酪農地域にて

蓬屋 月餅

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第三部

31「将来」

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 空が茜がかかる頃、彼はもうすっかり慣れた道を歩き、屋敷へと向かっていた。
 いつもよりも早い時間ということもあって、屋敷の入り口ではちょうど珍しい場面に遭遇する。

「配達ありがとうございます。いただきます」
「おう、召し上がれ!」

 彼と入れ替わるようにして屋敷から去っていった人物の服装には見覚えがある。
 侍従の元に残された荷物の鍋からも分かるように、城の敷地内で腕を振るう料理人だ。
 基本的に朝食や夕食は各家庭で作られているが、事前に話をしておけば誰でも料理人達の料理を届けてもらえる。
 人手がそう多くない上に城のすぐ隣に位置する酪農地域の屋敷では、食事をほぼ毎食こうして料理人達に配達してもらっていた。

「あれ、文字君。今日は早いですね」
「侍従さん!仕事が早めに片付いたし、たまには早めに行こうと思って…それ、今日の夕食ですか?いい香りですね」
「はい。こっちのは具材が柔らかくなるまでもう少し煮て、それからこの香辛料を入れろとのことでしたので、これから調理します。出来上がったら呼びますよ」

 鍋を抱えて屋敷の中へ入ろうとする侍従の後ろから、彼も他の料理を持って「僕も支度、手伝います」とついて行った。


「あの…ちょっと相談、というか僕が考えていることがあるんですけど…聞いてもらえますか」
「もちろん。なんですか?」

 彼は料理を盛り付けるための皿を用意しながら、侍従に考えていたことを話す。

「…良いのではありませんか?むしろ、私はその方がいいと思います。文字君が良いなら…ですが」
「ぼ、僕はそうしたいなと思ってるので…でも、認められるんでしょうか、そんなことって」
「さぁ、どうでしょうかね。でも大丈夫でしょう。たとえすぐに話がまとまらなくても、必ず認めさせるはずですよ」

 その時、屋敷の調理場の扉から人影が現れ、彼が盛り付けようとしている料理に手を伸ばした。

「あっ、だめですよ!」

 彼がお皿を持ち上げると、若領主は手を引っ込めながら「ちょっとくらい…」と口を尖らせる。

「若!すぐに夕食じゃないですか、もう少し待ってくださいよ…ここまで来るなんて、そんなにお腹が空いているんですか?」
「いや、君の声がしたから来てみたんだ」
「またそんな嘘を!」

 屋敷の調理場と執務室は玄関を挟んで反対側にあり、彼も決して大きな声で話しているわけではなく、むしろ声を潜めていたはずだ。
 しかし、侍従は驚くのでも疑うのでもなく、ただただ呆れたように「そうですか」と言った。

「すぐに夕食をお運びしますから、執務室でお待ち下さい。文字君も、後は私が全て支度しますから」
「あ…じゃあ、よろしくお願いします」
「はい」

 料理を仕上げ、全て温め終えているかを確認している侍従を残し、若領主と彼は調理場を後にする。
 それからはいつも通りに夕食を取り、いつも通りに本の修復作業をして、いつも通りに就寝の身支度を整えてから2人は小屋へと向かった。
 若領主には何気ない会話や行動の1つ1つがとても愛おしく、宝物のように大切に思えてならない。
 日々の中でどれだけ疲れることがあっても、彼のためならば一向に構わなかった。

「ねぇ、ちょっと源泉の方に寄っていこう。見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」

 若領主が彼の手を引いて小屋の裏手へと行き、「これだよ」と見せたのは源泉近くの湯汲場から小屋の浴室まで続く木製の樋だった。

「これ…もしかして小屋の浴室まで繋がってるんですか?」
「うん。湯を汲むのには行ったり来たりを繰り返さなきゃならなかったのが面倒だし、時間もかかっていたからね。ここで湯を流せばすぐに湯桶をいっぱいにできるようにしたんだ」
「若…お忙しいのにそんなことまで?」

 彼の気遣うような視線に若領主は笑顔で答える。

「せっかく2人で過ごすんだし、これくらいは便利にしたくて。それに、これはそんなに大変じゃないんだよ。元々こういう風にできている木材を組んで繋げただけだから」

 若領主が楽しげに説明していると、じっと話を聞いていた彼はそっと若領主の手を取り、「…お疲れでしょう」と声をかけた。
 若領主は微笑みながら首を横に振ると、そのまま小屋へと彼と共に向かう。

「私に話したいことがあるのかな、ずっとなにか言いたげにしているね」
「あ…分かります…か?」
「もちろん、君のことをずっと見て考えてきたからね。さぁ座って、君からの話は何でも聞きたいんだ」

