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2章
1「俺…汚れきってるんだ」
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いつの間にか雨が降り出していたらしい。
道を叩く雨音とバシャバシャという激しい足音だけが響く中、彼は自らを担いでいる人物の背をぽんぽんと叩いて声をかける。
「く、熊ちゃん、熊ちゃん。ちょっと休まない?俺、頭がずっと下だからクラクラする…」
人物はふと足を止めると注意深く彼を横抱きにし、ほとんど抱きしめるようにして再び走り始める。
その腕は優しくて柔らかいというのにどういうわけかとても力強く、彼が顔をあげようとするのを一切許さなかった。
ようやく降ろされた彼が自らを覆っていた布から顔を出すと、そこは見慣れない浴室だった。
湯桶の蓋の隙間からは湯気がたちのぼっていて、雨によって冷えた体をふんわりと包み込む。
「まずは体を温めて。湯が痛むなら少し冷ましたのを持ってくる」
「あ…いや、大丈夫だよ…うん…」
彼が答えると、『熊』は足早に浴室を出ていった。
随分と長いこと運ばれていたため、おそらくここはあの食堂の辺りなのだろうと見当がつく。
彼は覆っていた1枚の布から抜け出すと、かけ湯用の湯桶から手桶1杯分の湯を汲んで裸の体にゆっくりとかけた。
後ろの穴がひりつく以外には湯が当たって気になるところはない。
湯を被ってから丹念に口を濯ぎ、自ら中へと指を挿し込んで塗り広げられた白濁を掻き出していく。
穴のひりつきが増すのも構わず、彼は何度も何度も穴へ指を挿し込み、その全てを取り除いていった。
ーーーーーー
途中で浴室の外に置いてあると声をかけられていた一揃いの衣は『熊』のもので、袖を通すとあの優しい香りが胸いっぱいに染み渡る。
浴室を出た彼が辺りを見渡していると、2階の方から呼ぶ声がした。
「こっちへ」
「あ…うん…」
階段を昇ってすぐ、扉の開かれた広い部屋の中に『熊』は いた。
中央の机の上には湯気の立つ汁物一椀とお茶が用意されていて、『熊』は彼に椅子へ座れるかと尋ねてくる。
「椅子…うん、大丈夫」
「……」
彼の返答を聞いた『熊』はすぐさまあちこちから柔らかな質感のものをかき集めてくると、これでもかと椅子に敷き詰めて彼を座らせた。
「何か食べたほうがいい。…僕は湯を浴びてくるから、ゆっくりしてて。熱いから気をつけて、急がず食べて。そのお茶も。洗面所はこっちにある、なんでも好きに使っていいから」
彼が頷くと、『熊』は少しも音を立てないよう、ゆっくりと部屋の扉を閉めて出ていった。
外の雨の音は一層激しくなっている。
彼が匙で汁物の具をつつくと良い香りがした。
あまり食べる気にはなっていなかったものの、その香りと『食べて』という『熊』の言葉に押されて一口飲み込む。
すると、夕飯を口にしていなかったこともあり、急に空腹感が芽生えた彼は一口、また一口と汁物を胃におさめていった。
汁物を食べ終え、お茶もすっかり空になったところで『熊』は帰ってきた。
少しも音を立てないように、と慎重に扉を開けるその姿は、まるで警戒心の強い野生動物の近くへ寄っていくかのようだ。
「…もう少し、食べる?」
「ううん、大丈夫。…ごちそう…さま…」
「うん」
『熊』は濡れた髪を浴布で静かに拭うと、部屋の奥の方にある寝台に向かい、すでにきちんとなっている寝具を動かしたり、また元の位置に戻したりと意味があるような、ないような動きをする。
彼はそんな『熊』の背中に「熊ちゃん…さ」と声をかけた。
「なんで…あの場所が分かったの?」
彼の問いに動きを止めた『熊』は、少しの間の後で彼の方を振り返り、慎重に口を開いた。
「…少し早めに約束の場所へ行ったんだ。だけど君は来なくて…嫌な感じもしたし、捜しに行こうとした」
ーーーーーーーーーー
『熊』は一向にやって来る気配のない彼を心配して捜しに行こうとしたものの、入れ違いになることを恐れて近くを動き回ることしか出来ずにいた。
陽が傾いていくにつれて不安は大きくなり、彼の家に行ってみようかと考えていたところで偶然話し声が聞こえてくる。
「なぁ、あいつら本当にヤッてんのかな?」
「まさか!あぁいうのは1対1がいいんだ、他にもいたら存分に楽しめないだろ」
「普通そうだよな?でも何人かは乗り気だったぞ、あいつらの考えることってよく分かんねぇ」
「だな、特にあいつらはイカれてるよ。…まぁ、乗り気だったんなら十中八九ヤッてんだろ、もう盛り上がってるんじゃないか?」
「えー、俺ちょっと見に行ってみようかな」
「そのまま混ざりたくなっちゃったりしてな」
『熊』は走り出していた。
辺りは暗くなり始めている上、元々人の少ない所ということもあって灯りはまばらだ。
濃くなっていく闇の中を走り、なんとか彼の家に辿り着いたものの中はもぬけの殻だった。
『熊』は息をつく間もなく、遠くの方に点々と見える灯りを目指してさらに走る。
途中で雨が降り出したものの、そんなものはどうだって良かった。
ひたすらに走り続け、彼の家から1番近く、1番灯りが大きい小屋の中で『熊』はようやく彼を見つけた。
ーーーーーーーーーー
「早く…もっと早く君を捜しに行くべきだったんだ…本当に…本当にごめん…」
項垂れる『熊』になんと声をかければいいのか分からず、彼は「…どうやって俺を連れ出したんだ?」と再び尋ねた。
「あんなにいたのに…どうやって…」
「…少し腕を捻ったりした。どうやって追ってこられないようにしたかは聞かないほうが良い」
「あ…うん…」
聞かないほうが良い、という言葉に冷ややかなものを感じた彼は、かえって何をしたのかと気になる。
だが、そんな彼に『熊』は「こっちへ」と極めて優しく声をかけ、寝台の方へと呼び寄せた。
「嫌かもしれないけど…とにかく少し横になって休むんだ」
「うん…」
「ゆっくりでいいから」
寝台のそばで待つ『熊』を見て、彼は先ほどから感じていた違和感の正体に気づく。
『熊』は彼をここに連れてきて以降、一定の距離を保って一度も彼に近付こうとしていないのだ。
彼が寝台のそばまで行ってもそれは同じで、近付いたと思ったらわざとらしく掛け具に手をかけて寝台の端へと行ってしまう。
彼は寝台に腰掛けると、俯いてボソリと呟いた。
「…ごめんな」
彼は胸の奥底からこみ上げてくるものを抑え込みながら、続けて口を開く。
「好きだって言ってくれたのに、こんなザマでさ…一昨日もだし…嫌われても仕方ない…」
「…嫌ってなんかない」
「いい。俺…汚れきってるんだ」
「違う」
「違わない」
「違う!」
「違わないだろ!だって、お前は俺に触れようともしない!!」
次の瞬間、『熊』は持っていた掛け具を放り出し、跪いて彼の両手を固く握りしめていた。
