酪農地域にて

蓬屋 月餅

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第三部

26「母親」

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「おはよう…」
「若、おはようございます」

 寝台から起き上がった若領主はすでに起きて身なりを整え終えていた彼の姿を見て満足そうに微笑むと、あくびをしながらそばまで寄っていっておもむろに抱きついた。
 1人であれこれと思い悩んでいた頃はまさかこうして朝から彼の顔を見れるとは思いもしなかっただろう。
 ましてや、夜をあのようにして共に過ごすなど、天地がひっくり返ったとしてもありえないと信じられなかったはずだ。
 だからこそ、これが本当のことなのだと彼を抱きしめて確かめたくなる。

「若は朝が弱いんですね?起きるのは早いけど…きちんと目を覚ますのにはもう少し時間がないと」

 彼がからかうように言うと、若領主はまだ少しふわふわとした声音で「君は元気だね」と答える。

「ですから、僕は医者なんですってば。もう小さい頃からの習慣で…」
「昨夜、あんなにしたのに?」
「……っ!」

 少し得意気になっていた彼が若領主の言葉に動揺を見せると、若領主は抱きしめる腕に力を込めた。

「まだ足りないということ…?」
「うっ…ちょっ、ちょっと…」

 首筋に口づけられた彼はやっとの思いで腕から逃れると、「そ、そうだ…た、卵!」と声を上げる。

「さっき、湯を汲むときに卵を浸けてきたんです、もういい頃じゃないかな?汲んできたのもいい湯加減になってるはずですから!」

 彼は浴布を若領主に持たせると、慌ただしく小屋を出ていった。
 若領主が湯で体を清めて着替えを済ませた頃、彼はかごに入った2つの卵を手に戻ってきて、そっと殻を割り始めた。

「わっ!ちょっと早かったかな…柔らかすぎるかもしれません。1番熱い場所に浸けといたので、もう大丈夫かと思ったんですけど…」
「君がもう少し抱きしめられていればちょうど良かったかもしれないね」
「もう、あなたって人は…!や、やめてくださいよ、朝から!」
「どうして?ただ抱きしめて、ちょっと首に口づけただけじゃないか」
「だ、だからそれが…!!」
「うん?何を想像してるんだ?」

 若領主は何も言えずに顔を背けた彼を見て微笑むと、彼の手にある剥きかけの卵に齧りついた。
 たしかに、彼の言う通りまだ茹で上がるには早かったようで、黄身はあまりにも柔らかい。

「うん…美味しい、美味しいよ」

 若領主は彼の指に流れ落ちた黄身を舌先でそっと舐め取った。



 酪農地域は夏を迎えている。
 まだ風が吹けば涼しさが感じられるため、これから迎える「うだるような暑さ」に比べれば好ましい時期だ。

「今年の牧草地はどうなるだろうね」

 若領主は馬に跨がって牧草地を見回りながら、侍従へと話しかける。
 侍従も自身の馬に跨がって歩きながら「どうでしょうね」と口を開く。

「昨年は特に陽射しが強かったですからね。その分、今年は様々な対策を立てましたが…」
「うん。上手くそれらが機能してくれるといいんだけど、こればっかりは想定するのにも限界があるから」

 若領主と侍従が話をしながら歩いていると、屋敷へと続く道に見覚えのある2人組がいた。
 その人達の容姿や乗っている馬の装飾品を見て、若領主は驚きと喜びの声を上げる。

「母上!?母上じゃないですか!」
「あら!こんなところで会うなんて!」

 それは工芸地域の夫人だった。
 夫人は若領主に会いに来たらしく、侍女と共に屋敷へと向かう最中だったようだ。
 若領主もちょうど見回りを終えたところで、4人はそのまま屋敷へと賑やかに向かった。


「まさか母上がいらっしゃるとは…今日はまたどうして?」
「うん?いやね、ほらこれからもっと暑くなったら移動も大変になるし、その前には一度あなたの顔を見に行きたいと思って。怪我のその後も気になっていたし」
「わざわざお越しいただいてすみません…怪我はもうすっかりいいですよ、大丈夫です」

 久しぶりの再会に顔を綻ばせる若領主を見て、夫人は「そうみたいね」と安心したように微笑む。
 差し迫った仕事もないため、侍従と侍従の母でもある夫人の侍女は執務室から退室し、若領主と夫人2人だけで時を過ごす。

「あ、そういえば…『あの話』はどうなりました?」
「『あの話』?」
「妹の…。前に母上とお会いした時はその話にならなかったもので…」
「あぁ…そうだったわね…」
「その後、どうなりました?母上お1人では大変だったのでは?」

 若領主は以前工芸地域の屋敷へ帰った時に起こった一連の騒ぎを思い出していた。
 身の置き場がなくなった若領主はなんとかその場を後にしたものの、夫人はその場で領主と妹、そして妹の交際相手という面々を相手にしたはずだ。
 気になってはいたものの、なかなかその話をできる人物がいなかったため、若領主は夫人に尋ねておきたかった。

「もう…大変だったわよ、あの2人は性格が似てて、どちらも決して譲ろうとしないから」
「そうでしょうね…私と母上が似ているように、父上達は本当に似ていると思います」
「そうでしょう?なんとかあの場は収めさせたけど、今もなにかというとその話を持ち出して言い合ったりするんだもの」

 夫人はふぅっとため息をつく。
 しかし、妹の交際相手といえば、彼曰く真面目で良い人物だということだったではないか。

(彼が本の修復を教えてもらったのもその人だそうだし、父上はなぜあんなに反対したのかな?)

