酪農地域にて

蓬屋 月餅

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第二部

20「手当て」

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「東屋の件、大工達に訊いておきましたよ」
「どうだった…?」
「『手直しをするかもしれないが、いいだろう』とのことでした」
「そうか!よし、じゃあ早速設計図を…」
「若領主」

 侍従からの鋭い視線を避けるように筆記具を手に取った若領主は「…分かっているとも」と呟く。

「溜まった仕事をしろと言うんだろう。もちろんやるさ、もちろん」
「…」
「記録簿の作成からなにから、全部やるよ」

 侍従が小さくため息をつくと、そこへ彼が今日の治療のためにやって来た。
 若領主は笑顔で彼を迎えると「少しくらいは時間があるよね?」と彼をとある場所へ連れて行こうとする。

「わ、若?薬を…」
「いいから、いいから。なぁ、ここを頼むよ」
「…かしこまりました」
「よし、さぁ私についてきて。こっちだ」

 若領主は戸惑う彼を隠し扉から小屋へと続く道へ連れ出し、そのままどんどん歩いていった。

「な、なんですかここ…!?」
「いいだろう?私だけの場所なんだ。君にもこの眺めを見せてあげたいと思ってね」
「…あっ!なんですかここ、薬草の宝庫じゃないですか!あれもこれも…見てきてもいいですか?」

 若領主は思わず笑い声を上げる。

「うん、もちろんいいよ。薬草か…あまり気にしたことがなかったな。どれが薬草なんだ?」
「これもそうだし、あれもそうです!あの木の皮は咳止めになって、そこの蔓の根っこは解熱薬になるんですよ!若、こっちに!こっちに来てください!」

 小屋の周りはよく手入れをしていたものの、木々の生い茂る裏の方は全くの手付かずだ。
 はしゃぎながら手招きする彼の姿に愛おしさを覚えつつ、若領主は林の中へと入っていった。
 雨季が明け、次第に暑さを増していく日光を遮った林の中はとてもひんやりとしていて心地良く、踏み分けた草や時折ちぎる薬草の香りがなんとも爽快だ。
 そうしてしばらく歩いていると、彼は突然「あれっ」と声を上げた。
 彼の視線の先を辿ってみると、見覚えのある白い煙が微かに揺蕩っている。
 そこへ近付き、若領主が慎重にその辺りに生い茂る草や伏せられた木の板をどかすと、その白い煙はふわっと一気に辺りを包み込んだ。

「うわ、やっぱり…!!」

 それは温泉の源泉だった。
 少し小さいが、石で造られたその一角は湯を溜められるようにきちんと整備されていて、あの小屋を建てた時に誰かがこうしたのだろうと容易に想像がつく。

「これ、若は知らなかったんですか?」
「うん。ここに来たことすらなかったから」
「そうでしたか…これ、位置から見ると地域の湯治場と同じ湯脈みたいですよね?僕が詳しく調べてみますけど、もしかしたら普通に温泉として使えるんじゃないでしょうか?」

 それを聞き、若領主は源泉が小屋の近くにあることの便利さに気がついた。
 今までは屋敷の温泉で入浴を済ませる他なかったが、湯をためさえすれば小屋にいたとしても湯をはることができるだろう。
 それに、火の制限があったために軽食の用意すらもできずにいたが、この温度の源泉であれば茹でたり、蒸したり、温めたりといったことは可能なはずだ。

「…とっても便利じゃないか。早急に調べてくれないかな?」
「はい、すぐに!」

 彼は背負っているいつもの箱から小瓶を取り出すと、湧き出し続けている湯を慎重に採った。
 たしかに、湯気の香りは酪農地域の湯治場にある温泉の1つとよく似ている。
 再びその源泉に板で蓋をした2人は、小屋へと戻って包帯を替えることにした。

 いつも自分1人だった空間に彼がいるというのは、なんとなく、ただそれだけで心が沸き立つものだ。
 彼は小屋の中を見渡しては「素敵ですね…」としきりに呟く。
 彼がそう言ってくれることに嬉しい気持ちが湧いてきて、若領主は小屋を見つけた時のことや修復を始めた時のこと、屋敷からの報せを届けるための鐘のこと等を次々と話した。
 その姿は、薬草についてあれこれと話していた先程の彼とまったく同じだ。

 手当てを受けつつ彼と話をしていると、時間はあっという間に流れていってしまう。
 若領主は彼を屋敷の執務室まで送ると、待っていた侍従に「すまないね」と声をかけた。

「これからはさ、彼が来たらそのまま小屋まで来てもらって構わないから」
「…かしこまりました」
「わ、若!あの小屋は若が一息つける場所でしょう?僕がお邪魔するわけには…」
「いいんだよ、君には面倒をかけてしまうけどね…それよりも、あの湯の調査を」
「それはもちろん!お任せください」
「頼もしいな、よろしくね」