俯いている彼は突然目の前に現れた『熊』と包み込まれている両手の温かさに驚いて、振り払うこともせずただ呆然とする。
『熊』は握りしめた彼の両手に向かって一言ずつ絞り出すように話す。
「君は今、誰にも触れられたくないんじゃないかと思ったから…だから気を付けていたんだ…!君を嫌いになるわけがない、汚れてるなんて思ってない!そんなわけ、ない!」
それはまるで愛の告白だ。
彼はただ目を瞬かせるしかできなかった。
「こんなに傷つけられた君を、これ以上傷つけるわけにはいかない!君は一体何をされたの、その唇の他にどんな傷を負わされたの…!!」
「え…あ、これ…これは自分でやったんだよ、熊ちゃん…」
「え…」
彼は顔を上げた『熊』の真っ直ぐな瞳を見つめながら「自分でやったんだ」と改めて言う。
「正気を保たないと と思って…たとえ何をされても…心は…」
『熊』はひとしきり歯を食いしばった後、「君を…抱きしめてもいい…?」と尋ねてきた。
彼が頷くと、『熊』は彼の隣に腰掛け、ゆっくりと腕を広げて彼を包み込む。
『熊』の腕の中はとても温かくて安心感がある。
彼は『熊』の背に手を回すと、「ねぇ、熊ちゃん」と口を開いた。
「俺ね、今日、本当に熊ちゃんと一緒に出て行きたかったんだ。あんな所とはおさらばして、本気で熊ちゃんの所へ行きたかったんだよ」
彼は続ける。
「俺、沢山抵抗したんだ、抵抗したんだよ。熊ちゃんが言ったように、自分を守ろうとした。本当だよ、本当なんだ。嫌で嫌で仕方なくて、どうにか逃げようとした…だけど…だけど…」
「…うん、よくやった。よく抵抗したね、えらいよ、よくやった。身を守ろうとしてくれてありがとう、頑張ったね。早く助けてあげられなくてごめん、そんな思いをさせて本当に…本当にごめん…」
彼は今まで抑えていた胸の奥底のものをついにさらけ出し、ポロポロと大粒の涙を溢していた。
「熊ちゃん…俺を助けてくれてありがとう…すごく苦しかった…すごく辛かったよ…ありがとう…救い出してくれて、ありがとう熊ちゃん…」
彼と『熊』はこれ以上ないというほど固く抱きしめあった。
ーーーーーーーーーー
寝台とは別の場所で休もうとする『熊』に「一緒に眠りたい」と言うと、「君がいいなら」と温かな答えが返ってくる。
『熊』は彼を寝台の奥の方へ行かせ、扉の方から彼を隠すように自らの体を横たえた。
「熊ちゃん…手、握っても…いい?」
「もちろん」
彼はただ手を繋ごうというつもりでいたのだが、『熊』は両手で彼の手を包み込んでくる。
そのあまりの温かさに、ふとこれは現実なのだろうかという疑念が湧く。
「これ…現実?俺、幻覚見るくらいおかしくなってんのかな…実はまだ…まだあの小屋に…」
「大丈夫、これは現実だよ。君は本当に僕の部屋にいる、ここには僕と君しかいない。君は僕の所へ来てくれた。誓うよ、もうこれ以上誰にも君へ手出しさせない。安心して」
「そうか…うん…」
力強い瞳は、その言葉を信じさせるのに充分すぎる。
彼はあまりにも見つめられるため寝付けそうにないと思っていたが、散々涙を流した後で疲れていたらしく、気がつけば深く眠っていた。
ーーーーーー
微かに物音がして目を覚ますと、『熊』は寝台から身を起こし、身支度をしているところだった。
「どっか…行くのか…」
「…起こしちゃったね、ごめん」
「いや…大丈夫…」
寝台から起き上がろうとする彼を、『熊』は「まだ休んでいて」と止める。
「ほんの少し、ほんの少しだけ出てくる。君がここでもうひと眠りするか、もうじきあの窓から射し込んでくる陽を見ているかしている間には帰ってくるから」
「はは…本当?それ…」
「うん、食事も持ってくる。だからまだ少し横になってて」
彼が大人しく寝具に潜り込むと、『熊』は静かに部屋を出ていった。
再び静かになった部屋の中で、彼は辺りを見渡してみる。
板張りの一般的な構造をしたこの部屋は、収納や机、寝台といった必要最低限のものしか置かれていないようだ。
部屋の広さも相まって、よく片付いているというよりも物が少ないという印象を受ける。
(熊ちゃんらしい部屋…きっと料理ばっかりしてるんだ)
棚には本が並んでいるが、娯楽的な要素を含んだものは1冊も無いようで、ただ飾り気の無い背表紙が並んでいるだけだ。
彼は『熊』の匂いがする寝具に顔を埋めて深く息を繰り返す。
そうして少し経ち、すっかり眠気も覚めた彼が顔をあげると、『熊』が言っていた窓に光が射し込んできていた。
彼は寝台から起き上がり、吸い寄せられるように窓の方へ行って外を見る。
(…あ、ここってあの食堂の上なのか。熊ちゃん、食堂に住んでたんだ)
窓の下には陸国の中央広場が広がっている。
下を歩いている時とは違い、窓から眺める中央広場ははるかに広大で、規則正しく並んだ石畳がずっと遠くの方まで続いているのが見えた。
「…起き上がって大丈夫?」
彼が声の方を振り返ると、『熊』は食事を手に部屋へ入ってきたところだった。
「あ…熊ちゃん、おかえり」
「う、うん…ただいま」
『熊』は気恥ずかしそうに答え、中央にある机の上に持ってきた食事を置く。
彼が机の方へ寄っていくと、『熊』は食事の他に1つの袋を持ってきていたのに気がついた。
「熊ちゃん…その袋って…」
「…うん。君のもの、でしょ」
「そうだけど…」
その袋はあの家に置きっぱなしになっているはずの彼がまとめていた荷物だった。
どうして『熊』がそれを持っているのかと彼が不思議に思っていると、それを見透かしたように『熊』は口を開く。
「…君を捜して家に行った時にこれを見たんだ。その時は持ち出せなかったけど、君にとって必要なものがあるんじゃないかと思ったから」
「え…まさか今の時間、あの家まで行ってたのか!?そんな、いくら走ったって無理だろ、食堂とあそこじゃ距離が…」
「僕が走ったんじゃない、馬だよ。この時間ならもう何頭か貸してくれるから、それを走らせて取ってきた」
事もなげに言う『熊』に、彼は「…ありがとう」と呟いた。
「でも危ないじゃないか、あいつらに鉢合わせたりしたらどうするつもりだったんだよ。もう2度と行くな、あんな所」
「うん、行かない」
「うん…あぁ、でもせっかく熊ちゃんが持ってきてくれたのに、今まで着てた服なんか着る気にならないな。あの場所に俺のものを置きっぱなしにするのが嫌だったからまとめたんだけど…これだけ、これだけ残しておけばいいや」
彼は『熊』から受け取った袋の中に手を突っ込み、手のひらに納まるくらいの貝殻を使った飾りを取り出した。
「これ、俺が小さい頃に姉ちゃんがくれたやつなんだ。まぁ、これには悪い思い出なんてないからさ」
「うん、それは大切にしたほうがいい」
「これが今の俺の、唯一の持ち物だな」
飾りを手のひらに乗せて眺める彼に、『熊』は戸棚の空いている所を指差して「ここに置く?」と尋ねる。