 若領主が夫人に尋ねると、「それはね」と話し始めた。

「あなたのお祖父様、父上のお父様が国王様だったことを知っているわね?」
「はい、それはもちろん…」
「領主の息子達は父親である領主がそれぞれ教育をするけれど、国王の息子は教育係が担うのよ。あなたの父上も、小さい頃から教育係がついていたんだけど…」

 その教育係というのが、なんとも掴みどころのない人だったのである。
 勤学で歳も近いために選ばれた教育係だったが、教育係というよりも兄のような存在だったその人は、ことあるごとに幼い頃の領主をからかい、やめろと言っても聞かなかった。
 からかうのもその反応が可愛らしかったからであり、傍から見れば弟を可愛がる兄というような、とても微笑ましい光景だ。
 だが幼い頃の領主にはそれが本当にうっとおしく、嫌でたまらなかったため、若領主として工芸地域に向かうことになった際には「清々する」とまで言い切っていた。


「それからもう何年も顔を合わせてなかったのよね」
「え、待ってください、それじゃその相手の父親というのは…」
「そうよ、父上の元教育係」
「それはまたなんというか…縁が…あるんですね…」
「まったくだわ。でもあなたの父上は嫌がっていたけど、あれは本当に仲が良いからこそだったと思うのよ、私が見る限りね。だからまぁ…丸く収まるんじゃないかしらね、2人ももういい大人なんだから」

 夫人の考えとは異なり、再び顔を合わせた2人が少年のようにあれこれとからかいの応酬を始めるとは、まだこの時は知る由もない。
 しかし、当人達に不足があるわけでもないのだからと若領主は胸を撫で下ろした。

「こっちはそんな感じで何とかなりそうよ。あなたの方はどうなの、その話をしに来たようなものなんだけど」
「母上、私の方…とは?」
「うん、あのお医者の彼とのことよ。なんだか思い煩ってるわけでもないみたいだし、うまくやってるの?」

 あまりにも平然と口にした夫人に、若領主は面食らって言葉も出ない。

(母上はなぜ知っているんだ…?私が夫人を迎えないと言ったことでそう考えたのか?いや、それにしても彼のことまで知っているのはどうして…そもそも、私の想う相手が男だと知ってこんなに平然としていられるとは思えない…私に探りを入れているだけ…なんだろうか…?)

 そんなことを考えていると、夫人は目を丸くしながら「え、違うの?」と尋ねてくる。

「あの子じゃないの、ほら、前にあなたの傷の手当をしてた子」
「は…はい?」
「ちょっと、その反応はどっち?『なぜ知ってるんですか?』それとも『馬鹿にしないでください』?言っておくけど私は真面目に話しているのよ、誤魔化したりしないことね。私には分かるわよ」

 夫人の視線は鋭く、本当に何もかもを見透かしているようだ。
 そういえば、と思い出してみると、侍従に彼への想いを指摘された時も上手く言い逃れできずに結局認めてしまっていた。
 物事を隠しておくのは得意なつもりでいたものの、どうやらそれは一部の人に関しては到底得意とは言えないものだったらしい。
 若領主はついに視線に耐えかねて「は、はい…」と俯いて答えた。

「なぜ母上がご存知なのですか…というより、お咎めにならないんですか…」
「あのね、本気で私が気付かないとでも思ってたの?分かるに決まっているでしょう、どれだけあなたのことを見てきたか。あなたが酷く落ち込んでいたときはまだ知らなかったわよ、相手がどんな人なのか。でもこの間あなたが彼と話すのを見てすぐに『あぁ、この子のことか』って分かったわ。そうしたら『想いを伝えられない』だとか『夫人は迎えない』とかって言ったのが、全部辻褄が合って」

 「そうよ、怪我だってあの子を庇ってのものだったんだものね」と夫人は続けて言う。

(まさかあの少しの間に全て気付かれていたとは…)

 若領主は夫人の言葉を聞きながら深くため息をつき、『隠し通せるだろう』と思っていた自分を愚かしく思った。

「それで、どうなの?うまくやってるの?」
「はぁ…まぁ…あ、いや、母上はなぜ普通に話をしているんですか!その…こんなのだめだとか…仰らないんです…か…」

 夫人を迎えないと決めた時も『好きにしなさい』と言ってくれたが、それも男を想っているからだと知れば考えも変わってくるかもしれないし、自身も当初思ったように『普通ではない』と怪訝に思うこともあるだろう。
 若領主が恐る恐る尋ねると、夫人も「そうね」と眉をひそめた。

「まぁ…本音を言えば、手放しに喜んでいるわけではないのかもしれない。あなた自身の子供だって見てみたかったし、夫人になる子もどんな子だろうって思っていたから。でもね、そんなことを言ったからってどうなるというわけでもないのよ。夫人を迎えたって必ず子供を授かるわけでもないんだし。あなたのことだからもう知ってるでしょう、古い記録を見れば実子がいなかったりした領主もいたことを。だからね、私はもうあなたが幸せならそれでいいの」
「母上…」
「あなた達はきちんとお互いに同じ想いをしてるんでしょう?違うの?」

 若領主が顔を赤らめながら「同じ…です…」と呟くと、夫人は若領主の頭をわしわしと撫でながら笑い声をあげた。

「あんなに落ち込んでいたのに、どうやって想いを伝えたんだか!『想いを伝えられなかったらどうしますか…』って?まったくもう、私がどれだけ心配したか!」
「は、母上…やめてくださいよ…」
「もうこの子ったら!」

 夫人はひとしきり笑ったあとで「そう、あの子ね…」と優しく微笑んだ。

「ねぇ、あの子はどういう子なの?どういうところが好きなの?教えてちょうだいよ、すごく気になるわ」

 興味津々に尋ねてくる夫人に、若領主は戸惑いながらも1つ1つ答えていった。
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