 小屋の中の灯りを点けてまわった若領主は彼に向き合って座り、彼が話し出すのをじっと待つ。
 そして彼はためらいがちに話し始めた。

「若…僕、ずっと考えていたんです。今、僕は休みの度に屋敷で本の修復をさせてもらっていますけど、これって若の負担になるんじゃないかなって…。僕が来る日に合わせて仕事をしたりしているでしょう?最近はお疲れになってるようにも感じて…僕、心配なんです。それもこれも、僕がお屋敷へ来るからなんですよね。だから…」
「ちょっ、ちょっと待って!私は全然大変じゃない、君が心配する必要はないから!だから、そんな風に言わないで…今のまま、君の来れる日に来てくれれば…」
「ち、違います!僕が言いたいのはそういうことじゃなくて…!その…」

 彼は大きく息をして「若!」と呼びかける。

「僕をお屋敷に住まわせてもらえませんか!ずっと…ずっと若と一緒に居られるように、毎日一緒に過ごせるように!」

 彼の言葉に若領主は放心し、やっと口に出せたのは「毎日…一緒に?」という呟くような一言だった。
 彼は力強く頷く。

「僕がお屋敷にいれば無理してお仕事をしないで済むでしょう?だって…わざわざ時間を作ろうとしなくても、僕はすぐそこにいるわけですから」
「でも…君は医者じゃないか、君のご家族や他の医者達が良いと言うとは思えない…」
「そうかもしれません。でも、僕は医者じゃなくて医者達に必要な本を作る側になりたいと思っているんです。作るというかまとめ直すというか…父にも話してみたんですが、このお屋敷の記録室には動物の体に関する詳細な記録もあるし、そういうのを見ていると今ある医学書ももっとよくまとめ直せるんじゃないかと思って。それに、屋敷に近い区画は医者達の家からは少し遠いでしょう?僕が屋敷にいれば、いくらか早く駆け付けられるはずです」
「だけど、君は腕がいいと評判なのに…」
「それは…年の割には、ということもあると思いますけど。でも、腕が良くないとだめなんだとしたら、僕は何でもやってみせます。僕の伯父や兄さんがやってきたように…。僕の一家は皆ちょっと特別じゃないですか、伯父は地域を移動しながら医学を教えているし、兄さんは調薬を専門にしているし。もう1人くらい普通じゃないのがいたっていいですよね?」

 彼は「もちろん、認めてもらわないと…ですけど」と苦笑いをして続ける。

「今のままでは、いつか本当に若が体調を崩してしまうと思うんです。でも、だからといって若と会うのを少なくするのは、その、僕が嫌だし…もし、若が僕と同じように思っていて、本当にそういう許可が下りたら…」

 次の瞬間、若領主は居ても立っても居られなくなり、ほとんど跪くようにして彼を抱き締めていた。
 かつて叶わない想いなのだからと苦しい日々を過ごしたにもかかわらず、互いに想いを伝え合い、その上彼の方から『ずっと一緒にいたい』と言われるなど、全く予想していなかった。
 予想していなかったことだが、若領主は彼がそれほどまでに自分を想ってくれていることの奇跡のような事実に胸がいっぱいになる。

「私だって…私だって君とずっと一緒に居たい、本当に、心からそう思ってる」
「わ、若、泣かないでくださいよ、僕までなんだか…」
「本当にいいのか、本当に私と一緒に…」

 彼も跪くようにして若領主と向き合うと、若領主の頬に流れる一筋の涙を指先で拭った。
 反対に若領主が彼の湿った唇を指先でなぞると、彼はその指先に口付ける。
 指先から背筋までを駆け巡るその感覚に覚えがあり、若領主は艶やかな笑みを浮かべて言った。

「前に…毒を吸い出すため、君がこうして指先に吸い付いたことがあったね。あの時私がどうなったと思う?想いを寄せている相手からこんなことをされて普通でいられる男は…きっといないだろうな」
「…っ!そ、そんなこと言ったら!急患の元に駆け付けるために、馬に僕を乗せて走ってくださったことがありましたけど!好きな人にあんな風に強く抱き締められてなんとも思わない人なんて、いないでしょうね…!」

 彼の反論に若領主も微笑む。

「ちょうど今頃だね、私の舞の練習を君が見て…あの時はまさかこうなるとは思ってもみなかった。でも、これからはずっと一緒に居よう。任せて、必ず君が屋敷で暮らせるように…あっ、夕方に調理場で話していたのはこれか?そうか、全く何の話かと思えば…」

 彼がいたずらっぽく笑うと、若領主はさっと彼に腕を回して抱き上げた。
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