彼は頷き、注意深くその飾りを戸棚の中に置いた。
「よし…ありがとう、熊ちゃん。これで俺は……俺は、あんな所から抜け出せた…抜け出せたはず…」
「うん、君はもうここへ来た。全部新しく始めていいんだ」
力強い『熊』の声に、彼は笑顔で応える。
「今、汁物も持ってくる。君は着替えて顔を洗っておいで」
「うん」
『熊』は予め用意してあった衣一式を彼に手渡し、部屋のすぐ隣りにある洗面所を案内した。
彼が衣を着てみると、胴回りの大きさは合っているものの袖や裾に少しダボつきがある。
2人の身長は、少し『熊』の方が高いくらいで大して差はないが、体の厚さを考慮した『熊』は自分の持っている衣の中でも1番大きなものを渡してきたようだ。
彼は袖や裾をダボつかせたまま部屋へと戻る。
「わぁ…朝からこんなの作れるのか?」
「うん、前の晩に仕込みをしておくから。…やっぱりそれ、少し合ってないね。動きづらそうだ」
「あぁ、まぁな」
『熊』は彼のダボついた袖を捲ってから椅子へ座らせると、お茶を淹れて彼の前に置く。
「…今日はここで休んでいるといい。皆には明日にでも挨拶すればいいから」
「いや、俺は大丈夫だよ。じっとしてるのは性に合わないし、それに…その、あんまり今は1人になりたくない…」
「…うん、それなら一緒に食堂へ行こう。体調が大丈夫そうなら、この辺りを案内してあげる。衣と靴も君にあったものを繕わないといけないから」
そうして、彼は『熊』の勧めるまま朝食を摂り、階段を下って食堂へ行った。
食堂ではすでに何人かの女性達がいて、『熊』を見るなり「おはよう」と声をかけてくる。
「…あら!来たのね!」
「え?やだ、本当だわ!まぁまぁ、いらっしゃい!」
「あらまぁ!よく来てくれたわね!」
『熊』の後ろにいた彼はすぐさま女性達に取り囲まれ、熱烈な歓迎を受けた。
彼が「あ、あの、今日からここでお世話になります」となんとか挨拶をすると、女性達は「こちらこそ!」と明るい笑い声を響かせる。
「皆さん、彼が驚くじゃないですか」
「そう、そうよね!でも私達はずっと待ってたのよ!」
「ほんとよ!あの子がここへ来てくれるって…私達はもう気になって仕方なかったんだから!」
女性達にまくしたてられている『熊』はこの状況に慣れているようで、ただ「えぇ、そうですね」と頷いている。
その姿はまるで小鳥に毛皮を突かれている、おっとりとした熊そのものだ。
(…熊ちゃん、ここだとこんな感じなんだな)
彼はくすりと笑みをこぼす。
「…とにかく、彼も今日からここで一緒ですから」
「えぇ、大歓迎だわ!よろしくね」
「はい、その…よろしくお願いします」
すると、女性達のうちの1人が彼の衣に目をつけ、「それ、ちょっと大きいのね?」と声をかけてきた。
「ねぇ、私の姪っ子が男物の仕立てもできるようになったのよ。この後ここへ来るはずなんだけど、良かったら衣を仕立てさせてみない?」
「あ、ぜひ。…でも、そんな突然で大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫!あの子達は血眼になって仕立てさせてもらえる相手を探してるのよ、逆にものすごく感謝されるはず」
彼は「はぁ…そう、ですか…?」と首を傾げた。
ーーーーーー
女性達が食材の下準備を代わってくれるというので、『熊』は彼に食堂の中を一通り案内することができた。
ここは主に、昼食と夕食を用意する場だ。
朝に食材を下準備し、日中は地域間を行き交う人へ食事を提供、夜にはそれぞれが家庭で食べる分を分配する。
中央広場の他の食堂には酒を振る舞ったりする所もあるが、ここでは主に昼食を振る舞う場として知られていた。
「運ばれてきた食材を降ろしたり移動させる他、足りなくなったらその地域まで取りに行くんだ。ここは場所柄、女の人達が多くて…」
「うん、俺に任せてよ。役に立つからさ」
「徐々にでいい、無理をしないで」
「あっははは!俺は熊ちゃんよりもヤワじゃないよ!」
「それでも…」
彼と『熊』が食堂へ戻ってくると、あの姪っ子に衣を仕立てさせてはどうかと言っていた女性が「ねぇ!姪っ子が来たわよ!」と声を上げた。
傍らにいる若い女性は包みを開き、中から前掛けを取り出して「叔母さん、これね」と手渡している。
「ありがとう。ねぇ、あんた男物を仕立てたいんだったわよね?そこの彼、衣を…」
「本当!?」
それまでいかにも大人しそうだったその姪っ子は飛び上がらんばかりに彼の方を見た。
あまりの豹変ぶりに彼が驚いていると、姪っ子は「本当!?」と再び尋ねてくる。
「あ…うん…俺、今1つも自分の衣がないんだ。だから…」
「ありがとう!私に仕立てさせてくれるわね?採寸…まずは採寸しましょう、すぐに済むから!どんな様式がいいかな、着慣れたのはどんな…」
姪っ子は持っていた鞄に手を突っ込み、ここで型紙を引き始めそうな勢いだ。
「あんた、姪っ子ながら怖いわ。彼もびっくりしてるじゃないの、まったく…ここはこれから忙しくなるの、奥の部屋でやってちょうだい」
「分かった、じゃそっちに行く」
「あ、俺…」
彼が目で「行ってくる」と言うと、『熊』は少し心配そうにしながら頷いた。
「お茶、ここに置いておくわね。あ、あんた、ここでお昼食べていくでしょ?後でここに持ってきてあげるから、一緒に食べましょう」
「ありがとう叔母さん」
「彼、ここに来てくれたばかりなの。せっかく来てくれたんだから、失礼のないようにしてちょうだいよ」
姪っ子が「うん、もちろん」と言うと、女性は彼に「ごめんなさいね」と言うかのような微笑みを残して部屋を出ていった。
「さぁ…それじゃあまず採寸するわね。少し触れるわ、ごめんなさい」
「あ…うん」
触れるとは言ったものの、姪っ子はほとんど気付かないくらい軽く押さえたりするだけで採寸を済ませていく。
その手際の良さに、彼は「慣れてるんだね」と感心して言った。
「そう?沢山練習するからかな。採寸なんかは本当に…ベタベタ触るんじゃないって何度も父さんに怒られてきた。でも、こうして褒めてもらえたのは父さんのおかげってことね。感謝しなきゃ」
「お父さん…も衣を仕立てるの?」
「うん。男物を練習したいんだって言ったら特に厳しくなって。父さんの採寸なんか手が震えるくらい緊張…あ、いや、別に今が気を抜いてるとかそういうことじゃなくて」
その言い方が面白く、彼は「分かってるよ」とクスクス笑いながら答える。
この姪っ子は大人しそうな外見にも関わらず随分と人懐っこい性格をしているようで、話をしているうちに緊張や戸惑いなどがどこかへ消えてしまう。
「はぁ…でも本当にありがとう。衣を仕立てたくても周りの人は皆もう何着も持ってるから、なかなか相手って見つからないのよ。他の子も皆そう言ってる、別の地域まで声をかけに行くこともあるくらい。私は本当に幸運だわ、男の人は特に何着もいらないって言うから」