 彼は深々と礼をして去っていった。

「湯の調査…とは何のことですか」
「あぁ、彼が源泉を見つけたんだ。小屋の裏手に石で造られた湧き場所があって、結果次第では色々と使えそうなんだ」
「なるほど、そうでしたか」

 
 それからしばらくして、あの源泉は飲むことさえできる安全なものだと判明した。
 若領主は少しずつ記録の清書を再開し、それに加えて侍従の鋭い視線を躱しつつ、鈍ってしまった肩のためと言いながら小屋の横に入浴のための小部屋を計画したり、あの源泉への道を整備したりと以前のように動き始める。
 肩や背中の傷はすっかり良くなっていて痛みもほとんど感じないのだが、まだ痣が薄く残っていることを理由に彼を呼んで手当をさせていた。
 執務室よりも『2人だけの空間』を濃く感じられる小屋は若領主にとって本当に大切な場所になっていて、いつ手当のために彼が訪れても良いようにと1日のうちの大半を小屋で過ごすくらいだ。
 まだ本格的に仕事を再開したわけではないからこそできる1日の過ごし方だった。


「若、それはなんですか?」
「うん?あぁ、設計図だよ。あの壊れた東屋を建て直すんだけど、その設計を私がやってもいいって許可をもらったから」
「若…まだ本調子じゃないのに、そんなこともなさってるんですか?」

 彼が眉をひそめると、若領主は「許してくれないかな」とばつが悪そうに言う。

「もうじき仕事も元通りになるんだ。鈍った腕を戻すには領主文字よりもこういうものの方が良いんだよ」
「もう…あまり無理はなさらないでくださいよ」

 仕方がないですね、と彼はため息をつきながら若領主の身体に包帯を巻いていく。
 彼と向き合って包帯を巻かれているこの光景も初めはドキドキとしていたが もはや慣れたもので、むしろ彼の手際の良さには感心してしまうほどだ。
 だが、今日は違った。

「あ、あれ…」

 彼は手を滑らせた拍子に巻いていた包帯を取り落としてしまったらしく、そのどこかへ行ってしまった包帯を手探りで探そうといつもよりもぐっと若領主に近付いてきた。
 包帯を探すその両手は若領主の身体に回されていて、まるで彼が抱きついてきているかのようだ。
 若領主がこんなにも静かな状況で、こんなにも近く彼を感じたのは初めてのことで、動揺せずにいられるわけがなかった。

 想いを寄せる人物が自身の胸のすぐそばにいる。
 それだけでも心を乱すのには十分だというのに、彼の髪が素肌に触れ、そしてその髪の香りがふわっと漂ってきた。

(…もう少しだけ、近付いても…)

 俯いた若領主は、胸元にある彼の髪に鼻を近付ける。

「…!!」

 その瞬間、何が起こったのか若領主には全く理解できなかった。
 彼の唇が、若領主の口の端を掠めたのだ。
 若領主が彼に近付いたことと、彼が突然若領主を見上げるように顔を動かしたことが重なったせいだ。
 動揺を隠せない若領主に対し、彼は「あ…すみません、若」といつもと変わらない様子で言う。

「僕、近付きすぎちゃってましたね…お怪我はありませんか?」
「あ…あぁ…」
「それなら良かったです。…すみません、1度落としてしまった包帯を若に巻くなんて失礼ですよね。僕はこういうところがまだまだで…今、新しいものに変えますから」

 彼は巻きかけていた包帯をするすると解き、箱から新たな包帯を取り出して巻き始めた。
 今さっきの出来事がまるで無かったかのように振る舞う彼にしばらくはぎこちなさを感じていた若領主も、次第にいつも通りの会話をすることができるようになる。
 
 だが、彼が帰るとすぐにあの口元の感覚がじわじわと蘇ってきて、若領主は気を紛らわせようとひたすら木材を切った。
 不用意に顔を近づけた若領主も若領主だが、突然顔の向きを変えた彼も彼ではないか。
 それに、その後も平然としているとは…。

(彼は…なんとも思わないのだろうか。あのまま気まずくなってしまうのも嫌だが、あんなことが起こったというのに こう意識しているのが私だけなのは、やはり辛いものがあるな…)

 じっとしていると思い出してしまうため、時間をかけて行おうと思っていた木材の切り出しや記録の清書、源泉への道の整備や小屋の増設計画など、ありとあらゆることを若領主は夜を徹してやり遂げてしまった。

 そして次の日、若領主は東屋の設計図を引いている途中でついにうたた寝をした。
 静かな、静かな昼下がりのことだった。
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