉱業地域の間にある家畜通路から聞こえてくる。
心の奥底から湧き上がってくる怒りを抑えながら、『熊』は通路の裏の方へと向かった。
「やっと見つけた。俺、あんたをずっと捜してたんだ」
「……」
「まぁ、あんたっていうより『あいつを』だけどな」
「何の用だ」
「おいおい、そんな冷たくすんなよ。ちゃんと話をするのは初めてだし、『同じもの』を好きなんだからさ。仲良くしようぜ」
『熊』は相手に冷ややかな視線を向ける。
それは鉱業地域で彼に乱暴をはたらいていた『例の男』だった。
「まずはそれ、置いたらどうだ?」
「長く話をするつもりはない」
「ははっ!本当に冷たいなぁ、それも力自慢のつもりか?あんたの力はもう知ってるよ。あの時、俺らを散々にしてくれたもんな。…ったく、同じ男だってのによくあんなことができるな?もう使いものにならないんじゃないかと…」
薄笑いを浮かべながら話す男に、『熊』はもう一度「何の用だ」と冷たく言い放つ。
「はぁ…まぁいいや。急いでんならこっちもさっさと話をしてやるよ。なぁ、『あいつ』を返せ」
「……」
先程までのヘラヘラとした姿とは異なり、男は射るような眼光を見せる。
威圧的、挑発的なその目は、まるで食べかけの獲物を掠め取られ、ひどく気を立てている獣のようだ。
「俺達、あれからずっと捜してたんだぜ?あいつをどこに隠したんだ?」
「……」
「独り占めするほどあいつが可愛くなっちゃったのか。まったく、いつの間にねぇ…悪いけど、あいつは俺たちが育ててきたみたいなもんなんだからさ、俺らも寂しいわけ。返してくれよ」
何も言わずに男の目を冷たく見据える『熊』。
そのうち男はため息をつき、持っていた何かを薄笑いで差し出した。
「あいつのものがすっかりなくなってたけど、本当に全部なくなったと思ってるのか?これは何だと思う?」
「……っ!」
「お、広げなくても分かったのか?」
『熊』は男の持つものに見覚えがあった。
その色や汚れ具合は彼の…。
「そうだよ!あんたが拐っていった時、あいつは真っ裸だっただろ?これを『忘れ物だよ』って届けてやらなきゃいけないと思ってさ!」
「……」
「あの日はさすがに俺らもやりすぎたよ。だけどさ、あんたが来るまで本当に最高な気分だったんだ。俺がこれを脱がせた時のあいつを思い出すと今でも…」
『熊』が男の手から彼の衣を奪い取って言葉を切らせると、男は肩をすくめて「俺には返させないわけね」とおどけて言った。
「…もう二度と関わってくるな」
「はぁ、怖いなぁ」
『熊』がその場を去ろうと踵を返すと、男はさらに「あんたって見かけによらないな」と呼びかけてくる。
「優しそうだけど、実はそうでもないんだな。あいつがいなくなったら、俺達は別を捜さなきゃならないんだぞ?」
「……」
「あいつの代わりに誰かがなるんだ。その代わりになったやつに悪いと思わないか?」
「…君達には代わりがいるのか」
「あ?」
振り返った『熊』は怒りと悲しみとが混ざった瞳を男に向けた。
「僕には代わりがいない」
ーーーーーー
「はぁ、はぁっ…」
『熊』は中央広場を行き交う人混みの中をあちこち縦横無尽に歩き回り、わざと食堂から遠く離れている漁業地域の方へ向かう。
息が切れるのも、抱えている荷物の重さにも構わない。
沢山の人の間を抜け、漁業地域と農業地域の中を通りながら遠回りをして食堂の方へ帰る。
(「あんなとこで着てた衣なんか、着る気にならないな」)
男から奪い取った彼の衣は、道の途中で暖をとるために焚かれている火の中へ放り込み、完全に燃え尽きるのを見届けてからさらに歩く。
全身の神経を張り詰め、誰も自分の後をついてきていないのを何度も確認しながら食堂へ帰り着いた。
「あっ、熊!遅かったな、大丈夫だったか?ちょうど今捏ね終わったところで…」
「……」
食堂の中はとても賑やかだ。
彼は女性達に教えられるまま捏ねていた生地から手を離すと、帰ってきたばかりの『熊』に話しかける。
だが、荷物を置いた『熊』は彼を一瞥すると、返事もなく2階への階段を上がっていってしまった。
「…俺、もう手を洗ってきていい?」
「えぇ、いいわよ。あとは私達に任せて少し休んで!出来上がったらまた声をかけるわ」
「ありがとう!酪農地域に頼んでたもの、そこに届いてるから!」
彼は女性達に声をかけると、手を拭いながら足早に『熊』の後を追う。
「熊?なぁ、熊…っ!!」
明らかに様子がおかしかったことを心配しながら階段を上がると、すぐに彼は『熊』に強く抱きしめられた。
「く、熊、もうちょっと部屋の扉の方まで行こう、ここだと誰かが少しでも階段を昇ってきたら見えちゃうよ」
「…」
「な?もう少し、もう少しだけ」
抱きしめられたままなんとか移動した彼は、強張っている『熊』の背をさすりながら「熊?どうしたんだ、何があった?」と囁くように尋ねる。
「随分取り乱してるな、大丈夫、落ち着けって」
「……」
「体が冷えてるな…外は寒かっただろ?俺、頑張って生地を作ったからさ、出来上がったら一緒に食べよう」
「……」
「大丈夫か?ほら、ゆっくり息をして…」
きつく抱きしめられすぎて息がし辛いものの、彼は何度も背をさすって『熊』の呼吸が落ち着くのを待つ。
「…僕から、僕から離れないで」
「うん、俺は熊のそばにいるよ」
「絶対に離れないで」
「分かった、そばにいる」
「1人で外に行かないで、お願いだから」
「うん、行かないよ。俺はお前と一緒じゃないとどこにも行かない」
怯えているようなその姿には、いつもの悠然とした雰囲気はまったく感じられない。
どういうわけか、体までもが一回りも、二回りも小さくなったように見える。
「熊…俺はここにいるよ、大丈夫。ほら、お前をキツく抱きしめてるし、口づけもする…大丈夫、落ち着いて…」
彼は『熊』の肩や首筋に何度も口づけながら、背をさすり続けた。
階下から声がかかるまで、そうして2人はずっと抱き合ったままだった。
彼が捏ねた生地は切られて麺になり、良い香りの出汁の中でよく煮えている。
それは食堂の人達と2人を体の芯から温めた。
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