「へぇ…君は何で男物を仕立てたいの?」
「え!?そ、それは…」
姪っ子は顔を背けながら「衣を贈りたい人が…いるからよ…」ともごもご呟く。
彼はその姿に微笑ましくなり、笑い声を上げた。
「あっははは!そっか、じゃ俺は練習台だなぁ」
「き、きちんと仕立てるわよ、もちろん!」
「うん、よろしく頼むよ。いくら練習だっていってもさ!」
クスクスと笑い続ける彼に、姪っ子は顔を赤くしながら「もう!」と採寸道具を鞄へ仕舞い込む。
「もういいから!他の話をしましょうよ、衣の形とか!ねぇ、どんな様式がいいの?希望は?」
「様式っていってもなぁ。今までこういう形のしか着たことないから、よく知らないよ。動きやすいのなら何でもいい」
「なによそれ、動きにくい衣なんか仕立てるもんですか!礼服だって最大限動きやすくするわ、まったく…それから靴!靴は、その…腕のいい職人がいるから、彼に頼んだらいいわ。すぐ工房に行きましょ」
「あ…でも、俺…」
「何?」
彼はなんとなく『熊』から離れてしまうのが嫌で、「今は…」と渋る。
「その、熊ちゃ…あいつがこの辺りを案内してくれることになってるんだよ、だから…」
「それならちょうどいいじゃない!この辺りって、どうせ工房にも寄るんでしょ?案内ついでに、ね?」
「…まったく!困らせちゃだめだって言ったじゃないの!」
部屋の扉が開き、『熊』と女性が昼食を手に入ってきた。
姪っ子は机の上を片付けつつ、「私はただ、案内ついでに工房へ来てって言っただけだもん」と女性に言い返す。
「ねぇ、この後、彼にこの辺りの案内をするんでしょ?靴職人の所にも行きましょうよ。だめなの?」
「…君はどうしたい?」
「あ、俺…俺は熊ちゃんがいいなら」
「うん、分かった。そこにも寄ろう」
「決まりね!」
「あら、だったらこの後の片付けとかは私達に任せて行ってきなさいな。ここに馴染めるように、きちんと案内してあげないとね」
女性の配慮により、昼食を食べ終えて1番の忙しい時間が過ぎてから、3人は工房の方へと向かった。
『熊』は歩きながらあちこちを案内するものの、時々落ち着かない様子で辺りを見渡している。
この行き交う人の中に、彼へ危害をくわえる者がいないかと警戒しているのは明らかだった。
(大丈夫…こんな所にはあいつらは来ないはずだ…あぁ、でも結構人が多いし、こんな中で突然掴まれて引っ張っていかれたら…そうしたら、もう俺は…)
彼はそっと『熊』の衣を掴み、少しだけ後ろに隠れるようにする。
姪っ子は2人の後ろをついて歩きながら何かをじっと考え込んでいて、心ここにあらずだ。
人の行き交う通りに面した扉を開くと、そこは工芸地域の工房の中でも木工を行う区画の所で、良い木の香りが辺り一帯に漂っていた。
その香りに少し緊張がほぐれた彼は、後ろにいる姪っ子に「ねぇ、靴職人はどこなの?」と問いかける。
「…えっ!?あ、うん、こっちよ」
「はぁ、ぼーっとしてたの?危ないなぁ」
「なによ…早く良い衣を仕立てたいからあれこれ考えてるのに!」
「分かった、分かったよ。『練習』とはいえ、仕上がりを楽しみにしてる」
「か、からかうなんて…!」
姪っ子が再び顔を赤くし、彼は笑い声を上げた。
ーーーーーー
「あれ…ちょうど出てるみたい。革の受け取りに行っちゃったかな?」
工芸地域にある広大な工房の一角にある靴職人の作業場まで来たが、そこには誰もいなかった。
姪っ子が通りがかった人に尋ねると、職人達はどうやら靴の配達や素材の調達のためにたまたま出払ってしまっているらしい。
「そっか…会えると思ったのにな…」
そう呟く姪っ子は少し寂しげで、ただ残念がっているというわけではないようだ。
だが、すぐにまた元の調子に戻って「今度、食堂まで連れて行くわね」と言った。
でもそれでは悪いよ、と断るも、なぜか姪っ子は嬉しそうに首を横に振る。
「私が話をつけておくから大丈夫。なるべく早いうちに食堂へ一緒に行くようにする」
彼はその様子にピンときて、姪っ子に声を潜めた。
「もしかして…『腕のいい職人』って、『衣を贈りたい人』?」
「ちょ、ちょっと…!!!」
「わぁ!図星だ!」
彼は『熊』の方を振り返ると、「帰ろう!」と笑顔で言った。
「靴はそこまで急いでないからさ。今度『2人』で来てくれるって言うし、任せとこう」
ーーーーーー
「なんていうか、皆面白いね!俺、1日中笑いっぱなしでほっぺたが痛いよ」
彼が『熊』の元へやってきて初めての1日が終わろうとしていた。
彼は寝る支度を整え、『熊』に話しかけながら頬をぐりぐりと揉みほぐす。
「…皆も君が来てくれてすごく嬉しそうだった。明日からはもっと笑うことになる」
「そうかな?今日よりもっとなんて、俺のほっぺた…」
その時、風によって部屋の扉がガタガタと音を立てた。
彼は反射的に身をすくめ、扉の方を見る。
(い、今の…いや、大丈夫…大丈夫、あれはただ音が…)
そう思うものの、落ち着かせようとすればするほど体は強張り、呼吸も荒くなっていく。
(風…でも、風じゃなかったら…?あいつらが…あいつらがここを見つけて、あの扉の後ろにいたら…?俺を連れて行こうと…)
「大丈夫、大丈夫だ」
彼はいつの間にか『熊』の腕の中にいた。
その温もりに意識を集中させ、どうにか自分を落ち着かせる。
「大丈夫、ゆっくり息をして。廊下の窓から風が入ったんだ、そのせいで音がしたんだよ。大丈夫だ、僕もここにいる」
ゆっくりと背中を擦られ、彼はどうにか頷いて応えた。
「ご、ごめん、熊ちゃん…俺…」
「謝らなくていい、君は謝ることなんて1つもしてない」
『熊』は彼が落ち着いてきたのを確認すると、身を離して「窓を閉めてくる」と立ち上がった。
「く、熊ちゃん、待って…」
「…一緒に行く?目で確認すれば、もっと安心できる」
「う、うん…」
彼が頷くと、『熊』は彼の手をしっかりと繋ぎ、一歩一歩扉へと近付いていく。
そっと扉の外を確認すると後ろにいた彼にも見せ、それから廊下の僅かに開いていた窓をきちんと締めた。
「大丈夫、窓は閉めた。下の食堂も全部の扉に鍵がかかってるよ、君と一緒にかけたよね。…部屋へ戻ろうか」
部屋へ戻ると『熊』は彼を寝台の縁に座らせ、机の上から水を1杯汲んで彼へと差し出す。
彼がそれを飲むのを見ながら、『熊』はそっと話し始めた。
「…せっかくの1日だったのに、最後に嫌な思いをさせた。僕がもっとしっかりしなきゃいけなかったんだ…明日からは窓も閉めておく。他に気になることはある?」
「ううん…ない。その、気を遣わせて本当に…」
「いいんだ、昨日今日でどうにかなることじゃない。…いずれ不安は消える。少しでも気になることがあれば、すぐに僕が対処するから」
『熊』は空になった杯を傍らに置き、彼を寝台に寝かせて灯りを落としに行った。
寝具の中で強張っていた体は『熊』が優しく抱きしめてきたことで柔らかくほぐれ、月明かりだけが照らす部屋の中には『熊』のゆったりとした呼吸の音だけが響いている。
(大丈夫…昨日までとは違うんだ、怯えることはない。熊ちゃんがそばに居てくれて、優しい人達も沢山いるんだから…)
彼はそのうち、ゆっくりと目を閉じた。
道を叩く雨音とバシャバシャという激しい足音だけが響く中、彼は自らを担いでいる人物の背をぽんぽんと叩いて声をかける。
「く、熊ちゃん、熊ちゃん。ちょっと休まない?俺、頭がずっと下だからクラクラする…」
人物はふと足を止めると注意深く彼を横抱きにし、ほとんど抱きしめるようにして再び走り始める。
その腕は優しくて柔らかいというのにどういうわけかとても力強く、彼が顔をあげようとするのを一切許さなかった。
ようやく降ろされた彼が自らを覆っていた布から顔を出すと、そこは見慣れない浴室だった。
湯桶の蓋の隙間からは湯気がたちのぼっていて、雨によって冷えた体をふんわりと包み込む。
「まずは体を温めて。湯が痛むなら少し冷ましたのを持ってくる」
「あ…いや、大丈夫だよ…うん…」
彼が答えると、『熊』は足早に浴室を出ていった。
随分と長いこと運ばれていたため、おそらくここはあの食堂の辺りなのだろうと見当がつく。
彼は覆っていた1枚の布から抜け出すと、かけ湯用の湯桶から手桶1杯分の湯を汲んで裸の体にゆっくりとかけた。
後ろの穴がひりつく以外には湯が当たって気になるところはない。
湯を被ってから丹念に口を濯ぎ、自ら中へと指を挿し込んで塗り広げられた白濁を掻き出していく。
穴のひりつきが増すのも構わず、彼は何度も何度も穴へ指を挿し込み、その全てを取り除いていった。
ーーーーーー
途中で浴室の外に置いてあると声をかけられていた一揃いの衣は『熊』のもので、袖を通すとあの優しい香りが胸いっぱいに染み渡る。
浴室を出た彼が辺りを見渡していると、2階の方から呼ぶ声がした。
「こっちへ」
「あ…うん…」
階段を昇ってすぐ、扉の開かれた広い部屋の中に『熊』は いた。
中央の机の上には湯気の立つ汁物一椀とお茶が用意されていて、『熊』は彼に椅子へ座れるかと尋ねてくる。
「椅子…うん、大丈夫」
「……」
彼の返答を聞いた『熊』はすぐさまあちこちから柔らかな質感のものをかき集めてくると、これでもかと椅子に敷き詰めて彼を座らせた。
「何か食べたほうがいい。…僕は湯を浴びてくるから、ゆっくりしてて。熱いから気をつけて、急がず食べて。そのお茶も。洗面所はこっちにある、なんでも好きに使っていいから」
彼が頷くと、『熊』は少しも音を立てないよう、ゆっくりと部屋の扉を閉めて出ていった。
外の雨の音は一層激しくなっている。
彼が匙で汁物の具をつつくと良い香りがした。
あまり食べる気にはなっていなかったものの、その香りと『食べて』という『熊』の言葉に押されて一口飲み込む。
すると、夕飯を口にしていなかったこともあり、急に空腹感が芽生えた彼は一口、また一口と汁物を胃におさめていった。
汁物を食べ終え、お茶もすっかり空になったところで『熊』は帰ってきた。
少しも音を立てないように、と慎重に扉を開けるその姿は、まるで警戒心の強い野生動物の近くへ寄っていくかのようだ。
「…もう少し、食べる?」
「ううん、大丈夫。…ごちそう…さま…」
「うん」
『熊』は濡れた髪を浴布で静かに拭うと、部屋の奥の方にある寝台に向かい、すでにきちんとなっている寝具を動かしたり、また元の位置に戻したりと意味があるような、ないような動きをする。
彼はそんな『熊』の背中に「熊ちゃん…さ」と声をかけた。
「なんで…あの場所が分かったの?」
彼の問いに動きを止めた『熊』は、少しの間の後で彼の方を振り返り、慎重に口を開いた。
「…少し早めに約束の場所へ行ったんだ。だけど君は来なくて…嫌な感じもしたし、捜しに行こうとした」
ーーーーーーーーーー
『熊』は一向にやって来る気配のない彼を心配して捜しに行こうとしたものの、入れ違いになることを恐れて近くを動き回ることしか出来ずにいた。
陽が傾いていくにつれて不安は大きくなり、彼の家に行ってみようかと考えていたところで偶然話し声が聞こえてくる。
「なぁ、あいつら本当にヤッてんのかな?」
「まさか!あぁいうのは1対1がいいんだ、他にもいたら存分に楽しめないだろ」
「普通そうだよな?でも何人かは乗り気だったぞ、あいつらの考えることってよく分かんねぇ」
「だな、特にあいつらはイカれてるよ。…まぁ、乗り気だったんなら十中八九ヤッてんだろ、もう盛り上がってるんじゃないか?」
「えー、俺ちょっと見に行ってみようかな」
「そのまま混ざりたくなっちゃったりしてな」
『熊』は走り出していた。
辺りは暗くなり始めている上、元々人の少ない所ということもあって灯りはまばらだ。
濃くなっていく闇の中を走り、なんとか彼の家に辿り着いたものの中はもぬけの殻だった。
『熊』は息をつく間もなく、遠くの方に点々と見える灯りを目指してさらに走る。
途中で雨が降り出したものの、そんなものはどうだって良かった。
ひたすらに走り続け、彼の家から1番近く、1番灯りが大きい小屋の中で『熊』はようやく彼を見つけた。
ーーーーーーーーーー
「早く…もっと早く君を捜しに行くべきだったんだ…本当に…本当にごめん…」
項垂れる『熊』になんと声をかければいいのか分からず、彼は「…どうやって俺を連れ出したんだ?」と再び尋ねた。
「あんなにいたのに…どうやって…」
「…少し腕を捻ったりした。どうやって追ってこられないようにしたかは聞かないほうが良い」
「あ…うん…」
聞かないほうが良い、という言葉に冷ややかなものを感じた彼は、かえって何をしたのかと気になる。
だが、そんな彼に『熊』は「こっちへ」と極めて優しく声をかけ、寝台の方へと呼び寄せた。
「嫌かもしれないけど…とにかく少し横になって休むんだ」
「うん…」
「ゆっくりでいいから」
寝台のそばで待つ『熊』を見て、彼は先ほどから感じていた違和感の正体に気づく。
『熊』は彼をここに連れてきて以降、一定の距離を保って一度も彼に近付こうとしていないのだ。
彼が寝台のそばまで行ってもそれは同じで、近付いたと思ったらわざとらしく掛け具に手をかけて寝台の端へと行ってしまう。
彼は寝台に腰掛けると、俯いてボソリと呟いた。
「…ごめんな」
彼は胸の奥底からこみ上げてくるものを抑え込みながら、続けて口を開く。
「好きだって言ってくれたのに、こんなザマでさ…一昨日もだし…嫌われても仕方ない…」
「…嫌ってなんかない」
「いい。俺…汚れきってるんだ」
「違う」
「違わない」
「違う!」
「違わないだろ!だって、お前は俺に触れようともしない!!」
次の瞬間、『熊』は持っていた掛け具を放り出し、跪いて彼の両手を固く握りしめていた。
俯いている彼は突然目の前に現れた『熊』と包み込まれている両手の温かさに驚いて、振り払うこともせずただ呆然とする。
『熊』は握りしめた彼の両手に向かって一言ずつ絞り出すように話す。
「君は今、誰にも触れられたくないんじゃないかと思ったから…だから気を付けていたんだ…!君を嫌いになるわけがない、汚れてるなんて思ってない!そんなわけ、ない!」
それはまるで愛の告白だ。
彼はただ目を瞬かせるしかできなかった。
「こんなに傷つけられた君を、これ以上傷つけるわけにはいかない!君は一体何をされたの、その唇の他にどんな傷を負わされたの…!!」
「え…あ、これ…これは自分でやったんだよ、熊ちゃん…」
「え…」
彼は顔を上げた『熊』の真っ直ぐな瞳を見つめながら「自分でやったんだ」と改めて言う。
「正気を保たないと と思って…たとえ何をされても…心は…」
『熊』はひとしきり歯を食いしばった後、「君を…抱きしめてもいい…?」と尋ねてきた。
彼が頷くと、『熊』は彼の隣に腰掛け、ゆっくりと腕を広げて彼を包み込む。
『熊』の腕の中はとても温かくて安心感がある。
彼は『熊』の背に手を回すと、「ねぇ、熊ちゃん」と口を開いた。
「俺ね、今日、本当に熊ちゃんと一緒に出て行きたかったんだ。あんな所とはおさらばして、本気で熊ちゃんの所へ行きたかったんだよ」
彼は続ける。
「俺、沢山抵抗したんだ、抵抗したんだよ。熊ちゃんが言ったように、自分を守ろうとした。本当だよ、本当なんだ。嫌で嫌で仕方なくて、どうにか逃げようとした…だけど…だけど…」
「…うん、よくやった。よく抵抗したね、えらいよ、よくやった。身を守ろうとしてくれてありがとう、頑張ったね。早く助けてあげられなくてごめん、そんな思いをさせて本当に…本当にごめん…」
彼は今まで抑えていた胸の奥底のものをついにさらけ出し、ポロポロと大粒の涙を溢していた。
「熊ちゃん…俺を助けてくれてありがとう…すごく苦しかった…すごく辛かったよ…ありがとう…救い出してくれて、ありがとう熊ちゃん…」
彼と『熊』はこれ以上ないというほど固く抱きしめあった。
ーーーーーーーーーー
寝台とは別の場所で休もうとする『熊』に「一緒に眠りたい」と言うと、「君がいいなら」と温かな答えが返ってくる。
『熊』は彼を寝台の奥の方へ行かせ、扉の方から彼を隠すように自らの体を横たえた。
「熊ちゃん…手、握っても…いい?」
「もちろん」
彼はただ手を繋ごうというつもりでいたのだが、『熊』は両手で彼の手を包み込んでくる。
そのあまりの温かさに、ふとこれは現実なのだろうかという疑念が湧く。
「これ…現実?俺、幻覚見るくらいおかしくなってんのかな…実はまだ…まだあの小屋に…」
「大丈夫、これは現実だよ。君は本当に僕の部屋にいる、ここには僕と君しかいない。君は僕の所へ来てくれた。誓うよ、もうこれ以上誰にも君へ手出しさせない。安心して」
「そうか…うん…」
力強い瞳は、その言葉を信じさせるのに充分すぎる。
彼はあまりにも見つめられるため寝付けそうにないと思っていたが、散々涙を流した後で疲れていたらしく、気がつけば深く眠っていた。
ーーーーーー
微かに物音がして目を覚ますと、『熊』は寝台から身を起こし、身支度をしているところだった。
「どっか…行くのか…」
「…起こしちゃったね、ごめん」
「いや…大丈夫…」
寝台から起き上がろうとする彼を、『熊』は「まだ休んでいて」と止める。
「ほんの少し、ほんの少しだけ出てくる。君がここでもうひと眠りするか、もうじきあの窓から射し込んでくる陽を見ているかしている間には帰ってくるから」
「はは…本当?それ…」
「うん、食事も持ってくる。だからまだ少し横になってて」
彼が大人しく寝具に潜り込むと、『熊』は静かに部屋を出ていった。
再び静かになった部屋の中で、彼は辺りを見渡してみる。
板張りの一般的な構造をしたこの部屋は、収納や机、寝台といった必要最低限のものしか置かれていないようだ。
部屋の広さも相まって、よく片付いているというよりも物が少ないという印象を受ける。
(熊ちゃんらしい部屋…きっと料理ばっかりしてるんだ)
棚には本が並んでいるが、娯楽的な要素を含んだものは1冊も無いようで、ただ飾り気の無い背表紙が並んでいるだけだ。
彼は『熊』の匂いがする寝具に顔を埋めて深く息を繰り返す。
そうして少し経ち、すっかり眠気も覚めた彼が顔をあげると、『熊』が言っていた窓に光が射し込んできていた。
彼は寝台から起き上がり、吸い寄せられるように窓の方へ行って外を見る。
(…あ、ここってあの食堂の上なのか。熊ちゃん、食堂に住んでたんだ)
窓の下には陸国の中央広場が広がっている。
下を歩いている時とは違い、窓から眺める中央広場ははるかに広大で、規則正しく並んだ石畳がずっと遠くの方まで続いているのが見えた。
「…起き上がって大丈夫?」
彼が声の方を振り返ると、『熊』は食事を手に部屋へ入ってきたところだった。
「あ…熊ちゃん、おかえり」
「う、うん…ただいま」
『熊』は気恥ずかしそうに答え、中央にある机の上に持ってきた食事を置く。
彼が机の方へ寄っていくと、『熊』は食事の他に1つの袋を持ってきていたのに気がついた。
「熊ちゃん…その袋って…」
「…うん。君のもの、でしょ」
「そうだけど…」
その袋はあの家に置きっぱなしになっているはずの彼がまとめていた荷物だった。
どうして『熊』がそれを持っているのかと彼が不思議に思っていると、それを見透かしたように『熊』は口を開く。
「…君を捜して家に行った時にこれを見たんだ。その時は持ち出せなかったけど、君にとって必要なものがあるんじゃないかと思ったから」
「え…まさか今の時間、あの家まで行ってたのか!?そんな、いくら走ったって無理だろ、食堂とあそこじゃ距離が…」
「僕が走ったんじゃない、馬だよ。この時間ならもう何頭か貸してくれるから、それを走らせて取ってきた」
事もなげに言う『熊』に、彼は「…ありがとう」と呟いた。
「でも危ないじゃないか、あいつらに鉢合わせたりしたらどうするつもりだったんだよ。もう2度と行くな、あんな所」
「うん、行かない」
「うん…あぁ、でもせっかく熊ちゃんが持ってきてくれたのに、今まで着てた服なんか着る気にならないな。あの場所に俺のものを置きっぱなしにするのが嫌だったからまとめたんだけど…これだけ、これだけ残しておけばいいや」
彼は『熊』から受け取った袋の中に手を突っ込み、手のひらに納まるくらいの貝殻を使った飾りを取り出した。
「これ、俺が小さい頃に姉ちゃんがくれたやつなんだ。まぁ、これには悪い思い出なんてないからさ」
「うん、それは大切にしたほうがいい」
「これが今の俺の、唯一の持ち物だな」
飾りを手のひらに乗せて眺める彼に、『熊』は戸棚の空いている所を指差して「ここに置く?」と尋ねる。
彼は頷き、注意深くその飾りを戸棚の中に置いた。
「よし…ありがとう、熊ちゃん。これで俺は……俺は、あんな所から抜け出せた…抜け出せたはず…」
「うん、君はもうここへ来た。全部新しく始めていいんだ」
力強い『熊』の声に、彼は笑顔で応える。
「今、汁物も持ってくる。君は着替えて顔を洗っておいで」
「うん」
『熊』は予め用意してあった衣一式を彼に手渡し、部屋のすぐ隣りにある洗面所を案内した。
彼が衣を着てみると、胴回りの大きさは合っているものの袖や裾に少しダボつきがある。
2人の身長は、少し『熊』の方が高いくらいで大して差はないが、体の厚さを考慮した『熊』は自分の持っている衣の中でも1番大きなものを渡してきたようだ。
彼は袖や裾をダボつかせたまま部屋へと戻る。
「わぁ…朝からこんなの作れるのか?」
「うん、前の晩に仕込みをしておくから。…やっぱりそれ、少し合ってないね。動きづらそうだ」
「あぁ、まぁな」
『熊』は彼のダボついた袖を捲ってから椅子へ座らせると、お茶を淹れて彼の前に置く。
「…今日はここで休んでいるといい。皆には明日にでも挨拶すればいいから」
「いや、俺は大丈夫だよ。じっとしてるのは性に合わないし、それに…その、あんまり今は1人になりたくない…」
「…うん、それなら一緒に食堂へ行こう。体調が大丈夫そうなら、この辺りを案内してあげる。衣と靴も君にあったものを繕わないといけないから」
そうして、彼は『熊』の勧めるまま朝食を摂り、階段を下って食堂へ行った。
食堂ではすでに何人かの女性達がいて、『熊』を見るなり「おはよう」と声をかけてくる。
「…あら!来たのね!」
「え?やだ、本当だわ!まぁまぁ、いらっしゃい!」
「あらまぁ!よく来てくれたわね!」
『熊』の後ろにいた彼はすぐさま女性達に取り囲まれ、熱烈な歓迎を受けた。
彼が「あ、あの、今日からここでお世話になります」となんとか挨拶をすると、女性達は「こちらこそ!」と明るい笑い声を響かせる。
「皆さん、彼が驚くじゃないですか」
「そう、そうよね!でも私達はずっと待ってたのよ!」
「ほんとよ!あの子がここへ来てくれるって…私達はもう気になって仕方なかったんだから!」
女性達にまくしたてられている『熊』はこの状況に慣れているようで、ただ「えぇ、そうですね」と頷いている。
その姿はまるで小鳥に毛皮を突かれている、おっとりとした熊そのものだ。
(…熊ちゃん、ここだとこんな感じなんだな)
彼はくすりと笑みをこぼす。
「…とにかく、彼も今日からここで一緒ですから」
「えぇ、大歓迎だわ!よろしくね」
「はい、その…よろしくお願いします」
すると、女性達のうちの1人が彼の衣に目をつけ、「それ、ちょっと大きいのね?」と声をかけてきた。
「ねぇ、私の姪っ子が男物の仕立てもできるようになったのよ。この後ここへ来るはずなんだけど、良かったら衣を仕立てさせてみない?」
「あ、ぜひ。…でも、そんな突然で大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫!あの子達は血眼になって仕立てさせてもらえる相手を探してるのよ、逆にものすごく感謝されるはず」
彼は「はぁ…そう、ですか…?」と首を傾げた。
ーーーーーー
女性達が食材の下準備を代わってくれるというので、『熊』は彼に食堂の中を一通り案内することができた。
ここは主に、昼食と夕食を用意する場だ。
朝に食材を下準備し、日中は地域間を行き交う人へ食事を提供、夜にはそれぞれが家庭で食べる分を分配する。
中央広場の他の食堂には酒を振る舞ったりする所もあるが、ここでは主に昼食を振る舞う場として知られていた。
「運ばれてきた食材を降ろしたり移動させる他、足りなくなったらその地域まで取りに行くんだ。ここは場所柄、女の人達が多くて…」
「うん、俺に任せてよ。役に立つからさ」
「徐々にでいい、無理をしないで」
「あっははは!俺は熊ちゃんよりもヤワじゃないよ!」
「それでも…」
彼と『熊』が食堂へ戻ってくると、あの姪っ子に衣を仕立てさせてはどうかと言っていた女性が「ねぇ!姪っ子が来たわよ!」と声を上げた。
傍らにいる若い女性は包みを開き、中から前掛けを取り出して「叔母さん、これね」と手渡している。
「ありがとう。ねぇ、あんた男物を仕立てたいんだったわよね?そこの彼、衣を…」
「本当!?」
それまでいかにも大人しそうだったその姪っ子は飛び上がらんばかりに彼の方を見た。
あまりの豹変ぶりに彼が驚いていると、姪っ子は「本当!?」と再び尋ねてくる。
「あ…うん…俺、今1つも自分の衣がないんだ。だから…」
「ありがとう!私に仕立てさせてくれるわね?採寸…まずは採寸しましょう、すぐに済むから!どんな様式がいいかな、着慣れたのはどんな…」
姪っ子は持っていた鞄に手を突っ込み、ここで型紙を引き始めそうな勢いだ。
「あんた、姪っ子ながら怖いわ。彼もびっくりしてるじゃないの、まったく…ここはこれから忙しくなるの、奥の部屋でやってちょうだい」
「分かった、じゃそっちに行く」
「あ、俺…」
彼が目で「行ってくる」と言うと、『熊』は少し心配そうにしながら頷いた。
「お茶、ここに置いておくわね。あ、あんた、ここでお昼食べていくでしょ?後でここに持ってきてあげるから、一緒に食べましょう」
「ありがとう叔母さん」
「彼、ここに来てくれたばかりなの。せっかく来てくれたんだから、失礼のないようにしてちょうだいよ」
姪っ子が「うん、もちろん」と言うと、女性は彼に「ごめんなさいね」と言うかのような微笑みを残して部屋を出ていった。
「さぁ…それじゃあまず採寸するわね。少し触れるわ、ごめんなさい」
「あ…うん」
触れるとは言ったものの、姪っ子はほとんど気付かないくらい軽く押さえたりするだけで採寸を済ませていく。
その手際の良さに、彼は「慣れてるんだね」と感心して言った。
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「お父さん…も衣を仕立てるの?」
「うん。男物を練習したいんだって言ったら特に厳しくなって。父さんの採寸なんか手が震えるくらい緊張…あ、いや、別に今が気を抜いてるとかそういうことじゃなくて」
その言い方が面白く、彼は「分かってるよ」とクスクス笑いながら答える。
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「へぇ…君は何で男物を仕立てたいの?」
「え!?そ、それは…」
姪っ子は顔を背けながら「衣を贈りたい人が…いるからよ…」ともごもご呟く。
彼はその姿に微笑ましくなり、笑い声を上げた。
「あっははは!そっか、じゃ俺は練習台だなぁ」
「き、きちんと仕立てるわよ、もちろん!」
「うん、よろしく頼むよ。いくら練習だっていってもさ!」
クスクスと笑い続ける彼に、姪っ子は顔を赤くしながら「もう!」と採寸道具を鞄へ仕舞い込む。
「もういいから!他の話をしましょうよ、衣の形とか!ねぇ、どんな様式がいいの?希望は?」
「様式っていってもなぁ。今までこういう形のしか着たことないから、よく知らないよ。動きやすいのなら何でもいい」
「なによそれ、動きにくい衣なんか仕立てるもんですか!礼服だって最大限動きやすくするわ、まったく…それから靴!靴は、その…腕のいい職人がいるから、彼に頼んだらいいわ。すぐ工房に行きましょ」
「あ…でも、俺…」
「何?」
彼はなんとなく『熊』から離れてしまうのが嫌で、「今は…」と渋る。
「その、熊ちゃ…あいつがこの辺りを案内してくれることになってるんだよ、だから…」
「それならちょうどいいじゃない!この辺りって、どうせ工房にも寄るんでしょ?案内ついでに、ね?」
「…まったく!困らせちゃだめだって言ったじゃないの!」
部屋の扉が開き、『熊』と女性が昼食を手に入ってきた。
姪っ子は机の上を片付けつつ、「私はただ、案内ついでに工房へ来てって言っただけだもん」と女性に言い返す。
「ねぇ、この後、彼にこの辺りの案内をするんでしょ?靴職人の所にも行きましょうよ。だめなの?」
「…君はどうしたい?」
「あ、俺…俺は熊ちゃんがいいなら」
「うん、分かった。そこにも寄ろう」
「決まりね!」
「あら、だったらこの後の片付けとかは私達に任せて行ってきなさいな。ここに馴染めるように、きちんと案内してあげないとね」
女性の配慮により、昼食を食べ終えて1番の忙しい時間が過ぎてから、3人は工房の方へと向かった。
『熊』は歩きながらあちこちを案内するものの、時々落ち着かない様子で辺りを見渡している。
この行き交う人の中に、彼へ危害をくわえる者がいないかと警戒しているのは明らかだった。
(大丈夫…こんな所にはあいつらは来ないはずだ…あぁ、でも結構人が多いし、こんな中で突然掴まれて引っ張っていかれたら…そうしたら、もう俺は…)
彼はそっと『熊』の衣を掴み、少しだけ後ろに隠れるようにする。
姪っ子は2人の後ろをついて歩きながら何かをじっと考え込んでいて、心ここにあらずだ。
人の行き交う通りに面した扉を開くと、そこは工芸地域の工房の中でも木工を行う区画の所で、良い木の香りが辺り一帯に漂っていた。
その香りに少し緊張がほぐれた彼は、後ろにいる姪っ子に「ねぇ、靴職人はどこなの?」と問いかける。
「…えっ!?あ、うん、こっちよ」
「はぁ、ぼーっとしてたの?危ないなぁ」
「なによ…早く良い衣を仕立てたいからあれこれ考えてるのに!」
「分かった、分かったよ。『練習』とはいえ、仕上がりを楽しみにしてる」
「か、からかうなんて…!」
姪っ子が再び顔を赤くし、彼は笑い声を上げた。
ーーーーーー
「あれ…ちょうど出てるみたい。革の受け取りに行っちゃったかな?」
工芸地域にある広大な工房の一角にある靴職人の作業場まで来たが、そこには誰もいなかった。
姪っ子が通りがかった人に尋ねると、職人達はどうやら靴の配達や素材の調達のためにたまたま出払ってしまっているらしい。
「そっか…会えると思ったのにな…」
そう呟く姪っ子は少し寂しげで、ただ残念がっているというわけではないようだ。
だが、すぐにまた元の調子に戻って「今度、食堂まで連れて行くわね」と言った。
でもそれでは悪いよ、と断るも、なぜか姪っ子は嬉しそうに首を横に振る。
「私が話をつけておくから大丈夫。なるべく早いうちに食堂へ一緒に行くようにする」
彼はその様子にピンときて、姪っ子に声を潜めた。
「もしかして…『腕のいい職人』って、『衣を贈りたい人』?」
「ちょ、ちょっと…!!!」
「わぁ!図星だ!」
彼は『熊』の方を振り返ると、「帰ろう!」と笑顔で言った。
「靴はそこまで急いでないからさ。今度『2人』で来てくれるって言うし、任せとこう」
ーーーーーー
「なんていうか、皆面白いね!俺、1日中笑いっぱなしでほっぺたが痛いよ」
彼が『熊』の元へやってきて初めての1日が終わろうとしていた。
彼は寝る支度を整え、『熊』に話しかけながら頬をぐりぐりと揉みほぐす。
「…皆も君が来てくれてすごく嬉しそうだった。明日からはもっと笑うことになる」
「そうかな?今日よりもっとなんて、俺のほっぺた…」
その時、風によって部屋の扉がガタガタと音を立てた。
彼は反射的に身をすくめ、扉の方を見る。
(い、今の…いや、大丈夫…大丈夫、あれはただ音が…)
そう思うものの、落ち着かせようとすればするほど体は強張り、呼吸も荒くなっていく。
(風…でも、風じゃなかったら…?あいつらが…あいつらがここを見つけて、あの扉の後ろにいたら…?俺を連れて行こうと…)
「大丈夫、大丈夫だ」
彼はいつの間にか『熊』の腕の中にいた。
その温もりに意識を集中させ、どうにか自分を落ち着かせる。
「大丈夫、ゆっくり息をして。廊下の窓から風が入ったんだ、そのせいで音がしたんだよ。大丈夫だ、僕もここにいる」
ゆっくりと背中を擦られ、彼はどうにか頷いて応えた。
「ご、ごめん、熊ちゃん…俺…」
「謝らなくていい、君は謝ることなんて1つもしてない」
『熊』は彼が落ち着いてきたのを確認すると、身を離して「窓を閉めてくる」と立ち上がった。
「く、熊ちゃん、待って…」
「…一緒に行く?目で確認すれば、もっと安心できる」
「う、うん…」
彼が頷くと、『熊』は彼の手をしっかりと繋ぎ、一歩一歩扉へと近付いていく。
そっと扉の外を確認すると後ろにいた彼にも見せ、それから廊下の僅かに開いていた窓をきちんと締めた。
「大丈夫、窓は閉めた。下の食堂も全部の扉に鍵がかかってるよ、君と一緒にかけたよね。…部屋へ戻ろうか」
部屋へ戻ると『熊』は彼を寝台の縁に座らせ、机の上から水を1杯汲んで彼へと差し出す。
彼がそれを飲むのを見ながら、『熊』はそっと話し始めた。
「…せっかくの1日だったのに、最後に嫌な思いをさせた。僕がもっとしっかりしなきゃいけなかったんだ…明日からは窓も閉めておく。他に気になることはある?」
「ううん…ない。その、気を遣わせて本当に…」
「いいんだ、昨日今日でどうにかなることじゃない。…いずれ不安は消える。少しでも気になることがあれば、すぐに僕が対処するから」
『熊』は空になった杯を傍らに置き、彼を寝台に寝かせて灯りを落としに行った。
寝具の中で強張っていた体は『熊』が優しく抱きしめてきたことで柔らかくほぐれ、月明かりだけが照らす部屋の中には『熊』のゆったりとした呼吸の音だけが響いている。
(大丈夫…昨日までとは違うんだ、怯えることはない。熊ちゃんがそばに居てくれて、優しい人達も沢山いるんだから…)
彼はそのうち、ゆっくりと目を閉じた。
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